平和をつくり出す人たちは、幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。聖書:マタイ5章9節
「平和」という言葉に対して私達は色々な思いを寄せます。戦争を体験した方々や今日の紛争地域に住んでいる人達は、おそらく敵との争いのない状態というのを平和と呼ぶことでしょう。しかし、必ずしも手榴弾やマシンガンが出回っていないということだけが平和だということではありません。もし私達の家庭において険悪な雰囲気があるなら、学校において陰湿ないじめがあるなら、職場において同僚との軋轢があるなら、それを平和な状態とは呼べないでしょう。ですから、今日の聖書の言葉は国連の平和維持軍に属する人とか、平和運動に関わっている人達に向けて話されている言葉ではなくて、私達一人一人に語られている言葉なのです。
マック
今日、礼拝でお話した箇所です。
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平和はつくるもの
2009年11月8日
平和をつくり出す人たちは、幸いである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
マタイ5章9節
Blessed are the peacemakers,
for they will be called sons of God.
「平和」という言葉に対して私達は色々な思いを寄せます。戦争を体験した方々や今日の紛争地域に住んでいる人達は、おそらく敵との争いのない状態というのを平和と呼ぶことでしょう。しかし、必ずしも手榴弾やマシンガンが出回っていないということだけが平和だということではありません。
もし私達の家庭において険悪な雰囲気があるなら、学校において陰湿ないじめがあるなら、職場において同僚との軋轢があるなら、それを平和な状態とは呼べないでしょう。ですから、今日の箇所は国連の平和維持軍に属する人とか、平和運動に関わっている人達に向けて話されている言葉ではなくて、私達一人一人に語られている言葉なのです。
そもそも「平和」という言葉は色々な動詞と共に用いられるものです。例えば「平和を望む」とか「平和について学ぶ」とか「平和を考える」というようなことです。しかし、ここでイエスが言った言葉は望むことでも、学ぶことでも、考えることでもなく、平和を「作る」ということでした。
すなわち、この言葉には平和というものは考えていたら生まれるものではなく、学んでいれば実現されるものではなく、望んでいれば得られるものではないということが含まれているのです。この「平和をつくる」ということについて、幾つかのことを今日はみていきましょう。そのために、まず私達が知らなければならないことは「平和」はいつ、どのような時に壊されるのかということです。
ロイドジョーンズというイギリスの偉大な説教者はこんなことを書いています。師があるキリスト者の集まる会合に出ていた時に、ある人たちを呆れさせたと述懐しています。その原因はその会合の最中にケロッグ条約締結というニュースがその場に伝えられたからだというのです。ケロッグ条約とは1928年にアメリカ、イギリス、イタリア、日本、ドイツという列強諸国、さらに最終的には63カ国の署名がなされた「戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決すること」を規定した条約のことです。
この締結のニュースに対して、その会合のリーダーは残りの全ての時間を、このケロッグ条約についての議論にしようと言い出したというのです。そのリーダーはこの条約に対する並々ならぬ希望を感じて、興奮していたようです。しかし、ロイドジョーンズ牧師はそのことに対して熱心になれずにヒンシュクを浴びたというのです。
なぜなら、師は「全ての問題は人の心の中にある」ということを聖書を通して悟っていたからです。そして、そこに問題があるかぎり、表面上の巧みな操作によっては、とてもこの問題を処理することなどできないという確信があったからです。師の考えたことはまことに正しく、この戦争放棄という条約の後に世界はこのような条約はまるで存在していなかったかのように、第二次世界大戦に突入していったのです。その当事国は日本やアメリカを含め、まさしくこの条約に署名した国々でありました。
川の状態を改善しようとして、どんなにその流れを変えたり、薬品を投げ込んだとしても、その問題が川の源流の泉にあるとするならば、根本的な解決にはなりません。私達は源流までさかのぼらなければなりません。そして、その源流こそが私達の心なのだと聖書はいうのです。
私達の平和が崩れる時、すなわち私達に不幸、混乱、不和が起きる時、その心で起きていることは明白です。すなわちその心に「欲情、強欲、自己中心」がうごめいており、もし相手も同じような思いをもっているならば必ずやそこから平和が崩れていきます。仮に相手にはそのような思いがない場合には、その一人の人の心が周りを混乱させていきます。
聖書はこれら平和を破壊する心にあるものを罪と呼びます。そして、やっかいなのは、先週もお話しましたように、このようなものを持ち合わせている自分の心を見つめることなく、認めることなく、他者の心の中だけにこの罪を見出し、それを裁き、終いにはそれを祟りだとか、世の中のせいにしてしまう。その悪循環からはさらなる混乱と争いしか生まれません。
ですから、聖書は常にその心に光をあてているのです。その証拠にイエス・キリストは社会を変革しようとした革命家ではありませんでした。法律を整えたり、福祉を促進するようなことは一切されようとはしませんでした。そうではなく、その心の源流を見つめ、そのところにある罪というものに対して、向き合い、最終的には自らが十字架にかかることによりその罪からの救いというものを私達に与えて下さったのです。
すなわちコロサイ1章20節に「その十字架の血によって平和をつくり」と記されているように、イエス様ご自身も平和について考えたり、学ぶということをせずに、自らがその命と引き換えに、すなわち究極的な行為によって、平和をつくられたのです。
それゆえにその命と引き換えに自分の罪を赦された私達は、まさしくこの平和を作り出すために今、神様から遣わされているのです。キリストは神の子であり、その平和をつくるために生涯を捧げたのですから、もし私達もその平和をつくるものとして生きるなら、当然、私達も神の子と呼ばれるというのです。
それでは実際に私達の日常において私達が今日の午後から取り組むことができる平和を作る人としての生き方にはどんなものがあるでしょうか。
一つ目、私達が平和をつくるために、私達に一番、身近なものは「言葉」です。もし、私達がこの言葉を主の喜ばれるように用いるなら、それは大きな平和を生み出す力となります。言葉には険悪な状況を打開する力がありますし、恐れ、不安、怒りゆえに平和な生活が脅かされている人の心に平安を与える力があります。
しかし、反対にこの言葉は用い方によっては全く逆のはたらきをするこも多々あります。イエスの兄弟、ヤコブは「舌は火である」(ヤコブ3章6節)と言っています。これは私達の言葉は火になりうるということです。私達は四六時中、色々な言葉を聞いて暮らしています。その中にはそれをいう事によって、明らかに人に害を及ぼすことが分かっている言葉もあります。誰かから聞いたことを、別の人に伝えてはならない言葉もたくさんあります。まさしく、その言葉によって、平和が破壊されてしまうということです。
時に私達はそれを話せば、何がが起きるのかということを知りながら、言わなければいいことを話します。ヤコブが言うように言葉が火であるなら、それは臆することなく放火をしているようなものです。私達は本当に言葉に注意しなければなりません。
イエス・キリストは弟子のペテロがイエスの身を守ろうとして「剣」を使って相手の耳を切り落としてしまった時(マタイ26章52節)、「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです」と言ってペテロをいさめました。この一言には神の知恵が満ちています。「剣」を他の言葉に置き換えても、この言葉は生きています。剣を「言葉」と置き換えても、この言葉は生きています。言葉で切りつける者は、言葉によって滅びるのです。
私達は与えられている口を賢く用いましょう。それを平和をつくる道具として用いましょう。平和をつくるためにプラカードはいりません。集会を開く必要もありません。いつでも、どこでも私達は私達と共にある口をもってピースメーカーとなることができます。
二つ目、それは「復讐をしない」ということです。私達はそれが故意であれ、過ちであれ、誰彼によって傷つけられたり、痛い目に会わされることがあります。その時に私達の心の中の平安は簡単に奪われてしまい、怒りと復讐心がわいてきます。
一日中、どうやって相手に復讐をするかということを考えるようになります。別の言い方をすれば、私達は時にその考え方の虜となってしまうのです。そして、実際にその思いを行動に移すときに、大抵、相手も抵抗しますから私達は修羅場を見ることになります。仮にその復讐が全うされたとしても、その当人の心に達成感とか平和はやってこず、何とも言えない虚しさと居心地の悪さを感じます(このようなことは神のかたちに造られた、その残像というものが私達の心にあるからではないでしょうか)。
そして、復讐は連鎖していきます。復讐された相手が再び、復讐してこないと誰がいえましょうか。復讐によって平和は訪れず、かえってそれによって憎しみと怒りの連鎖は継続されていきます。それを断ち切るためには、誰かがどこかでその鎖を断ち切らなければなりません。
ペテロはこのような状況に立たされた時のイエス様の生き様をつぶさに見ていたのでしょう、こうその姿を記録しています。イエス様は「罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しい裁きをする方に、いっさいを委ねておられた」(Ⅰペテロ2章22節‐23節)
イエス様は復讐の連鎖をつなぐ事をなさりませんでした。しかし、それをウヤムヤにしたり、諦めたということではありませんでした。一切合切全てを正しい裁きをする方に委ねて安んじでいたのです。
三つ目、それは「破れはすぐに繕う」ということです。
イエス様はマタイ5章23節~25節において、こんなたとえ話を話されました。
(23) だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、(24) その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。(25) あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
この箇所には自分が加害者となってしまって、誰かのうらみをかっている人についてが記されています。時に私達の人生にも起きてくることです。
イエス様はそれが故意であれ、故意でなくとも、もし自分に対してうらみを抱いている人がいるなら、そのことに気がついたら、できるかぎり早くその破れを修復しなさいというのです。そうしないと、後ほど、その問題ゆえに獄に入れられてしまう。だから、そうなる前に芽を積んでおきなさいということです。
「割れた窓ガラスの法則」というものを知っていますか。割れた窓ガラスを修復せず放置しておくと、次々と窓は割られるという理論です。この理論を聞いたニューヨークの地下鉄総裁デビット・ガン氏はニューヨークの地下鉄がまさしくこの法則の中にあることを認め、地下鉄から落書きを徹底して消すことを決意します。様々な反対にもあい、消しても数日後にはまた書かれるということを繰り返すも、忍耐強く、書かれたらすぐに消すということを徹底します。そうしますと、やがて地下鉄の落書きはなくなり、それだけではなくニューヨーク市の犯罪が減少したというのです。
私達の間で平和が崩れていく時には始まりがありました。兆候があったはずです。
居心地の悪い食卓になってしまった原因があったはずです。修復できないような人間関係の背後にはそこに至るまでの兆候があったことでしょう。過去に戻ることは出来ませんが、今日から私達は気がついたら修復しましょう。破れはすぐに繕う習慣をつけましょう。平和は私達の日々の小さな習慣から作られていきます。
四つ目のことです。それは、「愛する、そのために祈る」ということです。今、読みました「加害者となっている場合」の後にイエス様は「被害者になっている場合」について言われています(マタイ5章43節‐46節)。すなわち自分が敵とされ、迫害、攻撃をされている場合のことです。
43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
もし、私達が被害を受ける側に立つことになったらどうしたらいいのか。先にあげたようにその被害に等しい復讐をするならば、その連鎖は終わらないとお話しました。それでは、どうしたらいいのか。聖書はその敵を愛せよというのです。
これはイエス様の教えの中でも私達にとって最も難しいことだと思います。ねじり鉢巻をして、努力してできることと、できないことがあります。しかし、このことを可能にする一つの道があります。きっとイエス様はそんな私達の人間的事情というものも十二分に知っておられたのでしょう。そのことを可能にする道を示され、こう言われました「迫害する者のために祈れ」。
数年前にチャーチキャンプに来てくださった講師の先生が言っていました。私にもどうしても受け入れられない人がいる。何かと突っかかってくる攻撃的な人がいる。だから、朝起きたらまず何よりも先に声を出して、その人達の祝福を祈るというのです。
その祈りは、その人達が自分に言ったこととかやったことをあれこれ考えながら祈るのではなくて、とにかくその人達の祝福を声を大にして祈るのです。その祈りは「こんな人がいるから、神様、その人を変えてください」という祈りではないのです。その人に神の守りがあるように、祝福があるようにと声をあげて神様に祈るのです。
この祈りの手本はどこにありますか。イエス様は十字架にかけられた時に七つの言葉を話されましたが、その一つに「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」(ルカ23章34節)という言葉があります。イエス様はその言葉を心の中で祈られず、口に出して祈られたのです。先ほどにも触れましたように言葉、特にこのような祈りの言葉が口から発せられていくと、不思議とそれは自分を変える力となるものです。
もし、このイエスのように祈るなら神様は不思議とその人達に対するイチモツ、ニモツを取り去り、さらなら次の行いへと導いてくださるに違いありません。愛することは、まずその人達に対する継続的な祈りによって始められていきます。そこから不可能と思われる平和がつくられていくのです。
そして今日、私達がみていますように、このイエス様の言葉はこのように続くのです「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである」。
「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ということは、平和をつくり出す究極的なものです。「平和をつくり出す人たちは、幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」と言われた主は、やはりここでも究極の平和をつくり出す者たちは、真に神の子なのだというからです。私達が地上でどんなに偉大なことをしても決して与えられることのない、「神の子となる」という最高のステイタスはこのように私達に与えられていくのです。
皆さん、いかがでしょうか。この朝、私達はここからそれぞれが置かれている場所に平和をつくりだす者として送られていこうではありませんか。私達の言葉を主がきよめてくださいますように。私達の心にある復讐の思いを主が取り去ってくださいますように。破れに気がつき、すぐにそれを取り繕う習慣を神様が私達に与えてくださいますように。そして、私達に敵対する人の守りと祝福をまず祈ることができますように。
お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り
平和をつくり出す人たちは、幸いである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
マタイ5章9節
あなたは「平和」という言葉に対してどんな思いをもちますか。あなたは今、平和の中を生きていますか?平和はいつ、どのような時に壊されますか。
イエス様は「平和を望む」「平和について学ぶ」「平和を考える」とは言わずに「平和をつくる」と言われました。本当の平和は望みと学習と思考によって生まれますか?
コロサイ1章20節に「その十字架の血によって平和をつくり」とあるように、イエス様はどのようにして平和をつくりましたか?この平和にあずかっている私達が平和をつくるようにと遣わされていることは道理にかなっていますか?
あなたの言葉は平和をつくるために役立っていますか?なぜ言葉を制するのは難しいのでしょうか?
あなたは復讐をする誘惑にかられることがありますか?復讐から何かよいものがうまれますか。復讐を成し遂げたあなたの心は満たされますか。復讐の連鎖はどのように断ち切られますか?復讐をしないということは敗北を意味しますか(Ⅰペテロ2章22節‐23節)
マタイ5章23節~25節を読みましょう。この譬はあなたにどんな教訓を与えますか?もしあなたが今、平和が壊されている現状にいるとしたら、それには何かしらの原因とか兆候がありましたか?あなたはその原因・兆候にどのように向き合いましたか?
なたは敵を愛することができますか?迫害する者のために祈るということはどうですか?敵や迫害者の祝福を祈り続けることは、その人を愛することに近づくと思いますか?
