神のはたらかれるスペースを確保する

皆さんは「誰かに嫌な思いをさせられた時、実際に何かの攻撃を受け、それによって被害を受けた時どうしますか」。これらのことに対して色々な対応があるのでしょうが、三つ、挙げてみました。

1 やりかえす。仕返しをする。

2 とにかく忍耐、我慢する。

3 全てを神に委ねる。

さぁ、あなたならどうしますか?

マック

● 本日のプログラム

 一日一生(2018/3/19-2018/3/25)

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神のはたらかれるスペースを確保する

2018年3月18日

ある人が顔につばきをかけられました。それは一度だけではなく、何度もつばきが彼の顔にかかりました。しかし、彼は終始、笑みをたたえています。そう、怒ることがないのです。頭がおかしいのでしょうか。それとも聖人なのでしょうか。

 つばきをかけているのは彼が抱いている一歳になる息子でした。しゃべる度につばきが飛んでくるのですが、父は当然、彼に「なんてことをするのだ!」と怒ることはないのです。言うまでもなく、もしそれが一歳のわが子でないのなら、このことは問題となることでしょう。つばきをかけることが相手への敬意をあらわす、そんな文化や慣習を私は知りません(世界は広いですから、もしかしたらどこかにそんな文化や慣習があるのかもしれませんが)。

皆さんは「誰かに嫌な思いをさせられた時、実際に何かの攻撃を受け、それによって被害を受けた時どうしますか」。これらのことに対して色々な対応があるのでしょうが、三つ、挙げてみました。

 1 やりかえす。仕返しをする。

2 とにかく忍耐、我慢する。

3 全てを神に委ねる。

 1に対して、私達は日常の中でよくこの光景を見聞きします。子供達同士の関わりの中では、このやりかたをよく見かけます。子供達のみならず、日夜、起こる事件の背景には仕返しがあり、ある国が別の国にミサイルを撃ち込むというようなことの背景にも報復があります。「貿易戦争」という言葉はまさしく今、世の中でよく聞かれる言葉で、「ある国(どの国がご存知ですね)に対する報復が始まる」という言葉が飛び交っています。この国で起きている諸々の訴訟の背後にも仕返し、報復を動機としているものが多分に含まれていることでしょう。

 2に対して、これも私達が見聞きすることですし、私達自身もこのような「忍耐」を飲み込んで生きることが多々あります。日本には居酒屋というものがありますが、昼間、会社で忍耐したことを同僚と一杯飲みながら、吐き出すということはよくあるのではないでしょうか。「飲まずにいられるか」というほど、私達は日夜、忍耐しています。ストレスは度重なる忍耐によって生じるものと言っても過言ではありません。

 3に対して、ある方にとっては、何を言っているか分からない言葉だと思います。すなわち、攻撃や中傷を受けた時に、仕返し、報復せずに神に委ねるということです。もちろん、そこには「忍耐」というものが伴いますが、それは「ここは何とか目をつぶろう」というような歯を食いしばって諦めよう、耐えようというのではなくて、これら一切の解決を神に託そうということです。

そこで、皆さんにお聞きしたいと思うのです。皆さんは1-3、どこに当てはまりますか。

 1をもし実行するなら、あなたの憤りは一時、収まるかもしれません。しかし、後味が悪いものが残るかもしれませんし、最悪の場合、あなたの手に手錠がかかるかもしれません。法廷で争うならば、あなたはそのために相当の時間と財産を費やします。いいえ、時間と財産のみならず精神もすり減るでしょう。さらには最後に勝つという保証はどこにもありません。負けて私達の手元に残るのは裁判に費やした請求書です。

 2を実行するということは、私達の心には自分では受け入れられないものを貯めることになります。これを今日、私達は「ストレス」と呼んでいます。言うまでもなく「ストレス」は私達の心にも体にもいいものではなく、これにより私達は心を病んだり、健康を害したりします。さらには日本語に「堪忍袋の緒が切れた」という言葉があるように、ある日突然、この忍耐が爆発してしまうことがあります。それは、たまりにたまったマグマの噴火ですから、先にお話しした報復よりもさらに厳しい結末を迎えることになりますでしょう。

 これらを冷静に考えるのなら、私達はやはり3について詳しく知りたくならないでしょうか。1については映画やドラマでいくらでも観ることができます。2についてはストレスがたまってくると私達の心と体がどうなるか、皆さんは熟知していることでしょう。そこで今日はこの3、すなわち「神に託す」ということをお話したいと思うのです。今日の聖書箇所をお読みします。

 17だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。18あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。19愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。20むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。21悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい』 ローマ12章17節―21節

 ここからお話しするにあたり、私達は一つのことを確認しなければなりません。それは、パウロが17節において「誰に対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい」と言っていながら、その後に「あなたがたは、できる限り、全ての人と平和に暮らしなさい」と言っていることです。

 パウロは「全ての人と平和に暮らしなさい」とは言わずに「できる限り」と言ったのです。すなわち、そこには「限度」があることが記されています。同じようなことをパウロはエペソ4章26節にも書いています「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない」。この一文は明らかに「私達は怒ることもある」と言っています。

 クリスチャンになると怒ることがなくなり、いつも穏健、柔和な人となるのではと思う方がいるかもしれませんが、そうではないのです。ある聖書註解者は「できる限り」とパウロが書いたのは、私達が「無用な良心的責めで悩むことのないため」であると書いていますが、私もそうだと思います。

 諸悪を前にしても疑問を感じたり、義憤をもつことがない、どんな邪悪な人を前にしてもその人のやりたい放題にさせておく、そのような人になれと聖書は言っていません。そのような人は寛容な人なのではなくて、無責任な人と呼ばれます。主の前に何が正しいのか、それを私達は追い求め、また誰かを守るために、実際に行動に動かなければならないこともあるのです。

 聖書はイエス様が「憤った」ことを記録しています。宮で人々が物の売り買いをしていたことに怒られたイエス様は、それらの台を片っ端からひっくり返したということも記録されています。また、パウロもキリストの弟子、ペテロと激論したと聖書は記していますし、それ以外にも彼の激しさを伴った姿が聖書の中には記されています。

 しかし、これらの怒りや憤りに対して、ただ感情を好きなだけ爆発させればいいかというと、決してそうではなく、先ほどのエペソ書4章26節の言葉はこのように続くのです「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはならない」。

 私達は世の不正義を前に怒ることもあります。しかし、その怒りを憤りを明日に持ち越してはならないというのです。なぜでしょうか、なぜなら、その怒りを持ち続けるのなら、遅かれ早かれ、そのことが悪魔に機会を与えることになるからだというのです。

 実はこの「機会を与える」と言う言葉は聖書の原語のギリシア語を見ますと、今日、開かれているローマ書12章の19節の「神の怒りに任せなさい」の「任せる」と言う言葉と同じ言葉が使われているのです。そして、その言葉の本来の意味は「そのために場所を空ける」という意味なのです。

 ということはどういうことかと言いますと、エペソ書の方では「悪魔のためにスペースをつくるな」ということであり、ローマ書の方では「神のために常にスペースを空けておきなさい」ということなのです。

 私達の心には色々な思いが詰まっていることでしょう。嫌がらせを受けたり、中傷を受けた時には私達の心には苦い思いや憤りが溢れ出てくることでしょう。しかし、それで心、全てを満たすなというのです。その中に神のために場所を空けなさい。そのような時にこそ「神様、どうぞ私の心にいらしてください。あなたのために場所を用意しておきました。私の心は今、揺れています。怒りに燃えています。ですから、ここにいらしてください」というスペースを確保しなさいというのです。

 そして、そのスペースに神様に来ていただくということは、ただ「そこに居て下さい」ということではないのです。「あなたがこの出来事を公正に見られて、このことに対して解決をしてください」と神様に委ねるのです「私には善悪を見分けることができません。ですからもし、それがあなたの目に悪であるならば、その先の采配はあなたに委ねます」ということです。

 皆さん、今、私達が見ている、この神に全てを委ねるということは、先ほどお話しましたように、忍耐と共にじっと我慢して待つというような消極的な対処法ではないのです。また、先に見ましたように、自ら報復するような危険極まりないものでもないのです。それは一番、確実なお方に委ねるということです。そして、一度委ねたのなら、神様はそのために働かれます。

 私達、夫婦は最初、「宣教師ビザ」を持ってこの国に来ました。そして、それから永住権を申請して受理され、私はその後、市民権を得ました。永住権の申請の時には「忍耐」の日々を送りました。私達の提出した書類をロサンゼルスにいる弁護士が紛失して、一からやり直すというようなことがありました。

 そんなことを聞きますと、私の頭にはその弁護士のオフィスが目に浮かんでくるのです。きっと彼は身の回りを整理できない人なのだろう。デスクの上には諸々の書類が山積みとなっています。私が送りました書類は彼の視野に入ることのない山の中に埋もれ、やがて他のゴミと共に捨てられてしまったのだろう。そんな光景が目に浮かび、私はその弁護士への依頼をやめて他の弁護士にすぐに代えました。

 皆さん、神様に委ねるということはこのようなことではありません。神様のオフィスには世界中からの祈りが一日に何億も寄せられるのだから、時には忘れ去られることもあるだろう。いいえ、神様は私達の祈りを聞いておられます。すなわち19節にあるように「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書かれているとおりです。ガラテヤ6章7節に「まちがってはいけない、神は侮られるような方ではない。人は自分のまいたものを刈り取るようになる」とあるように、まかれたものは刈り取ることになるのです。

 イエス様が天に帰られた後、弟子達、イエスを信じた者達は力強くイエスを伝える証人となりますが、その勢いは多くのユダヤ人には脅威に思われ、彼らは捕えられたり、殺されそうになります。そのような時にユダヤ人社会で尊敬を受けていた律法学者であるガマリエルが知恵に満ちた言葉を語ります。

38そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。39しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」(使徒行伝5章38節39節)

 そうです、もし私達が神の前に義と認められることのために立っており、そのことに対して攻撃を受けるのなら、それはその相手が神をも敵にまわすということです。主が私達と共にいてくださるということはそのようなことなのです。この世にあって、神を敵に回すということ、これ以上の恐怖がありますでしょうか。言い換えるならば、神が私達と共にいてくださることほど、これほど大きな力と慰めはありません。

 しかし、だからといって私達は自分と共に神様がいるからといって「今に見ていろ。笑っているのは今のうちだ。お前の刈り取りが待ち遠しい」などと言って生きるのではないとここには書かれています。

 すなわち、これらのことを心にとめつつも、パウロはこのような状況に置かれた時にどうすべきかということを私達に語りかけます。20節以降にこう書かれています「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃え盛る炭火を積むことになるのである。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」。

 私達に対する暴虐を止めるには二つの方法があります。一つは力でねじ伏せるのことです。その力には言葉による力、行動による力があるでしょう。私達に何かと言っては、つっかかってくる人がいます。その人を自分の持ち合わせているあらゆる言葉によって、ぐうの音も出ないほどに言い返すのです。

 しかし、その相手は私達が感じていたように、新たなる激しい言葉でいつか私達に挑みかかってくるでしょう。言葉のみならず、行動による力もそうです。報復の連鎖によって最後には互いが破滅してしまいます。主イエスがマタイ26章52節で言われたとおりです「剣を取る者はみな、剣で滅びる」。

 これに対して、もう一つの方法、それは、その人の悪に善で答えるということです。嫌なことを言われる、される、しかし、その人に善きもので応えていく。そうすることによって、その人の頭には燃え盛る炭火が積まれていくと聖書は言うのです。

 いやですねー。炭火が頭の上に置かれるなんて。「ジリジリ」と私達の頭で炭火は燃えているなんて想像もしたくありません。自分が攻撃している相手が、攻撃してこない。これは結構、攻撃している側に色々なことを考えさせます。「なぜ、この人は何も言い返さないのだろう」「俺がこんなにしているのに、必要とあればなぜこの人は、自分を助けてくれるのだろう」。やがて、それは相手の問題ではなく、その攻撃している人自身の良心の問題へと変えられていき、そのことで彼、もしくは彼女は心が苦しくなる。「なぜ、自分はこの人に辛く当たっているのだろう」という責めの心がわいてくるのです。あたかも頭の上に炭火が置かれているかのように。

 皆さん、そもそも私達がクリスチャンであるということは、このような特別な待遇を私達は既に受けているということなのです。「え?、いつ、どこで?」と思われるかもしれませんが、私達がイエス様の十字架を見上げる時に、このことを実践した主のお姿がそこにはあるのです。

 イエス様はあのカヤパの官邸で、彼を取り囲む敵対者に、反論できない言葉を語ることができたでしょう。ユダを除く11弟子をけしかけて、自分に敵対する者達に対して反旗を掲げることも可能だったでしょう。しかし、イエス様はそのようなことをせず、沈黙を貫き通しました。

 カルバリの丘に向かう時に、十字架をイエスに背負わせようとする者に向かい、自分を弁護し、相手を打ち負かすことができる言葉を言うこともできたでしょうし、ムチ打たれる時に、抵抗することもできたでしょう。そして、十字架の上から「呪いの言葉」をいうこともできたでしょうし「こんな絶望的な愚かな人間のために、なぜ私が十字架にかかる必要があるのか」と言う事もできたのです。しかし、イエス様はそうは言わずこう言われました「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分で何をしているのか分からずにいるのです」。(ルカ23章34節)

 私達は最低最悪のことを仕向けられているイエス様が、その悪に善をもって、応えている姿を見て、心が探られてクリスチャンとなったのではないでしょうか。

当初、イエス様の両脇に同じように十字架に磔にされていた強盗はイエス様をののしっていましたが、そのうちの一人がイエス様に敬意をあらわしたのも、まさしくののしられてもののしりかえさず、そのののしっている者に対する赦しの言葉を彼は間近に聞いたからでしょう。そこに彼は人間を超えたイエス・キリストの姿を見たのです。

 主にある皆さん、イエス・キリストが受けた悪に対して、そのことに一つ一つ、イエス様が報復していたのなら、今日のキリスト教はないのです。まさしく、神の一人子イエス・キリストですらも、最後の裁きを父なる神にお委ねしていたのです。

 今日の世界はストレスで満ちています。皆がイライラしかねない社会となりつつあります。もしかしたら、思いがけない処遇に置かれたり、いわれのない攻撃を受けることがあるかもしれません。世界は広く、私達には到底理解できないようなことを言ってくる人、してくる人は人はいくらでもいます。私達はこれからもこのような問題に向き合うことでしょう。そのような私達の心を騒がすような出来事、それに一つ一つどのように対処していくのか、それが私達の人生の行く末に大きな影響を与えていきます。

 それぞれの状況は異なることでしょうから、その状況に合わせて神様からの知恵をいただくことができますように。時に憤りを感じることもありますでしょう。言うべきことを言い、しかるべき行動をしなければならない時もあることでしょう。しかし、それにより悪魔にスペースを与え、その企みに身を任せてしまいませんように。いつも神様がはたらかれるスペースを確保し、自らの分際を知り、主のはたらきを祈り、求めることができますように。

 私達がどのように生きるべきか、その模範は全て人としてこの世界に来られた主イエスのお姿の中に具体的にあらわされています。そのお姿、そのお言葉から私達がどうあるべきかを学び、聖霊様の力添えをいただき、私達が主イエスの心にならうことができますように。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年3月18日

1)もし、あなたが誰かに嫌な思いをさせられた時、実際に何かの攻撃を受け、それによって被害を受けたら、どのように対応しますか。

 

2)仕返し(報復)すると、どうなりますか。忍耐と我慢をするとどうなりますか。全てを神に委ねるとどうなりますか。

 

3)ローマ12章17節―21節を読みましょう。なぜパウロはここで「あなたがたは、できる限り、全ての人と平和に暮らしなさい」(18)と言っているのでしょうか。

 

4)クリスチャンになるとは、諸悪に目をつぶる者となるということですか。悪がなされていることをそのままにしておくということですか。

 

5)パウロは「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはならない」(エペソ4章26節)と書いています。悪魔に機会を与えるとは悪魔にスペースを与えるという意味です。なぜ憤ったままでいると、悪魔にスペースを与えることになりかねないのでしょうか。

 

6)ローマ書12章19節の「神の怒りに任せなさい」という「任せなさい」という言葉も「スペースを与える」ということです。「神様にスぺースを与える」というところからあなたはどんなイメージを抱きますが、これは神様にどのような期待を持つということでしょうか。

 

7)上記の「スペース」を自分の思いや感情だけで埋めていると、どのようなことが起きかねないですか。

 

8)ローマ12章19節、ガラテヤ6章7節、使徒行伝5章38節-39節には神様がどんなお方であることが記されていますか。

 

9)イエス・キリストのどんな姿にローマ12章20節―21節の実践を見ることができますか(私達が善をもって悪に勝つための模範はイエス様のうちに全てあります)。

 

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