鶏は自分が世界の中心だと思って生きています。猫だってそうだと思います。よく、猫がゴロゴロいいながら、気持ちよさそうに人間の足に体をこすりつけてくることがあります。私はそんな猫に会いますと、こんなに自分にすり寄ってきて、何と甘ったれで、かわいいんだろうとかつて思っていました。
しかし、以前、見ていた動物番組であの猫の行動は自分のテリトリーに自分の体臭を刷り込んでいる動作であって、私達は何と甘えん坊でかわいいんだとろうなんて思っている時に、猫の方では、これで俺様のテリトリーが一つ増えたなんて思っているというのです。すなわち、その時、私達は木や電柱となんら変らないのです。このギャップは大きいです。この猫にとって世界の中心は自分自身なのです。
そして、それは私達もそうなのです。私達はとことん自分中心な存在であり、大抵、自分は正しいと思い、物事を自分をまん中において眺める傾向があります。
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私達が人生の主(あるじ)なのではない
ローマ9章6節-24節
2018年1月28日
先週は「イスラエル」という国が今、私達に明らかにしていることについてお話しました。イスラエルを神が選び、その民を神様は導かれてきたけれど、そのイスラエルが非常に苦しい状況を歩んでいる。そのような中で「イスラエルは神の計画の中の一つの駒であって、一度、駒の役割が終わるならば、我々は捨てられるのだ、見捨てられたのだ」というような思いを持つ者に対して、自らユダヤ人であったパウロは「いいや、そんなことはない。我々に対する約束と計画はこれからも必ず成就していくのだ」と語っている、そんなことを先週はお話しました。
そして、このことはまさしく真であって、これまでのイスラエル、すなわちユダヤ人の歴史の中に起きてきた出来事の数々が預言どおりに成就してきたということ、そして、その最たる証拠の一つに1900年もの間、祖国を失い世界に離散していた彼らが、1948年に聖書の預言通りに、彼らの先祖がかって暮らしていた土地に再びイスラエルを建国するという人類史上、類がないこと、もっと言いますと常識的には考えられないことが起きたと先週はお話ししました。
そして、今日の聖書の箇所から見ていきたいと願っておりますことは「神はそれが一民族であれ、一人の人間であれ、ある国やある人だけを祝福し、反対にある国やある人は祝福から遠ざけるようなことをされるのか」ということなのであります。
もっと簡単に言いますと「神はある人だけに特別に目をつけて、他の人のことは顧みることがない」ということがあるのか。そんなことがあってもいいのか、もしそうなら、人が罪に落ちていくということも、それは本人だけの問題ではなくて、神の側にも落ち度があるのではないかというテーマがそこには書かれているのです。
なぜ、そのようなことをここで取り上げているかと言いますと、これから読みますローマ書9章には創世記に記録されていますイサクとリベカという夫婦の間に生れたエサウとヤコブという双子の兄弟について、この二人が生れる前から、すなわち彼らが善も悪もしない先から神様は「兄が弟に仕えるであろう」(創世記25章23節)というようなことを母リベカに告げていたのです。パウロがこれらのことに触れていますローマ9章6節から24節をみてみましょう。
6しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、7また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。8すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。9約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。10そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。11まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、12わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。13「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。14では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。15神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。16ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。17聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。18だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。19そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。20ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。21陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。22もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、23かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。24神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである(ローマ9章6節ー24節)。
これらのことを読みますと私達はこんなことを考えます。人が生まれる前から神がその人に対して決めていることがあるならば、その人の生涯は不公平ではないかと。これは明らかに神の不正によるのではないか。そして、このことにおいて兄エサウの生涯から祝福が失われるのだとしたら、これらの責任は、神よ、あなたにあるのではないかと。
以前、「自分が太ったのはマクドナルドのせいだ」と言って、マクドナルドを訴えた人がいました。しかし判決は「フライド・ポテトやハンバーガーを食べ過ぎるのは個人の責任であり、マクドナルドを責めるべきではない」というもので、訴えは却下されたと聞いたことがあります。そう、肥満になるか否かはあなたの責任でしょうということです。
私達はいつも責任をなすりつけるものを探しています。ご存知のように私達の先祖である人類最初の夫婦がおそらく人類史上、一番最初にした夫婦喧嘩の原因は「責任転嫁」でありました(創世記3章11節-13節)。
最初の人、アダムとイブは神様から食べてはならないと言われていた木の実を食べてしまいました。それに対して神様は尋ねたのです「食べるなと命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。それに対して夫アダムは「あの女が、木から取ってくれたので、私は食べたのです」と言い、その妻イブは「蛇が私をだましたのです」と言いました。
この血を私達は受け継いでいるのですから、私達も自分の過ちの責任を転嫁できる人や物、そして環境を見出そうとする思いが心にあることは何も珍しいことではありません。そうすることにより、私達はいくらかの慰めを得ようとします。そして、ある意味、そのことによって私達は実際に精神的に救われているのかもしれません。しかし、もしその問題の原因が本当はあれやこれやではなく、あの人この人でもなく、自分自身であるのなら、そこに光を当てて、そこに向き合わなければ問題の解決はないのです。
道で転ぶということ一つとっても、私達は幾らでも責任転嫁ができるのです。道が悪い。靴が悪い。段差が悪い。雨が悪い。あの人が話しかけるから悪い、運が悪いなどなど・・・。
そして、最終的に私達の究極の責任転嫁はどこに向けられるのか。それは、神に対しての責任転嫁なのです。アダムは先の創世記3章で「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、私は食べたのです」と言いました。この言葉は明らかに「私にこの妻イブを与えた神よ、あなたがこの女さえ私の元に連れてこなければ、私が木の実を食べることはなかったでしょう。これはあなたの責任ではないですか」ということです。
「天気が悪い。この車が悪い。方角が悪い。隣に座っていたアイツが悪い。親が悪い。同僚が悪い」そして、私達は最後にはこう言います「神よ、この家に生まれさせたあなたが悪い。こんな仕事に就かせたのは、あなたの責任だ」。
しかし、このような私達に対してパウロは14節において「それでは神の側に不正があるのか。断じてそうではない」といっています。そして、彼はこれら神に責任を迫るような私達人間に対して15節から17節において一つのことをここに記しているのです。すなわち15節に「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者をいつくしむ」(出エジプト記33章19節からの引用)ということ、また18節にあるように「神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさる」ということです。
一見、これらの言葉は神に全ての責任を転嫁しようとする者達の考えを助長させるような言葉に見受けられます。なぜなら、これらの言葉はそのままずばり、「神はあわれもうとする者をあわれみ、かたくなにしようと思う者をかたくなにする」とあり、すなわち、このことは「私がこうなってしまったのは神がそうしたからだ」ということを主張する者にとっては願ってもない責任逃れとなる言葉だからです。
しかし、パウロはここでそのようなことを言っているのではなくて「神の絶対的な主権」を言っているのです。すなわち神とは何にも束縛されないお方で、あわれみたいと思う者をあわれみ、いつくしみたいと思う者をいつでもいつくしむことができる絶対者であるということです。私達の心ををかたくなにすることは、全能者である神にとってはたやすいことであるに違いありません。これは神と呼ばれるものであるのなら当然、有している特性なのです。
しかし、皆さん、私達はこのことをいとも簡単に忘れてしまうのです。なぜでしょうか。鶏は自分が世界の中心だと思って生きています。猫だってそうだと思います。よく、猫がゴロゴロいいながら、気持ちよさそうに人間の足に体をこすりつけてくることがあります。私はそんな猫に会いますと、こんなに自分にすり寄ってきて、何と甘ったれで、かわいいんだろうとかつて思っていました。
しかし、以前、見ていた動物番組であの猫の行動は自分のテリトリーに自分の体臭を刷り込んでいる動作であって、私達は何と甘えん坊でかわいいんだとろうなんて思っている時に、猫の方では、これで俺様のテリトリーが一つ増えたなんて思っているというのです。すなわち、その時、私達は木や電柱となんら変らないのです。このギャップは大きいです。この猫にとって世界の中心は自分自身なのです。
そして、それは私達もそうなのです。私達はとことん自分中心な存在であり、大抵、自分は正しいと思い、物事を自分をまん中において眺める傾向があります。
舞台の中心にいるのは私達で、自分以外のものは脇役であり、神様さえも端っこに追いやる。調子がいい時は神のことなど考えず、感謝することも忘れ、状況が悪くなると神様を引っ張り出してきて、今すぐ、私の願いを聞いてくれないかと詰め寄り、一見落着すると何事もなかったかのように「このことは自分の尽力により解決したのだ」と悦に入り、再び、好ましくないことが起こると「神様、どうしてあなたは私にこんな仕打ちをするのだ」とからみつこうとする。自ら言っていて情けないのですが、これが私達、人間だと私は思うのですが、皆さんはどう思われますか。
このようなことは信仰があろうがなかろうが、人間である限り、全ての人が持ち合わせている罪人なる者の性質なのです。そして、この私達の性質ゆえに解決しうる問題が、そのまま手つかずでこの世界に山積している、それが私達の現状なのです。
皆さん、このことが私達の知り合いや友人であったのなら、私達は愛想をつかすでしょう。「なんと調子がいい奴なんだ」と思うでしょう。それが自分の姿だと知れば、「私達は自分に失望する」でしょう。しかし、神はそんな私達に愛想をつかすことなく、失望することなく、神はいつも私達にその御手を差し伸べているのです。このことをしっかりと肝に据えてクリスチャンライフを仕切りなおさないと、私達の人生は時にとんでもないところに導かれてしまうのです。
パウロは20-21節にこう書いているではありませんか。「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
皆さん、神が天地万物を造られ、私達をも造られたお方であり、その命も握っておられるお方であるならば、私達はこのお方がたとえ私達の人生をいかなる方向に導いたとしても、本来、何も文句を言うことなどはできないのです。私達が人生の主(あるじ)ではないからです。先々週にもお話ししましたヨブが自分の子供達や財やその健康を一瞬にして失った時に言った言葉が、このことを一番、明確に言いあらわしています。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1:21)。
ヨブは言ったのです「主が私に子供も財産も健康も与えられた。そして、これらを私に与えられた主が、今度はこれらを私から取られた。それに対して、私が何か言いえようか。私はただ主のみ名をほめたたえよう」。
私達は神様の絶対的なこの主権をどこか心の中にいつも持っていなければなりません。そうでないと私達は心の中からとめどもなくつぶやきが出てきます。大抵、私達は自分の命、また自分の所有物は全て自分が苦労して獲得したものと思っていますから、それを手放さなければならない時に「どうして?!」と神様につぶやきます。
しかし、それらは私達が獲得したものではなく、神の主権のもとに私達に与えてくださったものであり、そのことを心の中に刻んでいくということはすなわち、すべての事は神の御手の中にあるということを受け入れることであり、そうであるのならそれらを全てを神に委ねるべきたということに徐々に私達は気がつかされていくということなのです。
しかし、ここで一つ触れなければならないことがあります。それは私達は感情をもたない無機質な陶器ではないということです。そして、私達はヨブではないということです。陶器は確かに叩いても、こねまわしても何も言わない。そこには命がないからです。しかし、私達は魂をもった人間であるということです。そして私達の多くはヨブのような忍耐と信仰を持ち合わせていないということです。私達がヨブのような境遇に置かれましたら、私達は神を呪ってしまうかもしれない、そのことを誰よりも知っているのも神様なのです。
私達は失えば涙が出てくるのです。叩かれれば痛いし、情けなさを感じることもありますし、体が痛ければ心も痛みます。そう、私達は生身の弱く、傷つきやすい人間なのです。
神様はそのような人間の心を知らずして我々の主権者として、その権限を振り回しているのでしょうか。いいえ、違いますでしょう。神はそんな私達の弱さをよく存じていてくださいます。それは「あぁ、知っているよ」と傍観者として私達を眺めているということではなく、神ご自身がその私達の弱さをご自身の肉と心に全て受け止めてくださったのです。そうです、すなわちイエス・キリストは神の主権を捨てて、私達と同じ姿になられて、私達と何ら変わりなく、この地に生きてくださったからです。
今日、読みました聖書箇所には「あわれみ」という言葉が合計7回、「いつくしむ」と言う言葉が2回、記されています。さらに神様は私達を「無機質な器」とは呼ばずに、23節において、神は私達を「あわれみの器」と呼んでいて下さるのです。
すなわち、私達は絶対的な主権者である神様のみ手の中にある器であり、陶器師である神は私達にいかなることもすることができる権限があるお方なのですが、このお方はその権限の行使を私達にあわれみをかけることに集中しておられるということです。
そもそも、私達に起きる問題のほとんどの事は私達の落ち度や私達の罪、あるいは私達と関わる誰かの落ち度や罪との関係によって起きています。神はそんな私達をあわれみ、いつくしみ、そのような私達に手を加えて私達と共にあわれみの器を作ろうとされているのです。
イエス・キリストは人として生まれるということ、喉が渇くということ、魂が渇くということ、悲しみにより泣くということ、空腹になるということ、別れるということ、裏切られるということ、捨てられるということ、失うこと、傷つけられるということ、そして死ぬということ、これら全てを私達と同じように経験されたのです。これらの私達の思いと気持ちを理解しつつ、我々をあわれみ、いつくしむお方なのです。
18節には今までお話ししましたように「神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである」と書かれていますが、実際のところ、神様は私達の心をかたくなにさせて、その姿を眺めているようなお方ではなく、23節を見ますときに、私達に神の栄光の富をあずからせるために私達に働きかけていて下さるというのです。神様は私達をあわれみ、いつくしみ、その神の主権は私達に神の栄光の富をくださるために常に働かれているのです。
私達は知らなければなりません。神が主権者、私達はその神のみ手の中にある者。これからも私達の全ての主権は神が握っている。そして、主権者なる神様は私達の日々の現実を知っていて下さる方であり、それを受け止めて下さり、日々、我らをあわれみ、愛し、そのご自身の栄光の富を私達にあずからせるために私達と共にいてくださる。そう、神はこの私達の生涯を「あわれみの器」として形作り、私達を「神の栄光の富」にあずからせようとしてくださるお方です。
先週、牧師リトリートでハワイの関真士先生とお会いしました。皆さんにも祈っていただいているように先生の奥様であるレイさんに二か月ほど前に肺に癌が見つかり、それが骨にも転移していることが分かり、医師からは厳しい言葉も告げられました。レイさん、関先生はそのような中で主を見上げて日々を過ごしておられましたが、ある時、レイさんは自分が向き合っている現実に主を見上げることができなくなったというのです。そして、下を見たと。そうしましたら、その下にも主がいたというのです。
そこには私達と全く同じように生まれ、私達と同じようにこの世の全てのことを通られた主イエス・キリストがおられたのです。そう、このお方こそが私達の栄光の富なるお方なのです。私達の栄光とは表彰台に立つことではなく、誰かから称賛を得ることでもなく、この主イエス・キリストの御臨在を見出し、この主を知ることなのです。その主は私達の上にも下にも、すなわちいつも我々と共におられるのです。そして、それこそが神が私達に与えてくださる完全なる神のあわれみなのです。私達はこの神のあわれみのもと、この地を主と共に日々、生かされている者なのです。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2018年1月28日
1)「ある人だけに特別に目をかけ、他の人は顧みることがない」のが神様だとしたら、あなたは何を思いますか。
2)私はどんな時に責任を転嫁していますか。なぜ私達は責任を転嫁するのですか。責任を転嫁することによって得られないものは何ですか。
3)創世記3章を読みましょう。ここではアダムとイブによってどんな責任転嫁がなされていますか。この夫婦の関係はこの後、どうなったと思いますか。
ローマ9章6節ー24節を読みましょう。
4)ローマ6章20節-21節の言葉は何を私達に語りかけていますか。
5)天地万物を支配しておられる全知全能の神の特権とは何ですか。
6)私達はどんな時に神様に責任を転嫁しますか。それは実際に神様の責任ですか。神様の落ち度ですか?
7)ヨブの『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』(ヨブ1章21節)という言葉は何を私達に気がつかせますか。
8)今日、読みましたローマ9章には「あわれみ」という言葉が合計7回、「いつくしむ」と言う言葉が2回、記されています。そして、神様は私達を「あわれみの器」と呼んでいて下さっています。このことは何を意味しますか。
9)ローマ9章23節―24節を読みましょう。神が私達を栄光にあずからせるために栄光の富を知らせようとしていることに気がつくことはなぜ大切ですか。ここに記されている「栄光の富」とは何ですか。