私は四十を超えました。「四十を超えたら不惑」だと孔子は言いましたが、とんでもない、今も悩み多き人間です。人生経験の豊富な皆さんの前にはまだ鼻垂れ小僧です。でもこの鼻垂れ小僧でも一つ分かってきたことがあります。すなわちかつて司令塔(私達の頭)がしっかりしていれば人生は何とか無難に送ることができると考えていたということです。が、しかし、今は全く違う考えをもつようになりました。それは、こういうことです。
私達の人生は色々な知恵(言い方を変えれば様々な情報)がこの司令塔(頭)にあれば、それで十分かといいますと決してそういうわけではないということです。こと人間に関する事柄はいつも1足す1は2と問題が解決するのではないのです。マニュアルをそのまま使っても通用しない世界に私達は生きているのです。そして、そのマニュアルを無きものにする私達の想定外の第一要因は私達が罪人であるということです。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。 よかったらどうぞ!
司令塔は機能していますか? 2010年2月14日 エペソ6章10節-20節
10最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15平和の福音の備えを足にはき、 16その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
ずっと神の武具についてみてきていますが、今日は「兜」というものに焦点を当ててみたく願っています。以前、「正義の胸当て」のところでもお話しましたように心臓は致命的な器官ですが、それ以上に頭もそうです。そこには、私達の脳があるからです。バイクや自転車にのる人はすね当てをつける義務はありませんが、ヘルメットをかぶる義務はあります。脳に打撃を受けるとそれが頭のみならず体全体の致命的な障害となるからです。手足の骨折ならその部分の治療ですみますが、脳に関してはそういうわけにはいきません。
それではその大切な頭を守る兜を聖書は何といっているのでしょうか。聖書はそれを「救いの兜」と呼んでいるのです。このところから幾つかのことを見て生きたいと思います。まず最初に「頭は私達の司令塔」ということを見ていきましょう。
頭は私達の司令塔
これまでも何度かお話してきましたが、私達には一つの大切な法則があるようです。それは「私達が日頃、何を考えているか」ということが私達の人生を決めるということです。すなわち「私達の考え」に基づく「私達の言動」と、その言動に基づく「私達の習慣」へと広がり、その私達の習慣の積み重ねが「私達の人生」となるからです。
ご存知のようにユダヤ人の歴史は常に迫害と追放にありました。彼らの歴史はその度に蓄えていたものが略奪されるということの繰り返しでありました。それゆえに、彼らがそこから得た教訓は、誰にも奪われることのないものを蓄えるということでした。そんな彼らが行き着いたものは「頭の中に蓄えることができるもの」だったのです。どんな圧制者もその頭の中にあるものまでを奪うことはできませんから。すなわち、それは彼らが「考えること」であり、その考えを彼らは小さな時から訓練したのです。
その彼らの考える教材となったのは聖書であり、彼らはその聖書と共に自らの思考を訓練したのです。そして彼らの思考はやがて不動の知恵となり、その知恵がある限り、彼らはどこに追いやられても、その行った場所でそれらを引き出して、そこから立ちあがることができるということを学んだのです。彼らは「自分が考えていること」が、どのように「その人生に影響を与えるか」ということをよく知っている民族でした。そして、今日、私達は彼らの方法が賢明であったことを見聞きしています。
そのような意味で私達の頭は私達の全体を指揮する司令塔のような役割をもっています。そこから発せられる指示に従って私達は誕生してから今日まで生きているからです。
今日の箇所はその司令塔なる頭を「救いの兜」で覆いなさいというのです。これまでみてきました様々な武具においても、まずそのことから取り組んだのですが、なぜ、この頭を守る兜は「救い」なのでしょうか。その辺りからみていきましょう。
救いとは
私達は「救いの手を差し伸ばす」とか「命からがら救われた」というような言葉を使うことがありますが、ここでいう救いとは何なのでしょうか。
米国で刑務所伝道をしているチャック・コルソンは犯罪の原因について以下のようなことを記しています。
1)19世紀、20世紀には犯罪は悪い環境(貧困、人種差別、法制度の不備)のせいで起こると主張する研究が多かった。
2)しかし、ここ30年間の研究では、犯罪とは「誤った道徳的決断」のことであることが明確となってきている。
3)ハーバート大学の社会学者ジェイムス・ウィルソンとリチャード・ハーンスタインの研究では、犯罪の原因は、成長期における道徳教育の欠如にあることが示されている。
4)心理学者のスタントン・セイムナウとサムエル・ヨケルソンの17年におよぶ研究によれば、犯罪とは例外なしに「熟考の結果行ったもの」である。それに対する処方箋は「新しいライフスタイルを得る」ことにしかないという。
5)犯罪の問題を解決するためには、根本的な原因を突き止める必要がある。その根本的な原因とは、人間の罪である。
(Charles Colson, with Anne Morse. “The Great Debate”より)
このところにおいてキーワードになる言葉があります。それはこの30年の研究において犯罪とは「誤った道徳的決断」のことであり、特にそれは「成長期における道徳教育の欠如」によって大きな影響を受けており、さらに犯罪に対する処方箋は「新しいライフスタイルを得る」ことであり、その犯罪の根本的な原因を究明していくとそこには「人間の罪」というものがあるということです。
聖書がいうところの「救い」とはこの罪からの救いなのです。借金から救われましたとか、騒動から救われましたということではないのです。確かにそれらは大切なことでしょうが、それはあくまでも私達の表面的なものでしかありません。ここで記されている「救いの兜」の救いとはもっと根本的な人の心の奥底にあるものからの救いを意味するのです。
そして、そう考えます時になぜ、この救いが兜なのかが分かります。なぜなら、この問題は私達にとって致命的なものだからです。この罪というものによって、私達の司令塔がその考えや判断を誤る可能性があるからです。そして、先にお話しましたように、それは私達の日々の生活、その集大成である人生にとてつもない大きな影響を与えることになるのです。
私も40を超えました。「40を超えたら不惑」だと孔子は言いましたが、とんでもない、今も悩み多き人間です。人生経験の豊富な皆さんの前にはまだ鼻垂れ小僧です。でもこの鼻垂れ小僧でも一つ分かってきたことがあります。それはかつてこの司令塔がしっかりしていれば人生は何とか無難に送ることができるという考えでした。が、しかし、今は全く違う考えをもつようになりました。こういうことです。
私達の人生は色々な知恵(言い方を変えれば様々な情報)がこの司令塔(頭)にあれば、それで十分かといいますと決してそういうわけではないということです。こと人間に関する事柄はいつも1足す1は2と問題が解決するものではないのです。マニュアルをそのまま使っては通用しない世界に私達は生きているのです。そして、そのマニュアルを無きものにする私達の想定外の第一要因は私達が全て罪人であるということです。
あの社会主義の国々も頭で考えたマニュアル通りにいけば、富の分配を中心とした平等な理想郷が建てあげられるはずだったのです。しかし、彼らには大きな誤算がありました。それは人には罪があるという事実です。富の分配や平等に生きる理想になぞ生きられない罪が私達にはあるということです。そして、これは一国の体制のみならず、私達の仕事や結婚にも当てはまるものです。
マニュアル上は全てオーケーに見える。しかし、そこに人の罪が関わってくる時に、全てのことが複雑となり、それが毒を撒き散らしていく。ここがトリックなのです。私達は頭で考えます。しかし、もしこの頭の中を罪が支配していたら、出てくるものは問題を生み出します(先にあげたユダヤ人とおそらく他の民族との違いは、彼らには聖書というものがあり、そこに記されている人間の救いがたいこの罪というものも踏まえて、その上に自らの思考を形成することができたということです)。
三浦綾子さんがその著書の中で書いていることを時折私は思い出します。ある一人の夫人がいました。彼女はとても優秀な人で願った進学もし、願った職にもつきました。仕事にも恵まれ、結婚にも恵まれました。そして、ある時、子供を宿しました。夫も喜び、家族も手放しで喜んでくれました。そして、彼女は元気な子供を生みました。幸せな毎日でした。しかし、やがて彼女の心の中にわだかまりが沸いてきました。その時に彼女はあることに気がついたというのです。自分がそれまで集めてきた育児の情報が全く役立たない。はたと気がつきました。なぜ、そんなことに気がつかずにいたのかと思いました。そうです、人が育つためにマニュアルはないということを。確かにわが子ゆえの愛おしさがある。しかし、その子は自分とは違う一人の人であって、時に遠慮することなくその自我を自分にぶつけてくる。その子の言動により、自分の内心も穏やかではなく、ふとわが子でありながら、その子に対して思っている苦々しい感情に、いったい自分は何を考えているのかとハッと気がつき、寒気がしたというのです。そして、その時、初めて自分は罪人なのだと分かったというのです。
その罪に対する救いというのが、このところに記されている「救いの兜」なのです。このような私達の心にある罪に対して解決を与えてくださる。そう、イエス・キリストの十字架が私達の罪を全て赦してくださる。その救いの兜をかぶりなさいというのです。三つ目のことを見ていきましょう。それは「救いによる希望」ということです。
救いによる希望
皆さん、テサロニケ第二の手紙5章8節、9節によりますと「私達は昼の者なのだから、信仰と愛との胸当てを身につけ、救いの望みの兜をかぶって、慎んでいよう。神は私達を怒りにあわせるように定められたのではなく、私達の主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである」と書かれています。ここには「救いの望みの兜」とかかれています。救いだけではなく、そこには望みということが書かれているのです。
サッカーの攻撃には司令塔という選手がいます。ある意味、その司令塔がどれだけの活躍をすることができるかということが試合に大きな影響を与えます。彼らに課せられる任務はその名の通り、一つのボールだけを目で追っていくことではなくて、高いところから競技場全体を眺めているかのようにして、ボールをこの先どのように動かすかということを考えて、最終的にそのボールがゴールネットに突き刺さっているところまでイメージできることなのです。彼らに必要なことは常にフィニッシュをイメージしつつ、その瞬間、瞬間をプレイすることなのです。
そして、それはここにも記されているように私達がこの兜をつける時に、私達が「救いによる望み」というものをも常に見据えることができるということです。「救いによる望み」とは何でしょうか。聖書は約束しています。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりも滅びることなく、永遠の命を持つためである」(ヨハネ3章16節 新改訳)
私達が救いの兜をかぶる時に、この聖書の言葉が約束しているように、私達のこの地上での最後の時、否、その先までも望み見ることができるのです。そして、そのことによって私達は永遠に生きることが許されている自分をイメージしつつ、今を生きることができるのです。サッカーの司令塔がゴールの瞬間をイメージしながら、どこにパスを出し、どこに走ればいいのかということを考えるように、私達のその永遠の命をイメージしつつ、自分の今に本当に必要なことは何かということを峻別するのです。
へブル人への手紙11章には聖書の世界に生きた私達と同じ様々な人間を取り上げて、こんなことが記されています。
13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 (ヘブル11章13節-16節)
これらの人たちは皆、自らが地上では旅人であり、寄留者であることを言いあらしたというのです。旅人と寄留者に共通することは何でしょうか。彼らは一つところに留まらず、ある目的地を望み見て、そこを目指して生きる者達です。これらの人達の司令塔(頭)はそこを見ていましたので、その人生に起きる事柄もその視点からとらえることができたのです。そのような生き方をしていった彼らをこのヘブル書の記者は「まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び」と書いています。彼らがそれを望み見て生きることは、喜びであったというのです。それは彼らにとって何にも変えがたいものであったのです。
先日、常石アーサー牧師の葬儀に出席することが許されました。400人ぐらいの人が集まっていた葬儀でした。伝道の書7章2-3節に「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、全ての人の終わりがあり、生きている者が、それを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる」(新改訳)という言葉がありますが、キリスト教の葬儀に出るたびにそう思います。なぜなら、そのところでは必ず彼らが行った場所について語られるからです。そして、その一人の人間の人生というものが語られるからです。その人が確かに神が用意してくださったその都を目指して歩んでいたのだということを確認することによって、私達は今一度、自分の人生というものを考えるからです。そして、あらためて自分に約束されている希望というものを心に留めるからです。そのことによって、今、自分は何をすべきか。これから、何に焦点をあてて生きていけばいいのかということが整理されるのです。
晩年のキング牧師はおそらく自分の死が近いことを知っていたのでしょう。メンフィスで暗殺される前の晩に説教をしていました。その最後に彼は「私は山頂に登ってきた」(I’ve Been on the Mountain Top)という有名な説教をなし、その最後にこんな話をもって説教を閉じているのです。
私には今何が起こるのか分かりません。とにかく我々の前途には困難な日々が待ち構えています。しかし私にはそれはもう問題ではありません。なぜなら私は山頂に登ってきたのですから。私は心配していません。どなたとも同じように、私も長生きはしたいと思います。長生きにもそれなりの良さがあります。しかしそのことにも私はこだわっていません。私はただ神のみ心を行いたいだけです。神は私に山に登ることをお許しになりました。私は辺りを見回しました。そして約束の地を見てきました。私はみなさんと一緒にはそこに行けないかもしれません。しかし私は皆さんに我々は一つの民としてそこに行くのだということを知って欲しいと思います。私は今晩幸せです。私は何も心配していません。私の目が主の来臨の栄光を見たのですから。Well, I don't know what will happen now. We've got some difficult days ahead. But it doesn't matter with me now. Because I've been to the mountaintop. And I don't mind. Like anybody, I would like to live a long life. Longevity has its place. But I'm not concerned about that now. I just want to do God's will. And He's allowed me to go up to the mountain. And I've looked over. And I've seen the promised land. I may not get there with you. But I want you to know tonight, that we, as a people, will get to the promised land. And I'm happy, tonight. I'm not worried about anything. I'm not fearing any man. Mine eyes have seen the glory of the coming of the Lord.
キング牧師も先のヘブル人への手紙に記されている古の人達と共有する思いをもってこの地上を生きたのです。すなわち、たとえその先に困難があったとしても、さらにその先にある栄光を彼は望み見ていたのですから。すなわち、キング牧師は自らの司令塔から霊の目をもってその人生を歩んできたのです。死を意識しながらも、彼の目にはその「救いの希望」がありましたから、彼はその生涯を自らが信じるところに没頭して生きることができたのです。彼の人生は39年という短いものでしたが、彼ほどにその人生を濃く、深く生き抜いた人を私達は知りません。
今日は「救いの兜」をかぶることをお勧めしました。それは、私達の人生を決める私達の司令塔(頭)を守るものです。肝心要のその中枢基地が罪から守られますように。その中枢基地が常に私達のゴールをとらえて、日ごとに的確な思いを私達に与えることができますように。
最後に幾つかのことを皆さんにおうかがいして、このメッセージを終えたいと思います。あなたの司令塔は今、しっかり機能していますか?。色々な知恵がそこにありながら、罪がそれを邪魔していませんか?その頭は「救いの望みの兜」によって保護されていますか。その兜をかぶって、この人生を歩んでいきませんか?
お祈りしましょう。
本日のおもちかえり エペソ6章10節-17節 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
1)あなたは「あなたの考え」に基づく「あなたの言動」と、その言動に基づく「あなたの習慣」、そして、そのあたなの習慣の積み重ねが「あなたの人生」になるということについてどう思いますか。あなたの司令塔(頭)は、このことを理解していますか?
2)「救いの兜」の救いとはどんな救いなのでしょうか。私達はなぜ「賢い」だけでは人生をしっかりと歩むことができないのでしょうか。なぜ私達の人生はマニュアルどおりにはいかないのでしょうか。その一番大きな原因は何ですか?
3)テサロニケ第二の手紙5章8節、9節を読んでみましょう。ここには「救いの望みの兜」という言葉があります。ここに記されている「望み」とは何でしょうか?(ヨハネ3章16節)
4)司令塔の役割は状況の全体を把握することです。あなたは、自分の人生の全体を把握していますか?
5)へブル人への手紙11章13節-16節を読んでみましょう。「旅人」や「寄留者」に共通することは何でしょうか。あなたは何を人生の最終的な目標として歩んでいますか?
6)伝道の書7章2節‐3節を読みましょう。なぜ「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい」のですか?
7)救いの兜をかぶることによって、私達が何を得ることができるかを確認しましょう。