孤独を知る者達

今から12年前、私は奄美諸島にある沖永良部島の教会に赴任しました。その時はまだ独身で、私が寝泊りしていた部屋のクーラーの裏には、私が来る前から住んでいたヤモリが一匹いました。私達はその部屋で私が転任するまで、2年と2ヶ月を共に生活しました(彼は自立しており、虫を捕まえては食べていました)。静けさに包まれた夜、部屋に響く彼の「キッキッキッキッ」という鳴き声に、なぜか温もりを感じ心慰められることが度々ありました・・・。

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マック

今日お話しました礼拝メッセージです。
よかったらどうぞ。

孤独を知る者達
ヨハネ14章18節
2008年7月6日

一口に孤独と言っても色々な孤独があります。今日はそんな孤独をヨハネ、ザアカイ、そしてイエスから見ていきたいと思います。


ヨハネの場合

皆さん、ご存知のように私は神学校を卒業してから沖永良部という島で牧師を始めました。「陸の孤島」という言葉がありますが「海の孤島」で生活しますとその意味が全く違うことを知るようになります。陸の孤島は確かにその他の地域から距離があるとか、その場所が険しい山によって隔たれているという地理的な意味がありますが、とにもかくにもそこは陸続きですので、その気になればいつでも行きたい場所に行くことができるという心の余裕があります。しかし、離島に暮らすということは自分で船を所有していない限り(そして、それすらも天気によっていつも制限されます)、その陸から離れて他の陸地に行けないということでありそこには物理的な、そして精神的な重圧、孤独感が伴います。

さらに沖縄にはウチナンチュウという「沖縄の人」を意味する言葉と、ヤマトンチュウという「本土から来た人」という言葉がありますが、幸いなことに私はヤマトンチュウであることを意識しなくてはならないほどに、島の人達との距離を感じることはなかったのですが、やはりどこかに自分はどこか島の人間ではないのだというような、それは自分が一人でそこにいたということも多分にあるのでしょうが、どこかしらに寂しい気持ちというものが時々、ありました。

聖書を見て行きますとこの島での孤独を知る人がいます。それはヨハネです。彼は迫害を受けて、パトモスという島に流されていました。パトモスとはエペソの南西90キロにあるエーゲ海上にある南北16キロ、東西9キロの三日月形をした小さな島でありまして、彼はその中にある洞窟で暮らし、あのヨハネの黙示録を書いたのです。

この辺りを知る時に私はもちろんヨハネと会ったことのない者ですが、彼と気持ちの共有ができるのです。月明かりに照らされ、波の音が聞こえるその島の洞窟の中、一人でヨハネはどんな気持ちでいたのだろうかと。

すなわちそれは「物理的な孤独」です。愛する者や知り合いと離れて一人で生きているということです。ある人が「人間は一人で生まれ、一人で死ぬ」と書きましたが、何か寂しい言葉ですが、それは人の現実を言っていると認めざるをえません。

愛する者に先立たれたり、日本に住む愛する家族と離れて暮らしている方々、子供達が巣立って行ってしまい・・・という方は大勢、この中にいると思います。このヨハネにも兄弟ヤコブがいましたし、共にイエスと3年半を過ごした仲間たちがいました。おそらくそれ以外にも家族や友人達がいたことでしょう。しかし、彼はそれらの親しい仲間から離れて一人島に幽閉されている。ただ、ただパトモス島の静寂の中に年を重ねた自分が一人いるというその事実。

その彼はヨハネによる福音書を書いた人ですが、彼はその14章18節においてイエスが語られた言葉としてこのような言葉を書き記しています「わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰ってくる」(ヨハネの福音書14章18節)。 

このイエス・キリストの語られた言葉について他の3つの福音書を調べて見ますと、この言葉はヨハネによる福音書だけに書かれているものであることが分かります。すなわち、ヨハネにとってこの言葉は特別に心に焼きついた言葉であり、彼は何度もこのイエスの言葉をパトモス島で思い起したに違いありません。彼は

「私はあなたを孤児にはさせないよ。私はあなたのところに戻ってくるから」というイエスの言葉に生きたと思います。

この言葉はすなわち「あなたは一人ではないよ」ということであり、神様はそんな彼を励ますかのように、一人寂しく幽閉されているヨハネだけに、そのキリストが帰ってくるときのことについて、あたかも天上の世界を垣間見させるかのようにして語られたのです。そして、ヨハネはその神の言葉に心燃えながら「ヨハネの黙示録」を書き記したのです。

私の敬愛する牧師に今は亡くなりましたが、かつて那覇にある教会で牧師をしておられたT先生がおられます。この先生は孤児として育ち、幼少、少年時代をあちこちの親戚の間を行き来して寂しく過ごしたということをご本人から聞いたことがあります。そのような意味では文字通り天涯孤独な人生です。

でも、その先生が若い時にイエス・キリストに出会ったのです。その時のことをお話になられる先生の顔の輝きを今でも忘れることができません。先生も、その人生のどこかで「私はあなたを捨てて孤児とはしない」という言葉を心に染みわたるように聞いたに違いありません。お元気な時に、そして私達がアメリカに来た時に真っ先にご夫妻で会いにきてくださり、このサンディエゴ教会の祈祷会でもお話して下さいましたが、先生はいつも主に愛されている子として、日々の生活を喜んで生きておられ、また回りにいる者達も先生を見ることによって、神は本当におられるのだということを知らされました。

私達も孤独になることがあります。これはクリスチャンになったから、そのような感情は全くありませんということではないと思います。でもその時に私達はヨハネと同じように、イエスの約束を思い返すのです「私はあなたを孤児にはさせない」。すなわち「あなたは一人ではない。あなたは私の愛する子なのだから、私はあなたと共にいるのだから」という約束です。

次にザアカイという人について見てみましょう。

ザアカイの場合

聖書の中には取税人ザアカイという人がいます。その人の人となりがルカ19章1節以降に書かれています「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った‥」。

「群集の中の孤独」という言葉があります。自分の周りにはたくさんの人がいるのに、それでも孤独を感じてしまうということです。東京のラッシュアワーに電車に乗りますと、身動きがとれないほどの満員電車に乗ることになりますが、人はたくさんいるのですが、そこにただよう孤独感。ぺトコ・スタジアムに集まる賑やかな群衆の中に居ても、私達は言い知れぬ孤独感を味わう者です。

色々な人が孤独について色々なことを書いています。これまでに聞いたことがある言葉です「テレビは、数百万人の人々に同じ冗談を聞かせながら、それでいておのおのを孤独のままに置き去っていく」「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間と人間の間にある」

ザアカイという人もこの孤独を感じていたに違いありません。もう皆さん、ご存知のように彼の仕事は税金取り。それ自体には問題はありません。ただ、彼の場合、その税金を不正に取り立てていた人でした。いいえ、彼だけがそんな税金取りだったかといいますと、当時の取税人達の多くはそのような「汚いお金」に心が奪われていたようでして、それを見聞きしている人々は表向きでは保身のために彼らに平伏していながら、心の中では彼らを憎み、嫌っていたようであります。

このザアカイ、彼は無人島に住んでいたわけではなく、街中に居を構えていたに違いありません。そしてその仕事柄、毎日多くの人に出会っていたことでしょう。飲食を共にする人達もいたでしょう。しかし、それも「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉があるように、本当の意味で彼と付き合う人は少なかったに違いありません。それゆえ、彼は人と人の間で生きてはいましたが、深い孤独の中にいたのではないでしょうか。

先週も見ました伝道の書5章10節に「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい」という言葉がありますが、彼には財はありましたが、その心の中には満たされない、埋めることができない空白があったに違いありません。

しかし、そんな彼のいる木の下にイエスは近づかれ彼を見上げて言ったのです。

「ザアカイよ、急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に泊まることにしているから」。今まで仕事のこと以外で、自分に何かを語りかけてくれる人はいなかった、しかし、その彼のもとにイエスは来られ、そしてあなたの家に泊まるよといわれたのです。

先にお話しましたヨハネが書いたヨハネ伝、その15章12節を見ますとこんな言葉が記されています。

わたしのいましめはこれである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたに私が命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いた事を皆、あなたがたに知らせたからである。

ザアカイは望むものを手に入れることができる人でした。しかし、彼には買えないものがありました。雇い人がいるような家に住んでいながら、埋めることができない寂しさ。しかし、その彼は「わが友よ」と語りかけてくれるイエスに出会ったのです。その時から彼は孤独というものから解放されたに違いありません。

皆さん、人は世界に無数の神々を持っていますが、私は人に「友よ」と語りかける神について聞いたことはありません。人がその神々を恐れ、このことあのことをしなければ罰を受けるのではないかとか、あるいは反対にその神々を人間の都合のいいように用いていることなら知っています。

主イエスはザアカイの家を訪ね、親しく彼の話を聞き、彼と語らいを持たれるお方であり、私達を「僕」とは呼ばず「友よ」と呼ばれました。このイエスと私達の距離はかけ離れているのではなく、この主イエスは今も私達と親しくおられるのです。


イエスの場合

イエスの場合、ヨハネとザアカイと異なり、自ら孤独になることを選んだ方でした。そして、それは父なる神と親しく交わるための孤独だったのです。イエスは自分がどこに属しているのか、誰が自分と共にいるのかということを知っていたために、その孤独を楽しむかのようによくその姿を消したのです。そんなことが福音書の各所に書かれています。

マタイによる福音書第14章13節「イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へいかれた」。

マタイによる福音書第14章23節に記されてあります。「そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた」

マルコによる福音書第1章35節「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」。

ルカによる福音書第4章42節「夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた」。

この間、ある店で買い物をしていましたら、レジで並んでいた婦人が誰かにこぼしたかったのでしょう、私の顔を見るなり言ってきました。この店に流れる店内の音楽なんとかならないかした。うるさくて仕方ない。買い物をするのに音楽はいらない。けっこう憤慨していて、店員にも話していました。でも、店員曰く「音楽を流せ」という客も多いとのこと。

確かにそうなのです、私達は聞いているわけでもないのに、どこかにそれが音楽でなくとも、何かしらの音がなければ落ち着かなくなるほどに、静けさの中に自分を置くことに困難を覚えるような世界に生きています。しかし、その音が私達の孤独をまぎわらすかといいますと、一概にそうともいえないのです。
「子供が孤独でいる時」」(エリーズ・ボールディング著)という本があります。

よく子供が他の子供達を距離を置いて一人ポツン遊んでいる事があります。そのような光景を見ると親はスグに「ああ、あの子は一人でいてかわいそう」と思い、思うだけではなくて、その子のもとに言って話し相手になったり、他の子達と遊ぶようにうながしたりということがあるのですが、そうしてはいけませんよとその本には書かれているです。彼らは静けさの中で、自らの心と深く語り、神からの語りかけを聞くというのです。そんな貴重な時間を奪ってはいけないよというのです。

「孤独」というのは、そのような意味において、とても大切なものなのです。時々、とても深みのある人に出会いますが、後々、分かってくることは、その人はいつもどこかで静けさの中に身を置いている人であるということです。

人は常に群れたがることがあります。どこそこに行く時にもいつも仲良しこよしということ、それは気軽でいいでしょう。誰かと取り留めのない話をしていることも楽しいでしょう。でも、私達は常にどこかで一人にならなければなりません。孤独を避けるのではなく、孤独の中に自ら入っていくのです。そして、そこで父なる神との交わりをもつためです。

先ほど読みましたマタイによる福音書第14章23節に「そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた」と書かれています。その時、イエスの周りにはどんな群集がいたのか。その前を読むとそれは明らかなのですが、そこには5つのパンと二匹の魚によって養われた興奮覚めない5000人、聖書はその数は成人男性だと書いていますから、実際には一万人を超える人達がいたに違いありません。その人達は「次はどんなことをしてくれるか」と興奮して、イエスの言動に目を注いでいたに違いありません。その気があるならば、さらなる奇跡をイエスが一つ、二つするならば群集の熱狂は頂点に達して、そのままイエスをリーダーとして、当時彼らを搾取していたローマ帝国に対抗する革命グループができあがったに違いありません。しかし、イエスはそのような時に群集を解散させ、一人祈るために山に登られたのです。父なる神との交わりをもつためです。

詩篇の46篇はこのような言葉で始まります「神はわれらの避け所、また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変わり、山は海の真中に移るとも、我らは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、その騒ぎによって山は震え動くとも、我らは恐れない」(1-3)。

ここを読みますならば、この著者は言葉だけではなく、山が海の真中に移ってしまうような、水が鳴りとどろき、あわだつような局面に直面したことがあるのか、あるいは直面しているのか、あるいはこれからそのようなことが起きるようなことがうかがい知れます。まさしく、そこには怒涛なる騒然さがあります。しかし、この46篇のトーンはこのまま激しく続くのではないのです。そのトーンが10節に来ますと一気に静けさに変わるのです。その10節にはこう書かれているのです。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(10)。

そのような時に静まれというのです。新改訳によりますと、ここは「やめよ」と書いてあります。状況は激しい。しかし、静まれ、今していることをやめなさい。そして、私こそあなたの神であることを知れ、思い起こせというのです。

そして、このことを私達は群集の中の一人としてももちろん、できるのですが、一人でなすのです。イエスが熱狂的な状況から離れて、その場での活動を一時やめて静まって父なる神との交わりにあてたように、私達も一人になるのです。

孤独を恐れてはいけません。なぜなら、今日、お話しましたように私達にはそもそも全くの孤独はないのですから。ヨハネがその隔離された状況の中でも主が共におられるのというその臨在を感じて生きたたように、ザアカイがイエスという友を見出し、その生涯をイエスと共に歩んでいったように、私達が一人の時にも主は共におられます。

ザアカイと同じかつては取税人であったマタイ伝の終わりは「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(28章20節)という言葉で閉じられるのです。その主と共に私達は孤独すらも神との交わりの時として、それを喜び楽しむことができるのです。

孤独の中にある方、それはテレビのボリュームをあげたり、ギャンブルに言って解決するものではありません。社交的な人間になれば孤独はなくなるというのではありません。いいえ、そのような人ごみの中にさえ孤独は歴然と存在しているのです。聖書は私達が孤立無援の一人ではないというのです、私達は一人ぼっちではないと聖書はいうのです。決してあなたを見捨てて、孤児としない、と言われたキリストが私達と共に世の終りまで必ずいると約束されているのですから。そして、その一人の静けさの中で神は親しく語りかけるお方なのですから。

お祈りしましょう。

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孤独を知る者達」への2件のフィードバック

  1. ヤモリといえばインドのヴァラナシです。宿の部屋の壁に這いつくばっていた連中と足跡(?)の液跡(?)の白い線を見ながら、そんなトコにジッとしてねえで、俺を苦しめまくってる数えきれない蚊を食ってくれねえか!と思ったっす。

  2. たしん
    私にとってヴァラナシといえば、野猿です。安宿の屋上に洗濯ものを干していると、奴ら持って逃げるんだよ。なんせバックパック一つに収まる最低限の衣類だから、本気で戦いました。

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