感謝の根本を変える

今日、私達は見えるものによって支配されて生きています。昨日、一日を振り返ってみてください。私達は何によって喜び、悲しみ、笑い、また怒りましたか。その多くは私達が見聞きしたものです。このことは私達の家庭でも教会でも職場でも私達が行く先々どこであっても私達が日々、直面することなのです。

学校の合格発表で自分の名前を見つけた時、目の前に無理やり割り込んでくる車を見る時、カーテンを開くとどしゃぶりの雨であるような時、子供が自分の願うような服装をしていないような時、私達の心は何を感じているでしょうか。

そこで、今日、このサンクスギビング礼拝において注目したいことは、目に見えるものだけに反応して感謝をするなということです。すなわち、私達にはもう一つの世界があり、その見えない世界で起きていることに感謝する生き方というものに私達の生き方をシフトしていこうということをお話ししたいのです。そうです、それはすなわち今日のタイトルにありますように「私達の感謝の根本を変える」ということです。

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サンクスギビング礼拝
「感謝の根本を変える」
2017年11月19日

かつてイエス様と弟子達の間にこんなことがありました。17七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」18彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た19わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう20しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろあなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ10章17節ー20節)。

イエス様はかつて弟子達を二組にして各地に宣教のはたらきに送り出していたと福音書は記しています。ですから、その時もそのようにペアーとなった者達を宣教に送り出していたのかもしれません。その彼らがイエス様のもとに戻ってきて、自分たちが行った先々でどんな神のみ業がなされたかを報告したのです。

弟子達が言うところの「悪霊が彼らに服従した」ということが具体的にどんなことであったのかは分かりません。しかし、聖書は悪霊に憑かれて狂人のようになっている人がイエス・キリストによって解放され、正気に戻ったというようなことを記録していますので、おそらくそのような神のみ業が弟子達を通してもなされたのでしょう。

このことは彼らを驚かせ、喜ばせるに値する劇的な出来事でありました。ゆえに彼らは喜び勇んでこのことをイエス様に報告したのです。しかし、イエス様はその時に弟子達が見ていないものを見ていました。そう、イエス様はサタンが電光のように天から落ちるのを見たというのです。おそらく私を含めてここにいらっしゃる皆さんもこのような光景を見たことはないでしょう。しかし、イエス様はあちらの世界からこちらに来られたお方であるゆえに、こちらの世界の私達には見えないものを見ることができたのです。そして、続けて弟子たちに言われました。「霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」(20)。

主にある皆さん、もし私達がこの時の弟子であり、私達も主の名によって悪霊が追い出されていくという光景を見たら、きっと喜ぶことでしょう。このようなことが教会で起きたら私達はその現象に惹きつけられるでしょう。いつの時代になっても、このような目に見える奇跡に私達の心は惹きつけられるのです。

しかし、イエス様は喜ぶ弟子達に水を差すかのようにして「霊があなたがたに服従したことで喜ぶな」と言われたのです。そして、そのことよりも「あなたたちの名が天に記されていることを喜べ」と言われたのです。

そう、今日、このサンクスギビング礼拝において注目したいことは、目に見えるものだけに反応して感謝をするなということです。すなわち、私達にはもう一つの世界があり、その見えない世界で起きていることに感謝する生き方というものに私達の生き方をシフトしていこうということをお話ししたいのです。そうです、それはすなわち今日のタイトルにありますように「私達の感謝の根本を変える」ということです。

今日、私達は見えるものによって支配されて生きています。昨日、一日を振り返ってみてください。私達は何によって喜び、悲しみ、笑い、また怒りましたか。その多くは私達が見聞きしたものです。このことは私達の家庭でも教会でも職場でも私達が行く先々どこであっても私達が日々、直面することなのです。

学校の合格発表で自分の名前を見つけた時、目の前に無理やり割り込んでくる車を見る時、カーテンを開くとどしゃぶりの雨であるような時、子供が自分の願うような服装をしていないような時、私達の心は何を感じているでしょうか。

この「見えるものが私達の心を支配する」ということは人が初めから有していたものでした。初めとはいつなのでしょう。そう、それは人類最初の人間にまでさかのぼります。あの創世記でエバが禁断の実に惹かれた理由は聖書が記すようにその実が「食べるによく、目には美しく、賢くなるのに好ましく」(創世記3章6節)見えたからなのです。以来、人間はこの「目から入ってくるもの」によって心がコントロールされています。

もちろん私達が目に見えるものに感謝をすることはとても大切なことです。食卓に並べられている食事を見たり、誰かのちょっとした気配りを見るにつけ、私達は感謝すべきでしょう。しかし、そのように目に見えることだけに感謝をしているのなら、そのような感謝の思いがわく事と共に私達の心を怒りや苦々しい思いにさせる光景をも我々は見るわけですから、そのような時には、次に何か嬉しいこと、好ましいことが視界に入ってくるまで暗澹たる思いにとらわれてしまうのです。これが人であり、私達の日常です。

しかし、クリスチャンであるということは目に見える世界の中に生きつつも、同時に私達が信仰によって目に見えない世界を見て生きる特権が与えられているということです。すなわち、実際に目に見える世界が全てのことを説明しているのではないということを知り、目に見えない確かなるものを見、そこに感謝を見出そうというのが私達クリスチャンライフです。

2001年9月11日の朝、ニューヨークで起きた事を私達は生涯忘れることはありません。あの朝、私は既にアメリカにおりまして、妻は臨月でした。その朝、コンピューターの電源を入れましたところ、マンハッタンのツインタワーが炎上している映像が飛び込んでいました。「また、ハリウッドの新作映画か」と思っていましたら、それが現実だと分かりました。そう現実が映画のシナリオを超えてしまったのです。そして、あの日以来、確かにアメリカも世界も変わりしました。

あの時、多くの人がそれまで心にとめずにいた大切なことに目が開かれました。アメリカ経済のシンボルでありました二つの超高層ビルが瞬く間に目の前から崩れてなくなってしまったのです。数千人もの人達がいつもどおりに仕事に出かけながら、二度と帰ることがなかったのです。あの日を境に全米のコマーシャルやプロスポーツの放送が中止され、コメディアン達はテレビの画面から姿を消えました。私達は一瞬にして、自分達の生活の大部分は、目に見えるものへの関心に寄せられているけれど、それは実に一時的なものであるということに気がついたのです。

あの時に離婚の計画を取りやめた夫婦がいます。子供達と過ごす時間を増やそうと仕事の時間を削った父親や母親がいます。教会に足を運ぶ人達が激増しました。故郷にいる父母に電話をする人の数が増えました。そう、あの時、目の前に繰り広げられた想像を超えた光景を目の当たりにした私達は、それまではあまり気にかけなかった直接的にはなかなか目には見えないものに目を注ぎました。あの事が起きた日から数か月、人はしばらく目に見えないものに目を留めようとしました。しかし、数か月が過ぎますと再び、目に見えるものによって右往左往されている生活に戻っていきました。

私達は葬儀に出席することがありますが、その時に友人や家族が故人の銀行口座やその人の体型や、その人が使用していた化粧品がどんなにか素晴らしかったかを語っていることを聞くことはありません。その時に彼らが語るのは、故人の優しさや寛大さや家族への愛なのです。そして、それらの多くは目に見えないものなのです。霊柩車の後にユーホール(日本ならクロネコヤマト)のトラックがついていったのを私達は見たことがないのです。そうです、私達はこの世界でかきあつめたものを何一つ、持参してあちらに行くことができないのです。

私達はしばしサン・テグジュぺリの「星の王子様」に書かれている「本当に大切なものは目に見えないんだよ」という言葉を引用し心にとめますが、ほとんどの場合、次から次へと私達の目に飛び込んできます事柄に振り回され、すぐに目に見えるものが全てであるかのように人生設計を立て始めるのです。ですから私達はいつも目に見えるものだけに一喜一憂するのです。

イギリスの格言の中にこのような言葉があるそうです「もし、あなたが幸せになりたいなら、床屋さんに行きなさい。そうすれば、一日、幸せになれるでしょう。もし、一週間、幸せでいたいなら、結婚しなさい。もし、一ヶ月、幸せでいたいなら、車を買いなさい。もし、一年、幸せでいたいなら、家を作りなさい。もし、あなたが一生幸せでいたいなら、正直者でありなさい」。

この諺が私達に訴えることは、目に見えることが私達を幸せにするものではないのだということです。そう、それらは時にそう見える間のことだけで、私達がそれらから受ける喜びや慰めというのは期間が限定されているということを心に刻みなさいということです。

しかし、大抵、私達は目に見えるものに心を反応させながら人生を送り、人生を終えていきます。自分の幸いは全て目に見えるものにかかっているのです。先の弟子達のことで言いますのなら、彼らはその時、確かにサタンが彼らに従うことを目の当たりにしたのでしょう。しかし、イエス様はそのようなことの限界を見抜いていました。そうです、彼らが自分の宣教の結果だけに目を留めているのなら、その翌日に彼らは肩を落とすようなことにも直面するのです。ですから、イエス様はそのようなことに目を留めるのではなくて、目には見えずとも彼らの名前が既に天に記されていることを喜びなさいと言われたのです。なぜなら、その喜びは消え去ることはないからです。

目に見えるものは全て移ろいゆきます。神様は万物をその法則の元に置かれました。そして、その変化の最たるものは私達自身です。そう、私達の肉体です。私達の肉体は私達が向き合わなければならない目に見える変化の象徴でしょう。この肉体の変化を日々、目の当たりにしていくのであるのなら、そこに感謝を見出すことは難しいことです。なぜなら、私達は皆、例外なく体力を失い、体のあちこちに不調を抱え(これまでそれだけ使ってきたのですから当然です)、老いていくからです。

このことは聖書も否定していません。パウロが書きましたコリント第二の手紙には「わたしたちの外なる人、すなわち私達の肉体は滅びる」と記されています(Ⅱコリント4章16節)。これは神の定めた法則であり、何人もこの法則を免れる人はいません。しかし、その現実に対して聖書は私達が見えないことについてここで語り始めます。

『だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである』 (コリント第二の手紙4章16節-18節)

私達の内なる人を私達は見ることができません。しかし、その内なる人は日ごとに新しくされていくというのです。私達の目にはしばらくの軽い艱難が日ごとに飛び込んできます。しかし、それらは私達にまだ明らかにされていない永遠の重い栄光へと私達を導くのです。これらのことは「ここにもあそこにも」と目に見えるかたちで見れるものではありません。だからパウロは言うのです。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである』 (コリント第二の手紙4章16節-18節)。

多くの皆さんがご存知のようにこのパウロは「喜び」について書いています。そう、「喜び」といえばピリピ人への手紙です。そこには「喜びなさい」という勧めが繰り返し書かれています。パウロは歯を食いしばって、顔をひきつらせながら「喜ばなければなりませぬぞ」と書いたのでしょうか。いいえ、彼は本心から、まさしく喜びが心の内から溢れてきて、それを抑えることができないかのようにして『あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい』(ピリピ4章4節)と言っています。

彼は口が開けば喜びなさいと言います。そう、その喜びは彼の心にあるもので、まさしくそれが彼の心から満ち溢れたのです。そして、さらにこのピリピ書の言葉はこのように続きます『あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい』(ピリピ4章5節-6節)。彼はここで喜ぶこと、そして感謝すること、祈ることを書いています。まさしくこれこそがパウロのイエス・キリストにあるライフスタイルだったのです。たとえ彼がどんな状況にいても・・・・。すなわち、彼がたとえどんなものを見たとしても・・・。

私達はこのパウロの言葉は信じがたき環境で書かれたということを知っています。そう、彼はこのピリピ書を書きました時、獄にとらわれていました。その中で彼が毎日見続けたものは気分が滅入ってしまうような薄暗い部屋であり、ノミやダニに刺されてささくれだった自分の皮膚にできた傷でありましょう。それらを見ている限り、彼の心に喜びが生まれるのは不可能です。ましてやその状態で何を感謝するのでしょう。見えるものの中から感謝を見出すことなどできません。そうなると心身共に弱り、祈ることすらできなくなりますでしょう。そう彼がいた環境ほど「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい」という言葉からかけ離れた場所はないのです。

このパウロはテサロニケ人への第一の手紙においてあの有名な言葉を書き残しました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5章16節ー18節)。この言葉は口で言うのはたやすいのですが、このように生きることは到底、私達にはできないと思います。すなわち、このみ言葉は喜べないような時にも喜ぶことを言っており、感謝できないような時にも感謝することを言っているのですから。ではパウロは不可能なことに対して、こうあったらいいなという自分の夢をここに書いているのでしょうか。いいえ、違うでしょう。

私達はこのみ言葉について、注意してこの後に書かれていることに目をとめなければなりません。すなわち、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい」の後に続く「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」ということです。よくこの最初だけを私達は取り上げますが、実はこのみ言葉はこの後半がなければ尻切れトンボなのです。

そうです、この御言葉は「キリスト・イエスにあって」にかかっているのです。この御言葉は私達が「イエス・キリストにあって、いつも喜ぶ、絶えず祈る、全てのことについて感謝する」ということであり、「キリストにあって」がなければ、私達はこのみ言葉の中で日々、挫折と敗北感に打ちひしがれてしまうということです。

実はパウロは第一テサロニケ4章16節から18節にもこの「キリストにあって」という言葉を書いています。読んでみましょう。

16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。18 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい(第一テサロニケ4章16節-18節)

お気づきになられたでしょうか。このところにも「キリストにあって」と書かれています。そして、ここに書かれている人達は「キリストにあって死んだ者」だというのです。そして、そのようなキリストにあって死んだ人達、すなわちキリストを己が救い主として信じ、彼と共にその人生を歩んだ者達は死んでよみがえり、雲に引き上げられて、空中で主に会い、いつも主と共にいるというのです。これらの約束の言葉をもって互いに慰め合いなさいというのです。

すなわち、キリストにあっていつも喜びなさい、絶えず祈りなさい、全てのことに感謝しなさいということは、キリストというお方は、たとえ私達が死んでも、自分のもとに引き上げてくださる方であり、その方にあって喜び、祈り、感謝しなさいということなのです。これは私達はその生涯にどんなに辛く悲しい試練にあったとしても、最終的には私達は主のもとに引き上げられるのだということです。

私達は先にお話ししましたように「私達の名前が天に記されている」ということを見ることができませんし「キリストが我々を天に引き上げている様」を見ることはありません。しかし、私達はこのことを信仰によって悟るのです。私達が目に見えていることだけで一喜一憂している限り、私達はパウロが言っているいつも喜べ、絶えず祈れ、全てのことに感謝せよという言葉は逆立ちしてもできるものではないのです。すなわち私達の感謝はいつも限定的なものなのです。しかし、見えないものを見る時に私達にとってこの聖書の言葉は実現可能な言葉となるのです。

私達の目はこれからも色々なことを見ていくことでしょう。その中には私達を打ちのめすようなこともあるでしょう。しかし、私達は見えないものを見続ける信仰と共にそのところを必ず乗り越えていくことができると信じます。

目に見えるものだけに従って生きていますと、目に見えるものをどれだけ多くかき集めることが人生の勝利者の条件かのように思うようになります。そのような人について皮肉をこめて言った人がいます「最後はたくさんのおもちゃを獲得した人が勝ち」。そう、それは子供の頃にたくさんのミニカーをもっていた友達がうらやましく思えたように、そのミニカーが大人になったら単に別の物になっているという話です。私達はそのミニカーが一つ増えたり、大きなミニカーを手に入れると喜び、ミニカーに傷がついたり、それが一つ失われたら悲しむのです。それが目に見えるものだけに寄り頼んで生きていく私達の人生です。

皆さん、この中にはまだクリスチャンではないという方がいますでしょう。いかがでしょうか、これからの人生、今日、お話ししましたように目に見えるものだけで己が人生を委ねていきますか。、これまでの人生がそうであったように多い、少ない、大きい、小さい、傷つけられた、失われた、その辺りのことだけを見て一喜一憂して生きていきますか。

クリスチャンになって半世紀が経ったという方がおりますでしょう。ご存知でしたか。今日、お話ししましたような世界が私達には与えられているということを。

目に見えるものによりいつも心騒ぎ、時々、感謝して生きていくということではなくて、たとえ目に見えるものが好ましくないものに見えたとしてもその背後にある目には見えない神の大きな御手を見て歩み続ける生涯、そこに私達は立っていきませんか。私達の感謝の根本をこのようなところにシフトしていきませんか。

『わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである』  (2コリント5章7節)。そうです、この生き方こそが神様が私達に与えてくださっている私達の人生の王道なのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり

2017年11月19日

1)ルカ10章17節-20節を読みましょう。「悪霊が私達に服従する」というようなことはどうして私達を惹きつけるのですか。なぜイエス様は喜ぶ弟子達に水を差すようなことを言っているのですか。

 

2)エバには禁断の実が『食べるによく、目には美しく、賢くなるのに好ましく』(創世記3章6節)見えたゆえに、それを食べました。私達は今日、どれだけ目に見えるものによって影響を受けていますか。あなたが最近、喜んだこと、悲しんだこと、それは何を通してあなたの心に沸き上がりましたか。

 

3)「目に見えるものだけ」が私達の全てである人生とはどんな人生でしょうか。

 

4)コリント第二の手紙4章16節-18節を読みましょう。『わたしたちの外なる人は滅びる』ということをあなたは認めますか。その変化は私達をどんな思いにさせるでしょうか。

  

5)『外なる人は滅びても内なる人は日ごとに新しくされていく』ということはどういうことなのでしょうか。内なる人は見えますか。

 

6)私達は日頃、何によって感謝をしていますか。感謝するか否かの判断が目に見えることだけだということはどんな限界をあらわしますか。

 

7)『わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである』 (2コリント5章7節)ということがキリストにあるクリスチャンの生き方です。あなたはこのような人生をどう思いますか。具体的にどうすればこのような生き方が日々、なされていくのでしょうか。私達に必要な日々の心構えはどんなものでしょうか。

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