忘れよう、忘れまい

自分の人生の年月を考えますのなら、私は生まれてからこの方、この命と共に49年、生かされてきました。それは17785日です。17785日、私の心臓は数秒たりとも止まることなく動き続けてきました。その間に私は何本の箸や歯ブラシを使い古したことでしょうか。しかし、私の心臓は生まれた日から変わらずに動いています。

ここにいらっしゃる多くの皆さんの人生はこの日数以上でしょう。その中には色々なことがあったでしょう。もう、万事休すというようなことが何度もあったことでしょう。私の愛唱歌は「人生の海の嵐に」ですという方が何人もいるでしょう。そんな皆さんに誰も否定できない事実を申し上げます。それらの幾多の嵐を乗り越えて、それに飲まれ失われることがなかったから、皆さんは今、ここにいるのです。

確かに私の17785日の中にはたとえば述べ243日くらい眠れない日があったり、50日くらい涙を流した日々があったかと思います。しかし、そんな日々がありながらも、17785日、私は生きながらえてきたのです。自分が眠れなかった243日、涙を流した50日だけに心を奪われてはいけない。そこに住み着いてはならない。そうではなくて、それらをはるかに勝る日々、神の恵みとあわれみは私達に注がれ続けていたことを決して、決して忘れてはならない。なぜなら、それが私達が明日を生きる力の源だからです。

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忘れよう、忘れまい
2017年12月31日

いよいよ今年最後の日、そして今年最後の礼拝となりました。この一年間も皆さんと礼拝を守ることができましたことを心より感謝しています。私は日本からこちらに来て来年で20年になります。その間、年末年始を日本で過ごしておりませんから、最近の日本の師走の光景がどんなものかは分かりませんが、おそらく今も変わらないだろうなと思います。街々はそれなりに賑わい、年の暮れには忘年会なるものが催されたのでありましょう。この「忘年会」という呼び名は日本独特のもので、英語に訳すのは難しいかもしれません。日本の皆さんは忘年会で何を忘れたのでしょうか・・・。

今年最後の日曜日、私達も過ぎました一年を振り返りつつ、私達が「忘れるべきこと」、「忘れるべきではないこと」について聖書からみていきたいと願っています。

聖書の中には「忘れてはならない」とか「思い起こせ」という言葉はたくさんあるのですが、「忘れなさい」と言われている箇所はあまりありません。その中で今日はまず最初に聖書から「忘れるべきこと」をみてまいりましょう。そして、その後に「忘れるべきではない」ことについてみていきます。

忘れよう

まず最初にイザヤ書の御言葉をみてまいりましょう。18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける』(イザヤ43章18節-19節)。

言葉にはそれが語られた背景があります。イザヤがこの神の言葉を取り次いだ時にも、背後にはある状況がありました。

預言者イザヤが活躍した紀元前8世紀、イスラエルは南北に国が分裂し、かつてのダビデ・ソロモン王の時代のような繁栄は失われ、衰退していました。北にはアッシリア、南にはエジプト、東にはバビロン、そしてさらに東には後に世界制覇をなしとげることになる新興勢力ペルシャが位置しており、ゆえにイスラエルは巨大な軍事力を誇る強国に取り囲まれた「弱小国家」として生き残りをかけて難しい舵取りをしなければなりませんでした。これがイザヤ43章の歴史的背景であり、イザヤはそんなイスラエルの民にこの神の言葉を語りかけたのです。

これらの民の心にいつもあったことはかつて自分たちの先祖がどんなに大変な試みにあってきたのかという苦難の歴史であり、今の自分達もそんな先祖と何ら変わらずに多くの試練に取り囲まれているのだろうということでした。

そのような彼らに向かい主の言葉をイザヤは彼らに取り次いでいるのです。「昔のことを思い出すな。それらを忘れなさい。後ろばかり振り返るな。かつてのあなたがたの先祖の苦難を思い起こしながら、今の自分の危機を嘆くのはやめなさい。自己憐憫に陥るのはやめなさい。見よ、わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。わたしは荒野に道を、荒地に川をもうける」。そして、実際にこの言葉のとおり、神様はこの後、諸々の危機に直面しているイスラエルを救われるのです。

ここに記されています18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな』という言葉を英語聖書は18 “Forget the former things; do not dwell on the past』と記しています。この英訳はとても深い示唆を私達に与えます。すなわち直訳しますと「過去のことを忘れなさい。その過去に住みつくな」ということになります。

なぜなら自分の意思に関わらず、私達には明日が来るからです。その明日を私達は「私達の未来」と呼びます。そして、その未来に影響を与えることができるのは「今」だからです。

確かにこれまでの過去の経験と共に私達の「今」があります。そう考えますと確かに私達の「過去」も私達の「今」に影響を与え、ひいては「未来」に影響を与えます。しかし、本当に明日に影響を与える「時」はまさしく「今」だけなのです。もし私達が「過去」にしがみつき、そこに住み着いてしまっているのなら、私達の「今」に私達は不在となります。私達の心は今になく、過ぎ去った日々の中に私達は住み着いているからです。

創世記にはソドムとゴモラという街が出てきます。この街はあまりにも乱れてしまい、神様はこの街を滅ぼそうとされますが、その前にその街に住んでいましたアブラハムの親戚にあたりますロトとその妻、二人の娘を救おうとし、低地にあったその街から高地に逃げるようにうながし、その時にこう言います。

『のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます』(創世記19章17節)

そして、いよいよ街が滅びる時がきました。彼らは言われた通りにその街を後ろに必死に逃げます。ところが・・・。

24主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、25これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。26しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった(創世記19章24節-26節)。

ロトの妻はなぜ自分の街を振り返ったのでしょうか。自分ならどうだろう。自分がロトの妻なら振り返って何を見ようとするのだろう。そうです、何を見ようとするかって、それは昨日まで住んでいた自分の家がどうなっているかということです。

なぜ、あらかじめ神様は「うしろを振り返ってはならない」と言ったのでしょうか。聖書はソドムとゴモラは低地にあったと書いています。聖書でいうところの「低地」とは悪がはびこる場所の代名詞です。ですからその低地にとどまらずに山に、すなわち高いところに逃れなさい、あなたが住んでいた低地を懐かしく思ってはならない。それを振り返ってはならない、思い起こしてはならない。それを忘れなければならないと神様は言われたのです。

彼女が振り返ったのは彼女がその時まで暮らしていた家と街でした。その家がソドムという街にあるかぎり、それは負の遺産でした。これはロトの妻に限らず、不思議なもので人の心はそのような負の遺産に惹かれることがあり、そこには何も良きものはないと分かっていても、いつの間にか、そこに立ち戻っているということ、さらにはそこに住み着いてしまっていることがあるのです。

私達は今、何を見て、何を考えているのでしょうか。過去の虚しい快楽でしょうか。過去の失敗でしょうか。あの時にどれだけ傷つけられたかとか、今の自分の不幸はあの時から始まったというような類のことでしょうか。それらを振り返るのみならず、そこに住み着いているということはありませんでしょうか。

失敗も栄光も全て過ぎ去ったのです。私達はそこを既に通り過ぎているのです。しばし、その余韻に浸り、そこから反省や感謝を得ることは大切でしょうが、もう既に明日という日が私達に向かってくるのです。今日という日で申しますのなら、新しい一年が私達のすぐ目の前にあるのです。そして、その明日に、新しい年に影響を与えうる可能性がある時は「今」というこの時なのです。パウロが言っているではありませんか。

12わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。13兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである(ピリピ3章12節-14節)。

私達が神の賞与をいただくべく目標を目指して前に進むために不可欠なことは今、後ろのものを忘れ、目標から目を離さずに、からだを延ばして前を向いて走ることです。私達はもはや過去に捕らわれているのではなく、今はキリストに捕えられているから、私達は前を向きます。私達は神の賞与を得ようとからだを前に伸ばして一身に努めているのです。

今年も残すところ、あと13時間です。皆さんの中に何か忘れるべきものがありますか。そこに私達がとらわれているのなら、新しい年も度々、それは私達の心をかき乱すことでしょう。もし、そのようなものがあるようでしたら、新しい年を迎える前に心を整理しましょう。心にある棚の棚卸をして、本当に大切なものをだけを残しましょう。主イエスに立ち会っていただいて、イエス様が本当に喜ばれるものだけを棚に戻して新年を迎えませんか。

二番目のこと、「私達が忘れてはならないもの」について見てまいりましょう。

忘れまい

かつてダビデはこんな言葉を自分自身に語りました。『わがたましいよ。主をほめたたえよ。わたしのうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな』(詩篇103篇1節、2節 新改訳)

説明はいりませんでしょう。私達が決して忘れてはならないことは神様が「私達になしてくださる良きこと」です。そう、神のそれは恵みです。英語の聖書には「Benefit」と書かれています。「Benefit」とは私達にとって益となるものであり、私達に無償で与えられているものです。

ここでダビデが言っている神の恵みは過去のものではなくて、今も私達に与えられているものです。哀歌にはあの有名な御言葉が記されています。『22主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい』(哀歌3章22節-23節)。言うなればそれは毎日、私達に与え続けられてきたものなのです。

ダビデは言いました「わがたましいよ、主をほめたたえよ。わたしのうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ」。そうです、彼は誰彼ではない自分に語りかけているのです。自分のたましいに何度も語りかけるのです。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と。なぜ、ダビデは自分の魂に何度も語りかけるのですか。なぜなら、彼の心はその時に向き合っていることに折れそうになるからです。押しつぶされそうになるからです。だから彼はそれこそ自分の胸を打ちたたくようにして、神がこれまでの自分の人生にしてくださったよきことを何一つ忘れるなと強く、強く、自分自身に何度も、何度も語りかけるのです。

神のいつくしみとあわれみは絶えることなく、朝毎に私達に注がれています。まだ誰も踏み入れていない朝、そのまっさらな朝に神様のいつくしみとあわれみが毎日、注がれているのです。そして、その恵みは朝だけめぐってくるものではありません。私達が眠っている夜の間にも神様はどんなに大きな恵みを注いでくださっているでしょうか。ソロモンは言っています。

1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。2 あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである』(詩篇127篇1節-2節)。

自分の人生の年月を考えますのなら、私は生まれてからこの方、この命と共に 49年、生かされてきました。それは17785日です。17785日、私の心臓は数秒たりとも止まることなく動き続けてきました。その間に私は何本の箸や歯ブラシを使い古したことでしょうか。しかし、私の心臓は生まれた日から変わらずに動いています。

ここにいらっしゃる多くの皆さんの人生はこの日数以上でしょう。その中には色々なことがあったでしょう。もう、万事休すというようなことが何度もあったことでしょう。私の愛唱歌は「人生の海の嵐に」ですという方が何人もいるでしょう。そんな皆さんに誰も否定できない事実を申し上げます。それらの幾多の嵐を乗り越えて、それに飲まれ失われることがなかったから、皆さんは今、ここにいるのです。

確かに私の17785日の中にはたとえば述べ243日くらい眠れない日があったり、50日くらい涙を流した日々があったかと思います。しかし、そんな日々がありながらも、17785日、私は生きながらえてきたのです。自分が眠れなかった243日、涙を流した50日だけに心を奪われてはいけない。そこに住み着いてはならない。そうではなくて、それらをはるかに勝る日々、神の恵みとあわれみは私達に注がれ続けていたことを決して、決して忘れてはならない。なぜなら、それが私達が明日を生きる力の源だからです。

子供部屋の散らかしように頭を悩ましている親はたくさんいると思います。そんな方がいましたら、どうぞ覚えてください。あなたは一人ではありません。私の心はいつも皆さんと共にあります。

子供に限らず、ある心理学者が言っていました。「あなたのデスクの有様はあなたの心の有様です」と。そう、デスクの上にあらゆるものが山積みになっている、その状態こそが私達の心の状態だと。この指摘が正しいかどうかは分かりませんが、このことはとても大切なことを私達に語りかけます。

子供部屋はすぐに散らかります。そして私達のデスクもすぐに散らかります。せっかくきれいにしても数日したらもとに戻ります。なぜ、このようにすぐ散らかるのか、何十回も同じことを繰り返しているうちにさすがに悟ったことがありました。

それは、「そこにあるべきもの」と「そこに必要のないもの」とがしっかりと区別されていないということです。すなわち「かつては必要だったけれど今はもう使わないもの」とか「そこにあっても意味のないもの」をしっかりと処分せずに、整理整頓と言いながら、それらをご丁寧に部屋の中に、机の上にそのまま放置しておくから、それらがまた続々と表舞台に出てきて部屋は散らかり、デスクは乱れ、その中に身を置く私達はおもちゃを踏んづけて悲鳴をあげたり、いつも山積みになったデスクの上で探しものばかりをして時間を浪費しているのです。

そうであるのならどうしたらいいのでしょうか。そうです、心を決めてそれらを処分することです。棚に戻さずに処分するのです。それ以外に子供部屋を、私達のデスクをきれいにする術はありません。

同時に子供にとって、私達にとって今もこれからも必要なものはしっかりと棚に戻し、保管します。この「捨てるべきもの」と「大切にすべきもの」の区別がなされているのなら、部屋やデスクが散らかり、私達の心が乱れてしまうことはありません。

同じことが私達の生き方にも言えるのではないでしょうか。もし、私達の心の中に棚があるのなら、いつまでもそこに置いておくべきものではないものがあります。それを忘れなさいと主は言います。ロトの妻は処分すべきものを、実は心の棚に残しておき、それに向かって振り向いたゆえに塩の柱になったことを私達は心に刻みましょう。

私達の心を暗澹たる思いとするもの、怒りや憎しみばかりがわいてくるもの、最も価値あるものを壊しかねないもの、それらを整理しましょう。手放しましょう。忘れましょう。そこに住み着いてはなりません。私達に本当に大切な価値あるものがあるべきところにそのようなジャンクを放置していてはなりません。価値あるものの上にジャンクが積み重なり、大切なものを見失ってしまいますから・・・。

私達が本当に大切にしているもの、そうではないものを見極める眼力を神様が与えてくださることを祈り求めましょう。それらはこれからの私達の人生において、私達を励まし、私達を奮い立たせます。そう、その最たるものは私達が生まれてからこの方、私達に毎日、注がれている神の愛と恵です。

新しい年を迎えるにあたって私達はもう一度、自分の心を点検しましょう。忘れるべきことは忘れましょう。忘れるべきでないことは心に刻みましょう。忘れるべきものがそのまま心にあるのなら、私達の心は新しい年も乱されるでしょう。そして忘れるべきでないものが私達の心を明日に向かわしめてくれます。2018年、私達はきっと心が折れそうになることもありますでしょう。その時、私達は私達と同じ境遇を生きたダビデの言葉をそのまま拝借し、人目をはばからず大きな声で自分の魂に向かって語りかけましょう。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。わたしのうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな』(詩篇103篇1節、2節 新改訳)

今のチャレンジに心が奪われてしまう前に、私達がすべきことは今日まで朝も有も私達を生かしてくださった神の恵みと真実に目を注ぐことなのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2017年12月31日

1)あなたにとってこの一年はどんな一年でしたか。新しい一年に向かって、何を持参して新年を迎えますか。何を置いていきますか。

 

2)イザヤ43章18節-19節を読みましょう。『先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな』(18)を英語聖書では『Forget the former things; do not dwell on the past』と記しています。「過去に住み着くな」というメッセージはあなたに何を語りかけますか。

 

3)あなたには忘れるべき過去がありますか。なぜ、それは忘れるべきことなのですか。

 

4)『荒野に道を、荒地に川を設ける』(イザヤ43章19節)から神様が成されるどんなみわざが目に浮かびますか。それは私達の人生にはどんな意味があるでしょうか。

 

5)創世記19章17節、24節-26節を読みましょう。なぜロトの妻は後ろを振り向いたのですか。このような心があなた自身にもありますか。

 

6)ピリピ3章12節-14節を読みましょう。ここからあなたは私達がどうあるべきかというメッセージをききますか。

 

7)哀歌3章22節-23節を読みましょう。朝ごとに神の真実は大きいということはどんな意味ですか。

 

8)詩篇127篇1節-2節を読みましょう。あなたは自分が眠っている間に受けている神の恵みについて考えたことがありますか。私達が安んじている時に神はどんな恵みを私達に与え続けていますか。

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