イスラエル紀行(4):揺るがない土台

dead sea scroll
先日、村上龍さんの「カンブリア宮殿」を観ていたら、銀座で文房具屋を営む「伊東屋」社長の伊藤明さんが興味深いことをおっしゃっていました。曰く、『「文化」という文字は、「文」に「化ける」。書くことから「文化」が起こる、書いて残っていかないと「文化」はない、と聞いてすごいことを商売にしているんだなと思った』とのこと。なるほどなーと思いました。

神はその最初から言葉というものをご自身と人間の架け橋として据えていたようです。聖書の冒頭、創世記は『光あれ』(創世記1章3節)という神の言葉で始まり、ヨハネは「初めに言葉があった」(ヨハネ1章1節)と創世記の言葉を念頭におきながら、さらにその『言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った』(ヨハネ1章14節)とこの言葉はイエス・キリストとして我々の間に受肉したのだと記しています。

もし「言葉」がなければ宗教は「感情」、「情緒」、「五感」、「迷信」というものだけにその土台を据えることになりますでしょう。言うまでもなくこれらからでは私達の人生や生活に具体的な指針を得ることはできず、その土台は揺れてしまうことでしょう。しかし、そこに明確な「言葉」があるのなら、その「言葉」は私達にはっきりと神の御心を示し、私達の前に生きる道が指し示されるでしょう。

そんな聖書の写本が発見された場所が死海の側のクムランという場所であり、私達はそこを訪れまし(ここもイスラエルツアーでは素通りできない場所です)。古の羊皮紙に刻まれたへブル語を見ながら、自らが立つべき土台がこのように守られ、実際にそこに展示されている言葉が今、私の手元にあるのだということを知る時に深い神の御心とご計画に心が震えました。

『天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない』(マタイ24章35節)。

マック

追伸:書かれたものから文化が起こるということなら、聖書の言葉から成る文化というものはこの世界に無数にありますね。

 

 

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