健やかな教会になるために

Soul Shepherdingという教会リーダーや教会の霊的状態をサポートするウエブサイトがあります。そのサイトによりますと、1050人の改革派、福音派の牧師に対してなされたアンケートで、彼らの100パーセント、すなわち1050人全ての牧師達がバーンアウト、教会の問題、道徳的な問題で牧師を辞任した同僚がいると答えています。

また70%の牧師がミニストリーを始めた時よりも低い自尊心の中に自分はいると答えていると言います。これ以外にも色々なデータがそこには記されているのですが、その数字はどれも事の深刻さをあらわしています。

神のあわれみにより、また皆さんのサポートとご愛により、私達夫婦はさいわい、そのようなぎりぎりのところにまで行ったことはありません。しかし、これらのことを実際に見聞きします時に、私達夫婦の心身を皆さんの前に、できるかぎり健やかに保ち続けるということは、私達が教会に対してできる第一のことではないかと思わされています。

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健やかな教会になるために
2020年8月9日

私達は200万人とも言われていたイスラエルの民が、エジプトを脱して、モーセのリーダーシップのもと、荒野を歩んでいる日々を見ております。その荒野での生活がある程度、彼らの日常になったような時、モーセの元に彼の舅(しゅうと)であるエテロがモーセの妻と彼らの二人の子を連れてやってきました。

新改訳聖書には「エテロのもとに先に送り返されたチッポラと二人の子」と書かれていますので(新改訳:出エジプト記18章2節)、モーセはその時まで単身赴任でイスラエルの民の先頭に立っていたと思われます。彼の妻子はミデアンの実家にいたのです。

モーセは妻、また子達との久しぶりの再会を喜び、これまで主がイスラエルに成してくださったことを話したことでしょう。この時の様子について出エジプト記は主がイスラエルのために、パロとエジプトびととにされたすべての事、道で出会ったすべての苦しみ、また主が彼らを救われたことを、しゅうとに物語ったので、9 エテロは主がイスラエルをエジプトびとの手から救い出して、もろもろの恵みを賜わったことを喜んだ」(出エジプト18章8節―9節)と記しています。

その晩は積もる話でふけていったことでしょう。そして、その翌日、エテロはかつてミデアンで共に暮らした婿、モーセの荒野での日常を始めて、垣間見ることになります。聖書はこう記しています。

 13 あくる日モーセは座して民をさばいたが、民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。14 モーセのしゅうとは、彼がすべて民にしていることを見て、言った、「あなたが民にしているこのことはなんですか。あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、あなたのまわりに立っているのはなぜですか」(出エジプト18章13節―14節)。

姑(しゅうとめ)が息子夫婦を訪ねてくれば、「うちの嫁はちゃんとやっているか」ということに関心を寄せ、舅(しゅうと)が娘夫婦を訪ねてくれば、「うちの婿は家族を大切にしているか」ということを観察するのではないかと思います。これは今もモーセの時代も変わらないでしょう。

その日、エテロは朝から晩まで義理の息子、モーセのもとにひっきりなしにやってくる人達に対応しているモーセの姿を一日、観察していたのでしょう。エテロはモーセに言います「あなたが民にしているこのことはなんですか。あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、あなたのまわりに立っているのはなぜですか」(出エジプト18章14節)。

モーセは舅エテロに答えます「民が神に伺おうとして、わたしの所に来るからです。彼らは事があれば、わたしの所にきます。わたしは相互の間を裁いて、神の定めと判決を知らせるのです(出エジプト18章15節―16節)。

エテロが言った「朝から晩まで」というのは大げさでしょうか。いいえ、モーセは数百万もの人達のリーダーだったのです。それだけの数の人間がいれば、朝から晩まで彼を訪ねてくる人がいたということは十分に理解できることです。

舅エテロは、このことを言わずしてミデアンに帰ることはできないと思ったのでしょう、たまりかねてモーセに言いました。「あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるだろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない」(出エジプト18章17節-18節)。

エテロは驚き、また心配したに違いありません。それは、娘の婿はこういう毎日を送っていたのかという驚き。そして、そのような男のもとに可愛い娘と孫を置いていかなければならないという心配。

エテロの心には家庭を顧みることができないモーセと、そのことに戸惑う娘チッポラと孫達のたちの姿が思い浮かんだことでしょう。過労死(カロウシ)という日本語は今や外国人にも通じる言葉となっているようですが、モーセがその激務ゆえに心身を患ってしまったら、命を失ってしまったら娘は未亡人になり、孫達も路頭に迷ってしまう、エテロの脳裏にはそんなことまで思い浮かんだことでしょう。

エテロは意を決してモーセに言います。19 今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。20 あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。21 また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。22 平素は彼らに民をさばかせ、大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、小事件はすべて彼らにさばかせなさい。こうしてあなたを身軽にし、あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい。23 あなたが、もしこの事を行い、神もまたあなたに命じられるならば、あなたは耐えることができ、この民もまた、みな安んじてその所に帰ることができよう」(出エジプト18章19節―23節)。

ここでエテロが言っていることは今、モーセが向き合っていることで、小事件は各々のリーダーの手に任せ、大きな事件はあなた自身が裁きなさいということでした。このことはすなわち、今、あなたが背負っている荷を他の者達と共に負いなさいということです。

私はこの聖書箇所を備えるにあたり少しとまどいがありました。なぜなら、この箇所を今日の教会にあてはめるとするのなら、モーセの立場とは牧師の立場となり、聖書のみ言葉によって、自分の立場を弁護するようなメッセージになるのではないかと抵抗があったからです。

しかし、二つの言葉が私のとまどいを振り切りました。それは18節のモーセがこのことを続けるのなら「あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう」という言葉であり、またあなたが、もしこの事を行い、神もまたあなたに命じられるならば、あなたは耐えることができ、この民もまた、みな安んじてその所に帰ることができよう(出エジプト18章28節)という言葉でした。

ここにはもしモーセが今、していることをし続けるのなら、モーセのみならず民も必ず疲れ果てるだろうと書かれています。しかし、もしモーセが自分の働きを他の者と共に担うことができるのなら、モーセ自身もそれを乗り越えることができるし、民も皆、安んじて各々の場所に帰ることができると言うのです。

モーセのもとに来た人たちはモーセに「グッドニュース」を伝えるために来たのではないでしょう。そう、彼らがモーセのもとに持ってきた話は「問題」であり、その中には荒野での不自由な生活から生まれる「愚痴や不満」が多くあったことでしょう。

一人でそのような300人の問題に対処しようとするのなら、それは到底一日では終わりません。300番目の者達は数週間、モーセに会うために待たなければならず、その間にその問題はさらに深刻なものとなります。その数週の間に彼らはその問題に打ち負かされてしまうかもしれません。

またモーセとて人の子、これらの問題を全て一身に受け止め、それら全てに対処しようとすれば、遅かれ早かれ彼の心身には支障があらわれ、いつの日か倒れてしまうことでしょう。

エテロが娘と孫を連れてモーセの元にやってきたタイミング、きっとここには神様のご介入があったのではないかと思われます。もし、この訪問が数か月、遅れましたらモーセは心身ともに疲れ果て、寝込んでいたかもしれません。このことが起こることは、まさしく時間の問題であり、そのことはイスラエル全体の危機を意味しました。

「デプレッション」とか「バーンアウト」という言葉は最近になってよく言われるようになった言葉ですが、モーセが向き合っていたことは、まさしくこの類の事であり、そこに突入する一歩手前に彼はいたのでしょう。

エテロのアドバイスにより、イスラエルの民の中に問題に対処する体制ができたこと、それはこれから40年、彼らが荒野で生活するために必要不可欠なことでした。このことなくして彼らはその荒野での生活を全うすることなどできなかったことでしょう。

ここまでお話ししてきましたことを現代の教会に当てはめますのなら、モーセの時代と同じように人の集まる教会で起こる問題の影響はまず牧師達におよび、彼らの状態は教会に集う方達にも大きな影響を与えていくということになります。

時々、現代の牧師が心身に支障をきたし牧師を辞めているという話を聞くことがあります。また牧師に限らず、何かしらのストレスで牧師の妻が教会に来れなくなるという話を聞くことがあります。

Soul Shepherdingという教会リーダーや教会の霊的状態をサポートするウエブサイトがあります。そのサイトによりますと、1050人の改革派、福音派の牧師に対してなされたアンケートで、彼らの100パーセント、すなわち1050人全ての牧師達がバーンアウト、教会の問題、道徳的な問題で牧師を辞任した同僚がいると答えています。

また70%の牧師がミニストリーを始めた時よりも低い自尊心の中に自分はいると答えていると言います。これ以外にも色々なデータがそこには記されているのですが、その数字はどれも事の深刻さをあらわしています。

神のあわれみにより、また皆さんのサポートとご愛により、私達夫婦はさいわい、そのようなぎりぎりのところにまで行ったことはありません。しかし、これらのことを実際に見聞きします時に、私達夫婦の心身を皆さんの前に、できるかぎり健やかに保ち続けるということは、私達が教会に対してできる第一のことではないかと思わされています。

まさしく、そのような意味で出エジプト記に記されていることは、今、多くの教会が直面している問題に対してどのように対処すればいいのかということを記しているのです。

そして、それはモーセの時代のことのみならず、同じことがモーセの時代から約1500年後の使徒行伝の時にも起こりました。イスラエルの民の荒野での40年が始まった時に、この体制がたてられたように、最初の教会がこの地上に誕生し、形成されていくその最初にこのようなことが起きたのです。使徒行伝6章1節―7節;

そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。この提案は会衆一同の賛成するところとなった。そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた。こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった(使徒行伝6章1節―7節)。

ここに記録されていることは、今日、お話ししました出エジプト記に記されている出来事ととても似ています。つまり「弟子の数が増えてくると」とここには書かれており、それはモーセと200万ものイスラエルの民とに共通することです。多くの同胞がいる、仲間がいる、その数が多く、また増えてくるということは喜ばしいことです。しかし、人の数が増えれば、喜びと共にそれだけ多くの問題が起きてきます。

先週、モーセが手を挙げ、祈り続ける時にイスラエルはアマレクに勝利したとお話ししました。この「祈り」は使徒行伝の時代にもリーダー達の最重要な役割、教会にとりましては生命線と呼ばれることでした。しかし、信徒の数が増えるにつれ、彼らがすべきことも増え、彼らは本来、自分達が力を注ぐべきことに向き合うことができなくなっていたのです。

この使徒行伝においては、食事についての苦情が出てきました。これはある意味、当然のことでした。そうです、食べることは私達人間には不可欠なことなのですから、それを避けて通ることはできないのです。

彼らはその苦情に対して、賜物のある七人の者達を選び、その食卓に関わる部署に配置するように決めました。もしかしたら、常々聞いていた彼らの先祖、モーセとエテロの話、すなわち今日、お話ししていますあの出来事を、その時に思い起こしたのかもしれません。状況や規模は異なりますが、彼らはモーセとエテロがしたことと同じことをしたのです。

すると、驚くべきことに7節を見ますと、このことゆえに「こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった」(使徒行伝6章7節)ということが起きてきたのです。

つまり、明らかなことはこの新しい体制によって、その群れが大きな祝福を受けて前進するようになったというのです。そして、これらの対応と手続きは出エジプト記に記されていたこと同様、初代教会の者達が互いに彼らが負っている荷を分担するということだったのです。

かつて神学校に在学していた時、土曜日、そして日曜日とある教会にインターンに行っていたことがありました。その教会の牧師は土曜日の午前中に伸び放題となった教会の庭の雑草をぬき、それが終わると教会堂の掃除をします。夕方から夜までは英語教室が教会でもたれます。外からネイティブの教師を呼んで、牧師もビギナーからアドバンスまでの全てのクラスに出ています。

その教室が終わると翌日のための礼拝プログラムを打ち込み、印刷します。教会総会を翌日に控えた日は、私は牧師ご夫妻と夜中の3時過ぎまで資料の作成をしたこともありました。そして、朝、早くから祈祷会があり、サンデースクールを導き、そして礼拝の講壇に立ちます。午後は日曜学校教師会、そして執事会があり、それに参加します。そして、月曜日には対外的なミーティング、週日には様々な委員会やミーティングが計画されています。こうした一週間が繰り返されていくのです。

この経験を振り返り今、思うことは、この牧師先生はいったいいつ、どこで、御言葉の準備をしておられたのだろうかということです。おそらく、限りのある時間の中で、備えの時を見出していたに違いないと思うのですが、それは大変なことであったのではないかと思います。

牧師の第一の役目は主の御言葉を人々に語り、伝えることであります。それは「人はパンだけに生きるにあらず、神の口から出る言葉によって生きる」と主イエスが言われた「神の口からでる言葉」を備えるということであり、祈りと共にこの御言葉が私達の魂の糧となるのです。

もし、牧師がこの命の糧を備えることをためらい、拒むのなら牧師を続けることは許されないでしょう。しかし、英語クラスに立ち会うとか、教会堂の掃除をしないからといって牧師のタイトルを剥奪されることはないのです(ないはずだと願っています)。

牧師以外の者達でも十分に対応できることを全て牧師が担ってする、そのことに時間と力が注がれて、本来、牧師がすべきことが十分にできないのであるのなら、そのことを一番、悲しむべき人は牧師ではなく、本来、教会に集う方達なのです。なぜなら、そのことによって、彼らが受けるべき魂の糧を受けることができなくなり、それゆえに彼らの魂が疲れ果ててしまうからです。

牧師が本来、皆で担うべきことを一人で担う、そのことにより教会は「うちの牧師はよくやってくれている」と感謝する。一見、それは良きことに聞こえます。牧師が神に献身している姿に見えます。そして、牧師もそうしている自分こそが神と人に仕えていることなのだ、これぞ僕の姿だと思い、ますますそのことに力を注ぎます。二方がそう思ってしまいましたら、この関係はいつまでも続きます。

もちろん、主のためには何でもしたいと思います。させていただきたいと思います。しかし、このことを続けることは、決して教会の健康的な姿ではないのです。このことにより教会に集う者達も牧師も健康を保ち続けることはできないのです。

私はサンデェイゴ教会に心から感謝しています。今日、お話ししたことで「ああ大倉牧師はそんなことを思っていたのか」と、皆さんを驚かせてしまったかもしれません。ご心配なく、今日、お話ししたことは私達夫婦には当てはまりません。皆さんが主の教会のために善きことは何かを考え、主体的にご自身のできる最善をしてくださっている。

私達が行き届かない所を皆さんが背後にあってどんなに助けてくださっているか、そのことにより私達の心身は支えられ、私達は私達が力を注ぐことに向き合うことができています。それは本当に牧師冥利に尽きる幸いだと思います。

しかし、私達はこのことを今、一度、心に留め、さらに突き詰めていきたいのです。パウロはキリストの教会を私達の体にたとえました。その頭はキリストであり、私達はその体に属する者達です。

パウロは教会を無機質な建造物にたとえることをしませんでした。なぜなら、教会は生きているからです。そして、生きているからには、問われることはその教会は健康かということです。

今日、お話ししたことは一言で言いますのなら、まさしくこのことなのです。そう、教会が健康であるために私達はどうあるべきかということなのです。人間の体の各器官がそれぞれ健やかであるのなら、それぞれの役割を果たしているのなら、その体は健康なのです。そして、それは教会も同じなのです。

野菜を育てていると色々なことを学びます。その野菜が健康であるのなら、野菜は自ずと成長し、多くの実を結びます。これは神様が定めた法則です。そう動物も植物も、そして我々人間も、生きとし生けるもの、それが健やかであるのなら、成長し、実を結んでいきます。

荒野にいたイスラエルの民も初代教会も岐路に立たされました。彼らはその時、彼らが健やかさを維持できる道を選んだのです。それゆえに彼らは保たれ、前に進むことができたのです。

主にある皆さん、今、私達が置かれている状況は、自由自在に伝道や牧会ができるような状況ではありません。そう、足踏みをしているように感じる時です。そんな時の生き方として、私はよく皆さんに「上に芽が伸びない時は、深く下に根をはりましょう」ということをお話しします。

そう、私達の日常が戻る時に備えて、しっかりと今日、共に見てきたことを心に留めて、今のうちから根を深く、広く、張り広げておこうではありませんか。

私達の教会がさらに健やかになるために、私ができることは何なのか、あなたができることは何のか、そのことを主の前に思いめぐらし、祈り、備えましょう。木の大きさは根の深さに比例するのです。必ずめぐってくるチャンスを掴み取ることができる者は、いつも決まっています。そのために備えている者だけが、そのチャンスを掴むことができるということを心に留めましょう。

そして、このことは教会のみならず、皆さんの家庭にも当てはまるのです。教会や家庭が不健康であることを願う人はいませんでしょう。あなたの家庭は健康ですか。いつも忙しくてなかなかこのようなことを深く考える余裕がないという方がおりましたら、今こそ、このことをしかと考え、共に暮らす者達と祈り、語り合い、一同、さらにその絆を深め、健やかなる家庭を築いていこうではありませんか。神様の祝福が私達の教会の上に、そして皆さんのご家庭の上に豊かにありますように。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年8月9日

1)出エジプト18章13節-14節を読みましょう。エテロは何に驚いたのですか。エテロの心によぎった思いはどんなことだったでしょうか。あなたがエテロだったらどうしますか。

 

2)なぜモーセがしていることを続けると「あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるだろう(出エジプト18章17節)ということになるのですか。「あなたが、もしこの事を行い、神もまたあなたに命じられるならば、あなたは耐えることができ、この民もまた、みな安んじてその所に帰ることができよう(出エジプト18章23節)ということはどういうことですか。

 

3)デプレッション、バーンアウトは今日、私達にとってどれぐらい身近なものでしょうか。あなたの生活環境はこのことから守られていますか。これらの事を防ぐためには何が必要ですか。

 

4)あなたは肉体(心)が健やかであるということをどのように定義しますか?あなたの体が健康であり続けるために必要なことは何ですか。あなたの心が健康であり続けるために必要なことはなんですか。

 

5)使徒行伝6章1節―7節を読みましょう。ここに記されていることと出エジプト18章の出来事は何が似ていますか。

 

6)なぜ「こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった」(使徒行伝6章7節)ということが起きたのだと思いますか。七人の者を選んだことにより、それ以前と何が変わりましたか。

 

7)パウロは教会を無機質な建造物にたとえることをしませんでした。なぜなら、教会は生きているからです。そして、生きているからには、問われることはその教会は健康かということです。教会が健康であるということはどういうことですか?

 

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