御翼の陰に生きた女性達

五年前、教会の方達とイスラエルを訪れました時、死海の目の前に建つホテルに宿泊しました。窓から眺める死海の対岸はヨルダン領土となり、その場所は古代にはモアブと呼ばれていた土地でした。そんなモアブの山を眺めながら、その時、ある女性に思いを寄せました。「あの場所が彼女の故郷、こんなに近くまで来たのだなー」とその時、感慨にふけたのを忘れることができません。

その女性とはルツであり、彼女の名前は聖書のルツ記の名前となりました。彼女はイスラエル人ではなく異国モアブ出身の女性だったのです。ルツが生きた時代は今から3000年も前でしたが、今を生きる私達に彼女の生涯はとても大切なことを語りかけます。今日は「母の日」、ルツの物語が私達の物語となりますように祈ります。

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御翼の陰に生きた女性達
2021年5月9日

五年前、教会の方達とイスラエルを訪問しました時、死海の目の前に建つホテルに宿泊しました。窓から眺める死海の対岸はヨルダン領土となり、その場所は古代にはモアブと呼ばれていた土地でした。そんなモアブの山を眺めながら、その時、ある女性に思いを寄せました。「あの場所が彼女の故郷、こんなに近くまで来たのだなー」とその時、感慨にふけたのを忘れることができません。

その女性とはルツであり、彼女の名前は聖書のルツ記の名前となりました。彼女はユダヤ人ではなく異国モアブ出身の女性だったのです。ルツが生きた時代は今から3000年も前で、それは聖書の士師の時代だったと言われています。士師の時代というのはどんな時代だったのでしょうか。

士師の時代とは「その頃、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記17章6節)という時代で「自分の目に正しいと思われることを行っていた」と聞こえはいいのですが、それはすなわち、各々が自分の我欲に従い善悪を決めている、無法のはびこる世界を意味していました。

そのような社会にほとほと嫌気がさしたのでありましょう、イスラエルの民は自分達を強くリードしてくれる王を求め始めたと聖書は記録しており、そのような激動の時代について書かれたサムエル記が士師記の後に一つの書を挟んで書かれており、その士師記とサムエル記の間に置かれている書こそがルツ記なのです。

無法の荒々しい時代である「士師記」と初代の王が生まれていくという激動の時代「サムエル記」との間に、この「ルツ記」はそっと置かれているのです。

この「ルツ記」はイスラエルの民でありましたエリメレクとその妻、ナオミという夫婦が住んでいたベツレヘムに飢饉があったために、先にお話しましたモアブという外国に逃れ、その所で彼らの二人の息子はそれぞれモアブの女性を妻として迎えたという記録から始まります。

この「ルツ記」の始まりに私達は驚きます。なぜなら、当時、子供の結婚は親の承認なしでなされることはなく、民族の純潔を何よりも大切にするイスラエルの人々は同族の者と我が子を結婚させるというのが習わしだったからです。

これらのことを思います時に、エリメレク・ナオミ夫妻がモアブ人の土地に移り住み、さらにはモアブ出身の女を息子達の妻として迎えたということは信じがたきことでした。そしてさらに驚くべきことは、本来、隠しておきたくなるような、このようなことが聖書に明確に記録されているということなのです。

このように外国で始まったこの家族に悲しいことが起こりました。ほどなくしてナオミの夫エリメレクは異国モアブで死に、彼女は未亡人となりました。さらにエリメレクが亡くなってから10年後に、ナオミの二人の息子も死に、モアブの嫁ルツも未亡人となったのです。かくして共に未亡人となりました外国人の嫁とイスラエル人の姑だけが残されたのです。

姑ナオミはこのような状況に直面し、異国モアブでの生活を引き払い、自分の故郷ベツレヘムに帰ることにします(その決断にいたるまでにも色々なことがあったことでしょう)。そして、まだ若くして自分と同じような未亡人となってしまった二人の嫁には各々の故郷に帰り、新しい人生を歩み始めるようにと勧めるのです(高齢の自分とは異なり、彼女達にはまだ新しい家庭を築きなおせる将来があるということをナオミは考えたのでありましょう)。

しかし、二人の嫁のうちのひとりルツはナオミとその生涯を共にすべく、共にベツレヘムに向かうのです。そう、ベツレヘムはモアブ人、ルツにとりましては外国であり、言葉や文化の違いというものが多分にあったことでしょう。かくして故郷ベツレヘムに着いた時にナオミはこう言うのです「わたしをナオミ(その意味は楽しみ)とは呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら、全能者がわたしをひどく苦しめられたからです」(ルツ記1章20節)。

このルツ記は今から3000年前に書かれた書物です。そう、それはイスラエルが揺れていた時代です。状況が状況だけに、国の変革に関わった主要人物の言動だけが記録として残されそうですが、聖書はそこにこの女性達の日常の暮らしを残したのです。

そして、ここに書かれていることは現代を生きる私達にも十分に理解できることなのです。いいえ、それどころか、もしかしたら彼女達と似たような経験をしている方達もこの中にいるかもしれません。ナオミやルツと同じように、私達は外国に住む者であり、国際結婚は私達のすぐ身近にあり、愛する家族を亡くすということは、私達にとりまして、遠くの国の話ではないのです。

 

帰郷後のナオミとルツの前途は多難でした。当時の社会情勢を考えますと夫のいない彼女達が日々の糧を得ていくということは大変なことです。ナオミは高齢、ルツはモアブの女、ゼロからの出発どころの話ではありません。彼女達の日々の糧は全てモアブの女、ルツにかかっていたのです。

しかし、私達がルツ記を見るかぎり、ベツレヘムの人たちがルツに対して、その民族性を問題としたり、差別をしている様子をうかがうことはありません。彼らは「モアブ人としてのルツ」を観察していたのではなく、「ナオミが連れ帰った嫁、ルツの姿」を見ていたようであります。ベツレヘムの人たちにそのような姿を見ることができるのはそれまでのナオミの人徳もあるでしょうが、その背後にある神様の大きな御手があったということを私達は想像するのです。

モアブ人ルツにはベツレヘムの生活において言葉や習慣の違いがありましたでしょう、そのようなところで働き口を見つけることは容易なことではありません。ルツはしばしベツレヘムの町を行き巡り、自分ができそうなことはないかと観察したことでしょう。そして、ある日、ナオミにこう言うのです。『「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。誰か親切な人が見当たるならば、わたしはその方の後について落穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、3ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた』(ルツ記2章2節‐3節)。

彼女が決断したことは人が所有する畑に落ちている穂を拾わせていただくということでした。そう、それはその土地に実った穂のおこぼれをかき集めるということで、ルツは実際にそんなことをしている人たちをベツレヘムで見たのでしょう。その時、彼女は自分にはこのことしかできないと思ったのでしょう。

彼女は早速、落穂を拾う日々を送るようになります。しかし、それにしても不思議です。落ちた穂と言えども、その土地の所有者としては貴重なものです。それらもしっかりと拾い集めればそれなりの量になったことでしょう。しかし、ベツレヘムの土地所有者はあえて穂を拾わなかったようです。なぜでしょうか。この時のルツのためであったかのように神様はこのルツの時代よりも数百年も昔に驚くべき律法を民に与えておられたのです

穀物を収穫するときには、畑の隅まで切りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも摘みつくしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ記19章9節-10節)。

弱肉強食の時代、まさしく強い者が弱い者を搾取することがまかりとおるような、まだ福祉制度が整っていないような時に、このような律法が民に与えられていたということは驚くべきことです。福祉というものが長い時間をかけて人の歴史の中で整えられていくためには何千年もの時を要し、実際にこのような弱者救済というようなことが整ってきたのは近代のことでありましょう。

そもそもこのような律法を我欲をもった人間が自らに課すということはおよそ考えられないことで、そのような意味でまさしくこの律法は神が人に与えたものであったと思われます。予め備えられていたこの律法ゆえにルツは畑に落ちている穂によってどうにか日々の糧を得る生活を始めたのです。そして、彼女はある時、はからずもエリメレクの一族であるボアズの畑に来たというのです。

先にルツ記2章3節から「3ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた』と読みました。

ここには「はからずも」という言葉があります。「はからずも」とは「自分の計画ではなく」ということです。すなわち彼女が土地の所有者ボアズの畑に来たのは彼女の計画ではなかったのです。まさしく彼女はその畑に導かれ、その所でボアズの手厚い保護にあずかり、後にルツはこのボアズの妻となるのです。

私達は今、アメリカ合衆国に住んでおります。当地に40年暮らしていますという方もおれば、既に私は米国市民となりましたという方もいることでしょう。しかし、どうでしょうか、そのことはかつての自分の夢がかなったということでしょうか。中学生の頃から自分の夢はアメリカに住むことであり、そこで仕事をし、家庭を持つということを皆さんは計画していたのでしょうか。

このようなことを色々な方達と話してみますと、そのような願いがかなって今、ここに暮らしていますという方はほとんどいません。かく言う私も現在、市民権を取り、子供達はこの国で生まれ、既に米国での生活が人生の半分を超えました。このようなことは明らかに私が思い描いていた人生ではありませんでした。私達夫婦は日本で結婚して二か月でアメリカにやってきましたが、妻は当初、いつかは帰国するだろうと思って来たというのです。まさしくそのような意味で彼女にとっても私達の現在の生活は“はからずも”導かれている生活ということになります。

ということはどういうことなのでしょうか。そうです、ここにいたるまで自分で気がついている、気がついていないに関わりなく、私達の生涯にはいくつもの“はからずも”という出来事があり、今にいたっているということです。そして、その“はからずも”ということについて思いめぐらしますならば、そこには思い出すだけで感謝が溢れてくるような“はからずも”があれば、自分にとっては試練としか思えないような“はからずも”もあり、それらの多くの“はからずも”により、今の私達があるのです。

ナオミにとりまして、ベツレヘムの飢饉は“はからずも”起きたことであり、移住したモアブで最愛の夫と息子達を亡くしたことも“はからずも”起きたことであり、ルツが自分についてくると言い、異国の嫁と故郷に帰ってきたということも“はからずも”起きたことでありました。そして、ここにきてルツがボアズの畑に足を踏み入れたということも“はからずも”起きたのです。

こうして“はからずも”ボアズと出会いましたルツはボアズを通して神の恵みにあずかりました。ボアズはルツに言いました「娘よ、お聞きなさい。他の畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女達を離れないで、ここにいなさい。人々が刈り取っている畑に目をとめて、その後について行きなさい。わたしは若者達に命じて、あなたの邪魔をしないようにと言っておいたではありませんか。あなたが渇く時には水がめのところへ言って、若者達のくんだ水を飲みなさい」(ルツ記2章8節‐9節)

ルツはボアズのこの身に余る言葉に問いかけるのです「どうして、あなたは私のような外国人を顧みて、親切にしてくれるのですか」(ルツ記2章10節)。ボアズはそれに対して彼女に答えます。11「あなたの夫が死んでこのかた、あなたが姑につくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。12どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」(ルツ記2章11節‐12節)。

こうしてルツは異国の地でこのボアズの善意と優しさによって生きることになるのです。先ほど言いましたように彼女は悲しく辛い“はからずも”をこれまで幾つも経験してきましたが、ボアズの畑に導かれるという“はからずも”により、その人生は新しい局面を迎えるのです。

主にある皆さん、私はいつも申し上げていることがありますね。そうです、「一つのことに心を捕らわれずに、常に全体に心を向ける」ということです。ベツレヘムに飢饉が起きたこと、夫や息子を失うことは“はからずも”起きた大きな試練です。国から出、姑と共に異国に移り住むということもルツにとりまして大変な“はからずも”であったことでしょう。これら一つ一つを見るのなら私達は押しつぶされそうになります。

しかし、私達に神様は「信仰」を与えてくださいました。クリスチャンになりまして私達はいつも「信仰、信仰」と言いますでしょう。その信仰とはまさしくこのような時に私達に与えられている特権なのです。人生の諸々の“はからずも”が私達の暮らしの中に起きる時、その背後には神がおられるということを私達は信じるのです。そう、読んで字のごとく、私達は「信じて神を仰ぐ」のです。

かつてルツはモアブにおいてその土地の神々を拝していたことでしょうが、姑ナオミの姿を通してナオミが信じる神への信仰をもちました。ボアズがルツに対して『どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」(ルツ記2章12節)と言ったとおり、それは彼女の姿を見れば明らかなことだったのです。

このことゆえに、その信仰ゆえにルツはそれまでの度重なる身の上に起きた試練に打ちのめされることなく、そのところで主を仰ぎ、真実を尽くし、異国の地で生きたのです。そして主はその彼女をご自身の翼の下にかくまってくださったのです。

皆さん、この国に、サンディエゴやロサンゼルス、ツーソンやデンバーに来た理由は皆、それぞれ異なることでしょう。災いと思われるような“はからずも”やさいわいな“はからずも”をいくつも経験してこられたことでしょう。その現実は厳しかったにも関わらず、そのことに気がつかないほどに、主が皆さんをその翼の下にかくまってくださっていたということもありますでしょう。

このようなことに気がつくことに疎いのが私達でありますが、主は確かにその御手をもって私達の人生を導いてくださったに違いありません。私達の一生、私達は神が既になしてくださった主の恵みに満ちた“はからずも”に目を留めることなく後悔と不満だけで終えることができますし、反対にその主の恵みの“はからずも”に思いを寄せ、感謝と希望に満ちた人生を送ることもできます。このことは誰彼ではなく一重に私達自身にかかっているのです。

先にお話ししましたようにルツはボアズの妻となり子を宿します。そのことについてルツ記はその書を閉じるにあたってこのように書き記しています。

13こうしてボアズはルツをめとって妻とし、彼女のところにはいった。主は彼女をみごもらせられたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。14そのとき、女たちはナオミに言った、「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。15彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人のむすこにもまさる彼女が彼を産んだのですから」。16そこでナオミはその子をとり、ふところに置いて、養い育てた。17近所の女たちは「ナオミに男の子が生れた」と言って、彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。彼はダビデの父であるエッサイの父となった。(ルツ記4章13節―17節)

ナオミが最初に故郷に帰った時に彼女は自分に起きたことを思い「わたしをナオミ(その意味は楽しみ)とは呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください」(ルツ記1章20節)と言ったのです。そうです、この言葉はその時のナオミの真実な心の内です。“その時は”まさしくそうだったのです。しかし、ナオミはその最後に “はからずも”神の祝福を見たのです。

そして、このナオミとルツに与えられた祝福は彼女達に神様が与えられたものの一部だったのです。その時の彼女達には知りえない“はからずも”を一つ保留して、ナオミもルツもこの地を去っていったのです

どういうことでしょうか。このルツ記はナオミに生まれた子、オベデがダビデの祖父となったと記しています。そして言うまでもなく、このダビデの家系からイエス・キリストはお生まれになったのです。ルツはその時、知りえませんでした。“はからずも”神様はこの異邦の女性、ルツの名をイエス・キリストの系図の中に入れられたのです。マタイ1章5節、6節に記されている通りです。

波乱万丈、士師記とサムエル記の間にあるルツ記には激動のイスラエルの時代に生きた全く力のない姑、嫁、未亡人、母の姿が書かれたということ、神はその彼女達を御翼の陰に置いてくださったとういうこと、このことは母の日である今日、これを聴いていてくださる全ての母親たちに、全ての女性達に贈ります神様からのメッセージです。

この最も弱い立場の女性達を通して、神様はその御心をあらわしました。異邦人ルツがイスラエルに受け入れられていくということは、イスラエルだけが神の特別な恵みの中にあるとする、選民意識を突き破るものとなりました(と言いましても、その時にこの神の壮大なご計画を理解できるものは皆無であったと思われます。イスラエルの民はその時の自分達の現状に向き合うことに精一杯で、その全体を知ることなどできなかったのです)。イスラエルの英雄であるダビデの血に、異邦人、モアブの血が流れていることを包み隠さずに明らかにするのは、他でもない、神様の恵みは異邦人である私達にも余すところなく注がれているということなのです。

ルツの時代から1000年後、イエス・キリストはエルサレムの町を眺めながらこう言いました。37ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。(マタイ23章37節)。

主は今も私達をその翼の下に寄せ集めようとしています。しかし、このイエスの言葉は私達に語りかけます。その翼の下に私達が行くということは、私達の応答であるということを。主にある皆さん、なぜ私達は主の御翼から離れて自分の力だけで生きようとするのでしょうか。

ナオミとルツの特筆すべきことは彼女達が神様のみ翼の下に寄せられることに応じたということころにあるのです。今朝、このメッセージを聴いていた下さる皆さんに「今朝の話は興味深かったなー」ということで終わって欲しくないのです。私は「興味深い話」をするためにここに立っているのではありません。

私はあなたの物語にもこの神様が関与しているということをお伝えすべく、今もこの主はあなたをその翼の下に引き寄せるべく、私達の応答を待っておられるということを心よりお伝えしたいのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年5月9日

1)ルツ記は士師記とサムエル記の間に置かれています。聖書に「ルツ記」が残されているということは私達にどんなメッセージとなりますか。

 

2)ナオミ家族は飢饉から逃れ、外国モアブに行き、そこで夫と二人の息子を亡くしました。あなたは彼女の気持ちをどのように受け止めますか。

 

3)姑ナオミから離れることなく、ルツにとっての異国、ベツレヘムにまでついてきた彼女はどんな思いを持っていたのでしょうか。ベツレヘムで神様はどのような助けの御手を伸ばしていてくださいましたか。

 

4)レビ記19章9節-10節には落穂は拾わず、貧しい者や寄留者のために残しておかなければならないと書かれています。この律法によりルツとナオミは救われました。外国に暮らす私達に神様はどんな助けの御手を伸べてくださっていますか。

 

5)ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた』(ルツ記2章3節)とあります。あなたはこれまでどんな「はからずも」により、導かれて今日にいたっていますか。

 

6)『どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」(ルツ記2章12節)とボアズはルツに語りかけました。あなたは今、主の御翼の下にいますか。

 

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