私達の教会の玄関上方にはこんな言葉が掲げられています。「JESUS LIVES」。私はこの看板が何年前から掲げられているか分かりません。しかし、この信仰告白は私達の教会の土台です。私達の神は置き物ではなく、生ける神なのです。
今日の新年日英合同礼拝でお話したメッセージです。よかったらどうぞ↓本日の動画はこちらから。
生ける神の子キリスト マタイ16章13節‐19節 2011年1月2日
13イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。14彼らは言った「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。15そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
背景
この度のスロープの建設にあたって、それに伴い掲示される石版の上に何を刻もうかということが日英合同執事会において数回にわたり祈りつつ、時間をかけて話し合われ、各自が示されている聖書の言葉を持ち寄り、その中で今読ませていただきました御言葉を私達は選びました。
この石版は教会の顔とも言われる正面玄関に掲げられますゆえに、それは私達の教会にとって私達はこの地にあってどんな存在なのかということを世に向かって示す名札のようなものとなります。それゆえ、今日はこの御言葉から特に二つのことをお話ししたく願っています。このようなことをお話します日が日英合同礼拝であること、また一年の一番最初の日曜日であることを感謝します。まず最初に「私達の教会の土台」ということをお話しましょう。
私達の教会の土台
私達の教会は昨年80周年を迎えました。一言で80年と言いますが、それは長い年月です。その創立は第二次世界大戦以前のことであり、ベトナム戦争も公民権運動もすべてずっとその後のことでした。
確かビルゲイツだったかと思いますが「自分は5年で急成長している会社を評価しないが、100年もの間、存在し続けている会社には敬意をあらわす」と言っています。言うまでもなく教会は一般企業とは異なりますが、確かにこのサンディエゴに80年もの間、私達の教会があり続けたということは驚くべきことだと思います。
その教会がこの80年もの間、何をしてきたかといいますと時代最先端の製品を開発してきたのではなく、人々があっと驚くイベントを開催してきたのでもありません。教会とそこに集う方達とは雇用関係にはありませんから、皆さんが教会に来なくなることにより、皆さんの収入が途絶えるとか、罰せられるということはありません。それでもこの80年もの間、人々はこの教会に来続けました。そんな人達を、そして私達を今、支えているものとは何でしょうか。それは私達の神様に対する信仰なのです。
私達は信仰によって学校に行っているでしょうか。私達は信仰によって会社勤めをしているでしょうか。学校の教師は信仰によって子供達に教えているでしょうか。いいえ、教師達は与えられている既成事実(FACT)を子供達に教えるのです。経営者は信仰によって会社経営をしているのでしょうか。いいえ、極めて現実的なデータを基にその経営はなされていくのです。
しかし、このサンディエゴ教会は80年間、そこに集う人々の信仰によって今日まで歩んできているのです。信仰によって私達は礼拝を捧げ、祈り、聖書を学び、主にある交わりをもつべく、教会に来続け、文字通りその信仰生活を送っているのです。それではどんな信仰をもっているのでしょうか。今日の聖書箇所を見てください。
15そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
このところでイエス様は弟子達に尋ねて言われたのです。「人々は私のことを誰と言っているか」彼らは「ある人々はあなたをバプテスマのヨハネと言い、他の人達はエリヤ、預言者のひとりだと言っています」。それに対してイエス様は「あなたがたは私を誰と思うのか」と聞きます。それに対してペテロは答えました「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
何とシンプルな、しかし力強い言葉でしょうか。先ほどもお話しましたが、私達の教会が80年もの間、この地にあったということの土台は私達の信仰によるといいました。そして、その土台は「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰告白なのであり、その言葉が言っているように神は生きておられたゆえに、この教会は80年もの間、この土地に存在し続けていたのです。さらにイエス様はペテロに言われました。
17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
「あなたはペテロである。そしてわたしはこの岩の上に私の教会を建てよう」。この言葉はこれまで様々な議論や解釈がなされてきました。この「岩」を文字通りペテロ個人と取るのか、それとも他の何かを指しているかということです。今日のカトリックの司教制はその解釈をペテロ個人と取り、そのところからペテロの後継者、代理者として教皇を立てるようになりました。
しかし、私達、プロテスタント教会には教皇のような存在はおらず、私達はこの岩をペテロという私達と同じ罪人なる人に置くのではなくて、彼が宣言した「あなたこそ生ける神の子キリストです」(16)という信仰の告白に置いているのです。実際に新約聖書の原語であるギリシア語を見ます時にこのイエス様の言葉は語呂合わせのようになっていることが分かります。
どういうことかいいますと、このところでペテロという名には原語のギリシア語では「石」という意味があることを踏まえつつ、それと同じ語源をもつペトラという「岩」という意味をもつ言葉をイエス様はここで使い分けているのです。ということはどういうことかと言いますと、教会というのは「生ける神の子キリスト」という私達の信仰告白である「岩」の上に、小石のような私達一人一人が呼び集められるかのようにして建てあげられていくのだということをイエス様はこのところで言っているのです(Kさんはここまで考えられたのか分かりませんが、この石碑の下にはそんな小石が意図的に埋まっていることに私達は気がつきます)
私達にとってイエスは生ける神の子なのかどうかということ、本当にこのお方は今も私達と共にいるのかということは重要な問題です。パウロもこの「イエスが生きている」ということについて、それがどんなに大切であるかということをよくよく理解していました。ですから、彼はこのように言ったのです「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、私達の宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(コリント第一の手紙15章14節)。
彼は言ったのです。もし、キリストが今も私達と共にいてくださらなければ、生きていてくださらなければ、私達の宣教はむなしく、あなたがたの信仰もむなしい。その通り、私も全く彼の言葉に同意します。もし、キリストが生きておられないのなら、私はこの牧師職を今すぐやめることでしょう。
皆さん、お気づきでしょうか?私達の教会の玄関上方にはこんな大切な言葉が既に掲げられているということを。「JESUS LIVES」。私はこの看板が何年前から掲げられているか分かりません。しかし、この信仰告白は私達の教会の土台であったはずです。これまで掲げられていたこの言葉をもう一度、かみ締めつつ、私達は私達の信仰の告白を掲げるのです。
どうか週ごとにこの教会の石版の前を通る時に心を刻んでください、「イエスは生きておられる。今、私はこの生きてる神を礼拝するためにこの教会に来たのだ、そしてこの生きた神と共に一週間を歩むのだ」と。そして、神様のことを何も知らない方がこの教会に入り、出て行く時には、イエスは生きておられるのだということを確信していかれるようにと祈るのです。二つ目のことを見ましょう。それは「鍵が与えられている」ということです。
鍵が与えられている
「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰の告白がなされたことに対して、イエス様はこういわれました。18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
このところに主イエスが建ててくださったイエス様の教会は、黄泉の力であってもそれに打ち勝つことのできないものであるということです。黄泉とは何か、色々な解釈がありますが一番分かりやすく、それを罪ゆえの死としましょう。すなわち、イエス様は私達人間にとって最大の無常であるこの死の力も教会にはおよばないと言われたのです。これは福音の真髄です。そして、そのために教会には天国の鍵を授けようというのです。
この天国の鍵とは何か。それは教会に死からの解放、すなわち罪の赦しを宣言することが許されているということです。聖書がいうように私達は誰しも罪人です。それはもちろん牧師も例外ではありません。ですから罪人が罪人に向かい、あなたの罪は許されたということは本来はできないのです。
しかし、教会にはこの罪の赦しの宣言が託されているというのです。イエス様が言われているとおりです。「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は誰の罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪はそのまま残るであろう」(ヨハネ20章22節-23節)。そして、その宣言が許されているということは、黄泉の力、すなわち罪の赦し、永遠の命の約束、すなわち死も打ち勝つことができないものを私達は与えられているということなのです。
私達の教会はこれまでに数えきれないほどの洗礼式をもち、また葬儀をあげてきました。私達教会は人の罪の赦しを宣言し、父と子と聖霊の御名によって人が新しく生まれることを宣言します。また諸々の葬儀はたとえ人の肉体は死んでも私達はその死の力に支配されることはないのだということをこの世界に宣言するのです。
これらのことは神様から教会に与えられている特権であり、教会以外には与えられていないものです。ホワイトハウスにも国連本部にもいかなる教育・研究機関にも与えられていないものです。ですから私達はそれらの団体・組織とは全く異なる群れとして私達がこの世界にある意味を私達の玄関、一番目立つところに掲げ、謙遜にそして喜びと希望をもって、このことのためにこの教会の歴史を刻んでいくのです。
皆さん「イエスは生きておられる神の子です」とはとてもシンプルな言葉です。その上に私達の教会はあるのです。そしてその上に私達の信仰生活もあるのです。また私達には天国も確約されているのです。なんと贅沢なもったいない話ではありませんか。この人生を生ける神と共に歩むことができ、また死の先にも保障がある。この譲ることができない私達の信条を掲げて私達のサンディエゴ教会は新しい年も、そして、これからもこの地に建っていくのです。このようなことを確認して、皆さんと共に新しい一年を歩みだすことができますことを心より主に感謝します。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり 2011年1月2日
①私達の教会は昨年80周年をむかえました。一口に80年といいますが、それはとても長い年月です。このような長い間、私達の教会はなぜ存続できたのでしょうか。教会と他の会社、協会、団体、機構・・・との違いは何ですか。
②マタイ16章13節‐19節を読みましょう。ペテロはイエス様に「あなたは私を誰と思うか」と聞かれて「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えました。あなたはこのことを信じていますか。「生ける」ということは、あなたにとってどんな意味がありますか?
③上記のペテロの信仰告白を受けてイエス様はその信仰告白の上に教会を建てるといいました(18)。これが①で問われた質問の答えです。これが教会が世の会社、協会、団体、機構とは異なる所以です。「生ける神の子キリスト」という土台の上に建つ教会に属する私達はどのような教会生活を送るべきでしょうか。
④このところに記されている「黄泉の力もそれに(教会に)打ち勝つことができない」(18)とはどのような意味ですか。それは私達の死とどのように関わっていますか。
⑤私達に授けられている「天国の鍵」とは何を意味するのでしょうか。教会では洗礼式を執り行いますが、これは何を意味する式なのでしょうか。