「世俗牧師」を「宣言」していますのでわが身を世俗世界から隔離して隠遁生活をおくろうとは思っていません。我が師であるイエス・キリストも世俗の只中に生きました。かといって見境なく、その世界に同化し、どっぷりとつかろうとも考えていません。日々、状況は異なりますが、その境界線を「原則」に従って見極めることができたらと願っています。今日はこの「原則」をキーワードにダニエル書に聞くことができたらと思っています。
本日礼拝でお話した「礼拝メッセージ原稿」、および「本日のおもちかえり」です↓ 本日の礼拝プログラムはこちらから。
マック
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ダニエル:世俗世界を生きるにあたって
2012年10月7日
今日、皆さんと見ていきます聖書箇所はダニエル書で旧約聖書の27書目となります。このダニエル書はその名のごとくダニエルという人物が書いた書だと言われており、このような言葉で始まります。
1ユダの王エホヤキムの治世の第三年にバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムにきて、これを攻め囲んだ。2主はユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼の手にわたされたので、彼はこれをシナルの地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた。(ダニエル1章1節ー2節)。
この言葉はとても分かりやすくその時の状況というものを表しています。南ユダ王国がバビロンによって攻め囲まれて、滅ぼされたというのです。ここ最近の礼拝メッセージはずっとこのことについて話しています。バビロンの王ネブカデネザルはエルサレムの宮にあり礼拝に用いる器具を略奪し、それをバビロンに持ち帰り、自分の神々の蔵に納めたというのです。これ以上の屈辱がイスラエルにはあるでしょうか。まさしくイスラエルの神が異教の神々に屈したかのような出来事です。
その時にバビロンに持ち出されたのは宮の器具だけではありませんでした。ネブカデネザルは南ユダの王も、また王の血統の者や、優秀な若者達をもバビロンに連れて行き、彼らにバビロンの文学と言語を三年の間、学ばせて、後に王の前にはべらせようとしました。その若者達の中にこのダニエルもいたのです。
数週間前、エレミヤ書をお話しました時に預言者エレミヤは南ユダ王国の滅亡が迫っていることを民達に語り続けましたゆえに、郷里の人達や身内を含む国民の厳しい迫害を受けたとお話しました。大人達で彼の言葉に耳を傾ける者はおらず、それゆえに彼は子供や若者達にそのメッセージを伝え、その中におそらくまだ年若かったダニエルがいたのではないかとお話しました。ダニエルは堕落した国の中に生まれ育ちながらも神を畏れる青年としてバビロンに連れて行かれたのです。
ダニエルは自分の国から連行され、彼にとって文化も言葉も違う、異教の偶像に多く囲まれたバビロンに身を置くことを余儀なくされました。そのような意味において彼は信仰者として異教の国に暮らした人なのです。そして後にこのダニエルの存在はバビロンにも多大な影響を与えました。確かに神殿で用いられていた諸々の器は奪われました。しかし、神様はこの危急存亡の時、ダニエルという器を備えておられたのです。
ダニエルが置かれた状況と同じように、私達の母国、日本も八百万の神々を有する国であります、このアメリカという国もクリスチャンが他国に比べ多いといいましても、その多くは世俗世界の価値観にどっぷりつかっています。ですからダニエルが身を置いたバビロンで彼がどのように生きたかということは私達に多くの知恵を与えるものとなります。
ダニエル書は色々な視点で読むことができるかと思いますが、今朝は二つのこと、すなわち「ダニエルが譲らなかったこと」、そして「ダニエルが受け入れたこと」に集中してみましょう。まずダニエルが譲らなかったことについて、それをさらに三つに分けてお話します。最初は「原則を守る」ということです。
原則を守る
ダニエル書を読みます時にダニエルはバビロンで信仰者として生きるにあたり譲らないものが三つあったことが分かります。結果的にはそれによって彼自身、窮地に追い込まれるのですが、それでも彼が譲らなかったものです。まず第一に彼は「食べ物の問題」に直面しました。
8ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めたので、自分を汚させることのないように、宦官の長に求めた(ダニエル1章8節)。
ダニエルが南ユダからバビロンの王室に連れて来られた時に彼には他にハナニヤ、ミシャエル、アザリヤという三人の仲間がおり、彼らもダニエルと同じように神の前に真実な信仰をもつ若者達でした。あの南ユダに少数ではありながら、このような若者達がいたということに神様のはたらきを見ます。絶望的に見える状況の中にあっても、その希望のともし火は消えずにあったのです。
彼らは聡明な青年としてバビロンの王室におり、そこで王の食事を食べる特権が与えられていました。しかし、彼らはそれを拒否したのです。それにはわけがあります。それはこのバビロンではそれが王室であったとしてもそこで出される食べ物は聖書の中で禁じられている食物や、一度、異教の神々に供えものとして出したものを調理しているものが少なからずあったからです。それは当時、彼らが神様から与えられた律法に反することだったのです。
もし、このことがなければ彼らは王の食卓にあるものを食べていたことでしょう。一杯の酒、一皿の肉です。それほど心に留めるに足りない小さなことのようです。しかし、その中にある原則は大きなものでした。彼らはしっかりとそのことをわきまえていました。ですから、彼は王室で備えられた食事を受け取らなかったのです。
私達は「危険な芽は小さなうちに摘め」という言葉を知っています。「ダムの決壊が針の穴のような小さな穴から始まる」という言葉も聞いたことがあります。さらに言いますと聖書が語っておりますように『小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である』(ルカ16章10節)という言葉を知っています。小さなことではありますが、毎日、なされる食事について彼らが自らの信仰に反して妥協を繰り返していったらどうなったことでしょう。彼らの信仰的感覚は鈍り、後に大きな問題が引き起こされたことでしょう。
時に私達を窮地に追い込むことの始まりは大きなことではなく、取るに足らないことのように思えることから始まります。しかし、そのことによって後で刈り取らなければならないものは大きいのです。
このように原則に従ったダニエルと三人の若者はその後、どうなったでしょうか。このように野菜と水だけで10日間を過ごした彼らは他の王の食物を食べる若者達の顔色と比べてみても美しく、またそれだけでなく肥えて太っていたというのです(ダニエル1章8節-16節)。小さな原則に忠実に生きる時に神様は思いがけない祝福を私達に与えてくださるのです。二つ目のことをお話します。それは「たとえそうでなくとも」ということです。
たとえそうでなくとも
ダニエルがバビロンにいる間に、母国では決して起こることがないようなことが起こりました。1ネブカデネザル王は一つの金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトで、彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。2そしてネブカデネザル王は、総督、長官、知事、参議、庫官、法官、高僧および諸州の官吏たちを召し集め、ネブカデネザル王の立てたこの像の落成式に臨ませようとした。3そこで、総督、長官、知事、参議、庫官、法官、高僧および諸州の官吏たちは、ネブカデネザル王の立てた像の落成式に臨み、そのネブカデネザルの立てた像の前に立った。4時に伝令者は大声に呼ばわって言った、「諸民、諸族、諸国語の者よ、あなたがたにこう命じられる。5角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞く時は、ひれ伏してネブカデネザル王の立てた金の像を拝まなければならない。6だれでもひれ伏して拝まない者は、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」(ダニエル3章1節-6節)。
ネブカデネザルはまさしく異教の王でした。彼はその高さ27メートル、幅、2.7メートルの金の像を作り、それを拝むように国の役人を落成式に集めたというのです。まさしく見上げるような像です。このようなお触れが出されて従わない人はほとんどいません。当時の王の実権を思えば、その命令に従わなければ燃える炉の中に投げ込まれるというのは避けられないことだからです。ですからそこにいた人達はみなひれ伏して、その金の像を拝んだのです。しかし、ダニエルをはじめ、かの四人の若者はその命令に従わなかったゆえに憤った王の前に連れてこられました。その時に彼らは王にこう弁明したのです。
16「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。17もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。18たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
王の言葉に対する彼らの言葉は強烈です「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません」。彼らは「この件については悩み、考える必要はない、どうこう言う必要もない。わたしの仕えている神がわたしたちを救い出してくださいますから」と彼らは言うのです。彼らは偶像にはひざまづかない、それを拝まないというその原則に立ち、それに立っている限り、神様は私達をないがしろにはしないと言うのです。
しかし、それだけではありません、彼らはさらに踏み込んだことを言いました「たとえそうでなくとも、王よ、しかとご承知ください、私達はあなたの神々には仕えませんし、あなたの立てた金の像を拝むことはありません」。この「たとえそうでなくとも」という言葉は「自分が思う描くようにならなくても」という意味です。そうです、その意味はたとえ私達がその火炎の中で燃え尽きるようなことがあっても、私達はあなたの像を拝みませんということです。
そうです、神様はいつも私達の思い通りに事を成すのではありません。第一、自分の思い描いていることが常に正しいと誰が知りえましょう。あのバプテスマのヨハネはその信仰を全うしましたが、彼は首がはねられました。モーセにしても、ペテロにしても彼らが願いもせず、考えもしないことを神様は彼らの上になされました。若者達は原則に生きましたが、そのことによる結果は全て神様に委ねていたのです。私達の信仰は最終的に「たとえそうでなくとも」という所に行き着くのでありましょう。
若者達の言葉に対してネブカデネザルは怒りに満ち、通常よりも七倍も熱くした炉に彼らを入れました。しかし、その中で彼らは燃えてしまうことなく、再びその火炎の中から出てきたというのです。これを見た王は驚き恐れ、彼らの神をたたえ、彼らのバビロンにおける位を引き上げたのです(ダニエル31章19節-30節)。
その中でも特に神様はダニエルを祝福しましたゆえに、彼の位は国のすべての総監および総督たちにもまさるものとなりました(ダニエル6章3節)。しかし、ダニエルはそもそも異国から連れてこられた捕囚民であり、バビロン出身の者達にとって、彼は妬みの対象となりました。どうにかして彼をその座から引き下ろそうという者達が大勢いたのです。ゆえに彼らはどうにかして彼を訴えようと口実を探すのですが、ダニエルにそのような口実や罪を見出すことはできませんでした。そこで彼らが考え出した策とはこのようなものでした。ここで三つ目のこと、「原則を習慣とする」ということを見ていきます。
原則を習慣とする
6こうして総監と総督らは、王のもとに集まってきて、王に言った、「ダリヨス王よ、どうかとこしえに生きながらえられますように。7国の総監、長官および総督、参議および知事らは、相はかって、王が一つのおきてを立て、一つの禁令を定められるよう求めることになりました。王よ、それはこうです。すなわち今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人にこれをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れるというのです。8それで王よ、その禁令を定め、その文書に署名して、メデアとペルシャの変ることのない法律のごとく、これを変えることのできないようにしてください」。
実に権力者としては密のような甘い言葉です。王はこのことの背後にどんな策略があるかということは考えずにその書に署名をしました。ダニエルを妬む王の部下達は自らの策略がうまくいったことを喜んだに違いありません。彼らはダニエルがこのような禁令を守ることはないということを知っていたからです。ダニエルはどうしたでしょうか。
10ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した(ダニエル6章10節)。
彼はその文書に署名がなされたということを知りながらも家に帰り、エルサレムに向かって窓が開かれている二階部屋でいつもしているように、一日に三度、ひざをかがめて神の前に祈り感謝したのです。彼は全てを知りながら、いつものようにいつもの場所で神に祈ったのです。彼にとって主を拝することは原則であり、その原則は彼の習慣となっていました。
こんな言葉を聞いたことがあります「はじめに習慣を作るのは人間だが、その後は習慣が人間を作る」。ダニエルが一日に三度、ひざをかがめて神様に祈るということは彼が自分自身で毎日、実行したことであり、それは彼が自ら作った習慣でした。しかし、今はその習慣が彼という人格を作りあげているのです。私達はどんな習慣をもって生活しているのでしょうか。その習慣が私達を作り上げます。これまでダニエルが直面し、そして自ら決断実行した二つの出来事をお話しましたが、これら彼の言動や決断の源はこの彼の日々の習慣からおのずと生まれてきたものなのです。
この出来事の結論を言いましょう。ダニエルのしたことは王の署名に反するものであり、彼はそのことゆえに獅子の穴に投げ込まれます。その時点で王はダニエルに対する最大の敬意をもっていましたから、そのことを憂い嘆きますが、一度出した命令ゆえにくつがえすことができません。穴に落とされたダニエルはどうなったでしょうか。彼の身を襲う獅子はなく、彼はそこからも無傷で出てくるのです。主がその原則を習慣とするダニエルを守られたからです。
さて、ここまではダニエルが「バビロンでゆずらなかったこと」をお話ししてきました。ここからはこのダニエルが「バビロンで受け入れたもの」を見ていきましょう。まず最初に彼は「置かれている環境を受け入れました」
置かれている環境を受け入れる
バビロンはダニエルにとって異教の地です。しかし、神様が彼に与えた知恵と能力はバビロンの賢者達の追随を許しませんでした。彼の同僚の中には星をもって未来を占う者達や異教のまじないや迷信を研究するような者達もいたことでしょう。ダニエル書を読む限り、彼はその中に身を置くことに対して抗議をせず、その中で自分がすべきことをしました。
もう一度、申し上げます。彼はバビロンで置かれた自分のポジションを受け入れたのです。彼はそれに抵抗しませんでした。自分の同僚達が王の食物を食べたり、異教の神々に膝をかがめていても、そのことによってダニエルはそのポジションを拒否しませんでした。明らかにバビロンの王室は彼らが自分で選んだ場所ではありませんが彼はそこにも神の御心が注がれていることを信じたに違いありません。彼はその場で今までお話しましたように神様が彼に与えた原則に従いつつ、そのペースを乱すことなく、ただ主の栄光のために歩んだのです。
神様は私達それぞれを異なった場所に配置します。それは一人一人が違います。ラスベガスに行きました時にやはりホテルで働かれる人が多いということをうかがいました。ラスベガスでホテルというのなら、それはカジノです。あの町でカジノ抜きに仕事を考えることはできません。
しかし、神様はそのこところにクリスチャンを置いています。ラスベガスという町在住のクリスチャンがいなくなったら、あのラスベガスはどうなってしまいますか。皆さん神様は私達を思いがけないところに置かれるお方であることを信じます。皆さんの家庭や職場、あるいは何か趣味の集まりを持っている方がいるかもしれません。そこは神様があなたに与えてくださった場所であると信じ受け止めていますか。
沖永良部という離島にいた時、全島はまさしく祖先崇拝が当然とされていました。そのような時に大きな試練を経験しました。自分は島出身ではなく、まさしく完全にAWAYの環境の中で挫けてしまいそうな時でした。その時に牧師としての先輩である母が一言だけアドバイスをくれました「このような時にこそ、あなたはどうするのかを島の人は見ている」。この一言で十分でした。その場所で神様が与えてくださっている原則に従い、少しでも神様が崇められるようにと出来る限りのことをするということをもう一度確認することができたからです。ダニエルがバビロンで受け入れた二つめのこと、それは、ダニエルが原則的ではないものを受け入れたということです。
原則的ではないものを受け入れた
6彼らのうちに、ユダの部族のダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤがあった。7宦官の長は彼らに名を与えて、ダニエルをベルテシャザルと名づけ、ハナニヤをシャデラクと名づけ、ミシャエルをメシャクと名づけ、アザリヤをアベデネゴと名づけた(ダニエル1章6節-7節)。
先にもお話ししましたダニエルと共にバビロンに捕らえ移されてきました若者達はそこでバビロンの名前が与えられました。いわば大倉信という名前が抹消され、ティム・ターナーとかいう名前が強制的につけられるようなものです。
バビロンに連れてこられたダニエルには「神はわが審判者」という名前があったのですが、彼はバビロンの名前としてベルテシャザル(ベルという偶像の王子)という名前がつけられたのです。ダニエルはこのことについて、その名前を取り消さない限り私は王に仕えませんとは言っていません。彼はそのことを受け入れたようです。なぜですか、やはり彼の心にある原則に彼は従ったのでしょう。たとえ彼の呼び名が変わったとしても彼自身の信仰が変わるわけではない。彼の心にそのような確信があったのでしょう。
そして、私達もこの内なる確信をもってこの世界を生きていくのです。この世界に起きていることは複雑で聖書の原則をもとにして応用問題を解くようなものです。その原則が確立されていればいるほどる私達の意思決断は明確になります。
今日は細かく取り上げることはできませんが、ダニエル達が拒んだ食物の原則は今日、私達にとっての重要な原則ではなくなりました。旧約時代に生きた者達の原則はイエス・キリストにいたるまでの養育係りのような役割を担っていたからです。ですから、私達は今やキリストにあって食物に縛られる必要はありません。それでは今日、私達はどうしたらいいのか。パウロがローマ書の中でこう言っています。
22あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。23しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である(ローマ14章22節-23節)。
先にダニエル達はその原則に従い王室で出された食べ物を拒んだとお話しました。しかしながら、今日、私達は自分の信仰というものを神様の前に自分自身にもっているべきです。テモテ第一の手紙6章19節はこうしるしています「こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい」私達はしっかりと主にあって自分の土台となるべき原則を築き上げるべきです。
これからこの米国でなされる大統領選挙一つとってみましてもそこには私達が主にあって持っている原則が問われることでしょう。結婚生活、育児、仕事、そして、教会において私達は自分が主の前に持っている原則が問われます。この原則とは聖書の御言葉です。私達はそれを明確にし、それに照らし合わせてこの世俗世界の只中を生きましょう。それを基準にして日々の諸々の事柄に向き合い、決断し、そして行動していくのです。原則に照らし合わせてて譲れないものに対してはそれに触れず、譲れるものにはその所で最善をなしていきましょう。このことが俗世界、異教世界で生きる私達の生命線となるのですから。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2012年10月7日
1)あなたには聖書に基づく原則がありますか。「このことは信仰ゆえに譲らない」というものがありますか。それは何ですか。
2)ダニエルは王の食物を食べることがありませんでした。“食べ物の問題”ですから、それは私達には些細なことに思われますが、ダニエルにとってその中には大きな原則が込められていました。それは何でしょうか。
3)この原則ということについて『小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である』(ルカ16章10節)という言葉は何を語っていますか。あなたはこの言葉が真実だと思いますか。なぜですか。
4)ダニエルと彼の友人達はネブカデネザル王の作った金の像を拝むことがなく、それゆえに燃える炉の中に投げ込まれました。その時に彼らは確固たる自らの原則に立ち、それゆえにたとえ火の中で燃え尽きても、その原則に従うことを選びました。私達の願いが「たとえそうでなくとも」とかなわずとも従うということは信仰者にとってどんな意味があるのでしょうか。
5)ダニエルはダリヨス王のみを拝むようにという禁令に従わず、「いつものように、いつもの場所で」祈ったということから彼がそれを習慣としていたことが分かります。「私達の習慣が私達の人生をかたち作る」ということはどんな意味ですか。あなたはそれに同意しますか。
6)ダニエルは自分が置かれている環境を受け入れ、そのところで神様に仕えました。今日、神様はこの世から隔離せよと言われているのでしょうか、それともこの世にとどまり、その中で主の栄光をあらわせと命じておられるのでしょうか。私達は具体的にどのようにして、この世で主の栄光をあらわすことができますか。
7)ダニエルは異教の名前をつけられることを受け入れました。それは彼の信仰の原則に触れるものではなかったからです。私達はどのようにその区別をつけたらいいのでしょうか。