私達の手元に水の入ったコップがあったとします。その色は透明です。しかし、その底には泥が一センチほど溜まってます。でも、この水は透明です。しかし、それには条件があります。それはコップを動かさない限り、この水は透明に見えているということです。しかし、一度でもその水をかき回しますと、いいえ、そこに小石が一つでも落ちますと、それまで沈殿していた泥が水の中を舞い、コップの水全体が泥水になってしまいます。
このコップは私達の心をあらわします。それではコップがかき回されるとはどういうことでしょうか。私達は日常何もない時は、ある程度いい人でいることはできます。その心は落ち着いているのです。しかし、誰かが言った何気ない言葉、何気ない態度によって、私達の心はかき回され、それが今度は私達の言動としてあふれ出てきます・・・。
今日、礼拝でお話したメッセージです。よかったらどうぞ。
マック
僭越ながら私達は誰しも罪人
皆さんはイエス・キリストに対してどんなイメージをお持ちでしょうか。今日、誰も実際のイエスに出会った人はいませんから、私達が知るところのその様は聖書の中に記録されているイエスの言動によってしか知るすべはありません。今日の箇所にもそんなイエスの姿が記されています。ルカ5章27節-32節を読ませていただきます。
27その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。28彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。29そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。30パリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」 31イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」
このところから今日は二つのことをお話したく願っております。まず最初に「イエスに対するイメージ」ということ。そして「イエスが来た理由」ということ。まず最初に「イエスに対するイメージ」ということを見ていきましょう。
イエスに対するイメージ
最初にこの聖書記事によって私達が気がつくことは、イエス様が取税人であったマタイをその弟子にするべく声をかけているということです。このことは二つの理由によってありえないことでした。
一つ、当時、誰かの弟子になりたいと願う者は、その本人がその相手のもとに行き、弟子にして欲しいと願うということがなされていました。そして、それは今日でもそのような場合が多いと思われます。師匠と呼ばれる人が、相手が願い出ていないのに、私の弟子になりなさいというのは異例なことです。しかし、イエスは自らがマタイに声をかけられました。
もう一つ、それはイエス様が声をかけた相手が取税人であったということです。イエス様はご自身がこれから何をなそうとしているかということを知っていたと思います。そして、そのために残されている時間というのも知っていたと思います。ですから限られた時間の中、人類史上、最も大切なことを成そうとする時に自らの側に弟子として置こうという者達はとても大切な意味を持っていたと思います。
しかし、イエス様はそれでも取税人マタイに声をかけたのです。当時のユダヤ社会において取税人とはイコール罪人を指す言葉でした。それがどんな世界であれ、誰かをスカウトする時に、大抵、人はベスト・オブ・ザ・ベストを選ぼうとします。しかし、このイエスが声をかけたマタイは、当時の社会ではワースト・オブ・ザ・ワーストと思われている人だったのです。「弟子として選ぶことはありえないリスト」の第一にくるべき人だったのです。
ありえないと思っていた者が声をかけられるとその人の心に感動が起こります。マタイはイエス様の言葉に心動かされてイエス様を盛大な夕食へと招いたのです。そして、その夕食会がまたすごかったのです!そこにはマタイの取税人仲間や罪人達がイエスと共に席についていたというのです。ここでは「罪人」と一言書いてありますが、当時、罪人といえば文字通り犯罪を犯した者、町のならず者、ろくでなしと揶揄される者・・・とあらゆる人を含んでいたのです。
今、相撲協会と暴力団との関係が問題となっておりますが、イエス様が招かれた席には当時のその筋の人がいてもおかしくない場所です。その夕食の場では一般社会ではあまりなされない言動が行き交っていたことでしょう。皆さん、イエス・キリストというお方について、このような光景にいる姿を考えたことがあるでしょうか。
私達が頭に思い描く「イメージ」というのはとても大切です。今やプロスポーツ選手でこのイメージ・トレーニングを取り入れていない選手はいないでしょう。野球選手なら自分がバッターボックスに入り、投げられた球をイメージして、それを振り切るイメージをして、それが一直線にスタンドに飛んでいくことをイメージして、どんなポーズで悠々とベースを回るかということまでイメージするのです。なぜなら、私達の「思い」と「肉体の動き」というのは分断されているのではなくて、互いに関係し合っているからです。ですから、良いイメージが実際のプレイに好影響を与えるのです。
私達がどんなクリスチャンになるかということは、一重にイエス・キリストに対して私達がどんなイメージを持っているかということによって決まります。イエスは普段どんなことを考えておられ、どんな気持ちで毎日を過ごしておられたのか、そんなことを聖書に記されている事実をもとに、イメージすることはとても大切です。あなたにとってイエス・キリストとはどんな方ですか。人々から後ろ指を指されるような人達の真ん中で笑みをたたえて食事をしているイエス様のイメージがありますか。
クリスチャン精神科医であられる工藤信夫氏がその著書の中に、ある父親がイエス・キリストについて、子供に語りかけるこんな言葉を記しており、この言葉を私はノートに書き記してとても大切にしています。
「お前はこれから、イエスというこのお方について、様々に異なった意見を聞くだろう。けれども、イエスが実際にどんな方であるかについては、教会の聖職者たちも含めて、知る人は非常に少ない。父さんがこれまで読んだり、聞いたりしたところでは、イエスを知ってこれを好きにならない人はおそらくいない。冗談を言うのがとてもお好きで、一緒にいるのがとても楽しい方だ。イエスは愛をくださり、愛が必要だと言う人々の声にこたえて、彼らと交際された。イエスは、あるがままに人々を受け入れ、また人々の方も、本来の自分を少しも窮屈な目に合わせずに「受け容れられた」ことを感ずるのだった。イエスが近くにおいでになった時も、人々はいい子のふりをしたり、いつもとは違う行いをする必要がなかった。彼らにとってイエスは友達だった。 工藤信夫著「信仰による人間疎外」(いのちのことば社、P16)より。.
この父親が言っているように、多くの人達が(牧師や神学者を含めて)イエスについて色々なことを(時にはやたらと難しいこと)言うでしょうが、私にとってもこの父親が言っているイエス像というものがぴったりしているのです。今日開かれている聖書の言葉より皆さんがイエス様に対してもつイメージはどんなものでしょうか。その目はあなたを睨み、裁いていますか。あなたを温かく見守っている目ですか。そのようなことが私達の信仰の姿勢を決めるのです。
二つめのことをみてみましょう。それはイエスが来た理由ということです。
イエスが来た理由
イエス様がこのマタイの宴会に出席していたところ、こんな言葉がその光景を見ていたパリサイ人や律法学者からイエス様ご自身に聞こえてきました30「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」
パリサイ人や律法学者とは今日の宗教家、神学者、牧師と言い換えることのできる人達で、当時のユダヤ社会では一目置かれる人達でした。そんな彼らがなぜイエスは町のならず者と共に食事をしているのかと言ったのです。なぜなら、彼らはそのような者達と距離を置くことを良しとしていたからです。それは彼らにとって許しがたいことだったのです。
しかし、イエスはその問いかけに対してこう答えられました。31「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」
とても分かりやすい言葉です。健康な人には医者が必要ではありません。医者を必要とするのは病人なのです。同じように、イエス様は正しい人を招くために来たのではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。ですから、医者がいつも病人のいる所にいるように、自分もいつも罪人達と共にいるのだといのです。
この言葉はパリサイ人や律法学者達にとっては痛烈な言葉です。なぜなら彼らは自分達は罪人ではないということを前提として「なぜこんな罪人達と一緒に・・・」と言っていたからです。このイエスの言葉はパリサイ人や律法学者に向かって「あなたたちは健康でよかったね」と言っているように聞こえますが、それは皮肉のなにものでもないのです。聖書を読めば分かりますように人間は二つにしか区分できないのですから。すなわち「自分の罪に気がついている人」か「自分の罪に気がついていない人」かということで、パリサイ人や律法学者は明らかに後者なのです。
皆さん、イエス・キリストは飢える人に食べ物を与え、裸の者に衣類を与える社会慈善家ではありません。ユダヤ社会の財政を安定させたり、治安を改善させようとしている政治的リーダーでもありません。イエス様ははっきりとここで、自分は罪人を招くために、そして悔い改めさせるために来たとそのご自身の存在理由を言っているのです。
ここで多くの私達が首を傾げることは、罪とは何なのかということです。罪人という言葉に対して私達は色々な反応をします。
一番多い反応は自分は前科もないし、人に迷惑をかけていないし、そこそこ自分は善人だということです。あのパリサイ人も律法学者もそう思っていました。しかし、聖書は僭越ながら人は全て罪人なのだというのです。一つの例えをお話しましょう。
私達の手元に水の入ったコップがあったとします。その色は透明です。しかし、その底には泥が一センチほど溜まってます。でも、この水は透明です。しかし、それには条件があります。それはコップを動かさない限り、この水は透明に見えているということです。しかし、一度でもその水をかき回しますと、いいえ、そこに小石が一つでも落ちますと、それまで沈殿していた泥が水の中を舞い、コップの水全体が泥水になってしまいます。
このコップは私達の心をあらわします。それではコップがかき回されるとはどういうことでしょうか。私達は日常何もない時は、ある程度いい人でいることはできます。その心は落ち着いているのです。しかし、誰かが言った何気ない言葉、何気ない態度によって、私達の心はかき回され、それが今度は私達の言動としてあふれ出てきます。
また、体調が優れなかったり、体が疲れていたり、願ってもいないことが起きたり、具体的に言えばきりがないのですが、例えば冷蔵庫が壊れたために、アポイント時間を決めて頼んでいる修理屋さんがその時間の一時間後になって、何の悪気もなくやってきたり、夕飯のおかずが自分の願ったものでなかったりするだけで、私達の心はかき乱されて泥水となるのです。そして、それがあふれ出て、自分も周りにいる人も混乱・騒乱・動乱へと変えていくのです。これは私達の家庭でも、職場でも、国家間のいざこざでも、この心のコップが原因となっているのです。
そして、その水が濁る根本的な理由は「この自分がないがしろにされている」「この自分に対してその態度は何だ」というような、自分を中心とした思いなのです。私達はいつもこの思いと共に生きており、それこそが私達の罪の根源なのです。そして、生まれてからこの方、この水が濁ったことがありませんという人はいないのです。
ですから、イエス様が31「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われた「健康な人」、「正しい人」というのは実際にはこの世界にはいないのです。誰しも神の前には罪人であり、誰もがイエス・キリストを必要としているのです。イエス様はその罪人を救うために来たといわれたのです。
マタイを弟子として呼び、その盛大な食事の席についていたイエス様ですが、そのようなことは一度ではなく、何度もイエス様の生活の中に起きたのでしょう。後にマタイはマタイ11章18節から19節においてもこのように記しています。ヨハネが来て、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだと言い、また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だと言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する。
人々はイエスが食べたり飲んだりしていると、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、罪人の友だと言ったというのです。実際にイエス・キリストは食事をむさぼったり、大酒を飲んで、酒に飲まれるような方ではなかったことでしょう。しかし、普段そうしている人達の間にいつもいたゆえに、人々もイエスをそのように呼んだのです。
このような評判はきっとイエス様の耳元にも届いていたと思います。そして、内心、この人々が「罪人の友」と彼を呼ぶことを気に入っておられたのではないかと思います。なぜなら、文字通りイエス様は罪人の友となられたからです。
どうですか、皆さん、この朝、あなたの心にこのイエスのイメージがありますか?イエスは罪人の友となられた。否、それをイエスは願ってこられた。そのことはイエスがあなたの友となることを望んでいるということです。ありのままのあなたでいい。その心が泥水のように濁っていてもいい。その心のコップのままイエス様と同じ食卓につきませんか?彼はいつもあなたを待っているのですから。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり 2010年8月22日
1)ルカ5章27節-32節を読んでみましょう。あなたはこの時の宴会の状況をどのように想像しますか。この宴会が今日もたれているとしたら、どのような場所で、何を食べ、どんな音楽が流れ、どんな人達がそこにいたことでしょうか。このような宴会に出席し、かつて「食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間」(マタイ11章18節‐19節)だと言われていたということについてどう思いますか。
2)あなたはイエス・キリストに対してどんなイメージを持っていますか?そのイメージはクリスチャンになる前と後では変わりましたか?私達の持つイエス・キリストのイメージはどのように私達の信仰の姿勢に影響を与えるでしょうか。
3)「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という言葉をあなたはどう思いますか。罪人とは誰のことですか。なぜ、イエスは慈善家ではなく、政治家ではなく、軍人ではなく、罪人の友として、この世界に来られたのでしょうか。
4)イエスを「なぜ、罪人達と食事をするのか」と非難した人達はパリサイ人や律法学者でした。イエスはその生涯、罪人と呼ばれる者達を受け入れ彼らと共に過ごしましたが、このようなパリサイ人や律法学者とは衝突しました。そして、俗に言うこのような立派な宗教家がイエスを十字架にかけました。このことは何を意味しているのでしょうか。