ある宣教師がこんな3つの質問を現代人にしました。
あなたは一組以上の靴をもっていますか?
あなたは一組以上の下着をもっていますか?
あなたは一日三食の食事のうち、そのうちの一食、何を食べるか自分で決めることができますか。
もし、あなたがこの3つの質問の内に対してイエスと答えることが出来るのなら、あなたはこの地球上に住む全人類のトップ10パーセントに入る富んだ人です。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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感謝!感謝!!感謝!!!
申命記8章1節‐10節
2008年12月28日
聖書の申命記8章1節から10節を読みます。この箇所は400年もの間、エジプトにて奴隷となっていた数百万とも言われるイスラエルの民が(彼らは今日のユダヤ人の祖先となります)、そこから解放されて、荒野で過ごした40年の間に起きたことについて記しているものです。その時にこれらの人達に神様がどのように関わってくださったかということがここには記されているのです。
①わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。②あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。
③それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。④この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。⑤あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。
⑥あなたの神、主の命令を守り、その道に歩んで、彼を恐れなければならない。⑦それはあなたの神、主があなたを良い地に導き入れられるからである。そこは谷にも山にもわき出る水の流れ、泉、および淵のある地、⑧小麦、大麦、ぶどう、いちじく及びざくろのある地、油のオリブの木、および蜜のある地、⑨あなたが食べる食物に欠けることなく、なんの乏しいこともない地である。その地の石は鉄であって、その山からは銅を掘り取ることができる。⑩あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう。
いよいよ今年最後の礼拝となりました。その最後をどのように締めくくればいいのでしょうか。私達の教会では数ヶ月かけて「シンプル・イズ・ザ・ベスト」のテーマでお話をしてきましたが、今日はその最後として「感謝する」というテーマを神様は与えてくださいました。
この一年、私達は感謝と共に終えることができるでしょうか。それとも、不満と共に終えるのでしょうか。この違いには雲泥の差があります。今日はこのことを踏まえて三つの感謝、すなわち「与えられているものに感謝」「願っていないことに感謝」「主が共にいることに感謝」についてお話します。
何年か前に世界中の有名人に対してアンケートがとられ一つの質問が投げかけられました。「もし、あなたの願いが一つ叶うとしたら何を願いますか」それに対して多くの答えが出されました。その中で一つの答えに大きな関心が寄せられました。それはこんな答えでした。
「私が既に持っているもの、与えられているもの全てに対して、心からの感謝を捧げることが出来るようにと願います」
何ら説明のいらない、とてもシンプルな答えです。もし、私達がこの人が願ったような人になることができたらどうでしょうか。この願いには私達がもちうるあらゆる願いを満たす全てがこめられているように思えます。
もし私達が新しい年、2009年、それ以上に今、既に与えられているものに対して感謝できる人になることができたらどうでしょうか。
与えられているものに感謝
3節から5節を読んでみましょう。
③それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
④この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。⑤あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。
イスラエルの民が荒野で40年を過ごしたと言いましても私達はなかなかそれを想像することができません。しかし、私達は考えもしませんが、このサンディエゴの風土というのも本来は荒野なのです。それが幸いなことにコロラド川という大きな川があり、そこから水が豊富に供給さえている故に、私達はこの土地に緑の木々を生えさせることができるのです。そのサンディエゴの本当の姿を知りたければ、フリーウエイ8で東に一時間も走れば、本来のサンデェイゴの姿を見ることができます。イスラエルの民は、あのような土地に40年もの間、生きたのです。
そして、その場所というのは、私達が当然、荒野で食物を探すことなどできないように、数百万もの人達が荒野で生きることなどは不可能な土地のです。ですから彼らを導かれた神様は、そのような旅路の中で彼らにマナという不思議な食物を毎日、天から降らせました。このマナという食べ物は「油菓子の味」のようだったと聖書は記しています(民数記11章8節)。
イスラエルの民はこの不思議な食べ物によって養われたのです。そして、それだけではなく、その40年の間、彼らの着物はすり切れず、その足がはれることはありませんでした。着る物、履く物、食べる物が与えられたということです。しかし、彼らがその荒野に暮らしていた時にこんなことを言っていたことが民数記11章4節から6節に記されています
「また彼らのうちにいた多くの寄り集まり人は欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起こすが、エジプトでは、ただで魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、今、我々の精魂は尽きた。われわれの目の前には、このマナしかない」民数記11章4節-6節
神様はその日に必要なだけのマナを彼らに与えました。聖書を読みますと、そのマナはその日、その日に十分なもので、翌日まで保存していても、翌日には腐ってしまって食べられないものであったと言います。彼らはそれを食べている限りは、その体が必要とするものは全て与えられていたのです。よほど栄養のある食物だったのでしょう。しかし、彼らはこのマナに不満を持ちました。彼らは自分で耕すこともなく、刈り取ることもなく無償で天から与えられているものに対して、感謝をすることを忘れたのです。
ある宣教師がこんな3つの質問を現代人にしました。
あなたは一組以上の靴をもっていますか?
あなたは一組以上の下着をもっていますか?
あなたは一日三食の食事のうち、そのうちの一食、何を食べるか自分で決めることができますか。
もし、あなたがこの3つの質問の内に対してイエスと答えることが出来るのなら、あなたはこの地球上に住む全人類のトップ10パーセントに入る富んだ人です。
皆さん、この一年間、履く靴がなくて裸足で野外を歩いたことがある人いますか。身につける下着を毎晩、洗って翌日同じものを着ていた方、そのことを毎日していた方いますか。あなたはこの一年間、毎日毎食、誰かから供給された自分が望まない物を食べて過ごしましたか。
私達は既に与えられているマナをどのように受け止めていますか。与えられているマナのことなどは考えずに、不足と不満で心が満ちていますか?
もし、私達が既に与えられているもの(それは数えれば無限にあります)に感謝して毎日を生きるなら、私達は極めて、そう本当に極めて恵まれた人です。私達が互いに感謝の思いをやめたら、全てのことが壊れてしまいます。もし、私達が自分の身を横たえる場所が毎日与えられているということ、家の誰かが自分のために身を粉にして働いていてくれること、毎日の食事を作ってくれること、これらのことに感謝の思いがなくなり、驚くべきことにそこから不満が生まれてくるなら、私達はそこから崩れていきます。巨大なダムもシロアリが開けた数センチの穴で倒壊するのです。
「あれがあったら、これがあれば」ではなく「もし私達が既に持っているもの、与えられているものに対して、心からの感謝を捧げることが出来るようになったら」、私達の人生の願いは、ほぼ完全に全て叶えられているといってもいいでしょう。
二つ目のことです、それは願っていないことに感謝ということです。
願っていないことに感謝
②あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。
③それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
おそらく私達はこの一年、思いがけないこと、願っていないことに直面したことでしょう。今、そのただ中にいるという人もいると思います。そのようなことにこのイスラエルの民達も遭いました。すなわち「苦しみ、試み」というものにもあったのです。しかし、驚くべきことはそれらの「苦しみ、試み」に対して神様は確かな目的と意味を与えているということです。すなわち、私達が試練や試みに遭うことによって「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである」という明確な理由がそこにあるというのです。
先日もある方たちと話していたのです。今も日本人の多くが自分の願っていないような事が起きると占い師とか霊媒師のところに行きます。そこで高いお金を払って、「あなたの肩には祖父母の霊がいて、あなたが仏壇をきれいにしていないから、あなたに不幸を与えている」というようなありがたい話を聞かされるのです。冷静に考えましょう、あんなに優しかったおじいちゃん、おばあちゃんがそんなことで怒っているはずはありません。
皆さん、先日お話したクリスマスメッセージを思い出してください。人間にはあのエデンの園以来、恐れがあります。でも、これらの人達はその恐れを利用して、私達の心を煽ります。すなわち彼らはエデンの園で起きたあの時間をそのままとめて今もその心にある「恐れ」につけ入って利得を得ているのです。
でもクリスマスのメッセージは何ですか。「恐れるな」ですよ。み使いはマリアにも羊飼いにもザカリアにも言ったのですよ「恐れるな」と。
生まれつき盲人であった人がイエスと出会ったという話が聖書には書かれています(ヨハネ9章1節‐)。彼を見たイエスの弟子達は「この人が生まれつき盲人なのは、本人の罪のためですか。それとも親の罪のせいですか」とイエスに尋ねたのです。しかし、イエスは何と言いましたか「それは本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と言ったのです。
皆さん、「恐れるな」という投げかけの言葉も「神のみわざがあらわれるためである」という言葉も今、私が思いつきで言っている言葉ではなく、確かに聖書の中に記されている神の言葉なのです。その言葉が2008年の暮れを生きる私達が向き合っている諸々の困難・試練に対しても、大きな力となって語りかけるのです。そして、この言葉を自分自身に語られている言葉なのだと信じて受け止める者は、世が与えることがない平安と力を得ることができるのです。
今、私達は経済的な困難に直面しています。聞くニュース、聞くニュース、全てが深刻です。そのような現実の中で色々な方々と話しますが、今まで走ってきたけど、多くの方々が、「改めて本当に大切なこと、すなわち家族とか信仰というものに目を向けるようになりました。それは仕事があって、忙しくしていた時には考えもしない、考える余裕もないことでした」と言っておりました。
これは奇跡的な出来事です。まさしくこの聖書の言葉が成就しているからです。すなわち、私達が試みや試練に遭う時に、それまではパンこそが人生と思っていた私達が、私達はパンだけで生きるものではないのだ、そうだ、神の言葉と共に生きるのだということに気がついていく大きな機会となるからです。そして、それは経済の好調な時に過剰に受ける収入とは比較にならないほどに大切なことだからです。
申命記の言葉は言います。
それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
このみ言葉は2008年の暮れに私達に語りかけます。
主はあなたの経済的困難の只中で、あなたの結婚問題の只中で、あなたの子育ての問題の只中で、年老いた親を抱えているその只中で、健康問題の只中で、これら私達が考えも、願ってもいなかった状況の中で私達に語りかけてきます。神様は私達が考えうるありとあらゆる“しばらくの慰めを得られるもの”によって生きるのではなく、神の口から出る、すなわち聖書の言葉によって生きるものなのだということを知らせようとなさっているのです。
主にある兄弟姉妹、実に私達が願っていないことを通して、私達は神が最も私達に願っていることを知るのです。そして、それは神に感謝すべきことなのです。
3つめのこと、それは主が共にいることに感謝するということです。
主が共にいることに感謝
このイスラエルの民の荒野での40年間、実はそこには裏話がありました。おそらくイスラエルの民はその出来事を知らなかったことでしょう。その出来事は彼らの指導者モーセに起きたことでした。
モーセが最初にイスラエルの民をその指導者として導くようにと神から使命が与えられた時、彼は躊躇していいました・彼は「わたしはいったい何者でしょうか」(出エジプト3章11節)と言いました。確かにそうです、誰が何百万もの民を荒野に導くことができましょうか。誰もがそんな責任を受けることにはしり込みします。モーセもそうだったのです。しかし、そんなモーセに神様は言ったのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト3章12節)
また、その荒野の旅の半ば、くじけそうになった時にも神様はモーセに言われたのです「わたし自身が一緒に行くであろう」(出エジプト33章14節)。この言葉は文語訳でみますと「わが臨在、汝と共にあり」という言葉です。
皆さん、私達にとって2009年はまざ未踏の地です。まだ誰もそこを歩いたことはない。しばしば、私達はどんな道を歩むのだろうかということを心配しますが、大切なことを忘れています。それは、その道を私は誰と共に歩くのかということです。
私の子供に夜、一人でガレージに行きなさいと言っても絶対に彼らは行きません。
闇に包まれたガレージで何が起るか分からないからです。でも「父さんも一緒に行くから、行こう」と言えば彼らはスキップしてついてきます。
詩篇23篇、あの有名な歌の中でダビデは言いました「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」。
人間は人間に四六時中付き添うことはできません。それが困難な道、ましてや生死にまで関わるような道となると、そこに最後まで伴うことができる人はいません。しかし、聖書の言葉は語りかけるのです。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが共におられるからです」。私達はこの荒野においてモーセと決して離れず、共にいてくださった神が新しい2009年も共にいてくださるということを信じて、主に感謝するのです。
私達は今日、三つの感謝を一つ一つ確認しましょう。今、与えられていることに対しての感謝をしているか。願っていない時にも捧げることができる感謝があるか。主がどんな時にも私と共にいるというこの事実に感謝しているか。
2009年、私達の行く手に何が待ち受けているか私達には分かりません。しかし、私達がこの三つの感謝と共に生きる時に、私達はいかなる状況の中にあっても、私達はその旅を喜びと希望をもって続けていくことができるのです。
お祈りしましょう。