人生という冒険のただ中にある方々へ

「アドベンチャー」は「アドベント」が語源となっていると言われていますが、これらのことを思いますときに、実際にヨセフとマリア、そして幼子イエスを取り巻く世界は、のんびりと平安に包まれているような私たちが普段、見慣れているクリスマスカードのような環境ではなかったように思われます。まさしく、そこには彼らを飲み込もうとする闇の力が彼らをおおい、そこから逃れるために、まさしく綱渡りのようにして、彼らは命がけの冒険をしたのです。

神がイエスの人生を託した親として選んだカップルは、まだ年若く、社会的には何の力もないヨセフとマリアであり、その誕生の場所として選ばれたのは小さな寒村、ベツレヘム、わが子の出産と引き代えにその命を失った母の涙と無念が今も残る村、貧困にあえぎ、出稼ぎに行き、そのところで夫と息子を亡くした女性達が落穂を拾いながら生きた村でした。明らかに人として、リーダーとしてバランスを欠いた狂気を宿す王のもとに、その彼の面子のためにもみくちゃにされながら、イエス・キリストは人として一番無防備な赤ん坊としてこの世に誕生したのです。

これらのことは何を物語っているのでしょうか。これらのことは私達が生きている、この地上の冒険に自らも身を置き、そこに自らも冒険者として生きるイエス・キリストの覚悟です。このご自身の出生についてイエス様は何も語ってはいませんが、この出生そのものが、私達に対する大切なメッセージなのです

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人生という冒険のただ中にある方々へ
2017年12月24日

イエス・キリストが誕生する900年ほど前に南ユダ王国に生きたミカという預言者が一つの預言をしました(ちなみにミカといいましても女性ではありません)。聖書、ミカ書5章2節から4節にこのように書かれているとおりです。

しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。それゆえ、産婦の産みおとす時まで、主は彼らを渡しおかれる。その後、その兄弟たちの残れる者はイスラエルの子らのもとに帰る。4彼は主の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。今、彼は大いなる者となって、地の果にまで及ぶからである。

時代が変わり、この預言が成されてから約900年後、エルサレムの祭司長や律法学者に「メシアはどこに生まれるのか」と尋ねた王がいました。当時、ユダヤ地区を統治していたヘロデ王です。その問いに対して、祭司長と律法学者は古の時代に書かれた、このミカ5章を引用して王の問いに答えました。マタイ2章5節、6節に書かれているとおりです。

5彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、6『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』。

それまで900年もの間、埋もれていたミカ書の預言が掘り起こされ、そこに光があてられました。ヘロデ王はこれらのことを聞き、不安を感じたと聖書は記しています。そのメシアの存在が自分の統治の障害になるのではないか、ひいては自分の地位を脅かすことになるのではないかと思ったからです。そして、言うまでもないこのベツレヘムからでる一人の君、イスラエルの牧者とはイエス・キリストをさしています。このような政治的背景、個人的感情がからまりあってクリスマスの出来事は始まったのです。

今日、私たちの世界では、クリスマスになるとポインセチヤが飾られ、ローソクが灯され、イルミネーションが街では飾られ、華やかになります。日本にいた時はクリスマスイブになるとケンタッキーフライドチキンの店先に立つ創業者のカーネルサンダーズはサンタの衣装を着て、店には行列ができていたのを覚えていますが、もう20年、日本でクリスマスを過ごしていませんので、今もそうなのかは分かりませんが、きっとまだカーネルおじさんは今もサンタの恰好をしているのでしょう。ロウソクが灯される雰囲気からなのでしょうか、時にクリスマスは何かロマンチックなものとされて、「クリスマスイブに恋人とディナーをするのなら、このレストラン」、「プレゼントなら今年はこれがお勧め」などというような特集がなされるのもこのシーズンです。

このような類のことが今日の多くの人達にとってのクリスマスです。しかし、今日はこれらのことに対して、実際にイエス・キリストが今から2000年前に、ミカの預言が示したベツレヘムという村で生まれた時の状況というものはどんなだったのかということを見ていくことにより、クリスマスの本当の意味を探ることができたらと願っております。

このベツレヘムにつきましては先週もお話ししましたが、今日、パレスチナ自治区となっていますこの町に入るために検問をぬけますと、すぐにラケルという女性の墓があります。

ラケルとは誰ですか。そうです、あの創世記に記されているヤコブの妻ラケルの墓だと言われているものです。創世記35章19節に記されているとおりです。19ラケルは死んでエフラタ、すなわちベツレヘムの道に葬られた。20ヤコブはその墓に柱を立てた。これはラケルの墓の柱であって、今日に至っている。

私がベツレヘムを訪ねた時、この墓の傍ではインティファーダや銃撃戦が度々、起こるために彼女の墓は高い壁で囲まれており、中を見ることは出来ませんでした。さて、このラケルは何で召されたのでしょうか。創世記はこう記しています。『その難産に当って、産婆は彼女に言った、「心配することはありません。今度も男の子です」。彼女は死にのぞみ、魂の去ろうとする時、子の名をベノニと呼んだ。しかし、父はこれをベニヤミンと名づけた』(創世記35章17節-18節)。ラケルは難産のために、自らが宿した子の命と引き換えに、その命を失ったのです・・・。

先週もお話ししましたルツ記に記されていますナオミという女性にとってベツレヘムは彼女の故郷でした。彼女とその家族はその地方一帯に起きた飢饉のために、他国に逃れました。いわゆる今日で言いますところの家族総出の出稼ぎということにありますでしょうか。しかしその行った先の外国で夫も二人の息子も亡くして、一人の息子の妻、異邦人の嫁、ルツと共にベツレヘムに帰ります。自分の力のおよばない自然環境、社会経済の厳しさ、夫と息子に先立たれという悲しみ、これらを抱えながらも、自分達は何としても生きていかなければならない、そんな彼女達はベツレヘムで農夫が落とした落穂を拾い集めながら、日ごとの糧を得ました。

イエス・キリストが生まれたベツレヘムでは今日の私達が向き合うような人々の生活が営まれていました。そう、そこには私達と同じように日々、繰り広げられる諸々の出来事に向き合って、その日、その日を精一杯に生きている人たちがいたのです。

マタイ1章18節はイエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった」と記しています。さっと読み過ごしてしまう言葉ですが、この一文がマリアとヨセフをどんな人生に導いたのだろうかと私達は想像します。

私達が誰かと婚約中であったとして、ある日、そのフィアンセの女性に「わたしは聖霊によって身ごもりました」と言われたとしたら、それはただごとではありません。結婚も大切だけど、この人はまず精神科に行くべきではないか、いや、聖霊なんて訳の分からないことを言っているけど、もしかしたら自分以外の誰かがいるのではないか、当然、そんな疑心暗鬼がそこにはあるでしょうし、そうこうしているうちに日に日に、彼女のお腹は大きくなっていくのです。当時はこのような状況の女性は姦淫の罪を犯したとされて、石打ちにされて処刑されても仕方がない時代ですから、その状況はかなり緊迫していたと思われます。

このカップルの結婚はおそらく親が決めたもので、彼らはまだ十代の若者であったと言われています。今日、未婚のティーンのお腹が大きくなっていくということが大きくなっていくということ、このことがその子にも、その家族にも与える諸々の影響というものを私達は容易に想像できます。これらのことをマリアとヨセフは受け止めていきますが、そこにいたるまでの心の中の葛藤というもの、それは大変なものであったことでしょう。

そのような葛藤を抱えるこの年若きティーンに対して、人口調査のために自らの出身地、ベツレヘムに帰らなければならないという通達がありました。このようなお上の通達というものは私達がどんな状況にいるか考慮することなく、いつの時代にも私達に降りかかります。このカップルに関しては「神の子を宿しているゆえに免除」とか、「妊娠中ゆえに代理人に託すことを許可する」ということはなく、既に心身ともに多くのものを背負った彼らは、さらに旅の荷をまとめてナザレからベツレヘムに向かうのです。

その道中については何も記していませんが、彼女は多くの母親が感じるように、お腹が張るような痛みを感じつつ、もしかしたらつわりというようなものも感じつつ、彼らと同じ理由で帰郷している人でごったがえしているベツレヘムに到着します。しかし、既に小さな村の民泊は満室で、荷を解き、疲れと冷え切った体を横たえる場所はありません。

皆さん、その日の宿が決まっておらず、あちこちの宿を回っても「満室です」と言われ、最初は楽観的であったのに、いくら探してもやはりどこも満室で、やがて日が暮れ初めてきて、はたして今晩はどうなるのだろうと不安にかられたというような経験をしたことがありますか。「NO VACANCY」という赤いネオンサインをうらめしく思ったこと、ありませんか。

以前、一人でイスラエルの死海のあたりを旅していた時、私はそんな経験をしました。死海とは世界有数のリゾート地で豪華なホテルがいくつかあるのですが、どこも世界中からやってくるツアー客でいっぱいなのです。何とかなるだろうと思っていたのですが、どのホテルのフロントを回っても門前払い。まぁ、一人身だからと野宿も覚悟したのですが、最後は創世記の時代にソドムがあった場所に住むそれこそ、ラケルというおばちゃんの家に一晩、泊めてもらい、それはそれで貴重な体験をさせていただいたのですが、この時のヨセフには身重のマリアがいたのです。今晩の宿があるのか、ないのか、その不安たるや、どんなに大きなものだったでしょうか。

そんな彼らがどうにかこうにか見つけたのがご存知のように馬小屋であり、マリアはそのところでイエス・キリストを出産したのです。はきちれんばかりのマリアのお腹を見た、宿屋の主人はきっと彼女を憐れんでくれたのでしょう。既に全ての部屋は満室、でもせめて夜露だけはしのげるようにと、彼らのために家畜小屋を提供してくれたのです。

このあたりの光景はポストカードになっています。温かい眩しいばかりの光がマリアとヨセフの幸せそうな顔を照らし、馬や牛が優しい目をして(ほんとうに!)、イエス様を見守っているのです・・・。でも、ごめんなさい、皆さんのロマンを壊すようで申し訳ございませんが、あれは嘘です。

馬や牛は優しい目をしてイエス様を見守りません。ポストカードはその現場の匂いとか室温までは私達に伝えないのです。家畜小屋に行ったことがある人なら、そこにはどんな匂いが立ち込めているか分かりますでしょう。あそこで授乳しようと思いますか、あそこで眠ろうと思いますか。イエス・キリストがこの世界で一番最初に吸い込んだ空気は家畜小屋の悪臭だったのです。

追い討ちをかけるように、このイエス様の誕生のことが偏狭なヘロデに知れ渡り、イエス様の誕生を心穏やかに感じていない疑心暗鬼な彼はベツレヘムとその近辺にいる二歳以下の子供は全て殺すようにというお触れを出します。気ままで愚かな指導者を持ちますと苦労するのは国民です。そのヘロデの感情的な都合によりこの家族はエジプトに逃れます。そうです、この家族は今日でいうところの避難民、移民となって外国に逃れていったのです。

皆さんどうでしょうか、エスコンディドに住んでいながら、チュラビスタまで戸籍調査のために徒歩で、身重の妻をかかえて帰郷しなければならず、どうやらたどり着いたら産気づき、かといって受け入れてくれる病院がなく、子供を悪臭がする野外で出産、そうしているうちにその町で生まれた二歳以下の男の子を全て殺すというような信じがたき法令が可決され、命からがら生まれたばかりの胎児をかかえて、そのままメキシコに亡命するという現状。

「アドベンチャー」は「アドベント」が語源となっていると言われていますが、これらのことを思いますときに、実際にヨセフとマリア、そして幼子イエスを取り巻く世界は、のんびりと平安に包まれているような私たちが普段、見慣れているクリスマスカードのような環境ではなかったように思われます。まさしく、そこには彼らを飲み込もうとする闇の力が彼らをおおい、そこから逃れるために、まさしく綱渡りのようにして、彼らは命がけの冒険をしたのです。

神がイエスの人生を託した親として選んだカップルは、まだ年若く、社会的には何の力もないヨセフとマリアであり、その誕生の場所として選ばれたのは小さな寒村、ベツレヘム、わが子の出産と引き代えにその命を失った母の涙と無念が今も残る村、貧困にあえぎ、出稼ぎに行き、そのところで夫と息子を亡くした女性達が落穂を拾いながら生きた村でした。明らかに人として、リーダーとしてバランスを欠いた狂気を宿す王のもとに、その彼の面子のためにもみくちゃにされながら、イエス・キリストは人として一番無防備な赤ん坊としてこの世に誕生したのです。

これらのことは何を物語っているのでしょうか。これらのことは私達が生きている、この地上の冒険に自らも身を置き、そこに自らも冒険者として生きるイエス・キリストの覚悟です。このご自身の出生についてイエス様は何も語ってはいませんが、この出生そのものが、私達に対する大切なメッセージなのです

先に開きましたミカ書を記した預言者ミカはその七章において彼が生きた時代を描写しました。1わざわいなるかな、わたしは夏のくだものを集める時のように、ぶどうの収穫の残りを集める時のようになった。食らうべきぶどうはなく、わが心の好む初なりのいちじくもない。2神を敬う人は地に絶え、人のうちに正しい者はない。みな血を流そうと待ち伏せし、おのおの網をもってその兄弟を捕える。3両手は悪い事をしようと努めてやまない。つかさと裁判官はまいないを求め、大いなる人はその心の悪い欲望を言いあらわし、こうして彼らはその悪を仕組む。4彼らの最もよい者もいばらのごとく、最も正しい者もいばらのいけがきのようだ。彼らの見張びとの日、すなわち彼らの刑罰の日が来る。いまや彼らの混乱が近い。5あなたがたは隣り人を信じてはならない。友人をたのんではならない。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。6むすこは父をいやしめ、娘はその母にそむき、嫁はそのしゅうとめにそむく。人の敵はその家の者である(ミカ7章1節-6節)。

なんとも厳しい世界です。そして、その年月には900年の隔たりがありますが、ここにイエス・キリストが自ら選んで生まれた時代の社会の現実があります。いいえ、今を生きる私達もこの言葉を読んで、「なんだ、これは今の世界のことを言っているではないか。私達の街で昨晩、起きたことではないか」、「自分もこのような状況の渦中に今、置かれているではないか」と思うのです。

しかし、ミカはこのような現状を嘆いてこれらの言葉を終えることはせずに、引き続きこう書いているのです。7しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。8わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。

ミカは現実をしっかりと書き記しながら、同じようにしっかりと希望を書きました。私自身も預言者として、人として、この厳しい現実の中で倒れてしまうこともある、暗闇の中に座る時もある、しかし、主は私の光となるのだと。

このミカの後、1000年近くが経ち、イエスの弟子であるヨハネがイエス・キリストについて記録を残すべく筆を取りました。そのイエスについて書こうとした時に、彼はどのようにその書を書き始めようかと色々なことを考えたでしょう。そして、その時、聖霊による導きを強く受けたことでしょう。彼はこう書いたのです。

1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は初めに神と共にあった。3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった(ヨハネ1章1節-5節)。

ヨハネが「闇」と「光」について書いた時に、このミカ書の言葉がその念頭にあったかもしれません。ヨハネは自分の生きる世界の闇をよく理解していました。その闇の深さをよく知っていました。しかし、それに尻込みするのではなく、その中に輝く光、すなわちイエス・キリストを指さしたのです。その光が私たちのもとに来、その光は今も闇の中で輝いているといい、闇は決してそれに勝たなかったというのです。

皆さん、確かにベツレヘムとサンディエゴは異なる町であり、当時と今では時代が違います。しかし、あのラケルが我が子を抱くこともなく死んでいったような無念、夫や子に先立たれて生きていかなければならないルツのような悲しみを私たちも通らされることがあります。。ヨセフとマリアのように、自分の力の及ばない政治的、経済的、また上に立つ者の感情的な動向によって自分の人生が変えられてしまうということもあるでしょう。我が子を自分よりも先に失うという悲しみに直面すること、人の理解を得られない妊娠を経験したゆえに、追わなければならない人生というものを体験する方もいることでしょう。否、今、お話ししていることは当時ベツレヘムに生きた人達のほんの一部の人間の様であって、そこに暮らしていた人達の家を一軒、一軒、訪ねれば、それぞれが抱えているもの、負っているものがあったことでしょう。そう、それぞれが「自分たちの冒険」を抱えていたのです。

イエス・キリストもその冒険にあずかることを自ら選び、この地にお生まれになられたのです。そして、その冒険を全うし、その冒険のただ中で同じように冒険のただ中にいる者達にどう生きるべきかという指針を語られたのです。その言葉は今日も聖書に記されており、私達の手元にあるのです。

最近、ノートに書き留めた言葉がありました。Lord Jesus, Master of both the light and the darkness. 主イエスは光と闇のマスターである。このお方は光なるお方であると同時に、闇を知り尽くしている。私達が寄り頼もうとしていることは闇の中で激しく輝く光なるお方ではなく、闇をも知り尽くしている光なるお方なのです。

確かに私達も闇の中に座り、倒れてしまうような時もあります。しかし、そこでその闇を知り尽くしているお方は私達の光となってくださる。そのお方の語る言葉は私達の足の灯となって闇路を歩く私達の冒険に不可欠な光となります。さぁ、ここからまた各々の主イエス・キリストと共に私達の冒険にでてまいりましょう。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2017年12月24日

1)イエス・キリストが誕生する900年ほど前に預言者ミカが預言したミカ書5章2節から4節まで読みましょう。ここでミカは将来、ベツレヘムから生まれるお方を預言しており、この言葉は900年後にマタイ2章5節、6節において引用されています。そこには何の成就が言われていますか。イエス・キリストが私達と異なることは何ですか。

 

2)創世記15章17節―19節を読みましょう。ベツレヘムの墓におさめられたラケルに何が起こりましたか。

 

3)ベツレヘムで起きたルツとナオミの物語はどんなストーリーでしたか。

 

4)まだ年若い未婚のマリアが聖霊でみごもり、ベツレヘムの馬小屋でイエスを生み、エジプトに逃げました。これら一連の出来事の中にヨセフとマリアのどんな苦労がありますか。

 

5)当時、ベツレヘムで起きていた人間たちの日常と今の私達の日常は何か異なりますか。そのただ中に、その日常を全て受け止めてお生まれになったイエス・キリストから私達はどんなメッセージを聴きますか。

 

6)あなたにとってクリスマスに起きた出来事はどんな意味がありますか。仮に2000年前にイエス・キリストが誕生していなかったら今日の世界はどうなっていたと思いますか。

 

7)「Lord Jesus, Master of both the light and the darkness」「主イエスは光と闇のマスターである」ということはあなたが人生の冒険を歩むにあたり、どんな励ましと希望を与えてくれますか。

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