クリスマス礼拝の今日、洗礼式が持たれました!聖書は一人の人間が、そうたった一人の人間が神のもとに立ち返る時に天において起きていることについて触れています。
「よく聞きなさい。罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない99人の正しい人のためにもまさる大きな喜びが天にあるであろう」(ルカによる福音書15章7節)。
ですから、今日、天はそれはそれは大変な騒ぎだったのではないかと想像します。そして、その天において宇宙全体を揺るがせて天使の一群が思わず歌いだしてしまった日がクリスマスなのです。
あなたがたは、幼な子が飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使いと一緒になって神を賛美して言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章12節-14節)

マック
今日、礼拝でお話したクリスマスメッセージです。
よかったらどうぞ!
クリスマスがあなたを変えます!
2007年12月23日
ヨハ1章14節-18節
クリスマス、おめでとうございます。こうして2007年もイエス・キリストの誕生をお祝いできますことを心より感謝します。多くの私達が知るように、キリストはユダヤのベツレヘムという寒村で今から2000年前にお生まれになったと聖書は記しています。いつもはこのキリストの誕生というものを、それに関わったマリアやヨセフ、東の博士達や羊飼いのことを織り交ぜながら、描写しながらお話しますが、今年はこのキリスト誕生を別の角度から光を宛てて見てみたいのです。ここから二つのことをお話します。まず最初に14節にあるように「言葉は肉体となった」ということです。
言葉は肉体となった
今日、読んでいただきましたヨハネによる福音書を見ますと、この福音書を書いたヨハネはこのクリスマスの出来事を別の言い方でこう書いています。「言葉は肉体となった」これはとても飛躍した言葉でありまして、今日はじめて聞いた方には理解できない事かと思います。実はこの「言葉は肉体となった」ということにはこの前に書かれていることと繋がりがありまして、先週お話しましたようにこの言葉の前には「始めに言葉があった。言葉は神であった」ということが書かれているのです。すなわち、この神なる言葉が肉体を持ったということは読んで字のごとくキリストが人間の赤子という肉をとられ生まれたということなのです。
それにしても「言葉が肉体となった」ということはどういうことでしょう。分かりやすい譬を今日はお話しましょう。
ヘレンケラーを知らない人はいないでしょう。二歳の時から見えない、聞こえない、話せないという三重苦を負って生きた女性です。彼女は言葉を聞けないし、見ることができないのですから、当然、言葉というものがあることを知りません。ゆえに「ウーウー」という音しか口から出せないでいたのです。相手の気持ちも分からないし、自分の気持ちも相手に伝わらないのです。しかし、ヘレンは幸いでした。このヘレンが7歳の時、家庭教師としてアニー・サリバンという先生が彼女のもとに来たのです。
私も初めて知ったのですが、このサリバン先生は幼き日に親に捨てられた孤児であり、孤児院で弟と育ちました。そして、その唯一の身内である弟とも幼くして死に別れたという境遇の中生きてきた女性だったのです。また、彼女は患った病の故にその目もほとんど見えなくなり、そのような状況の中、彼女は精神病院に入れられました。しかしその精神病院で一人のクリスチャンの看護婦と出会ったのです。その看護婦は「神に不可能なことは何もない!」とサリバン先生に日々語りました。サリバン先生は、神に愛されていることを知り、生きて行くことの意味と希望を見出したのです。その結果、そこで一生を送ると思われていたサリバン先生の病状は改善していき、ついに癒されました。この教師がヘレンケラーと過ごしたのです。ヘレンは後に「私の生涯で最も偉大な日は、サリバン先生と出会った日です」と書いています。
このサリバン先生がヘレンに対して成そうとしていたことは一つのことでした。それはヘレンに「言葉」を伝えることだったのです。そして、試行錯誤の末、教えようとする物にヘレンの手を触れさせ、その直後にその物の名前を手のひらにアルファベットで書くということを始めました。すべての物事には名前があることをヘレンに悟らせようとしたのです。そして、驚くべき忍耐の取り組みの結果、ヘレンはこの方法で物と言葉というものを理解していくのです。
そんなある日のこと、ヘレンに「愛」という言葉の意味を伝えたくて、サリバン先生は葛藤していました。愛には形がありません。触れさせることができません。サリバン先生は、愛という大事なことを伝えられない自分の力の限界を嘆き、ヘレンの手を握って涙しました。するとその涙がヘレンの手に落ちるやいなや、ヘレンの心に深い感動がわきあがりました。ヘレンはこれが愛だと悟ったのです。
イエスの弟子マタイは預言者イザヤの言葉を引用しながら、こう言いました「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。それは彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためである」(マタイ13章14節―15節)。
私達は霊的な意味においては盲目であり、聞くことができない者なのだと聖書はいいます。ですから私達は霊的にはヘレンと同じようなものなのかもしれません。私達は「いいや、そんなことはない」と私達は反発したくなりますが、そんな私達に対してイエス様は痛烈に言われました。「今あなたが見えると言い張るところに、あなたがたの罪がある」
神様は古の時代、こんな人間に直接語りかけることによって何度も何度もその神の思いを示され、また様々なみ業によって神ご自身を表されました。旧約の預言者達はその言葉を神から直接聴き、それを民に話したということが書かれていますし、モーセと共にエジプトを脱したイスラエルの民はその道すがら多くの奇跡を見ました。しかし、人々はその言葉に耳を傾ける事がありませんでした。そんな人間の頑なな心の記録が旧約聖書だと言っても過言ではありません。
しかし、それでも神様にはどうしても人間に伝えたいことがありました。しかし、どうしてもその思いは人に言葉として届かない、もっと具体的に人間に示さなければならない言葉がありました。それが神の愛なのです。サリバン先生もヘレンにどうしたら、この愛を伝えることが出来るのかと悩んだのです。愛なんて何か物体を触らせて分からせようなどということはできないのです。高級車のハンドルを握らせて、これが愛だなどと説明などできないのです。でも、その時に彼女の目からこぼれた一滴の涙がヘレンに愛の意味を教えたのです。
皆さん、ここまでお話してなぜヘレンケラーとサリバン先生のことをお話したか分かっていただけたと思います。「言葉は肉体となった」。神は私はあなたを愛しているということを何度人間に知らせようとされました。しかし、人間はことごとくその神を欺いてきたのです。
そして、それに対する神の一滴の涙のようにイエスはこの地に生まれたのです。神の愛を伝えるために、言葉は肉体となり、そして私達の内に住まわれました。そのキリストの誕生によってこの神の愛が余すところなく私達に示されるためです。どうして、神は愛なのか、クリスマスが完全にそのことを示しているからです。二つ目のこと、それはこのキリストは恵みとまことに満ちていたということです。
恵みとまことに満ちていた
ヨハネはこのキリストはどういう方であったかということを、言葉を選びながら簡潔にこのキリストは「恵み」と「まこと」で満ちていたとその後に書いているのです。
特効薬というものがあります。それを飲めば、あるいは打てばその病気は必ず治るというものです。奄美諸島や沖縄にいますハブに噛まれると私達は血清を打たなければなりません。そして、その血清を打てば私達はハブの毒によって命を失うことはないのです。すなわち、血清はハブに噛まれた時の特効薬なのです。
時々、色々な人と接していて思うことがあります。この人の今の状況に必要な特効薬があればいいのになーと。私は医者ではなく牧師ですから、私がいう「この人の今の状況」と言うのは、その人が抱えている心の問題です。すなわち医者は私達の肉体の病に向きあいますが、牧師は心の病や傷に向き合うことが多々あります。その最前線の現場で実感するのは、今日、多くの私達の心は病んでいるということです。私達の心が傷ついているということです。そして、私達はこの心の病に効く特効薬を見つけようとするのですが、なかなか見つけられずにいます。かえって、傷口に塩を塗りつけることをしていたり、そうすることによってもっと痛みが増加するのに・・・というような方法を取り入れている人も多くいます。
聖書は言葉が肉体となったと言います。すなわちキリストはこの世界に生まれたということです。そして、そのキリストは「恵み」と「まこと」に満ちていたというのです。何かが私達の内に満ちるということはあまりありません。いいえ、あるとすればそれは「怒り」であったり「不満」であったりすることがあります。これらはけっこう簡単に私達の心に満ちてきます。そしてそれが溢れ出てくる時に私達は多くのトラブルを抱えることになります。
でも「喜び」や「平安」というものが心に満ちることはあまりありません。喜びや平安が満ち溢れていくということ、それはとても難しいのです。なぜですか、世の中の構造が、家庭の環境までもが「そうたやすく喜ばせてたまるか、心に平安をもってもらってたまるか」のごとくに、怒涛のごとくに私達の五感に絶え間なく色々なメッセージをもって迫ってくるからです。ですから、そんな中に生きている私達は「むかつく、きれる」と言っては、その思いを人にぶつけていきているのです。神の目から見たらそんな私達はサリバン先生に会う前のヘレンのようなもので「ウーウー」と言っているのに過ぎないのかもしれません。
でも、そんな私達の心が抱える問題に特効薬なのがこのキリストの「恵み」と「まこと」なのです。ヨハネはキリストはこの「恵み」と「まこと」に満ちていたと書いています。16節などを見ますとそれが「満ち満ちている」と書いています。
私はよく日本茶を飲みます。時々、中途半端にお茶が急須の中に残ってしまうことがあります。そうしますとそれは後々、濃いお茶となってしまいますので、それを無理して湯のみに注ぎます。それこそ、その淵ギリギリまで。でも、そうなると今度は飲むのが大変。それを指先で掴み、恐る恐るこぼれないように口に運ぶのです。ちょっとでも手が震えたら溢れこぼれてしまうのです。その茶碗をちょっとでもつつけば湯は溢れでるのです。
今、読んでいます「満ち満ちている」ということは、イエス・キリストにちょっとでも触れれば、そこからは恵みとまことが溢れ出てくるということです。キリストには溢れんばかりの恵みとまこととが満ちているというのです。そして、彼の恵みとは一言でいうならば「ありのままのあなたを愛している」ということなのであり、彼のまこととは「私の真実(まこと)は決して変わらない」ということなのです。
先の話にもどりますなら、この二つことを世の中はなかなか与えてくれないのです。いいえ、与えてくれないというよりも与えることなどできないのです。家族の間であってもそれは超難問なのです。ですから、私達は心病むのです。でも、反対にこの二つが本当に私達に与えられていくのなら、私達の心の病と傷は癒されていくのです。そうです、この二つこそが私達の心の痛みの特効薬なのです。そして、キリストにちょっとでも私達が触れたらこの恵みと真は、溢れこぼれてくると聖書は言うのです。
この恵みとまことに満ちているキリストがお生まれになったということがクリスマスなのです。フィリップ・ヤンシーという作家がそのクリスマスについて壮大な物語について書いています。
舞台は宇宙、二人の天使が5000億からなる星を軽やかに飛びながら見てきました。そして、とうとうこの地球のある銀河にやってきました。そこは私達には馴染みの深い惑星があるところ、実際にはこの惑星にしても宇宙の中の小さな小さな一部分にすぎないのであり、その中で一番地球から近い月の上を歩いたということで私達は大騒ぎをしているのですが、その中にある私達の住む地球を指さして年上の天使が年下の弟子に言いました「お前にはあの星を見て欲しいのだ」小天使はそれまで人間が見たこともない星をたくさん見てきたゆえに、特別、感動することこもなく「なんだか小さいし、ちょっと汚く見えるし、何か特別なのですか」と聴きました。
アポロの宇宙飛行士はその球体を美しいといいました。でも、他の世界を見てきた小天使にとっては、それは印象的なものではありませんでした。さらに年上の天使が「この星こそ神の訪れた星なのだ」と言った時には思わず本音が出てしまいました「我らが偉大なる栄光の王子ご自身が、この第五流の小さな球に降りていかれたなんて・・・。神はあえてご自身を低くされて、あの浮かんでいる球の、しかものろのろと這いつくばっている生き物の一つになられたのですか」。「そうだ。でも神はお前が彼らのことを「のろのろと這いつくばっている生き物」などと、その声の調子で呼ばれることをのぞんではいないだろうね。それは小天使の理解を超えたことであった。
ヤンシーは続けてこう書いているのです「私はクリスチャンとして、自分達が二つの平行した世界に生きていると信じている。一つの世界は丘や湖、納屋、政治家、夜ごと家畜を見守る羊飼いなどから構成されている。もう一つの世界は、天使や悪の力、どこかにある天国と地獄とか呼ばれている場所からできている。ある寒くて暗い夜ベツレヘムの幾重にもなった丘の中、これら二つの世界は劇的な交差点で合わされたのである。前も後も関係がない神が時間と空間の中に入られた。境界を必要としない神が、赤ん坊の皮膚という衝撃的な境界、死すべき運命という不吉な束縛を身につけられた・・・。その時、幾人かの羊飼いだけではなく、宇宙全体を騒がせてまで、天使の一群が思わず歌いだしてしまったのだ・・・」。(「誰も知らなかったイエス」より)
キリストが時間と空間の中に、人間の皮膚の中に、そして死という境界にまで甘んじられたということ、それは宇宙全体を揺り動かすような出来事だったのです。
しつこいですが、壮大な宇宙の話から一つの湯のみの話しに戻ります。今にも溢れんばかりの湯のみはゆっくりと口に運ばれます。それを持って早足で歩きながら飲む人はいません。バケツに水一杯入れて、それを自転車に積んで砂利道を走れば水はジャブジャブと溢れるのです。湯のみに満ちたお茶は動けば動くほど溢れでるものです。
キリストがこの地に生まれた時、きっとその晩はいつもと変わらない静かな夜であったに違いありません。しかし、私達の目に見えない世界において、この出来事は揺れに揺れたのです。ということは、すなわちその時、キリストがお生まれになったその時こそ、その満ち満ちた恵みが私達の世界に溢れ出たその瞬間だったのです。
実にヨハネがさらりと書いている「言葉は肉体となり、私達のうちに宿った」ということは天界においても私達にとってもとてつもないことだったのです。そして、そのキリストが愛を示すためにベツレヘムにお生まれになったということ、そのことこそが神の愛と恵みとまこととを私達に示すものなのです。
クリスマスとは最も神のまことと恵みが私達にあらわされた時なのです。そして、ここに21世紀を生きる私達の希望があるのです、いいえ、言いかえましょう、ここにしか私達の世界の希望はないのです。私達がこのクリスマスを神の愛が私達に最も注がれている時であったということ、また神のまことと恵みがこのクリスマスにお生まれになったキリストから自分自身に溢れ注がれているということを知るならば、私達は変わります。
皆さんにとって2007年のクリスマスがこれらのことを噛み締める時となりますように。そして、日々の生活の中において特効薬を必要としている私達の元に確かにイエス・キリストの誕生のメッセージが強く、力強く届けられますように!
お祈りしましょう。
毎週ちゃんと読んでるよ!
ありがとね!
さんぼ
読んでいてくれて嬉しいよ。素晴らしい年末年始を送ってくれよ。