変化は祝福を運んでくる

季節が冬から春に変わりつつあり、一人一人の心がけ、ワクチンの効果がでているのでしょうか、サンディエゴのコロナ感染者は減少してきています。しかし、それにしましても、ほぼ一年、私達は戦争ではなく、天変地異の自然災害でもなく、目に見えないウイルスにより打ちのめされてしまうという経験をしました。

これらのことに基づき、現在もコロナ下にある今だからこそ、深く心探られる聖書のメッセージにこれからしばらく心を向けていきたいと思います。

この度のコロナ・パンデミックは私達の生活に静かな変化を強いています。子供達はかつてのように学校に行くことができず、私達も昨年の三月以来、教会での礼拝や集会を一度ももつことができずに今日にいたりました。レストランで食事をすることができず、スポーツ競技は中止、もしくは無観客でゲームをしています。これらは私達が今までに経験したことのない生活の変化でした。

このことは多かれ少なかれ、私達にとりましてチャレンジとなっています。そこで、この機会に「私達の人生の中に起きる変化」について、今日は実際に人生に大きな変化を経験した三人の聖書中の人物を見ていきながら、私達もそこから指針をいただけたらと願っております。

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「変化」は祝福を運んでくる
2021年2月14日

コロナ・パンデミックによるステイホームが始まりました昨年の四月から、礼拝の中で出エジプト記の講解メッセージをしてきましたが、それも先週で終わりました。

季節が冬から春に変わりつつあり、一人一人の心がけ、ワクチンの効果がでているのでしょうか、サンディエゴのコロナ感染者は減少してきています。しかし、それにしましても、ほぼ一年、私達は戦争ではなく、天変地異の自然災害でもなく、目に見えないウイルスにより全く身動きがとれなくなってしまうという経験をしました。これらのことに基づき、現在もコロナ下にある今だからこそ、深く心探られる聖書のメッセージにこれからしばらく心を向けていきたいと思います。

この度のコロナ・パンデミックは私達の生活に静かな変化を強いています。子供達はかつてのように学校に行くことができず、私達も昨年の三月以来、教会での礼拝や集会を一度ももつことができずに今日にいたりました。レストランで会食することもできず、スポーツ競技は中止、もしくは無観客でゲームをしています。これらは私達が今までに経験したことのない生活の変化でした。

このことは多かれ少なかれ、私達にとりましてチャレンジとなっています。そこで、この機会に「私達の人生の中に起きる変化」ということについて今日は 実際に人生に大きな変化を経験した三名の聖書中の人物を見ていきながら、そこから指針を受け取ることができたらと願っております。

まず、最初に登場するのはアブラハムです。彼が直面した変化、それは「環境の変化」でした。

時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12章1節‐2節)

この言葉が神様からアブラハムに語られた時、彼は75歳であったということが続く4節に書かれています。彼はその年で神様からの言葉を聞き、そしてそれに従い、妻サライと甥のロトと全ての財産をもって、親戚や友人がいる住みなれた地を離れて神が示す地に出て行ったというのです。

アメリカに住んでいますと、日本人に比べてアメリカ人は家を購入しても、一つの家を終の棲家とする人は少なくないように見受けられます。私の住む地域でもしょっちゅう家が売りに出されていますし、数年で2度、3度、住人が変わっている家もあります。でも、それもさすがに高齢になる前のことであって、70歳を超えても2年ごとに引っ越している人というのはあまりいないのではないでしょうか。

私達はどちらかというと年をとればとるほど、「変化」に対応することがシンドクなるからです。そして、それはアブラハムにとりましても同じだったことでしょう。75歳となった彼は住み慣れた土地で余生を過ごす計画であったに違いありません。

皆さんの中にも75歳の方がいるかもしれません。皆さんはこれからアイダホ州やアラバマ州に、あるいはアルゼンチンやブルガリアに引っ越したいと考えていますか。

アブラハムは神の言葉に従いました。それは彼にとりましても家族にとりましても大きな環境の変化となりましたでしょう。彼らが特別に好奇心が強く、健康であったというようなことを聖書は記していません。彼らは普通の老夫婦だったのです。しかし、彼らは生活環境の変化に臨みました。なぜでしょうか?

それは、神様が彼らに住み慣れた地を離れ、神が示す地に行くという使命を与えたからです。すなわち神は彼らに「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と言われた後に「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」という約束をお与えになっていたからです。

私達も今、環境の変化を経験しています。この変化はいつまでも続くのではなく、いつかかつての日常に戻れることでしょう。しかし、それまでの時、この間に主が私達に与えてくださっている使命は何かということを考えてみましょう。

私達が「使命」を見失う時、生きる力が失われていきます。それは神が私達に使命を与えてくれないということなのではなく、神は私達に今、この時もコロナ下における使命を与えてくださっています。そして、それは一人一人、異なるのです。

「右の手がしていることを左の手に知られないように」(マタイ6章3節)と聖書は言いますが、コロナが始まって以来、教会の子供達が定期的にご高齢の方達にカードを送ってくれています。そのアイデアを最初に考えたのは大人であり、実際に投函してくれているのは親御さん達かと思いますが、なんと素晴らしいことでしょうか。

このことがどんなに大きな励ましとなり、祝福をもたらしているか、言葉で言い表すことができないほどです。主は幼子にも大人にも使命を与えてくれます。そして、そこに目をとめ、そこに生きる時に私達は変化の中に芽生える希望と喜びを見出すことができるのです。主にある皆さん、あなたに今、主が与えてくださっている使命は何ですか?

次に私達が経験する「肉体の変化」ということについて、そのことを体験したパウロの姿を見てみましょう。

7そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。8このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(第二コリント12章7節‐10節) 

 昨年の夏、私達はさみしい別れをしました。それは人ではなく、私達が20年余り運転していたトヨタのミニバンを手離すという別れです。長男が生まれた時に、私達は中古でそのバンを買い、以来、そのミニバンは子供達の送り迎え、教会の方々への訪問、休暇では寝袋やテントを詰み込み、遠くはカナダまで行きました。その間にあらゆる故障を経験し、おそらくそのために使った修理代は最終的に本体の値段を超えたのではないかと思います。

そして、いよいよ昨年夏、スモッグチェックを通らなくなり、25万マイルの走行距離と共に別れの時がきました。他の廃車が並べられた中に一台、ポツリと慣れ親しんだ愛車が置かれた光景を見た時には、言い知れぬ寂しさと感謝がこみ上げてきました。

車もそうですが、私達の肉体も同じです。年齢を重ねれば私達は体力の衰えを感じ、体のあちこちに色々な支障が出てきます。私達の肉体は私達の魂を乗せて、長い人生の旅路を歩んできたのですから、当然、色々な不調が出てくるのです。転びやすくなったり、活字が見えづらくなったり、体内に色々な不調が見つかることもあるのです。

今、読みましたコリント書において、パウロも私達と同じように自分の体に不調を感じていたようです。彼は自らの肉体にある「とげ」について語っています。そのとげについては色々な解釈がありますが、彼の視力の弱さや“てんかん”であったと言われます。

パウロはそのことに対して、とげが取り除けられるように三度神に祈ったと言うのです。それは朝昼晩、毎日祈ったという事ではなくて、本当に心を注ぎ込んで祈りに祈ったということが三度はあったということだろうと言われています。

このことのために三度祈ったというパウロの姿を思う時に私達は「あの方」のことを思い起こします。そうです、イエス・キリストです。イエス・キリストは渡され、十字架にかけられる夜、三人の弟子と共にゲッセマネの園に行き、祈られたということをマタイは記録しています。

その時、イエス様は言われたのです。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、み心のままになさってください」。そして、また再び、祈られます。「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、み心が行われますように。そして、三度目にも同じ言葉で祈られたとマタイは記しています(マタイ26章36節-47節)。

この時にイエス様は弟子達に「わたしは悲しみのあまり死にそうだ」と言われ、血が滴るような汗を流して、この祈りを三度、父なる神に祈られました。しかし、その三度の祈りに対して、神様はイエス様から杯を過ぎ去らせることなく、イエス様はその苦き杯を飲む道、すなわち十字架へと歩み始めます。

パウロはこのイエス様の三度の祈りについて聞いていたことでしょう。そのとげは確かに彼の心身にとりまして辛いことであり、そのことが彼の日常生活や宣教の働きにも障害になっていたことでしょう。

しかし、イエス様がそうであったように神様はそのとげを彼から取り去ることをせず、パウロと同じように三度、魂を注ぎだして父なる神に祈られたイエス様からあの不朽の言葉が聖書に記録されたのです。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう』(第二コリント12章9節)

  私は若い頃、「力」にあこがれを抱きました。そのことにおいて、一番、分かりやすいのは肉体の力です。力でねじ伏せることができるような強い肉体、そんなことに魅力を感じたことがありました。

しかし、年齢を重ねてきますと「強い」とか「弱い」という言葉に光があてられ、そこに少しずつ新しい解釈が加わるようになり、今は主イエスが言われた「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という言葉がいつも心のどこかにあります。

これから年齢が増すにつれて、私の肉体に変化が起こり、力を失っていくことでしょう。しかし、その時に肩を落とし、うなだれるのではなくて、パウロが言った『キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう』という言葉の意味と、その確かさを主から教えていただきたいと願っています。

主にある皆さん、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」、このような生き方を知る私達は、この驚くべき真理をこの人生において主から教えていただこうではありませんか。このことをしかと心に据えて前を向いて生きていこうではありませんか。

3つ目のこと、「強制された変化」ということを見ていきましょう。時に私達は自らの思いや願いに関わらず強制的に変化を強いられる時があります。ヨセフという人がそうでした。彼は兄弟たちの妬みを買い、彼らの策略により奴隷としてエジプトに売られていくのです。その売られた先での日々について創世記39章1節‐6節はこのように記録しています。

1さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。2主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。3その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。4そこで、ヨセフは彼の前に恵みを得、そのそば近く仕えた。彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた。5彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ。6そこで彼は持ち物をみなヨセフの手にゆだねて、自分が食べる物のほかは、何をも顧みなかった。さてヨセフは姿がよく、顔が美しかった。

ここに記されていますように兄弟に捨てられたヨセフはエジプトでポテパルという人に買われました。そこで、彼はポテパルから信頼を得ていくのですが、その生活の中で主人ポテパルの妻がヨセフを誘惑して彼と寝ようとしたということがこの後に書かれています。しかし、ヨセフはそれを拒み続け、そのことによりポテパルの妻は怒り、ヨセフが自分を襲おうとしたという虚偽の話をでっち上げ、それに怒ったポテパルはヨセフを獄に投じたのです。落ち着きつつあった、エジプトにおいて彼は強制的に鉄格子の向こうに閉じ込められてしまうのです。その時のことが創世記39章19節‐23節に書かれています。

19主人はその妻が「あなたのしもべは、わたしにこんな事をした」と告げる言葉を聞いて、激しく怒った。20そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。こうしてヨセフは獄屋の中におったが、21主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。22獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。23獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。

ヨセフは兄たちに強制的に売られ奴隷となり、ポテパルの家ではその妻の嘘偽りの前に抗する力なく、鉄格子の中に入れられるという変化に見舞われたのです。

主にある皆さん、私達はどうでしょうか。自分の思いや願いを超えて、このような変化を飲み込まなければならないことはありませんか?そんな時、私達はどうするのでしょうか。己の運命を嘆きますか。このようなところに押しやった人を恨み、復讐の機会をうかがいますか。投げやりに生きますか。この変化にどう対応するか、それは私達にかかっています。

ヨセフはどうしたのでしょうか。創世記に記されているこれらヨセフの身に起きたことに対して、聖書はヨセフの心の内をほとんど記していません。ただ、このような変化の中にあっても、うかがい知れることは、彼はその日にすべき機会が与えられていることに最前を尽くし、主の前に真実に生きようとしたということなのです。私達はそのヨセフの生き様の中にあの箴言3章5節‐6節に記されているみ言葉に生きた彼の生涯を重ね合わせるのです。

心を尽くして主に信頼せよ、自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3章5,6節)。

そして、この御言葉に呼応するかのように、先ほど読みました強いられた変化の中に身を置くヨセフの日々の生活の中に線を引きたくなるような言葉がいくつも出てきます。ヨセフがポテパルに買われ、彼に仕えていた時・・・

主がヨセフと共におられた」(2) 

そして「その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」(3)

「主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ」(5)

ポテパルの家において主はいつもヨセフと共にいたのです。また、冤罪ゆえに獄にとらわれている間にも・・・

「主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた」(21)。

「主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた」(23)のです。

ヨセフが受けた諸々の仕打ちから目を離して天を仰ぐならば、そのヨセフの日々の生活に向けられていた神の眼差しがありました。この後にも彼に対する不条理な試練は続くのですが、最終的に彼はエジプトにおいて王に次ぐ、その国のナンバー2になりました。そして、このヨセフゆえに、かつて自分を売り渡した兄弟をはじめヨセフの一族は皆、エジプトに逃れ、飢饉から救われていったということを私達は聖書を通して知っています。

その彼がエジプトの宰相となった時、かつて自分を売り渡し、その時に飢餓から逃れるべくエジプトに助けを求めてきたヨセフの兄弟達を前に彼はこう言うのです「わたしをここに遣わしたのはあなたがたではなく神です」。(創世記45章8節)

ヨセフの生涯は他者にコントロールされているように思えました。それは理不尽で、策略的で、強いられた変化のように思われました。しかし、主は彼の道を真っすぐにされました。

このヨセフの生涯は私達がこのような変化に見舞われた時に選び取るべき生き方を教えてくれます。それは、自分の知識に頼らず、主に信頼し、たとえそれが取るに足らないと思われることであっても、置かれた環境で託されていること、成すべきことを事の大小にかかわらず、その一つ一つに真実に、心を込めて向き合うということです。この私達と共に主ははたらいて、その道を真っすぐにしてくださいます。

主にある皆さん、私達は道を歩くことはできます。しかし、その道を真っすぐにすることは私達にはできないのです。そうです、道を真っすぐにするのは私達の仕事ではなく、神だけが成せる業なのです。この分別をしかと心に刻みましょう。

今日は幾つかの変化についてお話しました。人生の節目となるような変化の時、私達がどのようにその変化と向き合うかということは、とても大切なことです。

私達がその変化と共に気持ちをふさいでしまうのか、それともその変化をしかと受け止めて、そこに神の御手のはたらきを見出し、新しい一歩を踏み出していくのか、それによって私達の人生は天と地の差がでてきます。

今日、お話ししましたアブラハム、パウロ、そしてヨセフ、彼らはそれぞれ、環境の変化、肉体的変化、強制的変化を経験しました。そして、彼らはその変化の中に神の御業を見ました。いいえ、その変化の中にある神の恵みと祝福を見出しました。

ですから、私は今日のメッセージタイトルを「変化は祝福を運んでくる」としました。ある人は思うことでしょう。「変化」に良きことなどはないと。しかし、私達はあえて、その変化を通して神様は私達に祝福をもたらしてくださるお方なのだと信じ、この神を仰ぎたいと願うのです。

「あなたは祝福の基となる」と約束されたアブフラハム、「わたしの力は私の弱いところに完全にあらわれる」と励ましを受けたパウロ、「主は彼の手のすることをすべて栄えさせられた」という祝福を受けたヨセフ、これらの証人の生きざまの中に私達が進むべき道を見出していこうではありませんか。私達の変化の中に私達と共におられる主が、その変化を祝福と変えてくださいますように。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年2月14日

1)最近、あなたは自らの心身や環境の変化を感じていますか。その変化にあなたはどのように向き合っていますか。

 

2)創世記12章1節‐2節を読みましょう。もし、あなたがアブラハムだったら、あなたはこの神の語りかけにどう応えますか。

 

3)「変化」に対応する時に、その変化によって導かれる「使命」を知ることはなぜ大切ですか。あなたは今、神様からどんな使命が与えられていると思いますか。

 

4)第二コリント12章7節‐10節を読みましょう。パウロはどんな気持ちで肉体のとげが取り除かれることを三度、祈ったでしょうか。その祈りに対して主イエスは何とパウロに語りかけましたか。この主の言葉をあなたはどのように受け止めていますか。

 

5)創世記39章1節‐6節を読みましょう。兄達に売られたヨセフはポテパルの家で主人に仕えました。ヨセフはどんな日々を送っていたと思いますか。

 

6)創世記39章19節‐23節を読みましょう。もしあなたが冤罪により獄に入れられたら、獄の中で何を考えますか。ヨセフは獄の中でどのように暮らしていたと想像できますか。

 

7)「ポテパルの家」と「獄の中」で共通していたことは何ですか。

 

8)「わたしをここに遣わしたのはあなたがたではなく神です」。(創世記45章8節)というヨセフの人生の結末はあなたに何を語りかけますか。

 

9)もし、あなたがこれから「環境の変化」、「肉体の変化」、「強制された変化」に向き合うことになるとしたら、あなたはどのようにその変化の中を生きたいと願いますか。

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