本当に必要な生涯設計

マインドコントロールとは、自分で考えることをさせずにその心をコントロールすることです。それを効果的にするためにその人を故意に、孤独・極度の不眠や疲労・薬物・栄養失調の状態にさせて、精神機能や思考能力の低下状態を引き起こさせ、その間にある特定の行動規範や思想を繰り返し叩き込むことだといわれます。それによって、いつの間にかその人は自分で考えたり、判断をすることができなくなり、危険な思想すらも信奉するようになり、反社会的な行動すらも平然とするようになってしまうというのです。

今日、開かれている聖書箇所に記されています「まず座って」という言葉は「時間をかけて、ゆっくりと」という意味があると思います。イエス・キリストは私達に十二分な情報を与えて(それが私達にとって代価を支払わなければならないものであっても)、時間をかけて、よくよく自分の頭で考えなさいと私達に勧めているのです。

 

マック

 

今日、礼拝でお話したメッセージです。よかったらどうぞ↓。今日の礼拝動画はこちら。

 

本当に必要な生涯設計

ルカ14:25-31

2010年9月5日

25大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、26「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。 27自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。28あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、座ってその費用を計算しないだろうか。 29そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、30『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。32もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。33それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。34 塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。35土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。

今日、私達が見ているイエスの譬は、とてもその解釈が難しいものです。色々な注解書を読みましたが、これを深く取り上げている人はあまりいません。なかにはうまい具合でこの箇所に触れずに通り過ぎている方もいます。そうなると自分で考えなければなりません。いや、まさしくその自分でよくよく考えるということこそ、この譬が言っていることです。最初のことをお話しましょう。

熟考を勧めるイエス

ここには邸宅を建てる人と、戦いに臨む王の話が出ています。そして、読んでお分かりのように、この二つに共通していることは、邸宅を建てる人は「座ってその費用を計算し」、戦いに臨む王も「まず座して考えないだろうか」ということです。

マインドコントロールとは、自分で考えることをさせずにその心をコントロールすることです。それを効果的にするためにその人を故意に、孤独・極度の不眠や疲労・薬物・栄養失調の状態にさせて、精神機能や思考能力の低下状態を引き起こさせ、その間にある特定の行動規範や思想を繰り返し叩き込むことだといわれます。それによって、いつの間にかその人は自分で考えたり、判断をすることができなくなり、危険な思想すらも信奉するようになり、反社会的な行動すらも平然とするようになってしまうというのです。

ここに記されています「まず座って」という言葉は「時間をかけて、ゆっくりと」という意味があると思います。ですから、イエス・キリストは時間をかけて、よくよく自分の頭で考えなさいと私達に勧めているのです。

特に「座ってその費用を計算し、そして邸宅を建てることについて考えなさい」という、この言葉は、今日でいうならば、机の上に計算機、家計簿、貯金通帳、カレンダー等を全て動員させて、互いに比較して、予想して、よくよく自分の頭で考えなさいということです。

昨年、私達は「自分の足で立つ」ということを教会の標語として掲げましたが、それは自分で考え、自分で決断するということです。そこにはマインドコントロールの勧めはありません。イエス・キリストはここで時間をかけて、じっくり座って考えなさいというのです。なぜなら、それは誰彼ではない、自分の人生だからです。その人生は自分で責任をもって建てあげていくものだからです。神はその人生をどのようにするのか、私達に自由な意思を与えておられるのです。では、さらにこの譬を掘り下げてみましょう。私達が気になることは「それでは何をじっくり考えるべきなのか?」ということです。まず第一に「完成することができるかを考える」ということをみていきましょう。

完成することができるかを考える

まず、最初に邸宅を建てるということについて、ここでは触れられています。ご存知のようにイエス様は大工でしたから、実際にご自身で誰かの家を建てたことがあったことでしょう。その時に、そのために必要な予算の話というようなものもお客さんと話し、実際にどれくらいかかるのかというようなことも話し合ったに違いありません。そして、実際にそのことに関して色々な現実というものも見てきたに違いありません。すなわち、お客さんの中に途中で資金がなくなって、家を完成することが出来なかった人にも出会われたに違いありません。

ここから考えられる二つのことをお話ししましょう。まず、私達がイエス・キリストに対する信仰をもって、これからの人生を歩んでいこうとする場合、私達は自分の人生に関わるあらゆる考えや経験、そして価値観というものを全てテーブルの上に出して、それらのことと聖書が言っていること、聖書の価値観というものを照らし合わせて、よくよく考えるようにとイエス様は言われているということです。

自分が思い描いていた人生設計、どんな仕事をして、どんな結婚をして、どんな家庭を作って、どんな所に住んで、どれぐらいの収入を得て・・・と色々、あると思います。そして、その思い描いた人生設計が現実どうなっているのかという再評価というものも、私達が人生のどこかでする必要があるかもしれません。これまでの人生の土台は何だったのか、そもそも土台というものがあったのか、自分が物事を決断する時に基準となるものは何だったのか。それらを踏まえて、これからの残りの人生をどう生きるかということも、よくよく考える必要があることでしょう。どんな価値観の上に生きていくのか、最後に自分の人生を振り返って、どんな思いを持っていたいのか。それらを全て机の上に出して、同じようにバイブルを一冊、置いて、どうしたら自分の人生を完成できるのかじっくり考えなさいというのです。また、もう一つ「考える」ということについてお話しましょう。それは代価を考えるということです。

代価を考える。

ここには「費用を計算しないだろうか」と書かれています。ですから、邸宅を建てるためには当然、費用がかかるのです。聖書は私達の救いに対して、それは全く無償で、ただ神の恵みによって、イエス・キリストの十字架によって与えられると約束しています。しかし、私達がキリストの弟子として生きる時に、そこには代価が必要となるのです。

皆さんがクリスチャンになる前となった後で、何か違いがありますか。クリスチャンになることによって、支払わなければならない代価がありますか。ここにはその究極的な代価が今日、見ております譬話が語られる前にイエス様によって語られています。

25大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、26「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。 27自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

そして、譬が語られた後には、こう書かれています。それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。

よく、クレジットカードを作りませんかとか、お得な魅力的なプローモーションがありますなんていうメールが私達の元には送られてきます。そこには大きな字で、私達にとって魅力的なことが記されています。しかし、同時にその紙面の一番下のほうに、虫眼鏡を使わなければ読めない小さな字が長々と記されていることがあります。あれを喜んで読む人はいません。第一、小さすぎて読めないという方もいるでしょう。なぜ、小さな字なのですか。

なぜなら、そこには私達が追うべき義務や制限というものが記されているからです。このアプリケーションを申し込むということは、このようなものも一緒に買わなければならないんですよなんてことが書かれています。私は今だかって、この二つの文章が逆になっているようなメールを受け取ったことがありません。すなわち、魅力的な言葉が米粒のように小さな字で記されて、それに付随する諸々の制限や義務というものがカラフルに大きな活字で記されているレターです。そんなものはこの世にありえないのです!

そのように考えますとこれらのイエス様の言葉は破格です。なぜなら、まず最初に「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ・・・」とあり、譬が語られ、その後に「あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨てきるものでなくては・・・」と続くからです。それらは小さな活字として聖書の端っこに書かれているのではなく、他の文章と同じように並べられている。いいえ、これらの言葉にはさまれて、今日のたとえ話は記されているのですから。

皆さん、このようなことを見ますと、イエス様は本当に真実な方だと思います。とても人間的な言い方になりますが、このお方は私達を本当に大人として取り扱っています。このお方は「まず自分でじっくり考えなさい」と言います。しかも、それは相手の心に蜜のように甘いものを提示しておいて、そして「考えなさい」というのではなくて、私達が負わなければならない十字架について明確に話されてから、じっくり考え、自分で決断しなさいというのですから。すなわち、イエスの弟子として生きようと思う者に対して、これらのことをふまえて従ってきなさいというのですから。

さぁ、ここで大問題です。ここに記されているのは、「利子を支払わなくていいのは一年間だけですよ」とか「これを買うと同時に、これも買わなければなりませんよ」というようなことではないのです。私達が大切にしている家族や自分の命まで捨てなければ、私の弟子にはならない。自分の財産まで捨てなければ私の弟子にはなれないというのですから。当然、このような言葉を聞きますと、多くの私達はたじろいでしまいます。

しかし、ここで説明しなければならないことは、この言葉が言っていることは、私達が家族と断絶しなさいとか、全ての財産を寄付して生きなさいということではないということです。そうなると、私達は完全にカルトの集団となってしまいます。聖書は十戒の中で私達が両親を敬うことを勧めていますし、自分を愛するように、あなたの妻を愛しなさいというのですから、文字通り、それらを一切合切、捨てなさいということではありません。

その代わりにここでイエス様が言われていることは、私達の心構えとして、私達は父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そして自分の命よりも神様を第一としていくことを日々の生活においてなしていきなさいよということです。そして、そのような生活の中で、時に実際問題として、その究極的な選択が迫られる時があるかもしれないということも覚悟しなければならないということなのです。

皆さん、私達はこのようなチャレンジをどのように受け止めるのでしょうか。その時に、この言葉を実践することはできるのでしょうか。この問いかけに対して、次に記されている譬が私達を照らしているのではないかと思われますがいかがでしょうか。

31また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。32もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。

ここには一万人の兵力をもって、二万人に対抗できるかを考えないだろうかと書かれているのです。これは軍のリーダーなら当然、考えることです。しっかり考えなければ、自分の軍隊の部下達の命が失われるからです。その家族が路頭にさ迷うからです。そして、言うまでもなく当時の戦というものにミサイルや銃というものは使われず、それこそ剣や素手での戦いだったでしょうから、一万に対して二万という場合、常識で考えたら、その戦に勝ち目はないのです。

私達もキリストの弟子として生きようという時に、自分のうちに先にお話しましたようなコミットメントを持つことができるようなものはないのです。イエス様のおっしゃるような生き方に対して、自分の内なる力では、どうすることもできないのです。まさしく自分の力にあまるのです。キリストの弟子として生きるということは、自分の力ではどうすることもできないのです。自分の決意と覚悟ではどうすることもできないのです。がんばりではどうすることもできないのです。そして、それを自覚するならば、私達は神様に近づいて助けを求めるのです。

イエス・キリストは捕らえられて、十字架にかかる直前、まさしくそのことが起こる数時間前に、自分の弟子達を前に、このような言葉を語られました「今夜、あなたがたは皆わたしに躓くであろう『わたしは羊飼いを打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである(マタイ26章31節)。弟子の誰もがイエスの言葉を聞いて、ただならぬことが起きるということを察知したと思います。まさしく、今は分からないけれど自分の身にも危害がおよぶものが近づいているということです。

するとその言葉を聞いていたイエスの一番弟子、ペテロはこう言ったのです「たとい、みんなの者があなたに躓いても、わたしは決して躓きません」(33節)。「たといあなたと一緒に死ななければならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(35)ペテロは自分の力で、その敵に動じずに、あなたに従っていきます、たとい、この者達が躓いても!たとい自分が死んでも!と言ったのです。しかし、このことの結末を私達は知っています。彼は三度、イエスを否み、自らの保身に走り、自分の命を捨てる代わりに、イエスを捨てて逃げたのです。

彼は自分の力ではあまる力の前に屈したのです。まさしくそれは二万の力のようなものです。しかし、ペテロが立ち向かおうとしたその内には一万の力しかなかったのです。それでは誰がペテロに立ち向かう二万の力なのでしょうか。イエスを捕らえにきた兵卒でしょうか。律法学者でしょうか、パリサイ人でしょうか。確かに表面的にはそうなのです。しかし、彼が実際に戦おうとしていたのは、実はまさしくイエスがこの譬で言うところの「自分の命を捨てて私達に従ってこなければ、私の弟子にはなれない」という言葉に対するコミットメントです。彼はあなたのためなら命を捨てますと一万の力をもって彼は虚勢をはったのですが、その言葉の実際の重みは二万の力だったのです。彼はその力によって、相手を打ち負かそうとしたゆえに、いとも簡単に無残に敗北したのです。彼はご存知のようにせっかちな熱血漢ですから、深く考えずに、自分の一万をもって、その二万に立ち向かってしまったのです。

しかし、後のペテロはその自力から離れ、自分の一万に対して、足りない一万を、いやそれ以上を与えてくださる神様に委ねる生き方を求めるようになるのです。そのことにより、彼は後には、神のために、その刃がのど元に突きつけられるようなところに陥った時にも、そして実際に殉教するまで、キリストのために生きたのです。

私自身のことですが、ご存知のように私には日本に母親がいます。話せば長くなりますが、当初、彼女をこちらに呼んで共に暮らすことができるようにと計画をしていました。しかし、私達の計画はどうやら神様のそれとは異なったようです。母は原因不明の病に倒れ、そのまま回復することなく、現在は日本のクリスチャン施設で静かな毎日を過ごしています。

今日の聖書箇所に「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」とありますが、自分が牧師であるということ、そして母を日本に残してここにいるということ、見た目はこの御言葉に従っているように見えるかもしれませんが、実際はそうではありません。「思い煩ってはいけませんよ」と皆さんに話しながら、この件について、日々、思い煩っている自分というものを正直、告白しなければなりません。今もこのことについて日々、神様にすがりつく者であるということを認めるものです。自分のうちにあるものでは、どうすることもできないからです。

しかし、この度、このメッセージを準備していて、ここに記されている一つの御言葉が心に響いてきたのです。すなわち27節の「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」ということです。この言葉は「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」というキリストの弟子として生きる私達が負うべきものは、それぞれ異なるということを意味しています。その中で「あなたが負うべきものを負って、私に従え」という言葉を聞いたのです。そして、「ついて来なさい」という言葉にとらえられたのです。私達が「ついていく」という言葉を使う時に、私達は5マイル先にいる人のことを指さないのです。私達の目の前を歩く人についていくということを示すのです。

形こそ異なれ、特に私達の家族に関して、同じような状況、全く異なる状況の中に、皆さんも生きていらっしゃることでしょう。その状況や心情というものは他者には分かるはずもなく、あなただけにしか分からないものを負って皆さん、日々過ごしていらっしゃるかと思います。しかし、神様はその思いを全て知っていてくださいます。どうかこの朝、あなたと共に歩かれる主の御声を聞いてください。「あなたの十字架を負って、私についてきなさい」という言葉を。主は私達のすぐ前を私たちと共に歩いていてくださるのです。

さて、この譬には最後の難関があります。このような言葉です。34 塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。35土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。

思わないでしょうか。なぜ、この言葉がここにあるのか。先ほども言いましたように、この辺り、多くの注解書はそのことを避けるかのごとく、多くを記していません。しかし、なぜ、弟子になるべく厳しい条件と、その生き方を選びとっていく、そしてその条件に生きるべく力を神様から日ごとにいただいていくという譬の後にこの「塩の話」があるのでしょうか。

沖永良部島にいました時、よく海に行きました。そうしますと岩場によく塩がはりついていました。遠くからみるとその一帯だけは真っ白でキラキラ輝いているのです。それらをこそぎ落とすとビンにたまるほどになりましたので、家に持ち帰ってよく使っていました。なぜ塩がそこにあるのでしょうか。岩の上にたまった海水を太陽が照らし、海水が蒸発した後にその塩が残ったからです。海水は消えて見えなくなりましたが、塩は歴然とそこに残ったのです。

私は灼熱の太陽に照らされながらも、海水のように消えてしまうのではなく、その置かれているところにキラキラと輝いている塩の光景を思い出しながら、今日、お話しましたように自分で考え、自分で責任をもって決断して、神様の助けをいただきながら、神を第一として生きていきます、私の十字架を背負って生きていきますというその覚悟が、たとえ一粒の小さな塩のような私達でも、私達が与えられている場所で小さな輝きをもつことができるのではないかということを思わされました。

塩はその小さな粒によって料理全体に影響を与えます。腐敗を防ぎます。塩のように一人一人は小さな私達ですけれど、私達がキリストの弟子として生きていきますという、その覚悟が、地の塩としての役目を果たさせてくれるのではないでしょうか。

最後に一つの有名なキリストの言葉と共に、このメッセージを閉じたいと思います。私達は主の弟子として、神を第一として生きていくいう覚悟について今日は見てまいりました。時として実際に厳しい現実に従わなければならないことがあるということもお話しました。しかし、イエス様は一方、このような約束も私達にしておられるのです。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、全て添えて与えられるであろう」(マタイ6章33節)。私達が本気で神を第一として生きていくならば、父なる神は第二としたもの、第三としたものも与えてくれるという約束です。そんなこと、本当にあるのかという方がいましたら、どうか子供に対する親の気持ちを思いおこしてください。

子供があなたの教えを第一として、他の第二、第三のものを犠牲にして、自分の十字架を背負って、あなたについてくるのなら、その子に第二、第三のものを、いや、それ以上のものを親は拒むでしょうか。私達は日々、父なる神を信じて歩んでいるのです。私達は日々、自分の十字架を背負い、私達のすぐ前を歩かれる主の頼もしい背中を見ながら、与えられている人生の旅路を一歩一歩、進んでいくのです。お祈りしましょう。

本日のお持ちかえり

2010年9月5日

1)ルカ14章25節-31節を読みましょう。世の中のカルト宗教がマインドコントロールというものを用いているのに対して、イエス・キリストは、まず「座って」(28,31)、物事を考え、自らが決断するようにと勧めています。このことは神様の私達に対するどんな思いをあらわしていますか。

2)ここには邸宅を完成させるために十分にその必要な費用を計算するように勧められています。あなたはこのことを自分の人生に当てはめて考えたことがありますか。自分の土台とは、価値観とは、何を基準にして物事を決断してきたのか、しているのか、していくのかと考えてみましょう。

3)この聖書箇所には「邸宅」と「兵力」についての二つの譬が記されていますが、その前後には、私達がキリストの弟子として生きるための代価というものが記されています(26,27,33)。あなたはこのキリストの言葉をどう思いますか。それを成し遂げることができますか。

4)ここには2万人の敵に対して1万人の兵力で戦いに臨むことができるかどうかを熟考しなさいとも書かれています。あなたは自分の力で、3)の代価と共にキリストの弟子となることができますか。私達の前に立ちはだかる事柄が、自分の力にあまる時に、私達はどうしたらいいのでしょうか。

5)27節に記されている「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」には「自分の十字架」とありますが、「あなたの十字架」とは何だと思いますか。

6)この譬の最後の部分である34、35節に 塩について触れられています。このことを私達は不思議に思いがちですが、なぜ、ここには「塩」が語られているのでしょうか。

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