逆転進行中、その時あなたは?!

私達はその信仰生涯において、よくよく心にとどめておかなければならないことがあります。それは万人が評価すること、正しいとすることであっても、神の前ではそれは意味のないもの、否、時に災いでしかないということがあるということです。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。本日の礼拝の映像はこちら

逆転進行中、その時あなたは?!

ルカ18:10-14

2010年9月26日

10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

私たちは時として、大逆転というものを生涯の中で目の当たりにすることがあります。時にそれは野球の九回裏の逆転ホームランであったり、映画における絶体絶命の主人公の大逆転劇であったりするのです。私たちはそれらを第三者として、あるいは当事者として、傍観し体験し大声をあげたり,手をたたいたりして見守るのです。そして、それは何もスポーツや映画の中だけの話ではなくて、実際に私達の生活の中でも起きうることなのです。

 そもそもこの聖書はその大逆転で満ちている書物です。聖書に登場する人達の生涯はいつも逆転がともなうものでした。聖書において、この人こそが勝利者だと思っていたのに、実は敗者だったのだというようなこと、反対にこの人は敗北者だと思っていたのに、実は圧倒的な勝利者であったというようなことが、あちこちに書かれています。

 イエス・キリストが語られましたあの山上の教えも、その逆転について語っているのです(マタイ5章3節、4節)。「心の貧しい人達は幸いである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人達は幸いである。彼らは慰められるであろう」私達は通常、誰も「心の貧しい人達は幸いだ」とか「悲しんでいる人達は幸いだ」とは言いません。そうではなく私達は「それらの人達は気の毒だ」と思うのです。しかし、イエスの目にはそれらの人達が天国を得るであろう、それらの人達は慰められるであろうというのです。これらのことを読みます時に、私達には気がつかないところで、実際に神にある大逆転というものが起きているのではないかと思うのです。

 そもそも、そのことが最も顕著にあらわされているのがイエス・キリストの十字架と復活なのです。誰もが目をそむけるような惨たらしい死を遂げたイエス。しかし、そこから復活されたイエス。まさしく人が最も忌み嫌う死をして、それが私達に変わることのない希望となったのです。これ以上の逆転は人の歴史の中にはありません。

 これらのことを踏まえて今日、開いておりますルカの福音書のイエスの譬えを見ていきたく願っております。先週お話しました「失われた羊」「失われた銀貨」のたとえ話、そして、その前にお話した「金持ちとラザロ」の話。これらは明らかに人生の逆転について語っているものです。そして、私達自身も実際に「へぇーそうなのか」と人事のように驚いている場合ではなくて、実は現在、あなたも、わたしも自分の人生の中に、この大逆転が進行している世界に生きているのです。もっといいますとどん底にいるような者達が、実は神の前に喜ばれ、評価されている者であり、勝利者と自他共に認められている人が実は神の前における評価を全く受けていないということがあるのです。そんなことを神妙に心にとめながら今日の箇所を見て行きましょう。

 10節「二人の人が、祈るために宮にのぼった。その一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった」

 二人の人が祈るために宮にのぼったといいます。一人はパリサイ人、一人は取税人。パリサイ人は当時のユダヤ人の三大党派、サドカイ派、エッセネ派と並ぶ派で、最も厳格な派とされてきました。彼らは律法を守ることにより、神の恩恵を受けるという信仰に立ち、律法の解釈とそれらの日常生活における適応を重要な課題としていました。そして、実際に彼らはそれらを落ち度がないほどに、厳格に守っていたのです。

 それに対してここに書かれている収税人についてはここ毎週のように説明しておりますが、彼らはローマ帝国の税金を取り立てる下請け人、集金人のことを指します。彼らは実際には、ローマ帝国に納金する以上のお金を取りたてており、ローマ帝国の方も納金さえしていればその取りたての仕方には関与しませんでした。ゆえに、彼らは巨額の富を持っていましたが、一般の民衆からは嫌悪の対象と(ユダヤ人社会の仲間入りも拒否)されていました。多くの人が収税人を強盗とも呼んでいました。

 この二人が宮にのぼったというのです。宮にのぼるということには目的があります。そうです、彼らはそれぞれその宮で祈ったというのです。パリサイ人はこう祈りました。11,12節「神よ、私は他の人たちのような貪欲な者,姦淫をする者ではなく、また、この収税人のような人間でもないことを感謝します。私は一週に二度断食しており、全収入の十分の一を捧げています

 ここで、このパリサイ人は「自分以外の他の人達」を挙げ、彼らのように貪欲ではなく、姦淫をする者でもなく、またその目に留まったのでしょう、時同じく宮にのぼったこの収税人のような人間ではないことを神に感謝しているのです。

 わたしたちも時として、こう思う時があるのではないでしょうか。祈りの中でそうでなくとも、日常の中で自分がしないような人間の道徳に反したことをした人をみるにつけ、自分はあたかも、それをしていないという立場から、あんな自分じゃなくて良かった、神様、感謝しますとか。あの近所のあの人とは違って私はこんなに真面目に働いているとか。他を批判することにより、自分を引き上げるのです。

 そして、12節を見ると週に二度している断食と自分が受けたものは全て十分の一を捧げていると述べています。当時はユダヤ人に義務として負わされる断食は年に一度だけであり、自分の全収入の十分の一というものも律法に記されているのは農作物の十分の一を捧げるというものでした。しかし、このパリサイ人は一年に一度ではなく、週に二度の断食、そして農作物だけではなく自分が受けたものは全て10分の一を捧げたというのです(マタイ23:23などを見ますと庭先のハーブの十分の一までも捧げている彼らの姿を見ます)。つまり、彼らの行為は信仰深いユダヤ人に要求されていたもの以上のものでした。そうです、断食にしても、捧げものにしても、定められていたものよりも、はるかに多くのことを彼らはしていたのです。そして、それらをしているというこを知っている彼は、その自分を神様の前に持ち出しているのです。彼の私生活には確かに非難される余地がなかったのでしょう。彼は自分の立派なことを知っており祈っているのです。

 しかし、果たして神様はこのような規定以上のことを「する」ということを、私達に求めているのでしょうか。

 歴代志下6章17節-31節にはイスラエルの三代目の王、ソロモンがその神殿を建てた時に神に向けて祈った言葉が記されています「それゆえ、イスラエルの神、主よ、どうぞ、あなたのしもべダビデに言われた言葉を確認してください。18 しかし神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。わたしの建てたこの家などなおさらです」。

 今日、見ています話はイエス様の譬なので現実のことではありませんが、彼らが祈りに向かった神殿というものの舞台設定というものがあるとするならば、それはきっとこのソロモンが建てた神殿だったことでしょう。その神殿についてソロモンは「そのような人が建てた神殿などに神様、あなたをお入れすることなどできません」とここで言っているのです。

 そうなのです、このことはパリサイ人が実際に神に対してしていたことにも当てはめることができるのです。全地万物を造られた神様が人の庭先のハーブの十分の一を捧げているということに対して、「あぁー助かった。ハーブが欲しかったんだ」と喜ばれるでしょうか。神様は一夜にして荒野をハーブ畑にすることができるお方なのです。

 神様は一年に5回、断食する人よりも、一年に23回、断食する人を、その数の多さゆえに尊ばれるのでしょうか。いいえ、「あれもこれも捧げています」とか「これだけのことをしています」いうように「捧げている量」とか「している数」よりも、神様は私達の「心」を喜ばれるのです。その心とはどんなものなのでしょうか。驚くべきことに、その心というものが取税人の祈りの中に込められているのです。13節を見てみましょう。

 13節「ところが、収税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った。神様、罪人の私を赦してください」

 これがパリサイ人の言う、ゆする者、不正な者である収税人の姿です。彼は礼拝場に近寄ることもせず、遠くに立ち、目を天に向けず、つまり顔を上げることも出来ないのです。おそらく、彼には自分の罪を見る時の恐れおおさか、その場に相応しくない自分を知っているからか、宮に近づくことが出来なかったのでしょう。彼が唯一なすことが出来たのは自分の胸をたたくことであり、神のあわれみを請い求めることだけでした。

 彼の罪とはゆすりとったとか、不正にお金をとった罪です。彼にはこれらを償うことは絶望的だったでしょう。(なぜなら、今さらゆすり取った人を全て思い出し、探し出してその額を思い出すことも不可能だったからです)。まさしく、彼は絶望的な状態の中にいたのです。しかし、その絶望的なありのままの自分を神の前に捧げ出しているのです。絶望的ですから、あの人がどうだとかこうだとかと考える余裕もないのです。ただただ、自分を憐れんでくださいと祈るだけなのです。

 パリサイ人の祈りは「神よ」とあたかもその憐れみを求めるような呼びかけをしていますが、実際にはその呼びかけも後に続く、「私」を引き立てる言葉となっているのです。それに対して取税人はここで「私を」と全く無力で自分ではどうすることもできないその姿をさらけ出しているのです。

 取税人にとって自分は神の赦しの対象にしかならず、決して私が、ああしたこうしたといえるような者ではなく、「私を」、「私を」としか言えませんでした。彼はただ神の憐れみだけにより生かされているということを知っていました。パリサイ人のように私がなした功績、他人の罪ばかりに目を向ける者には分からない取税人の自己認識がここにあります。

 パリサイ人は全てのことを正しく行っていました。そして、自分の正しさも知っていました。そうです、これはパリサイ人のみの事柄ではありません。私たちの回りには正しさで満ちています。政治家は潔癖を主張、家庭、学校では自分が正しいとするもので溢れている。私達が度々、自らが指示する戦争を正義の戦いと呼びます。このことは戦争当事国両国が主張することなのであるます。しかし、多くの場合、それは自己義認にすぎないのです。他者と自分を比べてみて、正しいかどうかということです。比べられている相手も同じことを考えているものです。

 イエス様はこれら二人の祈りをあげ、最後に結論(というより判決)を出しています。まるで非常に大切なことを言うがごとく、よくよくこのことを覚えて、後になってそんなことは知らなかったと言ってはいけないというがことく「あなたがたに言っておく」という言葉で始まっています。14節「あなたがたに言っておく。神に義とされて帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう

 彼らは違った家から宮に登り、祈りのために同じように一日を同じ宮で祈り、同じように、また元の別々の家に帰って行ったのです。その「同じ時」を過ごした二人にイエス様の判決が下されました。「神に義とされて帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかったと!!!」一方は神により義とされた者、一方は(これが一番、恐ろしい)自分こそは義とされた者なのだと自己満足と共に家に帰って行った者。

 私達はその信仰生涯において、よくよく心にとどめておかなければならないことがあります。それは10000人が評価すること、正しいとすることであっても、神の前ではそれは全く意味のないもの、否、災いでしかないということがあるということです。そして、私達が実際に聖なる、全知全能なる神の前に立つとしますならば、私達全ての人間がなし得る祈りとはまさしく取税人が祈った祈り以外にないのではないかと思います。

 この出来事を今日に適応しますならば、私達も今朝、それぞれの場所からこのサンディエゴ教会の礼拝に出席しています。やがて、このメッセージが終わり、賛美をし、祝祷がなされて、ある方達は家路に、ある方達はバイブルスタディーをして家に帰ります。

 その時、私達の心は神様の前にどのように見えるのでしょうか。この譬を読んだ後に、どうして、私達は誰一人気がつかない神様のみ前で、どんでんがえしが起きていないと言えましょうか。毎週、毎週、そのような思いで、礼拝やバイブルスタディーに出席していたらどうでしょうか。そのような生活が10年、20年続いていたらどうでしょうか。その20年間に対して神様はどのような評価をくだすのでしょうか。考えただけでも恐ろしくなります。

 詩篇51篇16節、17節においてダビデは「あなたはいけにえを好まれません。たとい私がはん祭を捧げても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」と言いました。パリサイ人は誰よりも立派に人々の前には見えたことでしょう。そして、自身もそのような自己満足で神殿を去ったことでしょう。しかし、彼がそこで過ごした時間はほとんど意味のないものだったのです。彼は律法についてよく知っていましたが、神の心を全く知らなかったからです。

 神の前にすがるということは、何かとても惨めなことと思えるかもしれません。あの取税人が目も上げずに胸を打ったように。しかし、私達は容易にこのようなことを想像できるのです。すなわちこの個所に具体的にそのことは記されていませんが、の取税人が喜びいさんで宮から家に帰る姿です。あの取税人ザアカイのように。あのイエスからお声をかけられてすぐに従った取税人マタイのように。

 ローマ5:20にあるように「罪の増すところには、恵みもますます満ち溢れた」のです。聖書における罪の真実な告白は、圧倒的な恵みにおおわれるのです。「おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする人は高くされる」

 今、私達は「耐震補強」というテーマでメッセージをしています。そして、特に「私達の人生の土台に打ち込む杭を強くせよ」ということに目を向けています。なぜ、そのテーマの中で、このようなメッセージを今日、お話したかお分かりかと思います。その土台にこのことを据えなければ、全く神の求めておられない土台の上に私達はその信仰生涯を築いてしまうことがあるからです。そして、そのことに気がつくことは、早ければ早いほどいいのです。そうでないと、私達の信仰生活が自己満足で終わってしまうからです。正しいと思ってやっていることが実は神の前には何ら喜ばれることではないということ、もしそうであるならば、私達はそれに早く気がつき、今一度、その土台を堅固なもの、すなわち神の恵みと共に築かなければならないからです。そこで、あらためて皆さんにお尋ねします。あなたはどんな土台の上にその信仰生活を築いていますか?

お祈りしましょう。

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