日本のテレビ番組でまだ5歳位の子供に地図と買い物リストを持たせて、自宅から商店街のような場所に買い物に行かせるという番組があります。こっそりとリュックに小型マイクをつけて、分からないように番組スタッフが後ろからカメラを持って撮影していくのです。親が共にいない、初めて自分一人で歩く外の世界、車、自転車、歩行者、そんな人ごみの中を子供は心細く一人言を言いながら、目的地に向かうのです。
彼らは途中、心細くなりながら、先に進むのです。そして道に迷うのです。それでいて途中、おもちゃやさんを見つけると、その中に吸い込まれていくのです。やっとの思いで頼まれていました豆腐屋に到着しますと、それに気がつかずに「どこなんだろう」と半分泣きべそをかきながら、その前を通り過ぎていくのです。カメラごしにその光景を見ている視聴者はそのような子供の姿を見ながら「そこじゃない、そこそこ、まっすぐ」とか笑いながら、叫んでいるのです。なぜ笑えるのか、なぜなら背後にはいつもカメラクルーがいるからです。もしクルーがいなければ笑ってなんていられないのです!
神様の目から見たら、どんなに立派に見える大人も同じように見えているのではないでしょうか。神様の目から見たら、私達はこの子供と同じようなものでしょう。成人した者達はその人生で蓄えた知識、経験、財力、人脈等を用いながら、行く先々の出来事に対応して生きているように見えます。しかしながら、半面、会社では一目置かれていながら、私生活に起きる事柄についてどうしていいのかと途方に暮れている人はいくらでもいます。また、私達の人生は諸々の知識や経験、財産では解決できない問題が多くあります。予想だにしない病気、事故災害、死、老後の親の問題、夫婦の不和、子供の反抗・・・。私達は必死にこれらをどうにかしようとしますが、大切な事柄の前を素通りしたり、立ち止まるべきではない所に精力を注いだり、向かうべきではない方向に行ってしまったり、現実からの逃避もあり、甘い囁きに反応して、そちらのほうに吸い込まれていって、そこから抜け出すことができなくなるというようなことも起こります・・・。
本日お話しましたメッセージです。よかったらどうぞ↓
マック
今日の礼拝のライブ放送ですが、どうもうまい具合にいかず、
放映がほとんどできませんでした。心よりお詫び申し上げます。
また来週、放映します。
神はあなたを探している
2010年9月19日
ルカ15章3節-7節 3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるであろう。
ルカ15章8節-10節 8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
状況説明
このルカの福音書15章には有名なイエス・キリストの譬話が三つ記されています。そして、イエス様がこの三つの譬を話すことになった状況というものが一節に書かれています。
「さて、取税人や罪人達が皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた」するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った(ルカ15章1節-2節)。
数週間前もイエス様は罪人を救うためにこの世界に来られたということをお話しました。イエス様は人々から「罪人の友」と呼ばれましたが、内心、それを喜んでいたのではないかということもお話しました。そして、このようなことは特別なことではなく、イエス様は生涯、実際に人々が罪人と呼ぶ人達と日常的に関わっていたということが今日の箇所からもうかがい知れます。
そんな取税人や罪人達が、皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきたというのです。何度もお話していますが、取税人はユダヤ人でありながら、当時、ユダヤ社会を支配していたローマの役人のもとで働き、仲間のユダヤ人から厳しく税金を搾り取り、不正と共に金持ちになっていた人達のことです。ですから、彼らはお金はありましたが、露骨に嫌われていましたし、当然、彼らはなぜ自分達が同胞から嫌われているのかという、その原因というものも分かっていました。そんな自分に嫌気を感じたこともあったでしょう、しかし、その生活からぬけられない、社会の目は冷たい、厳しい、それならトコトン、悪の限りを尽くそうなどという開き直りというものもその心にあったに違いありません。
当時は宗教的に「きよさを保ち、汚れから遠ざかる」ということに重きを置いていた時代ですから、人々は汚れた罪人達と距離をおくこと、交わらないということが信心深いこととされていましたから、人々はこれらの人達に近づきませんでしたし、彼らが近づくとその分だけ距離を置くということを彼らはしていました。
取税人らは度々イエス様を食事に招きましたが、そこにいるのはいつも同業の取税人か罪人だったと聖書は記していますから、それは他の人達は彼らに近寄らなかった、すなわちいつも彼らは同類の者同士で共にいたということを意味したのでしょう。しかし、そんな中、イエス・キリストだけは彼らが近づいても、避けることをしなかった同類以外の存在だったのです。
この時、同じようにそこに来ていた人としてパリサイ人や律法学者がいました。彼らはともに熱心な宗教家でした。しかし、彼らはイエスの教えを聞きたくてそこにいたというよりもイエスの教えと自分達の教えの違いを見つけては、それを指摘してイエスを引きずり落とそうとしていたのです。
そこで、イエス様は彼らのつぶやきに対する応答として三つの譬話をここで話されたのです。今日は、そのうちの二つの譬話、すなわち「失われた羊」と「失われた銀貨」をみていきたく願っています。特にこの二つの譬の違いというものを考察していく時に、そこに深いメッセージがあることに気がつかされます。まず最初に失われた羊の譬を見ていきましょう。
失われた羊の譬
聖書の中で人は羊として例えられています。闇雲に羊が選ばれているかといいますと決してそうではなく一言で言いますならば、羊は弱いからです。羊は迷いやすい動物だからです。ですからこの羊が語られる時には羊飼いのことも触れられます。羊は羊飼いの導きと守りがなければすぐに危機に直面するからです。
今日の箇所はその羊が迷子になってしまったというのです。どのような場合に羊は群れから離れてしまうのでしょうか。羊飼いから目を放し、自分の興味あるものに引き寄せられてしまう時。羊飼いの警告に聞かずに自分勝手に行動する場合。それは大抵、羊自身の責任です(実際、羊に責任感というものなどはありませんが)。足が速いわけでもなく、牙や爪や力があるわけでもない羊が群れから離れるということ、羊飼いの視界から消えるということがどのような意味をもつかお分かりになると思います。野生の世界では空にも陸にも羊を狙う荒々しい生き物がいくらでもいることでしょう。まさしく、その羊が襲われるのは時間の問題なのです。そして、このように羊が群れから離れて迷子になる姿は、実は、私たち人間が神から離れてしまった状態をあらわしているのです。
日本のテレビ番組でまだ5歳位の子供に地図と買い物リストを持たせて、自宅から商店街のような場所に買い物に行かせるという番組があります。こっそりとリュックに小型マイクをつけて、分からないように番組スタッフが後ろからカメラを持って撮影していくのです。親が共にいない、初めて自分一人で歩く外の世界、車、自転車、歩行者、そんな人ごみの中を子供は心細く一人言を言いながら、目的地に向かうのです。
彼らは途中、心細くなりながら、先に進むのです。そして道に迷うのです。それでいて途中、おもちゃやさんを見つけると、その中に吸い込まれていくのです。やっとの思いで頼まれていました豆腐屋に到着しますと、それに気がつかずに「どこなんだろう」と半分泣きべそをかきながら、その前を通り過ぎていくのです。カメラごしにその光景を見ている視聴者はそのような子供の姿を見ながら「そこじゃない、そこそこ、まっすぐ」とか笑いながら、叫んでいるのです。なぜ笑えるのか、なぜなら背後にはいつもカメラクルーがいるからです。もしクルーがいなければ笑ってなんていられないのです!
神様の目から見たら、どんなに立派に見える大人も同じように見えているのではないでしょうか。神様の目から見たら、私達はこの子供と同じようなものでしょう。成人した者達はその人生で蓄えた知識、経験、財力、人脈等を用いながら、行く先々の出来事に対応して生きているように見えます。しかしながら、半面、会社では一目置かれていながら、私生活に起きる事柄についてどうしていいのかと途方に暮れている人はいくらでもいます。また、私達の人生は諸々の知識や経験、財産では解決できない問題が多くあります。予想だにしない病気、事故災害、死、老後の親の問題、夫婦の不和、子供の反抗・・・。私達は必死にこれらをどうにかしようとしますが、大切な事柄の前を素通りしたり、立ち止まるべきではない所に精力を注いだり、向かうべきではない方向に行ってしまったり、現実からの逃避もあり、甘い囁きに反応して、そちらのほうに吸い込まれていって、そこから抜け出すことができなくなるというようなことも起こります。
私達もいつどこで、どこに向かっていってしまうか、何をしでかすか分からないのです。「なんであの人が!」というようなことを私達は日常で見聞きすることが多々あるのです。私達には人の外面だけを見て、その心まで読みきることはできませんから「なんであの人が!」と驚くのですが、その人の心までも全て見通しておられるイエス様が人を見る時に、このような印象をもたれるのです。マタイはそのイエス様の心情をこう書き記しています。「また群集が飼う者のない羊のように、弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」マタイ9章35節-37節。預言者イザヤも今から2700年も昔、早々にそのような人の有様に気がついていたのです。彼は記しています、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った」(イザヤ書53章6節)。
私達の思いの中に神様の存在というものを意識する時というのは、私達がふとこんなことを思う時です。「ここまでこの道を歩んできたけど、これでいいのだろうか」「どうやら道に迷っているのではなかろうか」「これは自分の願っている、思い描いていた道とは違う・・・」というようなことに気がつく時です。自分が地に足をつけずフラフラ生きているということに気がついた時です。弱り果ててしまっている、倒れてしまっている、先に歩むことがしんどいと思う時です。そんな私達を神様はずっと、探し続けているということを知っていただきたいのです。次になくなった銀貨の譬について見てみましょう。
なくなった銀貨の譬
イスラエルでは女性が結婚する時にそのギフトとして十枚の銀貨をもらうことがよくあるそうです。この譬の背景にもそのような女性がいたかどうかということは実際には分かりません。ただ分かりますことは、一人の女性が一枚の銀貨を失くしたということです。
そもそも、この銀貨と羊の違いは何なのでしょうか。羊は自分勝手に動く生き物です。しかし、銀貨は動かないのです。羊は自分で迷ったのです。そして、自分でその迷いをなんとかしようと動き回ることができます。しかし、銀貨の場合はそういうわけもいかず、再び見出されるまで、落とされた場所にいつまでも留まり続けるのです。
私達が神様の前に失われてしまう原因には色々あるでしょう。羊の場合は自分の責任であるといいましたが、中にはこの銀貨のようにそうではないこともあります。子供が育てられていく環境というものが、その子が神の前に失われてしまう原因となりうることもあるでしょうし、思いがけない被害によって、私達の生活や心のあり方までも変えられてしまうこともあります。ある方が日本人の七割は「引きこもり」だと言いましたが、それは実際に部屋の中に引きこもるということではなくて、自分の心の中に引きこもっていて、出てこないということです。普通に家庭ももち、仕事もしていながら、その自分の心から出られない、動けないということです。私達がなぜ、このように、その心の中に引きこもってしまっているのか、その理由を知ろうとするならば、それは必ずしも自分の責任だけではなく、日本社会の構造ということまで考えなくてはならなくなることでしょう。
この銀貨は羊とは異なり、家のどこか片隅にあって、持ち主が自分を見つけてくれまで待っているのです。本来、この銀貨には何かを買うとか、支払うというような確かな目的と価値があるのですが、それが見つけ出されるまで、すなわちその持ち主の手に戻るまではその目的を果たすことができず、その価値が埋もれてしまっているのです。
聖書は人は神によって命が与えられているといいます。そして神の前に尊いものだというのです。イザヤ43章4節(新改訳)に「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という言葉が記されているとおりです。しかし、そんな高価で尊い私達がその価値を用いることができずにいるというのです。
この二つの譬にはいくつかの共通点があります。それは羊にも銀貨にも本来あるべき場所というものがあったということです。すなわち羊は他99匹の羊と共に羊飼いと一緒にいるべきでした。また銀貨は他9枚の銀貨と共に女の袋の中に納まっているべきでした。私達には本来、いるべき場所、とどまっているべき場所というものがあるのです。
おるべき所にいない。納まるべき所に納まっていない。それは存在していないということではないのです。どこかにいるのですが、いるべき場所にいないで、そこから動けずにいるということなのです。それゆえにその人にしかできない素晴らしいことがなされることがないということなのです。
人は神と共にあり、神に仕えるべき者として造られました。神との交わりの中で、神の愛の内に生きるように造られました。しかし人はその神から離れてしまったのです。その時から私達は生きがいとか本当の心の満足とか、希望とか、自尊心、平安、人生の目標というものを持てなくなってしまったのです。しかし、私達が神様によって見出されるのなら、私達は本来、与えられるべきそのようなものを一つ一つ獲得していくことができるのです。最後のことをみましょう。それは「見出された喜び」ということです。
見出された喜び
読んでお分かりのように、この二つの譬話には明らかな共通点があります。それはそれぞれ、最後の言葉が語っているとおりです。
5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。 9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
一匹の羊を失った羊飼いも一枚の銀貨を失った女性も、見つけるまで、あらゆる犠牲を払い、捜すのです。そこに、私達に対する神の愛を見ます。世界には人間が作った宗教はたくさんありますが、どれも人間が神を探し求めるものです。しかし、神のほうから私達を捜し求めているというのは聖書の神だけなのです。それはすなわち、こういうことです。人間は自分で自分を救うことができません。神が捜し求めてくださらなければ、私達は失われたままなのです。
ここには、人が神に見出される時のことが「そして見つけたら・・・」という言葉で書かれています(5節、9節)。すなわち羊を見つけたら喜んでそれを自分の肩に乗せて、家に帰り友人や隣人を呼んで「共に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」と言うというのです。銀貨を見つけたら、女友達や近所の女達を集めて「わたしと一緒に喜んでください。失くした銀貨が見つかりましたから」と言うというのです。それだけではない、罪人が一人でも悔い改めるなら、その喜びは天の御使いの間でも起きるだろうというのです。
これらを読む時に失われた人間が見いだされた時には四重の喜びがあることをご存知でしょうか。第一に見出した神様ご自身が喜びます。第二に見出してもらった本人が喜びます。第三に友人が喜びます。そして第四に天の御使い達が喜びます。
私達がクリスチャンになるということは、この神の一方的な捜索に気がつくことです。人生には、それに気がつくチャンスというものが思いがけない出来事によって与えられることがあります。私達はそれに気がついているでしょうか。一期一会という言葉を私達はよく使いますが、この神との出会い、これ以上の出会いは人生にはありません。
失われたものを探すために、どれくらいの距離を探しに出て行くかということが、その人の本気度をあらわすとしますならば、実際に神様がなされたことは全く人間の想像を超えたことでした。イエス・キリストほどにその距離を越えて私達のもとに、こられた方はいません。キリストはなぜ、神ご御座に留まることをせずに、あの飼い葉桶で生まれたのか、その理由はとてもシンプルなものでした。イエスは言われました。「人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19章10節)「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10章10節)
いかかですか。皆さん、もし私達が道に迷っているのなら、このお方が差し伸べていてくださる手を握りませんか。このお方は既に私達のすぐ側にいらっしゃるのです。その手は力強く、あなたをその場所から引き上げ、あなたをその肩に負ってくださいます。
神様から与えられているギフトを用いるために、朽ちることのない実を結ぶために、一つところに留まるのではなくて、時折、照らされる神様のフラッシュライトに向かって思いきり手を振りましょう。神様はあなたを取り上げて、本来、あるべき場に置いてくださいます。
私達は気がついているでしょうか。「命」とはただ漠然と与えられているものではなくて、それは主イエス・キリストにあって、豊かになりうるものであるということを。その豊かな命を私達に与えてくださるというのがイエス様の私達に対する約束です。
願わくばイエスの一番弟子であったペテロが言っている言葉が、ここに集いました全ての方達の言葉となりますように。「あなたがたは羊のようにさ迷っていたが、今は、魂の牧者であり監督である方のもとに、たち帰ったのである」(ペテロ第一の手紙2章25節)。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2010年9月12日
1)ルカ15章1節-2節を読みましょう。なぜ、パリサイ人や律法学者はイエスが罪人達と食事をしていることについて度々、非難したのでしょうか。
2)ルカ15章3節-7節を読みましょう。聖書は多くの箇所で神を羊飼い、人間を羊として例えています。なぜ人は羊として例えられているのでしょうか。
3)イエスがその目で人を見る時に、それは以下のように見えました。「また群集が飼う者のない羊のように、弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」(マタイ9章35節-37節)。今日、イエス様は現代人をどのような思いで見ていると思いますか。
4)ルカ15章8節-10節を読みましょう。羊は自分で動き回れますが、銀貨は落とされた場所から動くことが出来ません。この銀貨の状態から、どんな現代人が想像できますか。
5)銀貨が椅子の陰に落ちているのなら、その価値はありません。銀貨は使われて、その価値があるのです。このことから私達が神様から見いだされることにはどんな意味がありますか。
6)失われた羊と銀貨を見出した者に共通することは何でしょうか。それは神様が私達を見出した時の心をあらわしています。神様にとったあなたはどんな存在なのでしょうか。
7))ヨハネ10章10節には「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」と書かれています。あなたは「命」には「豊かさ」の違いがあるということを知っていましたか。
主を私を探し当ててください。
主を助けてください。。。。。。。。。。
こじさん
既に神様はこじさんのすぐ傍にいらっしゃいますよ。心の扉をたたいていますよ。
あとは・・・応答するだけです。