我らは寄留者なり

私は若い頃、バックパック一つ背負い、一人旅をしていました。そのような旅の鉄則は全ての所持品をバックパックに詰めることができるようにするということです。なぜなら、私は旅をしていたのであって、その旅先に定住していたのではないのですから。そもそも、そのような旅において大きなスーツケースにアイロンやドライヤー、鍋や皿まで詰めて旅を続けていたら、身動きがとれませんし、やがてそれらの物が自分の行動を制限することになります。実際に私はある日、インドのカルカッタのスラム街をガラガラガラガラ、大きなスーツケースを持って歩いている旅行者を見ました。そのスーツケースは、この人は旅行者でありながら、ここに定住しているのだろうかと思わさせるほどに大きなものでした。そして、明らかなことは、その人がそのスーツケースと共にある限り、カルカッタで見るべき素晴らしいものの多くを見届けることはできないだろうということでした。同じことが私達の人生にも起こります。私達がこの地での生は「寄留者として生きる場所なのだ。その先には本当の故郷が備えられているれだ」と生きるのと「この地が私の全てなのだ」と生きることは、今日の私達の生き方を決めます。私達がこの地で私達は寄留者なのだということを意識して生きるのなら、そこにはベスト・オブ・ザ・ベストは最後にあるのだという希望、期待、喜びがあります。そして、その心構えは私達の心を自由にし、身軽にし、ひいては本当の意味でこの地上での旅路をも喜びに満ちたものとしてくれるのです。私達の生活の悩みの多くは、しばしば私達が所有しているものへの執着心にあるのですから。

 

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マック

 

今日、礼拝でお話したメッセージです。

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我らは寄留者なり

Ⅰコリント15章12節-20節                         2010年4月4日

今日はイースターです。イースターとは十字架にかけられ、死んで葬られたイエス・キリストが墓の中からよみがえったということを記念する時です。このキリストが死を打ち破りよみがえったことにより、私達も死に対して備えができる、すなわち私達にも永遠の命が約束されているのだということが聖書が言っていることです。

「死」ということに対して色々な思いを私達はもちます。ある人はそれをとても身近なものと感じることでしょうし、ある人はそれを自分とは関係のないものとして考えるかもしれません。聖書にはイエス・キリストの教えを命かけて伝えたパウロという人が出てきますが、彼はそのキリストを伝えるということについて、こんな興味深いことを書いています。Ⅰコリント15章12節-20節を読みましょう。

12さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。13もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。14もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。15すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。16もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。17もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。20しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

パウロはここで、もしあることがなければ、キリストを伝える私は「むなしく、空虚で、あわれむべき存在」であると言っています。そして、その「あること」とは「キリストの復活」だというのです。すなわち、もしキリストの復活がなければ、どんなにキリストが愛と憐れみに満ちた生涯に生き、その言葉がどんなに力があり、素晴らしいものであったとしても、目を見張るような偉大な奇跡をしたとしても、もしキリストが死んでしまったのなら、その死からの復活がなければ私がしているこの宣教はむなしく、私はあわれむべき存在だというのです。これは一言で言いますならば、「死に対する解決がなければ全ては虚しい」ということです。なぜ、パウロはそのようなことを言っているのでしょうか。このことに対してイエス・キリストはこのような譬話をもって光をあてています。

「16「ある金持の畑が豊作であった。17そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして 18言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。19そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。20すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。21自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」ルカによる福音書12章16節-21節)。

なぜパウロは死を虚しいものとしたのか。なぜなら、それは全てのものを無にしてしまうからです。言い方を変えれば「死んでしまったらお終い」ということです。どんなに莫大な財産を残しても、名声を得ても、何かを人に伝えても、もし死んでしまえば、それが何になろうかというのです。人はその心に虚しい思いを持ちますが、その原因を突き詰めていくならば、そこにはこの死があります。

私達の住む世界に100パーセントの確率で起きるものというものは多くはありません。人生の中で実際に交通事故に遭う人の確率は100パーセントではありませんし、癌にかかる人の確率も100パーセントではありません。しかし、人が死ぬということに関して言えば、これは100パーセントです。これまでこの地球上に延べ何百億、何千億の人間が生まれ、その生を生きたと思いますが、それらの人は皆、死んでいきました。今日「私は坂本竜馬やエイブラハム・リンカーンの同級生でした」という方はここにいないでしょう。

二週間前に日本にいました。便利な時代となったものです。時々、日本から家族とスカイプで会話をしました。スカイプとはインターネットの画面を介して、無料で、相手の顔を見ながら話ができる電話です。日本から朝、電話をするとアメリカは夕方で、学校から帰宅した子供達とも顔を見て話しができます。それぞれ元気そうな姿を見て、神様に感謝をしていましところ、突然、長男の声が聞こえました。「あれ、動いていないよ」。何を言っているのか、私が見ている画面は部屋の一部ですので、その時、家の中で何が起きているかは最初、分かりませんでした。

しかし、分かったことは娘が大切に育てていたハムスターが、つい一分前までは娘の手のひらにのって、愛くるしく元気にしていたのに、突然、動かなくなり死んでしまったというのです。こちらは日本、まさか生中家で会話をしている最中にそのような悲劇が起きることなど考えてもいなかったので絶句しました。すぐに娘をカメラの前に来るように言いまして、彼女の表情を見ましたが、何が起きたのか理解できないでいる呆然とした姿がそこにはありました。私はどうすることもできないので、家内にその後のケアーを全て任せて電話を切ったのですが、やはりその後に彼女は我にかえり大泣きしたというのです。手の平のぬくもりは数分後には冷たいものとなったのですから。最後は、家族全員でタンポポの花を取ってきて、お墓を作ってあげたというのです。

私はこの出来事を通して大切なレッスンを学びました。それは、死というのは時を選ばずに私達の生活に突如、介入してくるということです。それがハムスターであっても、人間であってもその時期と場合に大きな違いはありません。私達には寿命というものがありますが、必ずしもこの死というものは高齢だから起きるものとは限らず、それは年齢に関係なく突然、私達に降りかかってくるものなのです。へルマン・ファイフェルという人は「死が老人だけに訪れると思うのは間違いだ。死は最初からそこにいる」と言っていますが、その通りだと思います。

そして、それはイエスが言われたとおり、何かを築き上げ終わった絶頂の時には絶対に起きないとは誰も言えないのです。願ったものを全て手にした時に、これからというう時にそれは来るかもしれません。そして、その時に私達はその手の中にあるもの全てを残して逝くのです。

イスラエルの三代目の王であった知者ソロモンはこのような言葉を伝道の書7章2節-4節に残しました。2祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。3悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。4知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く (新改訳)。

神様はソロモンに誰にも与えられていないほどの知恵を与えたと聖書は記していますが、この言葉には人が生きる知恵が凝縮されています。なぜに彼は「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがいい」と言ったのか。皆さんは、なぜだと思われますか。

ソロモンはこの言葉によって「死から逆算して人生の計画を立てる」ことを私達に勧めているのです。確実に来る私達の終わりを知り、そこから逆算して、今という時をどのように生きるのかと考えるということです。あの実存主義を唱えたハイデガーは「人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」と言いましたが、これはソロモンが言っているそのことです。

ですから今朝は単刀直入、皆さんに「あなたはこの死に対して備えが出来ているだろうか」ということをお聞きしたいのです。チェザーレ・ボルジャというイタリアの政治家は「私は生きているときに、死以外のあらゆるものに対して備えをしていた。今、私は死なねばならぬ。そして、まだなんの備えもない」と言いました。この言葉になぞって言いますならば、死への備えとはお墓を買っていますとか、遺産の手続きを既にしてありますとか、そういうことではありません。三浦綾子さんが生前「私には最後にまだ大きな仕事が残っている」と言われたように「あなたが死ぬ」ということ、それ自体に対して備えがあるか、その大仕事に取りかかっているかということをお聞きしたいのです。

先ほど読みましたⅠコリント15章12節-20節の言葉を書いたパウロはそこで「死人の復活」ということを書いています。あえて何も説明はいらないと思います。その言葉の通り死んだ人がよみがえるということです。そして、パウロがこのところで記している「死人の復活」とはイエス・キリストが死からよみがえったということなのです。このようなことを聞きますと「おい、ちょっと待ってくれ、その類の話はあまり聞きたくないな」という方もいるかと思うのです。そして、そのような思いは全くもって正常な思いなのです。

実際にこのパウロ自身、ギリシアのアテネにおいて説教をした時のことについて、ルカと言う人は使徒行伝の中にこう記録しています「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは「このことについては、いずれまた聞くことにする」と言った」(使徒行伝17章32節)。すなわち、今から2000年も前の人達も「死人の復活」ということを聞いて、それをあざ笑い、またいつか聞かせてくれと言ったのです。

 

私は過去に何人もの人達がこういうのを聞いてきました「キリストの言葉は素晴らしい。そのなさったことも素晴らしい。しかし、なぜ死んだ人間がよみがえることができるか分からない。理解できない」。この問いかけはきわめて普通であります。そして、残念ながら私にも死人の復活がどのように起きたというようなことは分かりません。おそらくどんな優秀な医者であっても一度、心臓が止まり、三日経った人間がよみがえるということを説明できる人はいないと思います。ですから、このことは理解できないことです。ただ私達のできることは無から有を生み出す神にできないことはないと信じるということだけです。どうやら神様は人間が「全て分かった」ということを誇るように作られたのではなく、その「理解の限界に頭を垂れる謙虚さ」というものを望まれているようです。

聖書は私達の命について、それは偶然の産物ではないといいます。そこには意味があり、私達に命を与えた存在がいるといいます。そこには目的があるというのです。そして、その命を与えた方を私達は神と呼び、この神は愛であると聖書は記しています。そして、この神が愛であるならば、命を与えた方はその人の死に対して、ないがしろにされるお方ではないのです。命を与えておいて、後は知らないということではない、その死についても責任を負ってくださるお方なのです。その責任を果たすべくイエス・キリストは復活されたのです。

そしてそのことが意味することは、私達にも死からの復活があるということなのです。すなわち死は私達にとっての終わりではなく、その先、すなわち永遠の命が私達には備えられているというのが聖書が約束していることなのです。

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。

この約束に私達があずかるということこそが、私達が死に備えるということであり、それはこういうことです。すなわち、私達が今日、お祝いしているこのイースターとは、私達が死は恐れ、絶望するものではないということを確認する日のことであり、私達が「ハッピー・イースター!」と互いに挨拶を交わすように、それはまさしく驚くべき喜びの日なのです。

ここに立つ時に、私達は今という時がどんな時なのかということが分かってきます。このことを知っているか否かによって私達の生き方は雲泥の差となります。ヘブル人への記者はその手紙11章13節から16節において、こう記しています。

13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

私は若い頃、バックパック一つ背負い、一人旅をしていました。そのような旅の鉄則は全ての所持品をバックパックに詰めることができるようにするということです。なぜなら、私は旅をしていたのであって、その旅先に定住していたのではないのですから。

そもそも、そのような旅において大きなスーツケースにアイロンやドライヤー、鍋や皿まで詰めて旅を続けていたら、身動きがとれませんし、やがてそれらの物が自分の行動を制限することになります。実際に私はある日、インドのカルカッタのスラム街をガラガラガラガラ、大きなスーツケースを持って歩いている旅行者を見ました。そのスーツケースは、この人は旅行者でありながら、ここに定住しているのだろうかと思わさせるほどに大きなものでした。そして、明らかなことは、その人がそのスーツケースと共にある限り、カルカッタで見るべき素晴らしいものの多くを見届けることはできないだろうということでした。

同じことが私達の人生にも起こります。私達がこの地での生は「寄留者として生きる場所なのだ。その先には本当の故郷が備えられているれだ」と生きるのと「この地が私の全てなのだ」と生きることは、今日の私達の生き方を決めます。私達がこの地で私達は寄留者なのだということを意識して生きるのなら、そこにはベスト・オブ・ザ・ベストは最後にあるのだという希望、期待、喜びがあります。そして、その心構えは私達の心を自由にし、身軽にし、ひいては本当の意味でこの地上での旅路をも喜びに満ちたものとしてくれるのです。私達の生活の悩みの多くは、しばしば私達が所有しているものへの執着心にあるのですから。

あの星野富広さんはその心境をこんな詩によって表現しました。

いのちが一番大切だと 思っていた頃                                               生きるのが 苦しかった                                    いのちより大切なものが あると知った日                                 生きているのが 嬉しかった

この地で所有する最も大切なものは私達の命でしょう。富広さんはその最も大切な命に対して、それが命が一番大切だと思っているうちは、常に苦しみが自分の生活の中にあったというのです。しかし、その命よりも大切なものがあると知った日から、生きているのが嬉しいものとなったというのです。この境地はお金では買えない、習得して得られるものではない、何にも変えがたいものです。

このような人生を送るために必要なことこそが、私達がその死というものをどのように受け止めるのかということを知ることなのです。マザーテレサは言いました「死を通過せずに天国には行けない。そう考えるならば死すらも美しい」。これが私達の死です。そしてその天国のへの道は、キリストの復活によって私達の前に開かれているのです。

皆さんの生涯はあと何年残っていますか。いいえ、この質問はおかしいものです。そのことを知る人はいません。しかしながら、その残された日々を本当に生きているのだという実感と共に送りたいと思いませんか。そのためにおいしいものを食べて、あそこに旅行して、この人と出会って・・・。と色々なご計画がおありでしょう。それも大切なことです。しかしながら、その前に肝心要の準備をしませんか。それは、あなたの死に対する備えです。その死に対して準備ができましたら、後は自由に与えられた人生を本当の意味においてお楽しみください。その備えに対して完璧な答えを示している日が、今日というイースターなのです。お祈りしましょう。

 

本日のお持ち帰り                               2010年4月4日                                     

あなたは「死」というものをどのように考えていますか。クリスチャンとなる前と、なった後では死生観に対してどんな変化がありますか。

Ⅰコリント15章12節-20節を読みましょう。なぜ、パウロはここで「もしキリストがよみがえなかったら、私達の宣教はむなしく、あなたがたの信仰はむなしい、私達は全ての人の中で最もあわれむべき存在だ」と言っているのですか。

ルカによる福音書12章16節-21節に記されている現実をあなたはどのように受け止めますか。この現実を心に刻む時に、あなたの生活には変化が起りますか。

伝道の書7章2節-4節を読みましょう。「死から逆算して人生の計画を立てる」ということはどういうことですか。あなたは死ぬ準備ができていますか?

今日はイースターです。今まで見てきたことを考える時に、あなたにとってイエス・キリストが死んで復活されたということは、どんな意味をもちますか?

ヘブル人への記者はその手紙11章13節16節を読みましょう。あなたは寄留者としての地上での生涯というものを自覚していますか。聖書がいうように、私達の本当のふるさとは天にあるということを踏まえて生活していますか。

 

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我らは寄留者なり」への4件のフィードバック

  1. メキシコ北部でM6.9の地震があったそうですね。サンディエゴもかなり揺れたのではないでしょうか。皆さん、ご無事ですように…

  2. はちこさん
    ご心配くださりありがとうございます。私も当地に12年住んでいますが、ここ数年、地震を感じたことはありませんでした。が、しかし、今日は確かに地が揺れているのをはっきりと体感しました。
    驚いたのが、その時ちょうど友人牧師の按手礼式の最中で、牧師達がその牧師に手を置いて祈り終えた直後に、その地震が起きたのです!普通はありえないですよね。ありえないってことは・・・。

  3. いや~、驚きました、今日の地震。でもそのあと、息子たちにお金とか貴重品、ちゃんと集めておきなさい!!なんていったら、次男が、死ぬときにハお金はもっていけないよ、、、と。
    地震にあって、すぐに死ぬことはめったにないとしても、このごろの世界中で起きている大地震のことを思うと、
    そうですね、、、、と素直に答えた母。
    そのあと、考えました。今日の礼拝メッセージ、死から逆算して人生を考える、死ぬことへの備えは出来ているか、、、、??
    備えの出来ている人だったら、ああいう大きな地震だろうが、火事だろうが、命にかかわる病気になろうが、平安な気持ちで、天国へ行くときが来た、、、、と喜べるんじゃないだろうか、、、、と、思いました。
    そして、夜、U姉にその話をしたら、もう何年も前から死ぬことは怖くないのよ、、、、と。備えがきちっと出来ていらっしゃる、信仰の大先輩の笑顔に、主にゆだねて生きていくとは、こういうことなんだ、、、と教えられました。
    いやはや、この私、まだまだです。霊的にもまったくだめですが、まずは身辺整理からだわ!!と、焦った今日の地震でございました。
    いつでもOKになれるように祈って行きなさい、、とメッセージと地震を通して神様に語ってくださった忘れられないイースターです。

  4. たべすぎさん
    ほんとです。4日のメッセージは午後の地震によって完結しました。
    人が自信もって築く土台はなんとはかないものなのでしょうか!体感を通して、教えられました。

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