披露宴で断食しますか?

私達が身内や友人を披露宴に招待する時に、私達はゲストに断食をお願いするでしょうか。「この度の披露宴は断食形式で行いますのでその旨をよろしくお願いします」という招待状を送った方が今だかっていたでしょうか。いいえ、私達は披露宴のお食事は「フィレ・ステーキ」がよろしいでしょうか、それとも「舌平目のバター焼き」がいいでしょうかと、行く前から嬉しいことを尋ねられるのです。言うまでもない、そこは喜びの場だからです。

今日、礼拝でお話したメッセージです。よろしかったらどうぞ↓

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マック

披露宴で断食しますか?      

2010年10月10日                                     ルカ5章33節‐39節

33 また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。34 するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。35 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。36 それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。39 まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。

 今、読みました聖書の言葉はイエス・キリストが語られました譬話です。この譬はマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝に記されているものです。そもそもなぜ、イエス様はこの譬を語られたかといいますと、このような問いかけを受けたからです。

マタイ9章14節にはこう記されています。 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。ルカ5章33節にはこう記されています。 また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。

ここに記されているヨハネとはバプテスマのヨハネと呼ばれている人です。彼はイエス・キリストの先駆けのような存在として、イエス様に洗礼を授け、荒野で神の国について宣べ伝えていた人で、この時に彼はそのはたらきゆえに投獄されていました。その弟子達がイエスのもとに来て問うたというのです。マタイ伝、ルカ伝の言葉を一つにしていいますと、こういうことです。「私達もパリサイ人もよく断食をし、祈っていますのに、なぜあなたの弟子達は断食をしないのみならず、食べたり、飲んだりしているのですか」。

 

明らかに彼らの言葉にはイエスの弟子達に対する疑問と不信というものがあり、それは言うまでもなく、その弟子のリーダーであるイエス様にも向けられているものなのです。このことを歴史的背景をふまえて説明させていただきますと、彼らのしている断食というものはユダヤ民族が長い間、神の民として生きるためにすべき大切な取り決めであり、それを守ることによって彼らは自らが神に忠実な民であることを証明することができると信じていたのです。

これらに加えて、人の性質というものはいつの時代にも変わらず、自分にとって苦となるようなことをしていますと、同じことをしていない人達というものがチラチラと気になるものです。「俺たちがこんなに苦労してコレコレを守っているのに、なんでお前達は楽しているのか」ということです。彼らもそのような思いからこの質問をイエス様に投げかけたのでしょう。それに対してイエス様は譬をもってこう答えられたのです。

「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」(ルカ5章34節‐35節)

イエス様はまず最初に、ここで婚礼について話をされました。婚礼というのは、今も昔も民族・文化を超えてとても大切なものであり、またそれは大きな喜びの時であり、イエス様もそのことをよく理解しておられました。その婚礼についてイエス様は、花婿が一緒にいるところで、どうして婚礼の客に断食をさせることができるであろうかというのです。

 

私達が身内や友人を披露宴に招待する時に、私達はゲストに断食をお願いするでしょうか。「この度の披露宴は断食形式で行いますのでその旨をよろしくお願いします」という招待状を送った方が今だかっていたでしょうか。いいえ、私達は披露宴のお食事は「フィレ・ステーキ」がよろしいでしょうか、それとも「舌平目のバター焼き」がいいでしょうかと、行く前から嬉しいことを尋ねられるのです。言うまでもない、そこは喜びの場だからです。その喜びの場において、イエス様は自らを花婿として話しをしているのです。すなわち、花婿である自分が、あなたたちと共にいるのに、なぜ、私はあなたたちに断食をさせることができようかというのです。もっといいますと「私があなたたちと共にいるというのに、なぜまだ断食が必要なのか」ということです。

 

私達が信仰生涯を歩むということは、イエス様と共にその人生を歩むということです。目には見えませんが、イエス様が約束されたように「世の終わりまで、このお方が私達と共にいてくださる」ということを信じて生きる、まさしく今、私と共にこのお方がいてくださるのだということを喜んで生きるということです。

 

有名なテサロニケ第一の手紙5章16節‐18節にはあの有名な言葉があります「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」またピリピ4章1節にも同じことを言っている有名な言葉があります。こちらの方はとてもしつこい言い回しとなっています。「あなたがたは主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(4章4節)

 

どちらも「いつも喜びなさい」というのです。「いつも」などと言われても、私達はそんな単純ではないのです。現実の生活はとても厳しいからです。この言葉はおかしいのではないか、見間違えではないだろうか、本当に「いつも」なんて書かれているのだろうかとこのテサロニケとピリピ書を目をこすりながら見直すのですが、確かにそこには「いつも」と書かれているのです。そんな疑い深い私のような者がいることを見越してか、ピリピ書にいたっては、「繰り返して言うが、喜びなさい」と私達に二度同じ言葉を語りかけているのです。

 

なぜ、この二つの書はこんなにも「喜ぶ」ことを勧めているのでしょうか。しかも「いつも」などと強気なことを書くことが出来るのでしょうか。その根拠はどこにあるのでしょうか。その根拠はただ一つ。この二つの書にそれも共通することとして書かれています。それは「イエス・キリストにあって」、すなわち「主にあって」ということです。この喜びはイエス・キリストゆえの喜びなのだということです。すなわち、花婿なるキリストが私達と共にいるゆえに、私達は喜ぶのだというのです。

 

断食とは自分の体が求める食欲を断つことです。そのことによってイエスの時代の人々は、神様が喜んでくださると信じていたのです。また、そのことによって自分の願いを神様にきいてもらおうとしたのです。しかし、イエス様は、そもそもあなたたちが願っているその神なる私があなたと今、共にいるのだから、そのような時には断食をする必要はないではないか、そうではなくて今は私を喜ぶ時なのではないかと語られたのです。

 

ですから、親の関心を得ようとして、無鉄砲なことをしようとする子供のように、父なる神様に向かって体を鞭打つことによって、「さぁ、こちらを向いてください」というようなことをする必要はないのです。すでにイエス様は私達と共におられるのですから。

ネヘミヤというリーダーが紀元前445年頃にイスラエルにいました。彼は、荒廃した祖国の復興の為に、その城壁の修復に奔走した人です。修復中にも外からは他民族による激しい迫害、内においても色々な困難を抱えていました。そのような緊迫した状況の中、現代風に言いますならば胃が痛くなるような時に、彼はそのような中でも「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8章10節)と民に語りかけ、人々を励ますのです。

ネヘミヤは外部からの敵に対して日夜見張りを置き、武装してその進入に常に備えました。内なる戦いにおいても不断の決意をもって、それらを乗り越えようとします。それはある意味、彼が率いる軍事的、政治的な力です。しかし、彼はそれらによって最善のことをなしながら、本当の私達の力とは主を喜ぶことなのだと言っているのです。

私達と共におられる主イエスを喜ぶことは、私達の力なのです。人生には色々なことが起こります。知力を尽くして、体力を尽くして、私達はそれらに当たろうと日夜奮闘しています。ある時は自分の力が勝り、問題は解決されるでしょう。しかし、またさらなる出来事が私達に襲いかかります。それが私達の人生です。その繰り返しの中、時に私達は自分の力では太刀打ちできずに倒れ、退散します。私達の力には限界があります。しかし、いかなる状況の中にも必ず主イエスが私達と共にいるということ、その喜びは失われることがありません。そして、その喜びが私達の行く手に立ちはだかる諸々の試練を克服していく力となるのです。

ネヘミヤはイスラエルの民たちの特性を見出し、ある者は祭司として、ある者は門番として、ある者は田畑を管理する者とさせるというように明確な組織を作ってイスラエルの民をまとめました。その中にとても興味深い役割を担う人達がいました。その人達は何をしていたのでしょうか?ネヘミヤ書はその人達とは「神様への感謝を司る者」、すなわち「神様への感謝を専門とする者達」だというのです。ネヘミヤはそのような人達を組織の中に置いたというのです(ネヘミヤ12章8節、27節、31節、38節)。

なぜネヘミヤは感謝を専門とする者達をおいたのでしょうか。なぜなら神への感謝のあるところに、その神を喜ぶ力が沸くということを彼は知っていたからです。強大な兵力も聡明な知力も、主が共に自分達と共におられるという確信からくる、その喜びの力にはかなうことがないからです。ネヘミヤがその事業を全うすることができた最大の要因は、彼らの神に対する感謝から、彼らの喜びの力が溢れ出たことによるのです。同じように、神を喜ぶことは、私達の力です!

さぁ、もう一つのことを見てみましょう。イエス様はさらにこのようなことを話されました。

36 それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。39 まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。

このところには同じメッセージを含んだ二つの譬が記されています。一つは布切れです。新しい布切れを切って、それを古いものにつぎはぎをすることはないというのです。最近は豊かになったからでしょう、つぎはぎというものを見なくなりました。しかし、私が子供の頃はまだ、つぎはぎというものがよくなされていました。私もよくズボンの膝こぞうを破いていましたので、母がそこにつぎはぎをしてくれました。しかし、その時に新品のジーンズを切って、それを穴が開いたジーンズに縫い付けるといようなことはしなかったと思います。そんなことをして新しいジーンズを無駄にすべきではありませんし、仮にそのようなつぎはぎをして、それを洗濯すると、新しい生地は縮んで、結局その部分は再び、破れてしまうからです。

 

同じようにイエス様はぶどう酒の譬を話しました。当時の人々が水やぶどう酒を持ち運ぶ時には、それは皮袋に入れられました。特に常に住む場所を変える遊牧民達はこの山羊や羊の皮袋を家畜の背にくくりつけて移動したといいます。

そして、生活の知恵でしょう、その皮袋には最初ブドウ果汁が入れられたというのです。そうすることによって、家畜の背でその果汁が揺れるたびに、それは発酵してぶどう酒に変えられていったというのです。その時に発生する炭酸ガスの圧力というものに耐え切れず、はり裂けてしまう古い皮袋があったというのです。イエス様はそのようなことを念頭に置きながら、今日の譬をお話になったのでしょう。

ルカによる福音書にはイエス・キリストの言葉としてこう記しています「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している」(ルカ16章16節)。

ここでイエス様が言われた「ヨハネ」とは、今日の聖書箇所において、その弟子がイエスを訪ねてきたというそのヨハネです。この言葉は明らかに、このヨハネという人を境に全てが新しくなったということを語っています。それは、ヨハネという人が区切りとなったというのではなくて、ヨハネと同時代に生きたイエス・キリストの存在が新しい時代の幕開けとなったということです。

そして、このことは神様の気まぐれによって突発的に起きたということではなくて、預言者エレミヤによってヨハネとキリストが生まれるおよそ600年前に既に預言されていたことなのです。エレミヤはこう記していました。

しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて「あなたは主を知りなさい」とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。エレミヤ31章33節-34節

ここに記されている「それらの日の後に」とはイエス様が言われた「律法と預言書とはヨハネの時までのものである」と言われた、その時以降のことです。すなわち、それまで律法を守る、守らないということに心が支配されていた者達が、今日の聖書テキストでいうならば、断食を守っている、守っていないということに支配されていた者達が、その日から、そのような形に生きる必要はなくなったのです。そうではなくて、その時から彼らは(それは今を生きる私達も含めて)、主イエスと共に生きるということを喜んで生きるようになるという預言です。

イエス様はこのことをこの譬で言っているのです。そして、この新しいことは古いものに継ぎはぎするようなことはできないほどに新しいもので、私達はその新しいものをそのまま受け入れなければならないということです。

神が私と共にいつもいるということを知る喜びは、私達にとって革命的な出来事なのです。人々は断食を厳守することによって、世と隔離している自分をもって、その信仰生活を良しとしていたのです。しかし、イエス様はそれらを全て新しきものとしたのです。すなわち、イエス様は世から隔離されて宗教的な生活をするというような生き方から、私達が日々なす飲む食いの只中にも神がいるということ、その中でその日常を喜び楽しむということをよしとなさったのです。それは、当時のそれまでの信仰の形と比べたら全く新しいものだったのです。神様はこの喜びをもって生きていくことを私達に願っているのです。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に。新しいぶどう酒とは何ですか。それはイエス様の十字架で流された血です。イエス様は十字架にかかるその数時間前にエルサレムの二回座敷で弟子達を集め、ぶどう酒が注がれた杯を手に、こういわれました「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てたてられる新しい契約である」(ルカ22章20節)。エレミヤが言いました「心に記す」とはこのことを言っているのです。キリストの十字架による罪の赦しというものが私達の心に記されたのです。刻まれたのです。

皆さん、そもそもクリスチャンになるということは、それまでの自分につぎはぎをするということではないはずです。そうではなく、キリストの十字架の血による許しは私達を全く新しいものとします。イエス様は、神の国を尋ね求めてきた教師ニコデモにこうい言われました。「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)彼はとても賢い人であったようです。しかし、その賢さに神の国をつぎはぎすることはできないのです。それは皮袋の内側から溢れるエネルギーかのように、とてつもない力に満ちているものですから、全く新しくならなければならないのです。

エペソ書4章22節から24節にはこう記されています「すなわち、あなたがたは以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである」古い人の上に新しい人を重ね着することはできないのです。古い人は脱ぎ去るのです。そして、新しい人を着るのです。

この新しいブドウ酒は私達の宗教的な形式主義の中に収まるものではありません。それらのすべての古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。コリント第二の手紙5章17節をご存知でしょう「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」。実にイエス様が来られたのはこのためなのです。人がキリストを主また救い主として受け入れるとき、その人は、新しい心、新しい命、新しい力、新しい性質、新しい人生、新しい希望をいただくのです。つまりすべてが新しくなるのです。
                                                    いかがでしょうか。今日のタイトルにあるように今も婚礼の席で断食をしている方、いませんか。もう、私達は断食を守った、守れなかったというような律法に支配される必要はないのです。既にイエス様は私達と共にいるのですから。私達は単純にそのことを喜ぶことができるのです。もう一度言います。喜ぶのです!そして、その喜びが私達の力となるのです。それは、私達のかつての古きものにつけ足すことができるようなものではないのです。それは全く新しく力あるものなので、私たち自身も全く新しくされて、キリストイエスにあって新しい人生を歩むのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり      

2010年10月10日                                     

 

ルカ5章33節‐39節を読みましょう。なぜ、人々はイエス様の弟子達が断食をしないで、飲み食いしているということを指摘しているのでしょうか。あなたはこのような気持ちとなり、他者に対して苦い思いをもったことがありますか?

 

 

 

あなたは結婚披露宴で断食するようにと願いを受けたことがありますか。披露宴をもつ目的は何だと思いますか?(ルカ5章34節‐35節)

 

 

イエス様は、顔をしかめて自らを打ちたたいて神に従うことを私達に願っていますか。それとも主イエスと共に喜んでその生涯を歩むことを望んでいますか。

 

 

 

有名なテサロニケ第一の手紙5章16節‐18節、ピリピ4章1節を読みましょう。これらに記されているように「いつも喜びなさい」ということは無理な勧めですが。この

ように生きることは、なぜ可能ですか。

 

 

 

紀元前450年頃を生きたネヘミヤは「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8章10節)と言いました。この言葉は真実だと思いますか。あなたは主を喜ぶことを力と感じたことがありますか。なぜ、それは力となるのでしょうか。

 

 

「布ぎれと皮袋」の譬話は何を語っていますか?ルカによる福音書16章16節の「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している」という言葉は何を語っていますか?

 

 

エペソ書4章22節-24節には「あなたがたは以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである」と記されています。この言葉は古い人の上に新しい人を重ね着することはできない、新しい人を着るためには、古い人は脱ぎ去らなければならないと言っています。これはどんな意味ですか?

 

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