墓場に住み、そこで日夜叫び続け、つながれている鎖も引きちぎってしまう男がいました。彼は手に負えない乱暴者、衣服も身につけずにいたと聖書には書かれています。何かホラー映画の一場面のようです。違うのは、ホラー映画のそれは時に「ゴースト」であり「モンスター」なのですが、この男は私達と同じ生身の人間であったということです。そして、驚くべきことはこの狂人にイエスは係わり、この男はキリストを伝える者とされたということです。
今日、礼拝でお話したメッセージです。よかったらどうぞ↓
マック
「悪霊に憑かれた人の幕も広がる!」 2011年1月16日 マルコ5章1節-20節
1こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。3この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。4彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。5そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。6ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、7大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。8それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。9また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。10そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。11さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。12霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。13イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。14豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。15そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。16また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。17そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。18イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。19しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。20そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。
皆さんの周りにかつて「あの人は悪霊につかれている」などと言われていた人がいるでしょうか。「悪霊につかれている」という言葉はそれなりにインパクトのある言葉で、ある意味、大抵の人はその言葉に恐れを感じるのではないでしょうか。聖書の中にもこの「悪霊につかれている人」というのがよく出てきます。その代表格ともいえますのが、レギオンという人です。
彼は墓場に住み、そこで日夜叫び続け、つながれている鎖も引きちぎってしまうというのです。このレギオンについてはマルコ伝以外にもマタイ伝(8章28節-34節)、ルカ伝(8章26節‐39節)にも記されているのですが、そこには彼が「手に負えない乱暴者」であり、また「衣服も身につけずにいた」というようなことが書かれています。何かホラー映画の一場面のようです。違うのは、ホラー映画のそれは時に「ゴースト」であり「モンスター」なのですが、このレギオンは私達と同じ生身の人間であったということです。
今日はこのレギオンとイエス様との関わり合いというものを見ていきたいと思います(フト我にかえりますと、なんかすごい人のことを話そうとしているんだなと思います。墓場に住み、くさりを引きちぎり、日夜叫んでいる男。このような男が大切な役割を担って聖書の中に記録されているということ、あらためて聖書はすごい書物だと思います)。
さて、このレギオンを見るにあたって、そこにいたるまでのことを少し見ていきましょう。そこには私達の心に刻むべき大切なことが含まれています。
向こう岸に渡ろう。
このレギオンの記事が書かれている直前のマルコ伝の4章35節にはこのように書かれています「さてその日、夕方になると、イエスは弟子達に「向こう岸へ渡ろう」と言われた」その時、イエス様と弟子達はガリラヤ湖岸の町におり、その所でイエス様はそこを離れて船にのり、向こう岸へ渡ろうと弟子達に言われたのです。そして、その後を読んでみますと、彼らがイエス様の言葉に従いますと、激しい突風が起り、船が沈みそうになり、それは弟子達が命の危険を感じるような状態だったというのです。しかし、その嵐の中でもイエス様は眠っておられ、弟子達の「私達が溺れ死んでも、おかまいにならないのですか」(38)という言葉に対してイエス様は嵐を静められ、どうにか向こう岸に着いたのです。そしてその着いた場所こそが、ゲラサ人が住む土地、すなわちレギオンがいる場所だったというのです。
イエス様は「向こう岸に行こう」といいました。弟子達はそれに従ったのですが、その道中、死ぬほどの嵐に遭い、命からがら上陸しましたところ、そこで待ち構えていたのは、町中の人達に危害を及ぼしかねない、皆から恐れられている人だったというのです。嵐にしてもレギオンとの出会いにしても、イエスの弟子たちはそんなことを期待していませんでしたし、できることならどちらにも遭遇したくない状況であったに違いありません。
しかし、ここに一つの教訓があります。それはイエス様は時に指導権を握って、私達が想像もしていないような、また願ってもいないような状況へと私達を導かれることがあるということです。先週のルツ記でいいますと、まさしく「はからずも」私達の身にそのようなことが起ることがあるということです。
私達は聖書を注意深く読んで、主が共におられるということは、主がいつも私達を平穏な場所に導かれるとは限らないということを心に刻まなければなりません。主が向こう岸に行こうというかけ声をもって私達を導いてくださる、その向こう岸が平穏な場所だとは限らないのです。ここ最近、よくお話しますが、私達が「主と共に歩む」ということは「平穏無事な生涯を歩む」ということではなく、私達が向き合う諸々の出来事をとおして「主を知る」ということなのです。
ペテロは私達に降りかかる火のような試練や思いがけないことが起きても、驚き怪しむなと言っていますが(ペテロ第一の手紙4章12節)、それはこのような理由によるのです。すなわち神様は思いがけない出来事を通して、私達に神様というお方を知らしめてくださるのです。さぁーそれではレギオンに出会ったイエス様を通して、弟子たちはそこでどんなことを見たのでしょうか。二つ目のことをお話します。それは「イエスとの係わり」ということです。
イエスとの係わり
このレギオンは遠くからイエスの姿を見ました時に、イエスに走りよって拝し、大声で叫んで言いました「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」(7節)。
レギオンの言っていることはこういうことです「あなたは私などには無関係な、いと高き神の子です。ですから、あなたとわたしはなんの係わりがあるのですか?きっとこんな私とは何の関係も持ち得ないでしょう。ですからお願いです。私を罰しないでください」。彼はここで開口一番、「互いの関係の否定」を叫んでいるのです。そして、何を隠そう、実はその叫びとはレギオンの「関係への切なる求め」をあらわすものなのです。
私達が容易に想像できますことは、このレギオンはほぼ確実に誰とも係わりをもつことができずに生きてきたのではないかと思われます。いったい誰が墓場で日夜叫び暴れている人と係わりをもつでしょうか。ですから自分と係わりのある人などはこの世界に誰一人としていないと思って生きてきたに違いないのです。まさしく彼は自他共に認める人との関係構築は絶対に不可能という人だったのです。
しかし、その彼に向かいイエス様は「何という名前か」と聞かれたのです。それに対して彼は「レギオンです」と答えました。レギオンとは当時このデカポリス地方に駐留していたローマ軍の中で1000人で編成された大部隊の名前でした。ですから彼は自分の名前が問われた時に「レギオンです。大ぜいなのですから」と答えているのです。
このレギオンという名前も当初は親からつけられたものなのでしょう。子に対しての願いがそこには込められていたのでしょう。男の子として連戦連勝のローマ軍のように強く育って欲しいという願いがあったのでしょうか。日本なら「勇」とか「武」というような意味が込められていたのかもしれません。
しかし、そのような彼の名前もルカ伝によりますと、このレギオンという名前について「彼の中にたくさんの悪霊が入り込んでいたからである」(ルカ8章30節)と記しており、まさしく彼の勇ましい名前は今や自分には悪霊が数千もとりついていますということを自他共に認めるような意味になっていたのです。
昨年「Precious」という映画を観ました。NYに住む10代の女の子の物語です。ここではお話できないほどの虐待を母親やその母親のボーイフレンドから受けて彼女は生きているのです。しかし、そんな彼女の名前は「Precious」、「尊い、かけがえのない」という意味なのです。彼女が生まれた時に親はまさしくそのような気持ちでその名をつけたに違いありません。しかし、その後にこの親子にも色々なことが起きたのでしょう、彼女はその名前とは全く異なる者として生きていたのです。
よく犯罪を犯してしまった方達の実名がニュースの中で読み上げられます。それが優輝であったり、優子であったりするのです(この名前は誰かを特定するものではなく、ふっと私の頭に浮かんだ名前です)。しかし、彼、彼女の人生はどこかで全く変わってしまったのです。
この国ではよく初対面同士の人でも気楽に会話をします。レジに並んでいる時でも、病院の待合室でも話しかけてくる人は大勢います。そして、けっこうそんな話が盛り上がって、お互いの名前すら知らないのに、ひとしきり話すことがあります。そしていよいよどちらかがその場を離れなくならなくなった時に、時々、「ところでお名前は?」と言いつつ、「わたしは○○です、あなたと話せてよかったよ」というように、握手をしてくる方がいます。おそらくその人とは生涯、再び会うことはないと思うのですが、何か心の中に温かい思いがわきます。なぜなら、名前を聞かれるということは、行きすがりの会話からさらに一歩、相手が自分の存在というものに関心をもっていてくれることであり、そのために一歩前に出て、関係をつくってくれた瞬間だからです。
同じようにイエス様はレギオンにその名を聞くことによって、私はあなたと関係を望んでいるよということを示そうとなされたのではないでしょうか。そして、それと同時にその名を知ることによって彼がこれまで、どんな生涯を送ってきたのかということを知られたのではないでしょうか。
皆さん、クリスチャンになるということは、その信条や教義を学ぶことではありません、イエス様に気に入ってもらうようないい人になることでもありません。おそらく多くの人はイエス・キリストに対して、レギオンと同じ思い、すなわち「わたしとあなたとは何の係わりがあるのですか」というような思いをもちます。しかし、聖書は言います。どんな人間もイエスと係わりを持ちうるものなのだと。否、それ以上です。すなわちこのお方はいつも私達に対して「私はあなたに関心がある、あなたと関わりたいのだよ」と語りかけていてくださるということです。そして、私達はそのイエス様の問いかけに応答するだけなのです。最後に「厳しい現実の只中で証しする」とうことをみていきましょう。
厳しい現実の只中で証しする
ここにきてレギオンに雇っている悪霊が口を開きました「わたしどもを豚にはいらせてください。その中へ送ってください」(12)。その山の中腹には豚の大群がいたのです。イエス様が霊にお許しになると霊達は豚の中へ入り込みました。すると2000匹もの豚たちはなだれ込むようにして海の中へと駆け下り、そこでおぼれ死んでしまったというのです。
このことによりレギオンは正気になることができたのです。しかし、これらのことを知った豚を飼う者達はイエスにこの地方から出て行っていただきたいと頼み始めたというのです。一人の人の人生が全く良きに変えられても、人々はそれを歓迎することはなかったのです。ということはこのレギオンはもはや墓に住むこともせずに、社会復帰ができる身となったにもかかわらず、まだその社会では不自由に生きるということを意味します。そのような社会に見切りをつけるようなこともあったのかもしれません、同時にこの人生を全く違うものにしてくださったイエス様への感謝の気持ちの表明として、彼はイエス様にお供できないかということを願い出たのです。
しかし、イエス様はそれをお許しにならないで彼にこう言われたのです、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」(マルコ5章19節)
そこで、彼はその場を立ち去り、自分にイエス様がしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言い広めたというのです。ここにイエスを証する者の極意があります。証とは一言で何なのかといいますと、イエス様が自分にどんなに恵み深いことをしてくださったか、どんなにそれが自分には大きな事なのかということを伝えることです。すなわち、かつての私はこうでした、しかし、今私は主と共にこう生きていますと言う事を伝えることです。
やくざの牧師がいます。背中一面には彼らの過去を物語る刺青があります。時にこの牧師達は自らの刺青をさらけ出して、かつての自分はこのような身の者でしたが、今はキリストを信じて立ち直りましたという証しをします。そして、それに対してそのように過去の身の上を露にして伝道をするのはおかしいという人がいるといいます。それはそれで、その考え方にも一理あるのでその意見を私は尊重します。
しかし、個人的にはかつての過ちから、その体に刺青を入れてしまったのもその牧師、そして同時にまだ体にその跡は残るけれど、今はイエス・キリストを信じてその愛によって人生を変えられて生きているのもその牧師だということは事実だと思うのです。ですから、その人がそのように神様に導かれるのなら、その御声に従い、自分のかつての恥も外聞も捨てて、かつて私はこのように生きていましたが、今は神様の大きな恵みによってこんなに変えられたのです、神様はなんと素晴らしいのでしょうと証しをするということも大切なことではないかと思うのです。
俳優、ハリソン・フォードの頬には見て分かる傷があります。顔が命の俳優業、彼を知る人たちは彼に聞くそうです「それがなければ良かったと思ったことはありませんか」しかし彼はこう答えるというのです。「その傷があって、私はハリソン・フォードなのです」このレギオンもかつては多くの悪霊に憑かれていた者、そして、それはかつての彼の姿、しかし、今や神様はそんな私にもこんなに大きな愛を注いでくださいましたと宣べ伝える者なのです。
皆さん、今日はレギオンという人を中心に見てまいりました。このレギオンの人生はイエス様の「向こう岸に渡ろう」という一言によって始まりました。イエスと共にいた弟子にとって向こう岸に渡ることは嵐に遭い、レギオンという危険な人間に出会うことを意味しました。しかし、彼らはそれらの出来事によって神様のみわざを深く知るよになるのです。
そして、このイエス様はレギオンとの関係を結ばれ、彼の悪霊を追い出したのです。レギオンはその長い狂人としての人生、人と関わりをもつということなどあり得ない毎日を過ごしていたのです。しかし、イエス様はそんな彼とも関わりをもつことを望んでいらっしゃり、レギオンもそれに応答し、彼はそれまでの苦しみから解放されたのです。
悪霊を追い出されたレギオンは神様がどんなに彼をあわれんでくださったかということを自分の生きた地方に伝えたのです。そこは彼が正気になったことを良く思わない人達が住む厳しい土地です。しかし、そのところで彼は主の証し人として生きたのです。
私達の生涯もこれからどのようなことが起こるのかわかりません。しかし、それらを驚き怪しむことのないように。主はその出来事を通して私達に主を知る機会を与えてくださり、そればかりか私達と関わりを持とうと願っておられます。その関係の中に私達が入れられる時に、私達はその主が私達にどんなに大きなことをしてくださったかを宣べ伝える者とされるのです。
本日のおもちかえり 2011年1月16日
1)マルコ伝の4章35節には「さてその日、夕方になると、イエスは弟子達に「向こう岸へ渡ろう」と言われた」という言葉に従い一向はガリラヤ湖の対岸に向かいました。しかし、その途中で危機的に嵐に遭い、また対岸の町では狂人レギオンに出会いました。弟子達はイエス様の一声で災難に遭ったように思えます。にもかかわらず、なぜイエス様は「向こう岸に渡ろう」と言われたのでしょうか。
2)マルコ5章1節-20節を読みましょう。このところに出てくる「レギオン」という男の様を思い浮かべてみましょう。あなたの心に思い浮かぶ彼の様を表現してみましょう。彼にはどんな過去があり(答えは聖書に記されていませんので想像してください)、日々、彼に対して町の人達はどんな感情を持っていたと思いますか。
3)レギオンは遠くからイエスの姿を見ました時に、イエスに走りよって拝し、大声で叫んで言いました「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」(7節)。なぜ、ここでレギオンは何も言われてもいないのに「あなたはわたしとなんの係わりがあるのですか」と言っているのでしょうか。
4)あなたは自分につけられた名前の意味を知っていますか。これまでの人生、その名に照らし合わせて自分の歩みはいかがでしたか?
5)イエス様によって悪霊を追い出してもらったレギオンに対してイエス様は「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」(19節)と言われました。私達が主にあって罪赦されクリスチャンになった時から、私達にはどのような使命を与えられているのでしょうか。あなたはその使命をどのように果たしていますか。