エゼキエル:神様が悪いのですか?

今日は厳しいことをお話ししたかもしれません。しかし、このようなことを語らずして、私は天国に行ってバプテスマのヨハネに会うことはできませんし、イエス様に自分が何を語ってきたのか報告することができません。「お前、地上で何を語ってきたんだ」と言われてしまいます。「悔い改め」は聖書のメッセージの本質であります。私達が神を知るということ、神の愛を受けるということは、自らの本当の姿を知り、そのことを主の前に悔い改める以外にないのです。

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」(聖書:マルコ2章17節)

『義人はいない。ひとりもいない』(聖書: ローマ人への手紙3章23節)



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Video streaming by Ustream本日礼拝でお話した「日英礼拝メッセージ原稿」、および「本日のおもちかえり」です↓ 本日の礼拝プログラムはこちらから。

マック

エゼキエル:神様が悪いのですか?

2012年9月30日

 先週の哀歌に引き続き、今日、見ていきますエゼキエル書は南ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、その王をはじめ、多くの人達が捕虜としてバビロン(今のイラク)に連行されたという歴史的史実、バビロン捕囚の時代のことを記しています。国が栄えるとか、国が堅固になるということなら明るい話題ですが、国が敵国に滅ぼされて、そこに住む者達が捕えられて敵国に連行されるということほど辛く悲しく、厳しいことはありません。まさしくそれはユダヤ人の歴史において最も屈辱的な時であったに違いありません。

 同じように、私達各々の人生にも希望に満ちている時があれば、失望落胆の只中を歩まなければならない時もあります。ある陸上競技の監督が、なかなか記録が伸びない選手に向かって「花が咲かない時は、地に深く深く根をはれ」と言ったといいますが、イスラエルの民にとりましても、このバビロン捕囚の時というのは明らかに何か花を咲かせるというような時ではなく、ある意味、自らを省み、神様という存在をもう一度知り、自らが立つべき土台を確認し、その上にもう一度、各々の人生を築き直す時となったに違いありません。このエゼキエル書を書きましたエゼキエルは多くの同胞の捕虜と共に、バビロンにあるユダヤ人居留地に住み、そのところで神様から預言者としての召命を受けたのです。

 当時、そんなバビロンに住むユダヤ人の間でよく耳にする諺がありました。それは「父が酸いぶどうを食べたので、子供の歯が浮く」というものでした。果物というのはまだ熟していない時に酸っぱさが残ります。この酸いぶどうを食べた親の子がその酸っぱさで歯がうくというのです。「歯がうく」ということを言葉で表現するのは難しいのですが、どんなことを意味するのかはお分かりかと思います。そして、こんなことを聞きますと、普通はそんなことはあり得ないと思います。これは親がハラペーニョをかじったら、そばにいる息子が「辛い!」と言うことなのです。それは本来、ありえません。しかしながら、このような諺が捕囚地バビロンの巷に行き巡りました。なぜでしょうか。

彼らは今、捕囚民としてバビロンという異国にいます。彼らはそこで70年もの間、暮らすことになります。70年とは決して短い年月ではなく、その年月の間にはまだ何も知らずに幼い時に親家族と共にバビロンに連れてこられた者たちもいたことでしょうし、直接バビロンに捕らえ移されたのではなく、そのバビロン捕囚の只中で生まれた者も多くいたことでしょう。これらの者達の間からこんな言葉が聞かれるようになったのです。「なぜ、俺たちは親達のしたことに対して、その報いをここで受け、このような過酷な生活をしなければならないのか」。それが「父が酸いぶどうを食べたので、子供の歯が浮く」という言葉が意味することでした。

先日、オバマ大統領の生い立ちや過去四年間のはたらきについてまとめたドキュメンタリー映画を観に行きました。その内容はとても興味深く、色々なことを考えさせられました。しかし、その内容以上に心に残ったのは、その時の館内は私の休みの日でもあります月曜日の午前ということもあるのでしょう、リタイヤをした夫婦でいっぱいだったということです。彼らはきっと自分達の子や孫がこれから暮らすアメリカはどんな国になるのかということに大きな関心を持ちつつ、その映画を観ていたに違いありません。私達の時代が次の時代に残していくものは何なのか、映画はそのことに対して悲観的なデータをいくつも表していました。確かにそれらは私達の世代で処理解決できるものではなく、次の世代に持ち越されていくものとなるでしょう。

ですから私達も感じているかもしれません。なぜ、自分達は自らが生み出したものでも、引き起こしたものでもないのに、このようなものを引き継いでいかなければならないのか。そのような意味でバビロンに捕囚されていた新しい世代の者達の気持ちを私達は理解できるのです。さぁ、それでは私達は本当に親の罰を受けなければならないのでしょうか。

親の罪の罰を子が受けるのか。 

1主の言葉がわたしに臨んだ、2「あなたがたがイスラエルの地について、このことわざを用い、『父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく』というのはどんなわけか。3主なる神は言われる、わたしは生きている、あなたがたは再びイスラエルでこのことわざを用いることはない。(エゼキエル18章1節-3節)。神様はエゼキエルに、もはやこの諺がイスラエルで用いられることはないというのです。すなわち、この諺はもはや有効ではないということです。

確かに、人の世代というのはそれぞれ分断されているものではなく、そこにはつながりがありますから、先代のしたことを次の世代の者達は引き継がなければなりません。それらは国の債務であったり、また環境問題であったり、もしかしたら親が残した借金かもしれません。

しかし、このところでエゼキエルはこの諺はもはや用いられることはないと書いています。そして、それはエゼキエルのみならず、エレミヤもこの諺を取り上げて同じことを記し、その理由を述べ、さらにそれではこれからどうなるのかということまでも記しています。

29その時、彼らはもはや『父がすっぱいぶどうを食べたので、子どもの歯がうく』とは言わない。30人はめいめい自分の罪によって死ぬ。すっぱいぶどうを食べる人はみな、その歯がうく。31主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。32この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。33しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。34人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ31章29節-34節)。

このエレミヤ31章の言葉は聖書の中で最も大切な預言の一つと言われています。そうです、このところでエレミヤもエゼキエルと同じように、父がすっぱいぶどうを食べたので、子どもの歯がうくとはもはや言わず、人はめいめい自分の罪によって死ぬ。すっぱいぶどうを食べる人はみな、その歯がうくと言っています。すなわち、父母や祖父母の罪を子が負い、それを償い苦しまなければならないということは決してないというのです。

さらにエレミヤは神様はイスラエルとの間に新しい契約を結ぶと書いています。なぜ契約が新しくされなければならなかったかと言いますと、イスラエルの民達が先の契約を守れなかった、その契約を破ったからなのです。実際にその時までのイスラエル民族の歩みは神との間にたてた契約をことごとく破って、それを守ることができないことを証明するような敗北の歴史だったのです。

それゆえに神様は彼らと新しい契約を結ぶというのです。それは、民一人一人の心に神の律法が記されるということであり、誰しもが神を知りうるようになる、そして神様は人々に赦しを与え、その罪が思い起こされることはなくなるというのです。

これは言うまでもなく律法の時代の終焉を言っており、やがて来るキリストによる十字架の罪の赦し、また聖霊がいつも私達と共にいて、神ご自身について教えてくださるということを示す預言なのです。これらの時代がくるにあたって、私達はもはや先祖の罪を負うことなく、それは私達一人一人が自らのなしたことに従い負うべきものとなるのだというのです。

これはある意味、私達にとって解放の言葉です。しかし、同時にこれは私達に言い逃れのできない責任を問いかけるものです。それはエゼキエルが書き記している通りです。

20 罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。21 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。22 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。(エゼキエル18章20節~22節)。

私達は自分以外の人の罪を背負うことはありません。大切な自分の父母であっても、かわいいわが子であっても、彼らの罪は各々が負うべきものであり、私が負うべきことは私の罪だけなのです。私達が誰かの罪の罰に代わって鞭打たれることはありませんし、誰かが私達の罪を負うということはないのです。

二つ目のこと、「神のせいにするな」をお話しましょう。それではこの罪ということについて神様はどのように感じていらっしゃるのでしょうか。

神のせいにするな。 

25 それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。26 正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。27 しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。29 それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか(エゼキエル18章25節-29節)。

世の中にはこんなに悲しいことがある。こんなことを見過ごしにしている神とは何なのだ。だから神はいない。神も仏もあるものかと人は言います。普段、神様のことなど考えもしないのに、口に出すこともないのに、何か不都合なことがあると「神様はいったい・・・」と私達は言います。私達はそのように責任の所在を見つけなければ不安だからです。「スケープゴート」と言う言葉はそのためにあります。世の中の悲しみはなぜ起きたのでしょうか。なぜ貧困があるのでしょうか。なぜ私達は事故にあうのでしょうか。なぜ地震があるのでしょうか。なぜ北極の氷河は溶けているのですか。なぜ大切な面接がある日に渋滞なのですか。これら良くないことはみな神様のせいなのでしょうか。もう一度、言います。これらの私達にとって願わしくないことは本当に全て神様のせいなのでしょうか。

同じ事を捕囚の民達は言っていたのです。すなわち、まず自分達が捕囚の民となったのは俺たちの親のせいだ。祖父母のせいだ。そして、それはやがてこれらのこと全てが起きたのは神のせいだというのです。自分の道は正しいけれど神の道が正しくないというのです。人はいつもこのような思いをもっています。神様はこのような人間の無知な言葉に対して沈黙を保っていますが、このエゼキエルにおいてははっきりと語られました。25聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。

病気を治すにはまず病院に行って検査を受けて、実際にどこが悪いのかを知らなければならないでしょう。そして、その病気と向き合わなければならないでしょう。私達の心もそうです。しかしながら、私達はその心に向き合わずにいつも自分以外の物事や事象の問題を指摘しています。

これはもう人類はじめのカップル、アダムとイブの時代からそうだったのです。彼らはエデンの園において禁じられていた実を食べました。そして、その瞬間から恐れという思いが心に起き、園の木々の間に彼らは身を隠したのです。その時に神様は彼らに語りかけました。

11神は言われた「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。12人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」(創世記3章11節ー12節)。

この言葉は神様の問いかけに対するアダムの言葉です。それは明らかに自分が実を食べたのは「あの女」、すなわち自分の妻イブのせいだと言っています。しかしそれだけではありません、注意深くこの言葉を読むのなら、そこには「わたしと一緒にしてくださった」とあります。そうです、その言葉の真意は「わたしが禁断の実を食べてしまったのは、わたしのせいではなくて、そもそもあなたがあの女をわたしの側に置かれたからです」ということで、すなわち「それはあなたのせいです」と神様に向かって言っているのと同じなのです。

皆さん、私達はアダムを非難できません。私達も彼らの血を継ぐ者であり、それゆえに私達もこの類の責任転嫁を日常的にしているからです。もう、一度、私達はこのことを各々の胸に手を置いて祈り、考えてみましょう。

三つ目のこと「神は悪人の死を喜ばない」をお話しましょう。神様は私達の罪についてどのように感じていらっしゃるのでしょうか。

神は悪人の死を喜ばない。 

ここに罪を犯した者達に対する神様の真実な思いが書かれています。あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか(エゼキエル書 33章11節)。

聖書の言葉を読む人はそれぞれ色々な印象や感想をもつことでしょう。同じものを読んでも何も感じず欠伸をしている人、もうこんなことは知っていると覚めている人もいることでしょう。

でも、その人はこのエゼキエル33章11節を読んできっとその手がわなわなと震えたのではないかと思います。その人とはとある刑務所の独房にいました。前科七犯でその時も自分がした罪ゆえに刑務所にいたのです。しかし、その刑務所で彼は聖書を手に取り、創世記から読み始めて、このエゼキエル書にいたり、この33章11節の言葉に目がとまったのです。その人、現在、埼玉の川口で「罪人の友教会」の牧師をしている進藤龍也牧師は言っています。この言葉によって自分はそれまでの自分勝手な生き方を恥じ、生まれてはじめて悔い改めたと。

どうか覚えてください。神様は悪人の死を喜ばれるお方ではありません。悪人とは前科ある人のことを言うのではありません。神というお方がいるのに、そのお方に背を向けて自分の生きたいように生きている私達。進藤先生にはそのことが指摘されずとも明確だったのです。先生がその時に鉄格子の中にいたということは、自分が悪人だということを自他共に認めていたということなのですから。だから、嬉しかった。なぜなら、この言葉は明らかに自分に語られているからということが先生には分かったからです。神は俺のような悪人が死ぬことを喜ばない。むしろ、その道から離れて生きるのを喜ぶということを知ったのですから!

 そう、これが神様の本音です。その道から立ちかえれ。心をひるがえして悪の道から離れなさい。どうして、あなたは死んでよかろうかと!この言葉は私達一人一人に語られているのです。それではどうしたらいいのでしょうか。

 悔い改めよ

  30 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる(エゼキエル18章30節-32節)。

 主は言われます「わたしはお前たちひとりひとりをその道にしたがって裁く」と。この言葉は「あの人に比べてあなたは罪深い」ということを言っていません。私達の親や私達の上司のことを言っているのではなく、文字通り、私達ひとりひとりが歩いているその道に従って私達は神の前に立たなければならないというのです。

それでは私達に勧められていることは何なのでしょうか「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ」(エゼキエル18章30節)。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」(31節)。

今から2000年前、イエス・キリストが公にそのはたらきを始める前に、燃える炎のようにそのキリストの露払いをするかのように荒野で叫ぶ一人の人がいました。私達は彼を今日、バプテスマのヨハネと呼んでいます。

4このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。5すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、6自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。7ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。8だから、悔改めにふさわしい実を結べ(マタイ3章4節ー12節)。

私達は好んでガラテヤ書にある御霊の実について語ります。それは愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制であり、私達はその実を結びたいと心から願います。しかし、聖書が言う実はそれだけではないのです。そこには「悔い改めの実」というものもあり、それを結べとも聖書は言っているのです。いいえ、実際のところ、まずこの悔い改めの実を結び、その後に御霊の実は実っていくのです。

このヨハネが「悔い改めの実を結びなさい」と荒野で叫んでからしばらくして、イエス・キリストは神の福音を宣べ伝えるべく、その第一声をあげました。キリストはどんなかけ声と共にその宣教活動を始めたのでしょうか。『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』(マルコ1章14節、15節)。皆さん、イエス・キリストは多くの言葉を聖書の中に残していますが、その第一声が「悔い改めよ」であったということを私達はしっかりと心に刻まなければなりません。

後、イエス様が自ら選んだ12人の弟子達を呼び集め、ふたりずつをそのはたらきに遣わされた時に彼らは『出て行って悔い改めを宣べ伝え(マルコ6章12節)、使徒行伝において人々が聖霊を受けた直後に人々がペテロに「わたしたちはこれからどうしたらよいのでしょうか」と問うたところ、彼はこう答えました『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい』(使徒行伝2章38節)と言いました。

 パウロがあのアテネのアレオパゴスにおいてギリシア人を前に語ったことは神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる』(使徒行伝17章30節)という言葉でした。ミレトにおいてエペソの教会の長老を前にパウロは自分がこれまでしてきたことは何なのかということをこのように説明しました『ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである』(使徒行伝20章21節)。

 ユダヤの領主、アグリッパを前にパウロが弁明を許され時に彼はそこでも、それまで自分が何をしてきたかということをこのような言葉で言い表しましたまず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました』(使徒行伝26章20節)。

 私達は聖書のメッセージとして「神の愛」とか「神の恵み」という言葉をよく聞きますし、メッセージの中でも当然、そのことが語られます。そして、よく「ありのままのあなたでいいのです」という言葉を聞きます。この「ありのままのあなたでいい」という言葉を不快に思う人はおらず、それに腹を立てる人はいません。確かに神の前に人はありのままでいいのです。確かにあの放蕩息子は汚い体を洗い、服を変えてから父のもとに帰ったのではなく、彼はありのままの姿で帰宅しました。しかし、実際に父の元に帰る前に彼は父のもとに帰ってこう言おうと心に決心したのです『父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても罪を犯しました』(ルカ15章18節)。彼はこの悔い改めと共に、文字通りありのままの姿で父のもとに帰ったのです。

私達はどうしたのでしょうか。なぜ旧約の預言者たちが喉を枯らしてまでも叫び続け、イエス様の前にその道ぞなえをしたバプテスマのヨハネが自分の首と引き換えに悔い改めを叫び、イエス様はその第一声として「悔い改めよ」と言われ、ペテロもパウロも自分が生涯かけて伝えていることは「悔い改めて神に立ち返れ」ということなのだと言っているのに、なぜ私達は御霊の実ばかりに目がいき、悔い改めの実には目がいかないのでしょうか。

悔い改めることは自分のプライドに抵触するからでしょうか。もっと自尊心が高められることについて話してくれというのでしょうか。もっと自分の生活が豊かになり、気持ちのいい話をしてくれというのでしょうか。

最近、日本の携帯電話最大手の社長が「アイフォン、アイパッド、 スマートフォン、どれも持っていないという人は、今日から人生を悔い改めていただきたい」と言ったそうですが、言うまでもなく、そんなことで悔い改める必要は全くありません。「悔い改める」という言葉が電話とかコンピューターを持っているか持っていないかなどというレベルで使われているところに私達の深刻な問題があります。

私達は分かるのです。聖書は人が正しいか悪かということを大切なこととしているというよりも、その人が悔い改めの実を結んでいるのかどうかということに最大の関心を持っているのです。

 皆さん、今日は厳しいことをお話ししたかもしれません。しかし、このようなことを語らずして、私は天国に行ってバプテスマのヨハネに会うことはできませんし、イエス様に自分が何を語ってきたのか報告することができません。「お前、地上で何を語ってきたんだ」と言われてしまいます。悔い改めは聖書のメッセージの本質であります。私達が神を知るということ、神の愛を受けるということは、自らの本当の姿を知り、そのことを主の前に悔い改める以外にないのです。

 ですから、今日も先週のメッセージに引き続き、このイザヤ書の言葉をもって終わりたいと願います。6あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。7悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。8わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。イザヤ55章6節-8節

 主はゆたかに赦しを与えるお方。ですから主にお会いすることができるうちに主を尋ね、その主に立ちかえろうではありませんか。お祈りしましょう。

Ezekiel: Is God at fault?

 September 30, 2012

 Just as last week’s Lamentation, this Ezekiel describes time of Babylonian Captivity, when many of Judahite people, including the king, were taken to Babylon (current Iraq) forcefully. It is easy to talk about prosperous and strong country. But, it is heart-wrenching and sad to see a country defeated by an enemy and its people taken forcefully to the enemy nation. This must have been the most humiliating period in the history of Jewish people.

 In our life, we also have moments filled with hope, and moments when we must fight off hopeless feeling. One track-and-field coach used to tell his athletes that when no flowers are blooming, concentrate on deepening and strengthening the root. For Israelite people, too, this period of Babylonian Captivity was not a time for flowers, but a time to reflect on them, reaffirm the existence of God, reassess their foundation to stand on, and to re-establish their individual life. Ezekiel, the author of this book, was called by God to live with his fellow countrymen in Judahite section of Babylon and convey the words of God as a prophet.

 One proverb heard often among the Jews in Babylon then was “The fathers eat sour grapes, and the children’s teeth are set on edge.” Fruits are sour when they are not ripe yet. It said that children’s teeth are set on edge when their father ate sour grapes.

Feeling of teeth being on edge is not too difficult to understand. I believe you know the feeling, too. When we here such expression, we think that it is not physically possible. This is like saying that when father bites into jalapenos his child nearby cries feeling the spice in his mouth. This is not basically possible. But this saying was popular among the people in the Babylonian Captivity. Why was it?

 They were in a foreign land of Babylon as captives. They would live there for 70 long years. 70 years is not a short period. Some might have been too young to understand what was happening when they were brought to Babylon. Some of them were born there in Babylon during this period of Captivity. This saying was heard among these people.  “Why do we have to live this harsh life because of the consequence of what our parents did? “ This was the meaning of the expression: “The fathers eat sour grapes, and the children’s teeth are set on edge.”

 The other day, I went to a theater to watch a documentary movie on the works of President Obama in these last four years. It was a very interesting piece, and made me think. But, what impressed me more than the movie content was that the theater was filled with retired couple, partly because it was Monday morning. I am sure they were watching the movie with great interest, wondering what kind of country these USA would be from now on for them and for their offspring. What kind of world are we preparing for the next generation to come? The movie was not too optimistic. Many of the problems are not going to be resolved in this generation and will carry over to the next.

 Perhaps these people in the theater were wondering why we have to continue to live the consequence of what earlier generation had done. So, we too can share the feeling of the young people in the Babylonian Captivity. Let us look at the first point of this morning:

 Should we be punished for what our parents did?

1The word of the LORD came to me: 2“What do you people mean by quoting this proverb about the land of Israel: “‘The fathers eat sour grapes, and the children’s teeth are set on edge’? 3“As surely as I live, declares the Sovereign LORD, you will no longer quote this proverb in Israel. (Ezekiel 18:1-3)  God told them that this proverb would no longer be used in Israel. Lord told them that this proverb was not going to be quoted any more.

 It is true that generations are not separate entities and they are linked to each other. What earlier generation did does impact the next generation. It could be national debt, an environmental problem, or a loan payment that parents did not finish.

 But Ezekiel says that this proverb would not be used any more. Not only this Ezekiel but also Jeremiah talked about this proverb, mentioned why, and even offered their expectation for time to come.

 29“In those days people will no longer say, ‘The fathers have eaten sour grapes, and the children’s teeth are set on edge.’ 30Instead, everyone will die for his own sin; whoever eats sour grapes—his own teeth will be set on edge. 31"The time is coming,” declares the LORD, “when I will make a new covenant with the house of Israel and with the house of Judah. 32       

It will not be like the covenant I made with their forefathers when I took them by the hand to lead them out of Egypt, because they broke my covenant, though I was a husband to them,” declares the LORD.

33   “This is the covenant I will make with the house of Israel after that time,” declares the LORD. “I will put my law in their minds and write it on their hearts. I will be their God, and they will be my people.34           

No longer will a man teach his neighbor, or a man his brother, saying, ‘Know the LORD,’ because they will all know me, from the least of them to the greatest,” declares the LORD. “For I will forgive their wickedness and will remember their sins no more.” (Jeremiah 31: 29-34)

 This Chapter 31 of Jeremiah is said to be the one of the most important prophecies in the Bible. Here, Jeremiah says, like Ezekiel, that people would not say: “The fathers have eaten sour grapes, and the children’s teeth are set on edge,” any more. Rather, people would die for his own sin. Those who eat sour grapes would feel that their teeth are set on edge. Namely, it said that children would not have to suffer from and pay for sins of their parents or grandparents.

 Jeremiah also says that God would make a new covenant with people of Israel. Why was it necessary to create a new covenant? It was because the people of Israel did not honor the older covenant. In fact, the history of people of Israel broke the covenant with God again and again, and could not honor the covenant. It was a history of defeat.

 For this reason, God says he is going to make a new covenant. It is a new time when God’s law would be written in the heart of every individual, everyone would know God personally, and God would forgive sins of the people.

 This was a prophecy marking the end of the period of law, and foretelling the time when Jesus would forgive sins of people with the cross, God would be with us all the time, and God would reveal himself to us intimately. When such time comes, it says, we do not have to pay for sins of our parents, and we will be held responsible for our own deeds.

 This liberates us. But, it means that we cannot blame others any more. We are held responsible for our own deeds. This is written in Ezekiel:

 20The soul who sins is the one who will die. The son will not share the guilt of the father, nor will the father share the guilt of the son. The righteousness of the righteous man will be credited to him, and the wickedness of the wicked will be charged against him. 21“But if a wicked man turns away from all the sins he has committed and keeps all my decrees and does what is just and right, he will surely live; he will not die. 22None of the offenses he has committed will be remembered against him. Because of the righteous things he has done, he will live. (Ezekiel 18: 20-22)

 We are not held responsible for sins of others. Our parents and our children are also to be responsible for their own sins. I am responsible for my sins. So, we would not be flogged for sins of others. And no one else would pay for sins of us.

 Let us look at the second point: “Do not blame God”. What then is God’s view of sins?

 Do not blame God

25“Yet you say, ‘The way of the Lord is not just.’ Hear, O house of Israel: Is my way unjust? Is it not your ways that are unjust? 26If a righteous man turns from his righteousness and commits sin, he will die for it; because of the sin he has committed he will die. 27But if a wicked man turns away from the wickedness he has committed and does what is just and right, he will save his life. 28Because he considers all the offenses he has committed and turns away from them, he will surely live; he will not die. 29Yet the house of Israel says, ‘The way of the Lord is not just.’ Are my ways unjust, O house of Israel? Is it not your ways that are unjust? (Ezekiel 18: 25-29)

 People say look at so many sad things happening in this world. Why God does not care? Some people say there is no God. Normally, we do not think about God and talk about God. But, when we hit hardship, we say “where is God?” We feel uneasy if we cannot find someone responsible for our hardship. The word “scapegoat” was invented for that purpose. Why is there sadness in this world? Why people must suffer poverty? Why do we get into accident? Why are there earthquakes? Why is polar ice melting away? Why should I be stuck in traffic on the day of job interview? Is God responsible for all these? Let me say again. Is God the cause of everything we do not like? Really so?

 The people of Babylonian Captivity said the same thing. They said they were captives in a foreign land because of their parents and grandparents, and God was responsible for every hardship. They said they were right but the way of God was not right. People feel that way all the time. God is usually silent on such irresponsible words of people. But God spoke clearly in Ezekiel: Hear, O house of Israel: Is my way unjust? Is it not your ways that are unjust? (Ezekiel 18:25)

 When we are sick, we have to go to hospital and get diagnosed to find out what caused the disease, so that we know how to fight the disease. This is the same with our heart. But, we do not face our heart and, rather, point out things and events outside of us as the cause.

 This was true back in the days of Adam and Eve, the very first couple. They were in the Garden of Eden and ate the forbidden fruit. Then, they feared and hid themselves among the trees of the garden. God spoke to them then:

 And he said, “Who told you that you were naked? Have you eaten from the tree that I commanded you not to eat from?” The man said, “The woman you put here with me—she gave me some fruit from the tree, and I ate it.” (Genesis 3:11-12)

 The man, namely Adam, spoke these words in response to God. He said it was because of “that woman”, Eve, his wife that he ate the fruit. Not only that. If you read this more carefully, he said “the women you put here with me”.  His words said that the reason why he ended up eating the forbidden fruit is not his doing, it was because God put that woman with him in the first place. He was saying that it was in fact because of God’s doing.

 But, we are in no position to accuse Adam. We are blood relative of Adam, and we constantly blame others on our hardships just as Adam was doing. So, let us consider this reality as we reflect on us and pray.

Translated by Dr. Yasuhisa Hosomatsu

 本日のおもちかえり

 

2012年9月30日

 1)その昔、バビロン捕囚の只中にいたユダヤ人の間で語られていた「父が酸いぶどうを食べたので、子供の歯が浮く」という諺が意味することは何でしょうか。この諺が意味することを私達は今日、見聞きすることがありますか。

 

2)エゼキエル18章1節-3節とエレミヤ31章29節-34節を読みましょう。ここには「父たちが酸いぶどうを食べ、子達の歯がうく」というような諺はもはや用いられることはないと言っています。エレミヤ書が記している「新しい契約」とは何でしょうか。それで古い契約とは何だったのでしょうか。

 

3)エゼキエル18章20節-22節を読みましょう。ここには罪は犯したその本人がその罰を負うと書かれています。この言葉を聞く時にあなたはどんな気持ちになりますか。 

 

4)エゼキエル18章25節-29節において神様はきびしく「正しくないのはお前たちの道ではないのか」と言われます。私達はこの言葉のように私達にとって好ましくないことや試練が降りかかると、それを神様のせいにすることはありませんか。なぜ、私達はそのように神にその責任を押しつけるのでしょうか。

 

5)エゼキエル33章11節には神様は悪人の死を喜ばず、むしろ悪人がその道を離れて生きるのを喜ぶと書かれています。この言葉はあなたにとって意外ですか?“悪人”という時にあなたはどんな人を思い起こしますか。

 

6)あなたは教会や牧師のメッセージの中でどれだけ「悔い改めなさい」というメッセージを聞いていますか。エゼキエル18章30節-32節、マタイ3章4節ー12節、マルコ1章14節、15節、マルコ6章12節、使徒行伝2章38節、使徒行伝17章30節、使徒行伝20章21節、使徒行伝26章20節を読みましょう。これらを読むことにってあなたの「悔い改め」に対する意識はどう変わりますか。

 

 

 

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