友、遠方より来たる

13583167453711987年、私はテネシー州にある小さな町のとある大学(誰も知らないということが誇りです 笑)に在籍していました。そこは町でアジア人を見かけることもないところで、地元の人から「忍者は今、何をしているのだ」というような質問を何度も尋ねられるような土地でした。

「無知」というものは時に、思いがけないきっかけとなるもので、英語が話せない者がアメリカの大学で学ぶということがどういうことなのかということを何も知らない当時18歳の私はロスでもなく、ホノルルでもなく、アパラチャ山脈の裾野にある米国でも最も外に閉ざされた地域の大学に入学してしまったのです(後になって思うに、これが最高の選択でした!)。

今はどこの大学にもESLのクラスがあるのが当たり前ですが、当時、大学のアドミニストレーションにESLのことを聞きましたら「それは何だ?」と聞き返され、最初からまさしく“地元のアメリカ人”と同じクラスを取らなくてはならず、これも今、思えば最善な神様のお取り計らいだったと思います。

その大学では四年間、寮生活をし、学校のカフェで食事をとったのですが(四年間、朝食メニューは変わりませんでした!)、入学したばかりの頃、私の最初の友人となってくれたのが、当時、シニアだったカルロスという幼い頃にコロンビアから移民してきた男でした。彼は生まれて初めてのサンクス・ギビングディーにニュージャージーの家に招いてくれ(テネシーから片道13時間のドライブでした)、今でも大家族一人一人の顔を思い出すことができます。

その時、彼は私をNY・マンハッタンに連れていってくれ、エンパイヤーステイト・ビルデイング、自由の女神を案内してくれました。ただし、その時には現在、彼の奥さんとなっているガールフレンドのナズリーと彼と私という、私は彼らのデートにつきそう怪しい日本人という実に不思議な組み合わせでしたが・・・。

その彼が仕事をかねて先日、ニュージャージーからナズリーとサンディエゴを訪ね、礼拝にも出席してくれ、昨晩は共に食事をしました。彼の卒業式が最後の別れでしたから、この度は25年ぶりの再会ということになり、25年間に互いの身に起きたことを時間を忘れて話しました。

今、彼らにはティーンとなった子供がおり、教会生活をしながら、日々を励んでいるということ。カルロスも牧師の子で「かつて俺達は放蕩息子だったな」ということを確認し(変な確認)、「遠回りしたことが実によかった」とこれまた妙なところで一致し、ただただ「今、あるのは主の恵み」と感謝しました。

最後に「今度はニュージャージーに家族で必ず遊びに来い」と言われたので、いつかテネシーを経由して、今度はアメリカを東西に横断をしなければならないかなと、少々、にやついています。

マック

追伸:私達の大学は1794年創立でテネシー州では一番古いのですが、カルロスが昨晩言うには、1983年、彼の前年に入学した友人が大学初めてのヒスパニックの入学者だったということで、これにはさすがに驚きました(ほんとかね、カルロス?)。

 

 

 

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