神に喜ばれ、自分も喜ぶ

クリスチャンになるということは「歯をくいしばり、きよく正しく人生を生きること」、「聖書に書かれている様々な掟を一生懸命に努力して守っていくこと」というようなイメージをもっている方達がいるかもしれません。もし、それがクリスチャン・ライフであるなら、私はおそらくクリスチャンにはならなかったでしょうし、ましてや牧師になどなってはいないでしょう。私にはクリスチャンも牧師も務まりません。

いったい、どうしてこのようなイメージが伝えられるようになったのでしょうか。キリスト教は禁欲的なものであり、クリスチャンになった日から一切、楽しみとは決別しないといけないというようなメッセージが過去に刷り込まれてしまったのかもしれません。これはとても残念なことです。なぜなら、クリスチャンになるということは退屈なことではなく、それまで見える、聞こえるというようなことだけで楽しい、悲しいと言っていた平面的な人生に高さ、深さ、広さが加わり、違った視点で(言いますのなら神の視点で)自分の人生を見つめ、そこに生きることができるからです。それは人生というものを二倍、経験しているようなもので、この楽しみと喜びは決して小さいものではありません。

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神に喜ばれ、自分も喜ぶ
2018年3月4日

先週に引き続き、今日もローマ書12章1節-2節を見てまいりましょう。拝読します。

1兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。2あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである(ローマ12章1節ー2節)。

クリスチャンになるということは「歯をくいしばり、きよく正しく人生を生きること」、「聖書に書かれている様々な掟を一生懸命に努力して守っていくこと」というようなイメージをもっている方達がいるかもしれません。もし、それがクリスチャン・ライフであるなら、私はおそらくクリスチャンにはならなかったでしょうし、ましてや牧師になどなってはいないでしょう。私にはクリスチャンも牧師も務まりません。

いったい、どうしてこのようなイメージが伝えられるようになったのでしょうか。キリスト教は禁欲的なものであり、クリスチャンになった日から一切、楽しみとは決別しないといけないというようなメッセージが過去に刷り込まれてしまったのかもしれません。これはとても残念なことです。なぜなら、クリスチャンになるということは退屈なことではなく、それまで見える、聞こえるというようなことだけで楽しい、悲しいと言っていた平面的な人生に高さ、深さ、広さが加わり、違った視点で(言いますのなら神の視点で)自分の人生を見つめ、そこに生きることができるからです。それは人生というものを二倍、経験しているようなもので、この楽しみと喜びは決して小さいものではありません。

私達は「福音(ゴスペル)」を伝えています。福音とは「グッドニュース」であり、聖書のメッセージは「ねばならない」というような義務的なものをもって、相手を脅迫する「バッドニュース」なのではなくて、まさしくそれは「良き知らせ」であり、そこには喜びが伴うのです。

かつてキリスト教徒を迫害していたパウロは一転、回心してイエス・キリストを伝える者となりました。彼は「いつも喜んでいなさい」(テサロニケ第一の手紙5章16節)と私達に語りかけています。彼は「嬉しい時は喜びなさい」ではなく、「いつも喜んでいなさい」というのです。その「いつも」とは文字通り、「常にいかなる時も」ということであり、彼はよほどこのことを私達に勧めたかったのでしょう、ピリピ書などを見ますと「あなたがたは主にあって、いつも喜びなさい。繰り返して言うが喜びなさい」(ピリピ4章4節)と言っています。これは「あなたは主にあっていつも喜びなさいよ。ええい、まだ言い足りない、もう一度、繰り返して言いますぞ、喜びなさい」。これが聖書が私達に語りかけているメッセージです。

喜びにも色々なものがあります。私達の願いが叶うことは喜びであります。何かを達成することは喜びであります。誰かが喜んでくれる姿を見ることは喜びです。これはとても大切なことで、このことは私達の生きがいとなりますし、誰かを喜ばす心が失われた世の中は殺伐としたものとなるでしょう。

しかし、中には自分の回りにいる人達を喜ばすことだけに心が奪われてしまい、それで自分自身が燃え尽きてしまう人もいます。幼い時から親を喜ばせよう、期待はずれのことはしないと、それだけに心を注ぎ、人生を送る人達がいます。しかしながら、無理して誰かを喜ばすために、その人の心から喜びが失われてしまうのです。

今日はそんな「喜び」について聖書からお話ししたいと願っています。今日、注目したいことは「神に喜ばれる」ということであります。そして、そのことによって「自分も喜ぶ」いうことです。

神に喜ばれる                                     「人を喜ばせる」ということなら私達は体験上、知っています。しかし「神を喜ばす」ということについては、私達はあまり聞いたことがありませんし、もちろん学校や職場で、そんなことを話している人はいません。

先週、お話しましたローマ書12章1節ですが、そこにはこんな勧めがなされています「兄弟たちよ、そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい」。

ここには私達のからだを神に捧げなさいという勧めがなされており、それもただ捧げるのではなくて、三つの条件がここには書かれています。すなわち「神に喜ばれる」「生きた」「聖なるもの」としてと自らを捧げなさいということです。そして、その第一に来るのが「神に喜ばれるように自らを捧げなさい」ということなのです。

パウロはかつてこのような言葉を書き残しました「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」(ガラテヤ1章10節)。

私達は人の目を気にするものです。そして、先ほども申し上げましたように、私達は人を喜ばせようとし、その歓心を得ようとします。これは確かに必要です。このことなくして、私達の世界は潤いと平和を保つこができません。しかし、神に喜ばれることを考えず、それを脇に置き、人の歓心を得ることだけに奔走し、人に喜ばれることだけに努めている者に対して、パウロは神に喜ばれることをまず第一とすべきだとここで言っているのです。

冒頭に読みましたローマ12章には『あなたがたは、この世と妥協してはならない』(ローマ12章2節)という言葉がありました。この「この世と妥協してはならない」という言葉は英語の聖書ですと 『 Do not conform to the pattern of this world』と書かれています。そうです、それは「この世のパターンに従うな」ということです。

そして、パウロは続いてこう書いています。『むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである』(ローマ12章2節)。この世で繰り返されていること、すなわち人の歓心を得ようということだけに奔走するような世のパターンに従い生きるのではなくて、心を新たにし、造り変えられて、何が神の御心であって、何が神の前に善であるかを知り、神に喜ばれ、何が完全であるかということを知るように努めなさいというのです。

この勧めの言葉は私達にとってとても大切なものです。この世には諸々の価値観があります。この世にいるだけで私達はそれらのものの影響を受けています。そして、知らぬうちに私達の物事に対する見方も世のそれと同じものになって、その色に染まります。それがパターンとなっていきます。

しかし、そうではなくて、神にフォーカスしてごらんなさい。目の前で起きている事柄に対して、自分がどうあるべきか、何をなすべきかということを考える時に、何が神の御心であり、何が最善であって、神に喜ばれることなのかを私達は知るべきだとパウロは言っているのです。

そして、とても不思議なことなのですが、神の御心を知り、何が神の前に最善であり、何を神が喜んで下さるかを問い、それに従い生きるということは、結果的には自分を守り、さらには自分をも喜ばせることになるというのが聖書の言わんとしていることなのです。私は今、あのCSルイスの言葉を思い起こしています。

もし、私がこの世で一番愛するものよりも神を愛するようになったら、この世で一番愛するものを今よりもっとよく愛せるようになるでしょう。この世で一番愛するものを愛するために神をおろそかにするようになるならば、かえってこの世で一番愛するものを全然愛していないという状態に進んでいってしまうのです。第一のものを第一にする時、第二のものは抑えつけられるのではなく、むしろ、さらに拡がっていくのです

この「愛する」という言葉を「喜び」という言葉に置き換えてることもできるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

もし、私がこの世で一番、私を喜ばせることよりも神を喜ばせるようになったら、この世で一番、私が喜んでいるものを今よりもっと喜ぶことができるようになるでしょう。この世で一番喜んでいるものを喜ぶために神をおろそかにするようになるならば、かえってこの世で一番喜んでいるものを全然、喜んでいないという状態に進んでいってしまうのです。第一のものを第一にする時、第二のものは抑えつけられるのではなく、むしろ、さらに拡がっていくのです

イエス様が言われたあの法則がこの喜びにも成り立つのです「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6章33節)。そうです、まずは神を喜ばせるように生きてごらんなさい、そうすれば、他の喜びも添えて与えられるであろう。

だから、パウロはこのローマ書でも「何が神を喜ばせるのかをわきまえ知りなさい」と書き、同じ勧めの言葉をエペソ書の中にも記しているのです。「 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい」(エペソ5章10節)。

そうです、パウロはこの世のパターンに従うのではなくて、主が喜ばれるか否かということを判断の基準として、それに従うことの幸いを知っているゆえに、私達にも同じように勧めているのです。さて、それでは具体的に神が私達に対して喜ばれることは何なのでしょうか。父なる神は私達の何を一番、喜んで下さるのか、ご存知でしょうか。

聖書は「神が喜ばれること」について書いていると同時に「神が喜ばれないこと」についても触れています。神が喜ばないものを知るときに、私達は神は何を喜ばれるのかということを知る手がかりを得ることになります。イザヤ書にはこんな御言葉があります。

主は言われる「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない(イザヤ書1章11節)

旧約聖書の時代、人々は神に動物の生贄を捧げました。それらは自分が犯した罪の償いとしてほふられたり、また神への感謝の表れとして捧げられたのです。しかし、このような犠牲というものも、それが惰性となってくると形だけのものとなります。極端なことを言えば、心に何の思いもないのに、町で一番、立派な肥えた動物を神に捧げることができ、人の目にはその人こそが一番、神に対して忠実な者として映るのです。

預言者ミカはこう記しています「主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」(ミカ書6章7節)。

預言者ミカはさらに突っ込んで一匹二匹の羊ではなく数千の羊はどうだろうか、否、自分の罪のためにわが子の命を神に捧げるのなら、神は喜ばれるだろうかと言います。言うまでもありません、彼の言葉には数千の羊やわが子の命を神に捧げても神は喜ばないということが含まれているのです。

それでは神は何を喜ばれるのか。聖書の中にはこれら「神は喜ばれない」ということに対して、「神は喜ばれること」について書かれています。

詩篇51篇16節-17節にはこう書かれています「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしがはん祭を捧げても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません

神様は私達の砕かれた魂を、心を求められるのです。心の伴わないものは決して神を喜ばせることはありません。神様は私達の心が神に向けられて、神の前に砕かれて、すなわち謙虚になり、その教えを受けいれることができるように耕されている、やわらかい魂を神様は何よりも喜ばれるというのです。

このようにお話すると我々は今朝、ローマ書の「あなたのからだを神に喜ばれる供え物として神に捧げなさい」という言葉を開き、そこには「からだ」と書かれているのに、ここでは「魂」について語られている。それでは「からだ」はどうなるのかと疑問に思われる方がいるかもしれません。

詩篇40篇6節を見てみましょう。「あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない」。ここにも神は捧げられているもの自体を喜ぶお方ではないということが明記され、さらにここでは神様は我々の耳を開かれたと書かれています。なぜ、神様は我々の耳を開かれたのでしょうか。

1サムエル記15章22節がそのことに答えています。「主は、そのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」。

そうです、神様は私達の体の一部である耳をもって神のみ声に聞き従うことを喜ばれる。そして、聞くだけではなく、私達の体と心、すなわち私達の全てをもって神の言葉に従うことを喜ばれるのです。これらはいかなる犠牲の捧げものにもまさるのです。

そして、「従う」ということは私達の「からだ」を通して具現化するのです。あなたのからだを神に喜ばれる供え物として神に捧げなさいということは、心が謙虚にされ、神のお心を聞き、そのお心に私達の肉体をとおして従い生きるということであり、そのことこそが神様が最も喜ばれることなのです。

そして、私達がこの主を喜ばせるような人生を歩んで行く時に、驚くべきことが起きてくるのです。そう、神を喜ばせる生き方をしていく時に、何を隠そう、私達の心に喜びがわいてくるのです。さらにはそのことが私達の周りの人達にも喜びを与えていくことになるのです。

とても不思議なことですが、私達は「自分を喜ばそう、喜ばそうと思って生きていけばいくほど、喜びから遠ざかるような、その心の内に虚しさが生じてくるようなことがあります。誰しもが喜びと共に生きたい。その時にまず心に浮かぶことは「どうしたら自分を喜ばすことができるのか」ということです。

しかし、あれもこれもと自分を喜ばせようと色々なことをしてみても何かが足りない。それらは束の間のものであり、時が経てばまた心が渇くというようなことはありませんか。私が、私が、これこそがこの世のパターンなのです。しかし、神を喜ばせようと言うところに私達のフォーカスがなされていくならば、私達には自ずと喜びがわきあがってきます。

旧約聖書の時代を生きた預言者ネヘミヤは言いました「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」(8章10節)。ネヘミヤは紀元前450年頃に生きた人ですが、彼はバビロンに捕囚となっていたイスラエルの民が再び、エルサレムに帰還するにあたり、苦労してエルサレムの神殿の城壁を築きなおした人です。その苦労は並々ならぬものでした。なかなか事が進まない、敵からの攻撃を受ける、妨害される、一歩進んで三歩下がるというような日々を過ごしました。まさしく、それは肩を落としてしまうような毎日だったことでありましょう。しかし、ネヘミヤはそんな自分の心を奮い立たせるかのようにして、うなだれるイスラエルの民に向けて言ったのです。「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

たとえ今日という一日が思い描いたように行かずとも、心配事が明日に持ち越しになるようなことがあっても、悲しみが心をふさぐような時も、主に喜んでいただき、その主の喜びを己が喜びとせよ、そこに私達の喜びの源があるのだ、そこに我々の自力ではない、主から頂ける力があるのだと。

そんなこと言ったってと思われる方がいるかもしれません。こんな時に、こんな状況で神を喜びなさいだって?!。そんなことできないよ。そんな私達のために、先にも言ったようにパウロはくどい人間になっているのです。パウロは言い続けるのです「あなたがたは主にあって、いつも喜びなさい。繰り返して言うが喜びなさい」。

私達は知っています。パウロほど主イエスを宣べ伝えるにあたり、諸々の困難に向き合った人はいません。 彼はそんな自分の困難を聖書の中に列挙していますが、その一つだけでも私達を打ちのめすのに十分です。そんなものを幾つも、いつも抱えながらパウロはどうやって日々を生きながらえたのか、そうです、彼は主を喜ぶということによって、これらの困難を乗り越えたのです。主を喜ぶことは彼の力となったのです。

1兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。2あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである(ローマ12章1節ー2節)。

自分の心とからだを喜ばせることだけに終始すればするほど、私達の心は渇きを覚えます。人を喜ばすこともバランスをとらなければ、それはやがて重荷となってしまうことでしょう。しかし、どうしたら主に喜ばれるのかということに思いを向け、そこに生きるのなら、私達の心に私達を喜んでおられる、その主を喜ぶ思いがわいてきます。

この喜びを神様は私達にくださろうと願っております。ですから、この喜びをいただきましょう。自分でプロデュースする力などはたかが知れているでしょう。しかし、主を喜ぶことにより上からいただく力には本当の力があります。私達の生活にこの喜びと力を取り戻しましょう。これこそが私達に日々の生活に、人生に必要不可欠なものなのです。

お祈りしましょう。天のお父様、今日もこうして主のみ言葉に私達を導いて下さることを感謝します。主よ、私達の日常の生活を見る時に、私達の喜びを奪っていくようなことが多々起こります。また、私たち自身が時に人や自分を喜ばすことだけに心奪われてしまうことがあります。しかし、この朝、しばし立ち止まってあなたを喜ばすことについて確認できたことを感謝します。全ての祝福はあなたを喜ばすところにあります。嵐が私達の喜びを吹き消してしまうようなことがありましても、あなたを喜ぶことは私達の喜びであり、また私達の力です。神様、私達の生活の中からこの喜びが奪われることがないように導いて下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

 

本日のおもちかえり                                           2018年3月4日

1)あなたはクリスチャンに対してどんなイメージを持っていますか?クリスチャンになることは「歯をくいしばり、きよく正しく人生を生きること」、「聖書に書かれている様々な掟を努力して守っていくこと」であるのなら、あなたはクリスチャンになりたいと思いますか。

 

2)パウロは何度も私達に何を語りかけていますか(テサロニケ第一の手紙5章16節、ピリピ4章4節)。クリスチャンライフとは本来、どんなものなのでしょうか。「喜び」と「楽しみ」は何が違いますか。

 

3)ローマ書12章1節には「私達のからだを神に喜ばれるものとして捧げなさい」と書かれています。これは具体的などんなことだと思いますか。

 

4)ガラテヤ1章10節を読みましょう。パウロはここで何を指摘しますか。このようなことに終始、心を注いで気疲れしてしまったことはありませんか。まず、神に喜ばれることをする時に、人との関係にどのようなことが起こると思いますか。

 

5)ローマ12章2節には『あなたがたは、この世と妥協してはならない』と書かれています。私達はどんなことで世と妥協していますか。

 

6)エペソ5章10節には「 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい」とありますが、あなたは主に喜ばれるものが何であるかということを日常的に考えていますか。このことに従い、生きる時に私達にはどんな生涯が開かれていくと思いますか。

7)イザヤ書1章11節、ミカ書6章7節を読みましょう。ここには主は何を喜ばれないと書かれていますか。詩篇51篇16節-17節には主が何を喜ばれると書いていますか。ここから私達はどのように生きるべきかということが分かりますか(参考:詩篇40篇6節、1サムエル記15章22節)

 

8)あなたは日々、必要な力をどこから得ていますか(ネヘミヤ8章10節)。私達の力の限界はどこにありますか。なぜ、主を喜ぶことは私達の力なのですか?

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