東北関東大震災を通して、私達にはよくよく再考しなければならないことがあります。
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「寄って立つところの確認」 2011年3月27日
あの東北関東大震災が起きてから二週間以上がたちました。その復興は途上にあり、日本国が、世界がそのために今も全力を注いでいます。このような大きな震災を目の当たりにして、あらためて聖書を読みます時に、そこにも想像を絶する自然災害、人災というものが多く記されており、またそのことに直面する人間の心というものが描写されていることに驚かされます。その中の一つ、今日は詩篇93篇を皆さんと共にみていきたく願っています。
今日をして、この震災の後の特別なメッセージを一まず終え、来週からは新しいシリーズに入っていきたいと思います。皆さんの多くはきっとこの二週間、日本からのニュースに目が離せない日々を送っていらっしゃったと思いますが、戻れる者達から日常の生活に戻っていくということも日本の復興のために不可欠なプロセスだと思うからです。それでは詩篇93篇を読ませていただきます。
1主は王となり、威光の衣をまとわれます。主は衣をまとい、力をもって帯とされます。まことに、世界は堅く立って、動かされることはありません。2あなたの位はいにしえより堅く立ち、あなたはとこしえよりいらせられます。3主よ、大水は声をあげました。大水はその声をあげました。大水はそのとどろく声をあげます。4主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛んです。5あなたのあかしはいとも確かです。主よ、聖なることはとこしえまでもあなたの家にふさわしいのです。
実は色々と調べてみますと、この詩篇93篇はバビロン捕囚から帰還したレビ人によって書かれたのではないかということが分かります。すなわち紀元前597年にバビロンのネブカデネザル王によって捕虜としてバビロンに拉致されたユダヤ人である著者が、約60年後の紀元前539年にペルシアのクロス王がそのバビロンを征服することによって、解放され半世紀ぶりに故国に帰還することが許され、その時に無残にも崩壊したエルサレムの城壁を前に、その再建のために自らを、そして仲間達を励まし、奮い立たせるために書かれたものではないかということです。
その時の彼の心に思い浮かんだものというのが、この詩篇93篇に記されているような「大水」とか「大波」だったのです。この当時の聖書の世界で「水」というものは形が定まらない混沌としたものと思われていました。その水が予測できないように上に下に動くものが波ですので、この詩篇の著者は崩されたエルサレムの城壁を前に、人の興した国とか、人の作ったものの儚さというものを、これらの大水や大波という言葉によって表現したのでしょう。それゆえか神様はイザヤ書の中でユーフラテス川をアッシリア(イザヤ8章7節-8節)、エレミヤ書の中でナイル川をエジプト(エレミヤ46章7節-8節)と表現しています。
この度、エルサレムに行かせていただき、あらためて教えられ、自覚させられたことはエルサレムという神の都が何度も何度も周辺の国々により攻撃され、破壊と復興を繰り返した町であったということです。途方もない時間と労力をかけて積み上げた城壁が崩され破壊される。そしてまた積み上げられるということを繰り返した街というのが聖地、エルサレムの歴史なのです。「神の都」はその呼び名ゆえに、全ての災いから免れたのではなくて、神の都なるエルサレムの歴史は「破壊と復興」という色で染められた歴史なのです。
ルカによる福音書21章5節には2000年前に建っていたエルサレムの宮を見て、それが「見事な石と奉納物で飾られていること」を賞賛して話していたという人達のことが書かれています。今でいうなら出来たての東京スカイタワーを見て人々が言う言葉でしょうか、しかし、イエス様はそんな彼らに向かい「あなたがたはこれらのものを眺めているが、その石一つでも崩されずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」と言われました。そして、その言葉のとおりにそれから30年ほど後、紀元70年、これらの見事な石はローマ帝国によって崩されてしまったのです。
そして、その紀元70年のローマ帝国の攻撃をくぐりぬけ、今でもその姿を私達の前に残しているのが、あの有名な「嘆きの壁」なのです。その壁は紀元前20年、ヘロデ王が立てた壁がそのまま残っている場所なのです。
ですから、この場所はユダヤ人にとって最も聖なる場所です。彼らは絶えることなくあの壁にやってきて、顔をこすりつけるようにしてトーラを読み、祈りを捧げるのです。なぜでしょうか、なぜなら自分達の先祖たちが受けた諸々の試練を見てきた壁だからです。他の多くの壁が崩されてしまっている中で、かろうじてその形を残しているた壁に彼らは自らの先祖達の受難の歴史を思い、頭をこすりつけて、涙を流して、イスラエルのさらなる復興を神に祈るのです。ですから、この壁は本当の意味では「嘆きの壁」ではないのかもしれません。なぜなら、確かに彼らは悲しみ嘆いていますが、それと同時に彼らはその場で神を礼拝し、その目はイスラエルの未来を向いているからです。
場所と時代は異なりますが、イスラエルの死海のほとりにはマサダという要塞の遺跡があります。ここは今から約1920年も昔、イスラエルとローマ帝国とのユダヤ戦争の時に967名のユダヤ人が立てこもった場所であり、その周りを15000人のローマ兵が包囲した場所です。この場所にユダヤ人は二年近く篭城し抵抗しましたが、紀元73年についにローマ軍によって攻め落とされ、その陥落前に二人の女性と五人の子供を残して全員が奴隷になるよりは死を!と自決した場所です。今でも、この悲劇を再び繰り返してはならないという決意から、イスラエル国防軍の入隊式がこのマサダで行われ、国家への忠誠を誓っています。彼らはそのマサダの頂上でその民族の屈辱を嘆くのではなくて、そこで自国の未来について神様の前に忠誠を誓うのです。
ユダヤ人の歴史はまさしくこのような試練の連続でした。彼らは流浪の民となり、世界中に離散し、第二次世界大戦中には今日ホロコーストとして知られる大量殺戮を経験し、諸説ありますが900万人から1100万人もの命が失われ、その後、1948年に今、ある場所にイスラエルを建国した後も、隣接している国々との戦争によって過酷な道を歩みました。そして、今もその置かれている状況というものは安定というものからはほど遠いものです。
このような常に大波にもまれているような彼らのことを思います時に、ユダヤ人が神への信仰を失ってもおかしくないとも思います。しかし、彼らはそれでも今日も嘆きの壁に集まり、マサダに上り、そこで神に祈りを捧げます。そこで神に自らの誓いをたてるのです。なぜ、彼らはその過酷な歴史を通りながらも、神への信仰を失わないのでしょうか。その答えがこの詩篇93篇に書かれています。
3主よ、大水は声をあげました。大水はその声をあげました。大水はそのとどろく声をあげます。4主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛んです。
このところには「まさって」という言葉が二度、使われています。何がまさっているのでしょうか。それは、どんなに恐ろしい大水がとどろき襲ってきても、神様はそれらに勝っているお方であるということであり、すなわち、それは今まで先祖たちが通ってきたいかなる悲劇よりも神は勝っておられるお方なのだということ、それがユダヤ民族の土台となっているのです。
今も既に始まっておりますが、これから日本の被災地もかつてのユダヤ民族がそうであったようにその復興に取り組んでいくことになります。そして、その復興の前線にたずさわる方達がまず第一に考えることは、その町をもう一度、建て上げる時に、何に土台を置いて生きていけばいいのかということです。この場合の土台には二つの土台があります。一つはその土台として、どんな場所に、どんな土台で家々を再び建てるのかということです。そのことに対して我々、日本人はこの震災の経験を最大限に活かして、知恵を出し合って、全力で取り組んでいくことでしょう。
そして、それと同時に私達は今回の震災を通して、もう一つの「土台」というものもよくよく考えなければならないという課題が与えられています。それは建物とか土地に対する深い知識以上に大切なことです。それは、私達自身が寄って立つ土台というものをどこに置いていくのかということを考えなければならないということです。なぜならこの度の震災は「これがあるから大丈夫」と思っていたものも、実のところ、一瞬で失われてしまうのだということを目の当たりにさせたからです。
自分がどんな場所に住んでいるのかとか、どれだけのものを所有しているのかとうことが、実は自分の土台には成り得ないというこの歴然とした事実について考え、「それではあなたはどうするか」ということを再考する必要があるということです。「肩書き」を意味する「ステイタス」という言葉は「地位」と「地の位」と書きますが、その「地」が崩され、「位」も失われてしまうことを知った私達がそれではどう生きるかということを考えるのです。たとえ私達が知恵を出し合って、これから復興していったとしても、それらがまた失われないという保障はどこにもないからです。
この93篇はこのような言葉をもって終わります。「あなたのあかしはいとも確かです。主よ、聖なることはとこしえまでもあなたの家にふさわしいのです」(詩篇93篇3節-4節)。
これらの言葉の中から私達が見出すことは「確か」という言葉と「とこしえまで」という言葉です。ここには全ての人間が探しているもの、求めているものが書かれています。すなわち、ここには神様の「確実性」と「永遠性」が記されているのです。彼らは自分を取り囲むものは全て波のように移り変わることを知っていました。
その波が自分達に襲い掛かり、根こそぎ自分達が築き上げたものを奪っていくということを知っていました。それがユダヤ人の歴史だからです。しかし、彼らには確信がありました。それは神は自分達の先祖が体験したあらゆる試練、今これからも自分たちが経験することになるかもしれないまだ起きていない困難にも勝り、動じることのない、変わることのないお方なのだということなのです。
彼らの城壁が崩れても、敵に包囲されても、虐殺というようなことが起きても、どんなに彼らが揺さぶられても、破壊されても、その命を奪われても、この神の確実性、その永遠性に自らを置こうとしている、同じように私達の土台というものも、この確実性と永遠性をともなうものの上に建てるべきものなのです。
私達は何千人もの方々の尊い命が失われてしまった、その大きな大きな犠牲によって、このことに今一度、目が開かれているのです。そして、そうであるならば今も生かされて明日という日に命をつなぐことが許されている私達はこのことをしかと考えて、「確実」な「永遠」に続くものの上に私達の土台というものを築かなければなりません。
ルカ6章46節にはあのイエス・キリストが語られた有名なたとえ話があります。46わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。47わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。48それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。49しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
言うまでもありません。これは実際の洪水のことを言っているのではありません。これは今日、お話しましたあのユダヤ人の歴史に降りかかった試練、また彼らのみならず私達に降りかかってくるあらゆる大水のことを言っているのです。その時に私達の心は何に土台を置いているのか、そのことを言っているのです。私達が全てのことにまさる生ける神を信じ、その確かな御言葉に聞き、それに生きる時に、私達の土台はいかなる大水に襲われても崩れ去ることがないということなのです。
私達はもう一度、この朝、確認しましょう。私達はどこに立っているのか。それはしっかりとした土台の上に立っているのか。それとも土台のないところに立っているのか。この度の震災を無にしないということは、まず第一にこのことを明確にして、私達一人一人が日々を生きることなのです。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり 2011年3月27日
1)あなたはこの度、3月11日、日本で起きた東北関東大震災を思う時にどんな思いがわきますか。その震災と前と後で、あなた自身、何か変わったことがありますか?
2)詩篇93篇を読みましょう。このところには「大水」ということが何度か記されています。それは文字通り洪水のような災害ととらえることができます。そして、同時に解釈の範囲を広げますと、私達にとって「大水」にはどんなものがあるでしょうか。
3)今日は礼拝メッセージの中でユダヤ人の歴史について触れましたが、彼らの歩みはまさしくこの大水に飲み込まれ、全てが壊されてしまうことの連続でした。あなたが聖書に記されている彼らに起きた出来事で思い起こすことは何ですか。
4)この93篇の3節、4節には「主よ、大水は声をあげました。大水はその声をあげました。大水はそのとどろく声をあげます。主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛んです」と書かれています。この言葉は神様に向かって語られていますが、神様が水のとどろきや大波にまさっているということがなぜ分かりますか。
5)この93篇はこのような言葉をもって終わります。「あなたのあかしはいとも確かです。主よ、聖なることはとこしえまでもあなたの家にふさわしいのです」(5節)。ここには確実性と永遠性というものが記されています。生涯かけて積み上げたものが一瞬で失われてしまうという光景を見た私達が、これからなすべきことは何でしょうか。