父母を敬うことは、神と自分を尊ぶこと

私は齢を重ねるたびに血というものを意識するようになりました。この写真は7年前に私が韓国の家族を訪ねた時に私の兄と撮った写真です私が生まれた時に兄は既に成人しており、兄というよりも私の父親のような存在です。

私はソウルで生まれてから二年足らずで日本に戻り、日本人として育ちましたので、韓国で暮らす兄と暮らしたことはありません。しかし、私は彼と同じ血を親から受けているのです。そのことゆえに、見てお分かりのように兄の姿は、私のこれから向こう10年、20年の姿をはっきりと指し示しています。私がますますこの世界を照らすことになることは確実なのです。

実際のところ、兄と私は母違いの兄弟なのです。よほど父方の血が強かったのでしょう。血を受け継ぐ、血が繋がっているということは、こういうことなのかと思わされます。

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父母を敬うことは、神と自分を尊ぶこと。
2020年9月13日

私達のお腹にはヘソがあります。そのヘソが私達にあるということは、私達が母の胎内にいたということ、例外なく、私達には誰しも生みの親、父と母がいるということを明らかにしています。

私達がどんなに地位と名誉を得ても、このヘソが私達のお腹にあるということは、私達はかつて完全に、誰かに寄り頼んでいたということを私達に示しています。

私達は今、十戒を見ていますが、今日はその四戒に注目したいと思います。第四の言葉はこう私達に語りかけます。「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20章12節)。

私の本棚には「子育てに関する本」があります。そして「夫婦に関する本」もあります。これらの本で本棚の二段が埋まっており、収まり切れないものもあります。これらに加えて「親に関する本」もあるのですが、それは数冊に限られています。このことは私達の親に対する関心は、子や夫婦に対するものほどではないということを物語っています。しかし、神様の御心は異なるようです。

10という数字は決して多くはない数字です。それは私達の両手で数えることができる数です。枕にもなりそうなぶ厚い六法全書には数多くの法律が書き記されているのでしょうが、もし私達がその中から10だけを厳選しなさいと言われたら、私たちは頭を抱えてしまうのではないでしょうか。神様はその10の戒めの中の一つに「あなたの父と母を敬え」という言葉を置くことをよしとしたのです。

創世記の2章には結婚の奥義と言われている言葉があります。つまり、最初の人アダムとエバに対して「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(創世記2章24節)という御言葉です。

聖書は結婚について意表を突くようなことを言っています。「その父と母を離れなさい」というのです。これは深い言葉です。ここには、これから夫婦となるあなた達は精神的にも経済的にも父母から離れて、生きていくのだということが記されています。

この言葉には二人が夫婦になるということは、互いに一体となることなのだから、その二人の間に、たとえそれが親であっても、もっと言いますと我が子であっても、その二人の間にはいかなる者をも入れてはいけないと聖書は私達に語りかけます。

「あなたたちは一体なのだ」という言葉は親子には語られておらず、それは夫婦にだけ向けられている言葉です。夫婦は生涯をかけて、この「私達は一体なのだ」ということは、どういうことなのかということを神に尋ね求めながら生きていくのです。

このことについて今日は詳細を話しませんが、このような言葉を見ますと、親としては、また子としては寂しい思いをするかもしれません。しかし、よくよく考えますと、まさしくこの言葉に夫婦が立って生きることこそが、その夫婦にも、また親にとりましても、子にとりましても最善なことなのだということがよく分かってくるのです。神様が言われることに間違いはありません。

聖書はこのように創世記において、男と女の結婚の大切さを説いているのですが、夫婦に関することは十戒にはなく、その代わりに十戒は親について言及しているのです。なぜ神様は十戒の一つに「親を敬え」を入れたのでしょうか。

そもそも親とは私たちにとってどんな存在なのでしょうか。親とは私達と血を分ける者です。正確に言いますと、私たちは親の血、親からの命を受けて、この世界に生まれ、ここまで歩んできたのです。

私は齢を重ねるたびに血というものを意識するようになりました。以前、チャーチピクニックでもお見せしましたが、この写真は7年前に私が韓国の家族を訪ねた時に私の兄と撮った写真です。私が生まれた時に兄は既に成人しており、兄というよりも私の父親のような存在です。

私はソウルで生まれてから二年足らずで日本に戻り、日本人として育ちましたので、韓国で暮らす兄と暮らしたことはありません。しかし、私は彼と同じ血を親から受けているのです。そのことゆえに、見てお分かりのように兄の姿は、私のこれから向こう10年、20年の姿をはっきりと指し示しています。私がますますこの世界を照らすことになることは確実なのです。

実際のところ、兄と私は母違いの兄弟なのです。よほど父方の血が強かったのでしょう。血を受け継ぐ、血が繋がっているということは、こういうことなのかと思わされます。

私達が聖書を読んでいて気がつかされることは、それが「神と人間の物語」であるということです。そして、その人間に関して言えば、その互いの関係において常にその中心は親子なのです。

アダムとエバから始まった創世記の中に登場する人間達の物語のスポットライトは親子に当てられており、ダビデやソロモンをはじめ、イスラエルの王達の物語は親子の間柄が大きな影響を与えています。そして言うまでもありません、そもそも聖書は「父なる神」と「子なるイエス・キリスト」の関係を私達に語りかけるものなのです。

以前、中野雄一郎先生が話してくださいました。先生の知り合いの会社の社長さんが、ある時、参加費数十万円もするようなビジネスセミナーに参加したというのです。

そして、そこで色々なことを学んだというのです。中野先生はその社長さんに聞いたそうです。「何を教わったのですか?」。社長さんは言いました「数十万も払ったのに話せない」中野先生は食い下がりました。そして、ついに聞き出したのです。社長さんは言いました「ビジネスに成功するためには親孝行しなさい」ということを学んだと。

よく考えればそうなのです。どうして、一番身近にいる、血を分け合っている親を大切にすることをしないで、自分の部下や同僚や顧客を大切にすることができるかというのです。つまり「親を敬う」ということは、あらゆる人間関係の土台にあるのです。一番、身近な人を敬うことができるならば、他の人を敬うこともできるのです。

しかし、ここで大きな問題が生れてきます。それは「私たちは親を敬うことができるのか?」ということです。「私は100%、私の親を尊敬しています」という方は幸いだと思います。

およそ、子というのはその人生のどこかで親に反発するものですし、「親のようにはならない」と決心する子もいるでしょう。時に「親だけは許せない」とか「親のどこにも敬うべきものを見出せない」とか「親と話すと自分の心にある傷が痛む」ということもあるのです。

親子は一心同体と聖書は言いませんが、しかしながら、親との特別なつながりを私達は否定することはできません。私達の人生は親と共に始まったですから。ですから、言い方を変えれば私達の存在の始まりとなる者達に対する否定的な思い、さらには嫌悪感とか憎しみというものがあるとするのなら、それは自分自身の存在に対する受け止め方にも影響を与えていくのです。

もし、このことに目を向け、それを解決しようとするのなら、そこに和解が必要となります。そして、その和解に必要なのはイエス・キリストの十字架による赦しです。イエス様の十字架ゆえに、私達は親をも赦すのです。

中にはもう親が亡くなっておられる方もいるでしょう。親との和解を望んでも、親が傍にはいない。親が自分を認識できなくなったという方もいることでしょう。しかし、そのことで和解の機会を逃したと肩を落とすのではなくて、神様に祈るのです。

「神様、親あっての私の命です。親の愛情と犠牲によって、私は今日ありますが、私達、親子の間にも色々な問題がありました。しかし、それらの諸々の思いを今、あなたの十字架の愛によって許し受け入れます。また、無理解ゆえに、私が親に対してなしてしまったことをお許しください。そのことで親の心に痛みがあるようでしたら、それを取り除き、癒してあげてください。父母と会って話すことはできませんが、主よ、どうぞこの祈りを受け止めてください」神は愛なりと呼ばれる私たちの父なる神は、私たちのその祈りを聞いて下さると信じます。

この十戒は言います。「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20章12節)。ここには父と母を敬うということが、自分の長寿と関わりがあるというのです。これは、どういうことなのでしょうか。

先に触れましたように、私たちが親と和解していく時に、それは親以外の人との人間関係をも変えていきます。また、親を許し受け入れるということは、それは他者も受け入れ敬うことになるのです。

そして、それだけではありません、親を敬い受け入れるということは、実は私達自身を受け入れていくことなのです。自分の命の源となった親を受け入れない、否定するということは、自分を受け入れない、否定するということだからです。

私たちは思います。自分を受け入れることなんか簡単なことではないかと。私たちは都合よくできている。人には厳しいけれど、自分にはあまい。故に自分を受け入れることなんか難しいはずがない。

しかし、実はこれほど難しいことはありません。そこから色々な問題が生じてきます。自分の内に受け入れられないものがあると、私達は無意識に一生懸命、それをおおい隠そうという思いが心にわいてきます。

故に本当はそんな自分ではないのに、自分を強くみせようとします。無理してそれをしていますから、それは自分の心にも体にも大きな影響があるのです。

さらに、自分でも受けいれられない自分の一部を誰かに指摘されると過剰な防衛本能がはたらき、その人に対して攻撃的になります。これらは引いては人間関係の混乱となるのです。

人間関係のもつれ、問題はどこからくるか。互いに敬えないところからきます。そして、他者を敬うことは親を敬うことから始まります。そして、親を赦し、受け入れ、敬うことは、自分を赦し、受け入れ、敬うことで、それは私達の日々の健康、引いては長寿にすらもつながるのです。

言うまでもなく、現代人が今、一番何に悩んでいるのか。会社で勤めている人たち、学校で学ぶ子供達、家族の中で、私たちは人間関係に悩んでいるのです。そして、言うまでもなく、そこからくるストレスは計りしれません。これもあえて言う必要はない。現代の医学において、病気とストレスは隣り合わせです。体が病めば心も病む、心が病めば体が病むのです。

昨年12月、母が召される時、私はフェイスブックでつながっている韓国の兄の甥にそのことを伝えました。甥はすぐに父に、私の二番目の兄に、そのことを伝えました。すぐに返事がきました。「今から父と日本に向かいます」。「え?」「今から?韓国から」。

数時間後、彼らは羽田に到着しました。先にお見せしました兄は長男で、その時、韓国から飛んできてくれたのは次男でした。私にはさらにもう一人の兄がパラグアイにおり、姉がロサンゼルスにおります。

7年前の渡韓以来となりますが、兄は変わっていませんでした。甥のことは彼がオシメをしている時から知っています。今は家庭をもってソウルに暮らしています。

羽田で彼らを迎え、すぐに私達は母の元に向かい、兄は母の枕元に立ちました。兄は母の顔をしばらく優しいまなざしで見つめていました。兄と母は血が繋がっていません。しかし、兄は母を「おっかさん、おっかさん」といつも呼び、その時も枕元で母を呼び続けました。

もういつ召されてもおかしくない時でしたから、母の呼吸がしばらく停まったように見えた時、母の前に座っていた兄は私の手を取り、自分に代わり、母の前に私を座らせました。そして、その間、私の背中を支えていてくれました。その兄の手の温もりを私は生涯、忘れることはないでしょう。

その人生、ほとんど共に暮らしたことのない、互いに外国に住む身、言葉も通じ合わない兄弟なのに、私はその時、この兄と繋がっている血というものを、そして私達はこの母の息子なのだということを強く意識したのです。

兄達が母のもとにいたのは一時間ほどでしたでしょうか。その日のうちに、彼らは羽田に戻り、夜の便で韓国に戻っていきました。

母はその時、言葉を語ることはできませんでした。しかし、息子と孫が来てくれたことを知ることはできたと信じています。彼女は色々な人生を送ってきたけれども、このように母を慕う息子や孫をもてた母は幸せだったと思います。

そして、このメッセージを通して気がつかされたことがありました。それは兄が何と幸いな人生を送っているのかということでした。血肉ではない。しかし、兄は母をまことの母のように敬い、大切にした。そして、その彼の母へのリスペクトを、その息子にも彼のグランマとして見せることができた。兄は確かに神様からの祝福を受けているのだと思わされたのです。

人間の心の奥底までを知られるのが神様です。その神様は我々のために「父と母を敬う」ということが、どれだけ私達の人生に大きな影響を与えることになるのか、そしてそれが私達の祝福と関係していということを十戒を通して示してくださいました。

私達は今、コロナの状況下、これまでに経験したことのない生活を強いられています。そのチャレンジは色々なかたちで私達の周りにあります。そして、この生活は私達に自分にとって家族とは何か、親とは何かということを語りかけてきます。

この時、私達は互いが家族であるということはどういうことなのか。親子であるということはどういうことなのか。親も子もそのことを主の前に祈り、思いめぐらそうではありませんか。

私達が私達の父母を選んだのではありません。父母が私達を選んだのではありません。神様がこの父を、この母を私達にお与えくださった。その親を愛し、敬うということは、すなわち私達の神様を敬い、愛することなのです。

「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20章12節)。

お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年9月13日

1)「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20章12節)という言葉をあなたはどのように受け止めてきましたか。後半部分をどのように理解していましたか。

 

2)「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(創世記2章24節)という言葉をあなたはどのように受け止めてきましたか。「一体となる」ということはどのようなことだと思いますか。

 

3)聖書の中で心に思い起こされる親子の物語がありますか。その物語はどのようなことを取り扱い、どんなメッセージを私達に語りかけているでしょうか。

  

4)あなたは親や家族と血がつながっているということを意識したことがありますか。親と子の関係はなぜ特別なのでしょうか。

 

5)骨肉の争いというものがあり、親子の関係にも問題が生じます。親との和解はなぜ大切なのでしょうか。

 

6)あなたは親の齢になって親を理解したということがありますか。それはどんなことでしたか。

 

7)父母は私を選んではなく、私も父母を選んだのではありません。それでは誰がこのマッチングをしたのでしょうか。このところから私達はどんな神様のメッセージを受け止めますか。

 

8)今日のメッセージタイトル、「父母を敬うことは、神と自分を尊ぶこと」ということはどういうことですか。

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