ご存知かと思いますが、聖書の表紙にはイケメンのカップルや南の島にある白いチャペルの写真が掲載されてはいません。そこに「結婚は年下が旬!」とか「憧れのセレブ婚!」というような見出しはありません。
なぜ?
聖書は私達を購買者と見ていないからです。故にそこに結婚に対する刺激的な写真も私達を煽る言葉も必要がありません。ただただ数千年来、私達が最も幸いな結婚生活をおくることができるようにと不朽のガイドラインを教え示しているのです。

マック
今日お話したメッセージです。
よろしかったらどうぞ!↓
週刊誌には書かれていない結婚について
大抵、結婚する前から別れる日のことを考えている人はあまりいない。この人と共に最後まで(ということはどちらかが亡くなるまで)人生を歩んでいきたいというのが心からの思い。しかし私達は今日、この結婚について多くの問題を抱えています。日本の雑誌が「夫婦を漢字一文字で表すと?」というアンケートをとりました。20代夫婦は「絆」と「愛」が一位と二位。60代夫婦は「忍」が一位で「絆」が二位であったとか。
なぜなのか。その原因を考えていくと「結婚とは何なのか」ということに対して私たちが明確な考えを持っていないからではないかと思うのです。私も仕事柄、色々なカップルと向き合い話しを聞くことがありますが、結婚を前にした多くの方々は「新婚旅行や住む場所」については話しているのですが「僕達は結婚するわけだけど、結婚って何なんだろうね?」なんて話している人達はほとんどいません。水を差す気持ちはありませんが「新婚旅行や住む場所なんてことは、あまり重要ではないのに」と老婆心ながら思っているのです。
夫となる人、妻となる人の間で「結婚とは何か」という考えが統一されていなければ、遅かれ早かれ食い違いというものが生まれ、結婚生活を続けることがとても難しくなることがあります。皆さんにとって結婚とは何でしょうか?お考えになったことあるでしょうか。
分厚い聖書の一番最初には創世記が記されています。聖書を手にとる人が、聖書とはどんなことが書かれているのかと最初に開く箇所。その聖書は開口一番、「はじめに神は天と地とを創造された」と始まります。そして、神は5日をかけて自然界のあらゆるものを創造します。そして、6日目にアダムとイブという男と女を神様は創造します。そして聖書はこの男女の関係を2章24節、25節においてこう説明しています「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。
すなわち、聖書はその冒頭に男女の始まりとその結びつき、すなわち「結婚」を取り上げている。そして、その後に50章まで続く創世記は何について触れているのか、その二人から生まれていった者達の家族の物語である。すなわち創世記は一組の男女が夫婦となり、その家庭が形成されていき、しかし、その家庭の中で起きてくる様々な人間の喜怒哀楽の書なのです。
聖書は66巻あるその書の中で、この大切なポジションを担う一番最初に、夫婦と家族について書いているのだ。どれだけ聖書において夫婦、すなわち結婚が大切なものとして捕らえられているかが分かると思う(そして、この21世紀の現代社会において、人間社会が良いものになるのか、そうではないか、その最も大切な鍵の一つは家族であると人々はやっと気がついてきました)。
ここで、ある人は思うかもしれません。創世記の天地創造の話?そんなオトギ話は聞いてられんよ。ところがどっこい、ここにはとてつもない真理が記されているのです。この創世記に記されていることを知って結婚するのと、そうではないのとでは、天と地の差があるのです。
結婚について原則的なことを4つ、今日は聖書からお話します。
①創造の完成
最初に創世記2章18節の言葉を見てみましょう「神である主は仰せられた「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」。
スッと読んでしまえば何の変哲もない言葉かもしれません。エデンの園の最初の住人はアダム。このアダムに対して人類最初の女性が与えられたというのです。創造主なる神様はアダムを見て「人が一人でいるのは良くない」と言われました。そして相応しい助け手を与えられたのです。
ちょっとこの言葉を見ていく前にこの前後関係を見てみましょう。この創世記は壮大な天地創造のドラマで幕を開けます。第一章では物理的世界の第一原因である神が私たちの住む太陽系や銀河、地球を構成している様々なものを造られる様が書かれています。それは光から始まり、水、魚、、鳥、哺乳類と創造されていくのです。そして、神様はそのたびごとにそれらを見て「良しとされた」と書いています(3,10,12、18、21)。そして、全ての働きを総括して1章31節において「それは、はなはだよかった」と書かれています。これは最高によかったということです。
私たちは自然を見て、感動することがあります。皆さんも海に沈む夕日や満点の星空に息を飲んだということがあるでしょう。それもそのはず、それは神が「とても良い」と言われた自信作なのですから。しかし、ここにきて神様はたった一つだけ「よくないこと」について触れています。それは、先に挙げた2章18節の言葉「人が一人でいるのは良くない」ということなのです。
神のかたちに造られた人は、上に創造者である神がおられ、その神に服従して生活するようになりました。一方、下には治めるべき動物がいました。しかし、横には誰もいなかったのです(ここに人間は関係のもとに生きる存在だという真理があります)。
この人の創造と結婚は天地の一連の創造と区別されてはいません。すなわち、別の言い方をすれば、結婚は天地創造の秩序の一つであり、もっと言いますと、この男と女の結婚なしに天地創造は完成しなかったのです。これが聖書における結婚の位置づけです。そして、その秩序の中には明確なルールがあるのです。
もし結婚とは神が定めた秩序であり、宇宙が健全に存続していくために欠かすことのできないものであり、それは個人的な決断以上のものであるということが分かるならば、私たちは結婚を非常に尊いものとして尊重することになります。
こうなってくると「結婚は一枚の紙切れ」(これは、今日のメッセージタイトルにもありますように、週刊誌が取り上げることですーそして、多くの私たちはこの売り上げ数を伸ばそうと日々色々な刺激的なテーマを掲げる週刊誌に大きな影響を受けています)というものではないということが分かってきます。
すなわち、結婚とは二人だけの事柄ではなく、そこには神の創造の秩序が関わっているということです。神の創造の一部であるこの結婚生活を通して、その夫婦は、二人の生涯を通して神の栄光を表すという目的が与えられているのです。
ここで注意していただきたいことは、今、結婚というものが創造の秩序の中にあるということをお話しましたが、それでは独身はどうなのかということです。イエスは生涯、独身で過ごされた方ですし、イエス自身もマタイ伝の中で言っています「というのは、母の胎から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい」(マタイ19:12)。
パウロもⅠコリント7章で結婚と独身について触れている。そこで、こんなことを書いている「わたしはあなたがたが思い煩わないようにしていてほしい。未婚の男子は主のことに心を配って、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分かれるのである。未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではない。そうではなく、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである」。
独身として生きるということが、既婚者と比べて云々ということが言われます。これらも週刊誌の格好のネタとなっています。しかし、聖書はこの二つの間に優劣をつけてはいません。かえって、独身であることによって、余念なく神に仕えることができることを記しています。全世界の町々で働いているシスター達は、彼女たちの一日の多くの時間を神と自分以外の者達へと向けています。そして、その働きはとても尊いものなのです。既婚者であっても、独身者であっても、その人が置かれている状況でその人に託されている使命があるのです。
②二人は一体となる
もう一つ大切な聖書箇所を見てみましょう。創世記2章24節―25節「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。
エペソ5章31節でパウロはこの箇所を取り上げて「この奥義は大きい」と言っています。聖書はこの人類史上最初の男と女について、男と女は一体となると言っているのです。これは文字通り、二つのものが一つとなるということです。
創世記2章21節―22節を見ますと「そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つをとって、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた」。
この「あばら骨」とはへブル語で「サイド」という意味があります。あばら骨は私たちが触って分かるように右左にあります。その一つをとって女を作ったのです。すなわち、ここにきてイブはアダムのサイドから造られました。その彼女がアダムと結ばれるということは、まさしく取られたサイドが元に戻ることであり、それは一つとなるということです。
人間が感じるストレスのランクを記した表があります。私たちは常に何かしらのストレスの中に生きていますが、そのストレスランキングの一番は何か知っていますか。一番は「愛する者との死別」です。そして「離婚」も上位にあります。その前も後もとてつもないエネルギーと癒しを必要とするものです。なぜなら、これらにはかつて一つであったものが、裂かれる痛みがともなうからです。
ここでいう「結び合う」という言葉には二つの意味があると思います。まず、精神的・霊的な意味で一つとなるということ。そして、肉体的に一つとなるということです。そして、これらは区別されるものではなく、二つにして一つなのです。そして、ここで使われている「結び合う」という言葉には「接着する」という意味が込められているのです。
昔、アロンアルファが出た頃、十円玉をくっつけたり、指と指をくっつけたりしました。そうすると本当にとれなくなりました。カッターで皮を剥がなくてはならなくなり、泣き泣き指を離しました。
なぜ、死別や離婚が痛みをもつのか。一つであったものが、結び合い、接着していた者同士が離されるのです。その痛みは計り知れません。聖書は絶対に離婚はいけないとは言っていません。そこには色々な事情があります。でも、その痛みは今お話したように大きいのです。ですから、どうにかそれが回避できたらと思います。ゆえに牧師は結婚式において、誓約が終わり、いよいよ、最期に二人が手を組んで退場する時に、心をこめてこう宣言をします。
今、太郎と花子は神とここに集まった家族・友人の前に互いに結婚の誓いをし、その証拠として共に手を取り合い、指輪の交換をすることにより彼らの決意を証明しました。そこで、私は今、ここでお二人が父なる神、子なる神、聖霊なる神の名のもとに夫婦であることを宣言します。神が結び合わせたものを誰も引き離してはなりません。アーメン
結婚式で神の前に誓約をするということは、あの有名な誓約を「ロマンチックだわー」と聞くことではないのです。まさしく、この私の「はい」という誓約を神は聞いているのだ。そして、私が「はい」ということにおいて、神は私たちが一つとなることを結び合わせてくれるのだと受け取ることです。故に、牧師はそこにいる聴衆だけではなく、全世界に向かって宣言するのです「神が結び合わせたものを誰も引き離してはなりません。アーメン」。
一つとなるということについて、どうしても語らなければならないことがあります。聖書において「夫婦の性的な交わり」を聖書は「その妻を知る」という言い方をしています(創世記4章1節)。別の言い方をすれば性の交わりとは、正しい意味で「相手、異性を知る」ことのスタートなのです。
私たち男と女は体の形が違います。そして、それは姿だけではなく、男性と女性は考え方が違います。結婚生活はその考え方の違いを発見していく、果てしのない旅が始まるということです。互いに相手は神秘に包まれているのです。その今まで向き合うこともなかった相手に自分を隠すことなく、全身で向き合うことが性です。そして、この知るというのは、互いの体の相違だけではなく、互いの深い心の内までも知るということです。一つとなるということは相手の心も体も知るということを土台にしています。そして、これには終わりがありません。私たちは生涯かけて自分の向き合うパートナーを知っていくのです
しかし、今日、この「知る」ということに対して、最近「お試し」ということが当たり前になってきているようなのです。今日のメッセージ・タイトルではありませんが、世の週刊誌、ドラマは当たり前のように男女の関係についてもお試しを奨励しています。今日、お試しはデパ地下だけのことではないのです。
この辺りのことについて、「小さな命を守る会」の主事をしている水谷潔先生が「命と性の日記」というブログでこんなことを書いています。
アメリカで300万部以上売り上げ、世界で34の言語に翻訳されているというゲーリー・チャップマン著 「愛を伝える五つの方法」 という本があります。その本にはアメリカでなされた調査結果として「結婚前に同棲したカップルの離婚率は同棲しなかったカップルより高い」ということを示しています。つまり、このことは同棲が結婚のお試し期間として機能していないということを表しています。このことについてチャップマンは「結婚は模擬実験ができないもの。結婚関係の中心はコミットメント、すなわち献身と約束があると言っています。そして、同棲にはそれがなく、どちらか一方が立ち去ろうと思った時点で立ち去ることができる」と説明しています。
うなってしまう言葉です。結婚生活の本質が共に暮らすことや性関係だけなら、確かに同棲によって現実に相手を知ることができ、生涯のパートナーとしてふさわしいかどうかの判断の材料となるでしょう。しかし、このことを忘れないで下さい、結婚の本質がコミットメント(忠誠)なら、同棲によるお試し期間は全く無意味なことなのです。すなわち「どちらかが嫌になればやめてもよい」という関係はいつまでたっても結婚の準備にも、お試しにもなっていないということを私達は知らなければなりません。
そもそも、そのお試し期間は誰のためにあるのかといえば、自分のためでしょう。この人は自分に合うのか、私のためのあなたという考え。つまり徹底した自己中心。家具や電化製品と同じように、生涯のパートナーも自分の快適な生活環境のために必要なもの。彼らは自分の生活の必要や性的欲求を満たす生活環境の一部としてのパートナーなのではないでしょうか。人生を共に生きることを約束していないのですからその関係は、条件と期限つきです。最近お騒がせの食品だけではなく、賞味期限が過ぎれば、捨てることもできるし、交換することもOKなのです。相手が自分の願う生活環境を提供できない人になれば、さようなら、もしくは交換。同棲と結婚に接点は全くありません。
考えてみれば同棲という生活形態は、高度産業化社会の中、すべてを消費者根性で生きる現代人らしい歪み、その場での直感や感情や衝動に生き、何ものにもコミットできない現代人らしい寂しさの表れではないかと先生は書いていますが、私もそう思います。
「恋して、交際、性関係、離別」というパターンを繰り返すだけの恋愛、結婚を考えて同棲を始めても、結婚に移行しない場合の傷や痛み。同棲を経て結婚したカップルの女性は、結婚後も深い怒りを持っているとの記述があります。もしかしたら、自分をお試し商品として、好ましくなければ使い捨てにしようとした夫への深い怒りが潜在的にあるのかもしれません。
箴言5章15-19にはこのような言葉があります。
「あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。あなたの泉を外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。あなたの泉に祝福を受けさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。彼女は愛らしい雌じか、美しい鹿のようだ。いつも、その乳房をもって満足し、その愛をもって常に喜べ」。
「裸を恥じない」ということは、自分のありのままの現実が許され、受け入れられることであり、夫婦の関係にはそのような深い意味があるのです。相手の現実を赦し、受け入れる、それは愛です。この箴言の箇所には「あなたの泉に祝福を受けさせ」と書かれていますが、この箇所に限れば、この泉とは妻のことであり、すなわち愛は一方通行ではない、それは常に相手にその愛を与えていくということなのです。そして、それは肉体的な関係のみに限ることではなく、私達の全人格を通してそのことはなされていくべきものなのだと聖書はいうのです。
結婚は神の前にコミットした男女が一体となることです。もちろん、二人の生活には様々な違いがあるでしょう。しかし「私のためのあなた」ではなく、「あなたのための私」というコミットメントが、それらのことを解決していくのです。
③夫婦の間には何者も入ることはできない
さらにこの短い箇所を見ますと、こんな言葉に気がつかされます「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」。あまり、このことを詳しくは言いませんが、この言葉の「それで人はその父と母を離れて」という言葉は驚くべき言葉です。
ここを黙想していて思ったのですが、この時点でこの地球上に父も母も存在していないのです。しかし、「父と母を離れて」と記されている。そして、これは結婚生活が祝福されるために最も大切なこととして、現代も結婚カウンセラー達が触れることです(聖書は世の中の動きの追いつけないというのではなく、世界が数千年をかけて聖書が言っていることに追いつこうとしているのです)。
結婚カウンセリングをしているとよく「親」のことがでてきます。結婚してからも夫婦の間で問題としてよく出てくるものは「親」の問題です。互いに親が大切なのは当たり前。でも、夫婦となるものは親から精神的にも経済的にも独立するようにしなさいよという勧めがここには書かれているのです。
もし、日本人の方でこちらで結婚生活をしているカップルのどちらかが、何か問題が起こる度に、パートナーと話し合う前に、毎日のように日本に国際電話をかけて、父母からのアドバイスを聞いて、折に触れてそのことをパートナーに言っていたとしたらどうでしょうか。この夫婦はうまくいくでしょうか。
親は大切です。かけがえのないものです。しかし、親が夫婦の間に入ってはいけません。
この箇所をもう少し解釈を広げて言いますならば、親をも、子すらをも、夫婦の間に入れてはいけないということです。それは、排除せよということではありません。でも、第一にくるのは夫婦の関係なのだということです。何せ夫婦は一体なのだと聖書は言うのです。親と子が一体だとは聖書は言っていないのです。
そんなことしていて子供は育つのかと思う方いるかもしれない。しかし、子供が一番、見たい光景は何だと思いますか。ドレッシャーという人が「自分がもう一度、父親をやり直すことができるとしたら、あれをしたい、これをしたい」ということを10の項目で書いています。そこには「もっと子供と笑い会う時をもつこととか「もっと正直になること」などが挙げられています。その中で彼がまず第一番目としてあげていることは「妻をもっと愛すること」と書いています。
そもそも妻を愛するとはどういうことなのか。先に触れた水谷先生は書いています。日本を代表するフェミニストのある女性は「結婚とは自分の性的自由を譲り渡す代わりに相手の性的自由を奪うもの」と主張している。この方は終身結婚制を廃止して、生涯恋愛社会に移行しよう訴えているといいます。「愛は惜しみなく奪う」と有島武郎という作家は言いました。それに対して「愛は惜しみなく与う」とはトルストイの言葉。言うまでもない、聖書の結婚観は後者なのです。
結婚とは結婚前に所有していた自由や権利の制限、そして放棄を自分のパートナーのためにすることを意味します。もちろん、私たちは罪人ですからそのように生きることは、とてもチャレンジングなことです。しかし、愛に生きるとは、そうした世界に生きていくことではないでしょうか。
最後、4つ目のことです。
④大切な役目を担うもの
ペテロ第一3章7節「夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共々に受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈りがさまたげられないためである」。
夫婦になるということは、もし主の恵みであるならば、子供を神様から授かる可能性が与えられるということです。すなわち「いのちの恵みを共々に受け継ぐ者」となるのです。その夫婦は命のバトンを手渡されるのです。そして、次の時代への橋渡しとなるのです。
創世記3章11節―12節「神は言われた、あなたが裸であるのを、誰が知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか。人は答えた、わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれらので、わたしは食べたのです」。
このところでアダムはなぜ、禁じておいた実をあたなは食べてしまったのかという神様からの問いに対して、自分の妻、イブに責任を転嫁しました。潔く自分の否を認めずに、それを妻のせいにした夫。この後、この夫婦の関係がぎくしゃくしたであろうことを私達は容易に想像できます。聖書はそのことを詳しく書いていませんが、この二人から生まれた子供、兄カインは弟アベルを創世記4章において殺害しているのです。
牧師として色々な人間のカウンセリングをすることがあります。その方々のほとんどの問題は人間関係の問題です。家の木が伸びすぎてしまってとか、釣りに行っても魚が釣れないということに悩んで、牧師を訪ねてくる人はいません。今日、多くの人達が抱えている問題は人間関係であり、とどのつまり、それらの問題は最終的にはその人達が生まれ育った家庭環境の問題へとたどりつきます。そして、言うまでもなくその家庭の基本には夫婦があるのです(創世記の全てが家族について触れていることに改めて驚きます)。
先ほども言いましたが、結婚が創造の「秩序」の中にあるのならば、夫婦の間にも秩序があります。しかし、その秩序が壊れてしまうと、すなわち月と太陽のバランスが崩れたら、この地球の環境が壊れてしまうように、その影響は子供におよんでいくことがあります。そして、この連鎖は世代から世代へとつながっていくことが多いのです。親の傷を子が受け、その子の傷をその子が受けるというように。
皆さん、このようなことをお話しますと、私達はこの連鎖というものが夫婦の問題においても、親子の問題においても、私達自身の内にあることを見いだすことがあります。どこに完璧な夫婦がいるでしょうか、どこに完璧な親がいますか。私も時々、子供達を自分本位に叱りつけた後に、彼らが眠っているベッドに行き、その寝顔を見ながら自己嫌悪に陥ることがあります。たとえその夫婦が実際に共に暮らしていても、その二人の関係が子供に与える影響を考えるなら、私達は後に続くジェネレーションにどんな影響を与えているのかということに気がつき、頭を抱え込んでしまうのです。
こんな、私達はどうしたらいいのでしょうか。もし、今日のメッセージがここで終わったら私達は闇の中に取り残されてしまいます。しかし、聖書はこれらの連鎖を解く光を私達に提示しているのです。
すなわち、この悪循環の連鎖はイエス・キリストにある救いによって解くことが可能なのです。夫も妻も親も子も皆、神の前には罪人。多くの過ちを犯し、そして、その自分の過ちにも気がつかずに、いつまでも人のせいにして生きているようなお互い。しかし、そんな私達がキリストの前に立つならば、私達の心が照らされるのです。そして、私達は自分がそれまで歩んできた道を方向転換して、キリストと共に歩み出すのです。そのことによって私達は変えられていくのです。この私の傷が子供にも引き継がれていく、その鎖を断ち切り、その鎖の代わりにキリストの十字架をそこに据えることができる時に、そこに本当の命の連鎖ができていくのです。
人を創造し、夫婦を創造の秩序に組み込まれた神様は私達の互いの関係が壊されてしまった者に対して、見て見ぬふりをしているのではありません。そんな私達のためにキリストをこの地に送り、私達の連鎖の鎖を解き放ってくださるのです。
皆さん、多くの人にとって「結婚」とはその人生にとって、大きな意味をもつものでしょう。その結婚について聖書が語ることの一部を今日は聖書からお話しました。もしかしたら、今までこんな話し聞いたことがなかったという人もいるかもしれません。私の結婚観はいつも時々、めくるめくる週刊誌の中にありましたという方いるかもしれません。しかし、週刊誌の記事は今日と明日では違うのです。その内容は私達、読者のためというより、どれだけ人が手を取り、それを買ってくれるかというような刺激的な、そして甘い言葉で満ちていることが多いのです。
私達はそれぞれ結婚に対して、色々な状況の中にいると思います。その中で私達は暗中模索するのではなく、聖書の光に照らされて歩んでいく者でありたいと願います。神様は私達を購買読者として見ているのではなくて、私達を愛して、本当に幸いな結婚生活をしてほしいと願っておられるのですから。
お祈りしましょう。
大倉の結婚式を思い出すよ、俺には衝撃的な式だった(笑)。でも式に呼んでくれたのを凄く嬉しく思ってます。さて、悲しいお知らせがあります。歩のお父さんが他界されました。2/1の朝がただったらしい、お通夜が2/5でお葬式が2/6です。ご冥福を祈ってあげて下さい。
さんぼ
あの時は遠いところから式に出席してくれてありがとう。おかしいなー、確かゴンドラも鳩ももちろん象も出てこなかったはずだけど・・・・(笑)。
歩のお父さんのことはよく覚えています。そうだったのか・・・。歩家族の上に天来のお慰めを祈っています。