我が子がおもちゃのシャベルを使いながら砂山を作っています。一生懸命、それに没頭しているのですが、時々、何かを思い出したように顔を挙げて、周りを見回します。そう、彼は父親を探しているのです。そして、父親と目が合うと安心してまた砂山作りに没頭します。そう、彼は父の眼差しの中に自分はいるのだと確認し、それが分かると何も心配しないでまた遊びます。
砂場に飽きると遊具で遊び始めます。しかし、そこは他の子供達も遊ぶ場であり、色々なチャレンジがあります。時にブランコの取り合いがなされ、その戦いに破れますと、唇をかみして今にも泣きだしそうです。そして、また周りを見回します。何を探しているのでしょうか。そうです、父です。そして、父を認めるといよいよ我慢していた涙が頬を流れ落ち、そこに走り寄ります。彼が歩み寄る前に私もその子の元に駆け寄り、息子を思いきり抱きしめるのです。
皆さん、クリスチャンライフは砂場で遊ぶこの子供のようなものです。彼はそこで思い思いに自由に遊んでいました。なぜ、彼は何も心配なく自由に遊べたのか、なぜなら、すぐ側のベンチでは父親がその子を優しく見つめていたからです。そして、彼が痛い思いをした時、彼は涙をためながら、はばかることなく彼の「ダディ」に近づいたのです。そして、ダディは彼を抱きしめたのです。
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「あなたはわが子、そのことが嬉しい!」
ローマ人への手紙8章12節―17 12それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。13なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。14すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。15あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。17もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである(ローマ8章12節ー17節)。
1960年代に人種差別廃止のために活動していたウィル・キャンベルという人がおりました。彼は南部のミシシッピー出身であったにも関わらず、キング牧師の公民権運動に賛同して働いたために多くの反対と攻撃を受けた人です。クリスチャンでありました彼の信仰を理解できずにいた新聞記者が、ある日、こんな質問で挑んできたことがありました。「あなたが信じているキリスト教のメッセージを一言で言うとどういうことなのですか?」。その問いに対してキャンベルはこう言いました「私たちはみんな親なし子のろくでなしだが、それでもとにかく、神は私たちを愛している」。
表情にこそ出しませんでしたが、この一言はこの新聞記者の心に刻まれました。なぜならその記者は父を知らずに育ち、生まれてからこのかた、そのことで色々なところを通ってきたからです。
キャンベルは言いました「私達はみんな親なし子のろくでなしだ」。この言葉を聞いて不快を感じる方がいるかもしれません。この言葉を文字通りに受け取って「私にはちゃんと親がいる」と思われる方もいることでしょう。また「私達はろくでなしだ」ということに対して、軽々しく人のことを「ろくでなし」などと呼ぶなと憤慨される方もいるかもしれません。
でも、ここでキャンベルが言わんとしていることは「私達は皆、父を知らず、その父の心に従って生きていない」ということなのです。そして、その父とは誰かといいますと、それは天地万物を作られた神のことを言いあらわしているのです。
そう考えますとこのキャンベルの言葉は神学的にも正しいものでした。私達は父なる神の元を離れて生きる放蕩息子であるにも関わらず、この父は我々が彼のもとに立ち返り、神の家族に加わるように今も私達の帰りを待っているからです。
今日はこれらのことを心に留めなが「あなたはわが子、そのことが嬉しい!」ということについてお話ししたいと思います。
今から3500年前、モーセというイスラエルのリーダーはシナイ山において神様から十の戒めをいただきました。その十の戒めの中には「主の御名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20章7節)という戒めがありました。ユダヤ人はこの言葉を文字通り受け取り、神様の名を呼ぶことをしなくなりました。その名を呼ぶことは神様への冒涜とされたからです。
そんな彼らの間にイエス・キリストは来られ、名を呼ぶことすらしなくなった神様を「アバ、父」(ローマ8章15節)と呼ばれたのです。この「アバ」とは当時、ユダヤ人の間で使われていたアラム語で、これは幼い子供が父の膝の上に座りながら言うところの「お父さん、パパ、ダディ」という言葉なのです。
自分達は十戒を守り「神」という名すらも畏れ多く口にしないのに(本当はそのような意図はこの戒めにはなく、それは彼らが勝手にそのようにしてしまったのですが)、イエス様は自らを神の子とし、その神をお父さんと呼び、さらには人々にもそのように神を呼んだらいいのだと言われたのですから、ユダヤ人は激怒したのです。そして、結論から言いますと、このことがイエスを十字架に磔にさせた理由の一つとなりました。
ヨハネによる福音書5章18節にはこんな言葉が記録されています「このためにユダヤ人達は、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである」。同じようにヨハネ19章7節にも「彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当たる者です」と書かれています。
すなわち、イエス様が神様を「ダディー、お父ちゃん」と呼んだこと、そのことがイエスの命とりとなったのです。もっと言いますと、私達にも同じように神様を「お父ちゃん」と呼ぶことができるのだということを告げ知らせることにイエス様は自らの命をかけたのです。
皆さん、クリスチャニティーは時々、誤解されることがあります。ある牧師が宗教の時間に「宗教とはいったい何だと思いますか」と質問したところ、一人の少年が「宗教とは禁じられていること全てのことです」と答えました。今日、この世界の多くの人は宗教的であるということは、すなわち「お行儀よく」「模範的な子供であるように」常に努力することであり、それは「禁止条項をよく守ることである」と理解しています。
そうです、多くの人達にとりまして神とは当時のユダヤ人のように恐れ多く、近寄りがたい存在であり、私達がこの世で成すべきことはこの神からの怒りを買わないために、神が私達に与えた戒めを粛々と守っていくものであるというようなイメージをもっています。ですから「あれもだめ、これもだめ」とクリスチャンになったその日から窮屈な人生を覚悟しなければならないというようなイメージです。
しかし、どうぞお心におとめください。実際のところはそうではないのです。聖書は私達が神を「お父さん」と呼び、神の子として生きていけばいいというのです。そこには怖くて近づくことができないような神の姿はありません。私達は父の優しい眼差しの中で伸び伸びと自由に生きることができる、それがイエス・キリストが命をかけて私達に伝えようとした父なる神であり、このことは今も変わっていないのです。
パウロはガラテヤ4章19節において「あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」と書いています。彼はここで「あなたがたの内にキリストの形作られるまで」ということを記していますが、パウロが産みの苦しみまでして、何を当時の人たちに願っているのかといいますと、それは彼らの内にキリストの形が造られることでありました。
それでは、キリストが私達の内に形造られるということはどういうことなのか、それは私達が神の前にどれだけその戒めを守っているとか、どれだけ品行方正に生きているとかということではなくて、神を父とし、その子としての自らの身分を知って、神の子として生きているかということです。
すなわち、それは神の前に自分が何をしているのか(DOING)ということに着目するのではなくて、自分は神の子である(BEING)ということをそのまま受け入れることです。すなわちこのことは、私達は父なる神の関心を自分のよき業によって得ようとする必要はないということであり、私達が神の子であるということ、それだけで父なる神は私達を喜んでいらっしゃるということです。
私にも子供がいますが、もし、この子供が私の姿が見えるたびに緊張して、恐れに支配されているということであるならば、私は居たたまれなくなると思います。私の姿を見ると佇まいを正して、私の顔色を恐る恐る覗き込むようであるのなら、私は悲しい思いをします。
私が家に帰るとソファーで横になっていた彼らがあわてて起き上がり、座りなおすのなら私は悲しくなります。「なんで、そんなにかしこまっているのか。私の前ではありのままでいいではないか。君たちは私の子なのだ、そのことだけで私は嬉しいのだから」。
「何かよいことをしなければ神様に認められない。神に受け入れられるようにならなければ、クリスチャンになれない。神の子などにはなれない」。皆さん、私達は親が定めた基準に達した時に親の子となるのですか。いいえ、その子はその父の子である限り、親にとりましては愛しい存在なのです。父なる神は私達にこのことを知ってもらいたいと願っておられるのです。私達が神様を親しく「お父さん!」と呼ぶことを望まれているのです。
パウロが15節で言っているとおりです。「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである」(ローマ8章15節)。
私達は「神に対する恐怖心」を持つためにクリスチャンになったのではありません。もちろん、時に神は畏れなければなりませんが、恐れる必要はありません。
パウロはよほど、このことの弊害を見抜いていたのでしょう。ガラテヤ4章9節でもこういっているのです「しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆戻りして、またもや新たにその奴隷になろうとするのか」。神様を恐れ、その顔色とうかがうような奴隷の身分になってはなりません。父なる神の前に私達は子として安んじる、憩う、これが私達と神との関係なのです。
そして、さらに驚くべきことは、この父なる神の子である私達はそのか相続者であると聖書は記しています。17もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである(ローマ8章17節)。
キリスト教は御利益宗教ではないと言われます。しかし、キリスト教には確かに御利益があります。それもとてつもない、けた違いの御利益です。この御利益を考える時に、いわゆる世の中で言っている御利益は一滴の消え行く雫にしかすぎません。私達が相続するものとは天地万物を支配しておられる神の相続だと聖書は言っているのですから。
私達はかつては親なし子のろくでなしでしたが、今は「お父さん」と親しく呼ぶことができる存在を見いだしました。いっぱしの大人になって、子供や孫がいるような年となっていても、自分の同僚や部下がいるような者になっても、自分を飾ることなく、いつでも「お父さん」とその胸元に飛び込むことができるお方が父なる神です。そして、このお方は「お前は私の子どもであるゆえに、当然、私の相続人でもある」と私達に語りかけてくださいます。
そうです、この父なる神と共にその栄光にあずかるために、苦難をも共ににしてるのであるのなら、私達はまさしくキリストと共に神の相続者なのです。私達は神の相続者としての資格を有しているのです。
私は母親によって育てられました。そのような意味で私は父親を知らない子です。父は私が生まれてすぐに天に召されたからです。故に父に抱かれた記憶はありませんし、ザラザラした髭剃り後の肌に触れたり、父親の太い腕にぶら下がったこともありません。
しかし、神様は真実なお方であります。父親と共に暮らすことはありませんでしたが、私には「お父さん」と呼べる存在がいたからです。そして、自分だけではなく未亡人となった母にも「お父さん」と呼べる存在がいたのです。すなわち私達、母子には共通の「父さん」がいたのです。その父さんは、私達を厳しく監視するような父ではなく、私達の不完全なゆっくりとした歩みにも歩調を合わせてくれる父さんであったのです。失敗しても何かの欠点があっても、それを裁く父さんではなく、時にその愛ゆえに私達を戒める父さんですが、笑みをもって私達を見守っていてくれる父さんであったのです。
イエス・キリストが「アバ」と呼ぶことに命をかけてくださったことにより、私達、母子にはこのように親しく「父さん!」と呼ぶことができるお方が与えられました。そして、これからの私の人生はどんな人生かと問われれば、どんなに年を取りましても、この父さんの眼差しの中に生きていく生涯だということができるのです。
私の子供達が小さい時によく近所の公園に連れていきました。夕方になりますと、たくさんの子供達が思い思いに砂場で遊んでいます。そして、その砂場を取り囲むように置かれているベンチに座った親達が我が子を優しい眼で見ています。
我が子おもちゃのシャベルを使いながら砂山を作っています。一生懸命、それに没頭しているのですが、時々、何かを思い出したように顔を挙げて、周りを見回します。そう、彼は父親を探しているのです。そして、父親と目が合うと安心してまた砂山作りに没頭します。そう、彼は父の眼差しの中に自分はいるのだと確認し、それが分かると何も心配しないでまた遊びます。
砂場に飽きると遊具で遊び始めます。しかし、そこは他の子供達も遊ぶ場であり、色々なチャレンジがあります。時にブランコの取り合いがなされ、その戦いに破れますと、唇をかみして今にも泣きだしそうです。そして、また周りを見回します。何を探しているのでしょうか。そうです、父です。そして、父を認めるといよいよ我慢していた涙が頬を流れ落ち、そこに走り寄ります。彼が歩み寄る前に私もその子の元に駆け寄り、息子を思いきり抱きしめるのです。
皆さん、クリスチャンライフは砂場で遊ぶこの子供のようなものです。彼はそこで思い思いに自由に遊んでいました。なぜ、彼は何も心配なく自由に遊べたのか、なぜなら、すぐ側のベンチでは父親がその子を優しく見つめていたからです。そして、彼が痛い思いをした時、彼は涙をためながら、はばかることなく彼の「ダディ」に近づいたのです。そして、ダディは彼を抱きしめたのです。
この砂場は私達にとっての家庭やオフィスと置き換えてもいいでしょう。学校のクラスルームとしてもいいでしょう。いいえ、私達が入院しなければならない時の病室として考えてもいいでしょう。なぜにこの父を恐れ、この父の目の届かないところに逃げ隠れようとするのか。そこで何が起きるのか、私達は知っておりますでしょう。父なる神がの眼差しを感じる、そのところで私達はかけがえのないこの人生を謳歌することを私達の父は望まれているのです。そして、これこそが我々、人間本来の生き方なのです。
あなたは神様をどのようなお方だと思っていますか。あなたを睨みつける方ですか。いいえ、あなたが「お父さん」と駆け寄ることができる、それが私達の信じる神様なのです。そしてこの父さんは私達がその子であるという、そのことゆえにご自身のものは全て私達ものだとおっしゃるお方なのです。私達がいかなる状況にいる時にも、私達には私達の父さんがいるのです。この父の温もりと共に私達は己が人生を父に委ねつつ、毎日を生きていくのです。お祈りしましょう。