コロナ下、かつて日本で買ってきた本をあれこれ読んでいるのですが、ここ数年の間に買ってきた本を眺めていましたら、あることに気がつきました。それは、その時には気がつかなかったのですが、いつの間にか「50代をテーマにしている本」を私は何冊も買っていたということでした。
おそらくそれは数度の訪日の度に買い求めていたものだと思われます。その当時、私は50を前に、自分の人生の節目を意識していたのではないかと思われます。折り返し地点を超え、残された年月をどう生きたらいいのか、世の中では50歳という年齢はどのように受け止められているのかという関心があったのでしょう。
そして、あらためてこれらの本に目を通してみたのです。もちろん、どの本もそうですが、そこには同意できないことがあり、なるほどと思わされることが書かれていました。その中に「50を過ぎたら、もう他人からの承認は必要としなくともよい」と書かれていました。「人からの査定はもう終わり」だというのです。そうです、思えば若い時から長い間、いかに自分が人から承認されるか、評価されるかということに心を配ってきました。しかし、もうそのような舞台からは降りる時ではないかというのです・・・。
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「天を相手に生きていく」
2020年8月16日
私達は出エジプト記より今から約3500年前、エジプトを脱出した200万にもおよぶイスラエルの民と彼らの先頭に立つモーセの姿を毎週、礼拝で見ております。先週はモーセ一人で背負っていた諸々の荷を民に分かち合う体制ができあがっていったということを、そしてそれは彼らが以降40年、荒野で生きていくために必要不可欠な事であったということをお話ししました。
そして、このイスラエルの新体制が整った後に、神様はモーセをシナイ山に呼びます。その山で彼は二枚の石の板に刻まれた十戒を神から受けます。私の教会のオフィスドアにはこの板を抱えるモーセのイラストが張られており、そこにはユーモアを交えて、こう書かれています。「モーセはクラウドから、データをタブレットにダウンロードした最初の人です」そう、十戒はイスラエルの民に対して、天からその板に刻まれました。
1)主が唯一の神である
2)偶像の神々を作ってはならない
3)神の名をみだりに唱えてはならない
4)安息日を守れ
5)父母を敬え
6)人を殺してはいけない
7)姦淫をしてはいけない
8)盗んではいけない
9)偽証してはいけない
10)隣人の家をむさぼってはいけない
「十戒」といいますと、戒めという字が心にひっかかります。そして戒めとは「・・・すべからず」という厳しいルール、私達を縛りつけるものだと思う人は少なくありません。
実際に私達の周りにこの「すべからず」はけっこうありまして、普段からそんなものに囲まれているのに「戒めを聞くために教会に行くのは嫌だ」と考える人もいますでしょう。しかし、聖書の「十戒」は私達の言動の禁止をうながし、しぶしぶ私達はそれに従うというような類のものではないのです。
ある人が言いました「私は聖書のどのページを開いても、あなたを愛しているというメッセージしか読むことができません」。「本当ですか?」と思う方がいるかもしれませんが、もし、それが正しいなら「十戒」も神様の愛のメッセージということになります。
イスラエルの民の荒野での生活は数週間ではなく、それは40年続きました。その中で彼らは天から彼らが生きる指針、ガイドラインを受け取りました。それがこの十戒でした。そのガイドラインはその後の彼らに何を優先して、どのように日々を暮らすべきか、超えてはならない一線は何なのかを明らかにしました。これは彼らを守り、彼らが祝福された生涯を歩むために必要不可欠なこととなりました。
「いいや、そんなことはないのではないか。こんな戒め、必要ないのではないか」と思われる方がいるかもしれません。実際にかつてアメリカでは、この十戒はとても身近なものだったようですが、今日、そのようなことはなくなりました。このことは十戒など自分達には関係ない、必要ないとい思う人が今日、たくさんいるということを示しています。
皆さん、ゆっくりとこの十戒の一つ一つに向き合ってみませんか。そして、想像してみてください。この十の戒めを心にとめずに生きる自分の姿を。そのような自分はどうなっていくのかということを。
私に関して言えば、私の脳裏にうつる自分の姿は自分が願っている望ましい姿とはほど遠い姿をしています。そこには混乱し、自滅しかねない危険と隣り合わせの自分がいます。さらにはその危機はは自分だけにとどまらず、私と関わる者達との関係にも及んでいく光景が思い浮かびます。皆さんはいかがでしょうか。
昨年の今頃、私達が今、置かれているこのコロナ下の状況を予測していた人はいません。私達はあれよあれよと、このような状況に置かれて、今にいたっており、未だに、この世界がこれからどうなるのかということを予測できずにいます。
このような状況に五か月もいますと色々な変化が起きてきます。たとえばコロナ前までは「これからはこれにかぎる」「これさえあれば何とかなるだろう」と思っていた、「これから自分が会得しておきべき、備えておくべきリスト」に名を連ねていたものが、このコロナを通ることにより、そのリストから消えてしまったというようなことを経験します。
そして、今やそのリストには何も残っておらず、これからどうしたらいいものか、途方に暮れている・・・。このようなところを通っております私達に必要なことは、環境や状況が変わっても、私達が一貫して、ここに生きればいいのだという確かさをもった人生のガイドラインなのです。
そして、既に私達が気づき始めていますように、そのようなガイドラインなるものがあるとするなら、そのガイドラインはこの世界の全てを掌握している者が私達のために作成していくれたものであることが一番、望ましいのです。しかし、実際にはそんな人間はどこにもいないのです。
主にある皆さん、先ほどお話ししましたように、モーセがシナイ山で受け取った二枚の板は神から与えられたものです。それは完全に全てのことを掌握している神が私達に与えてくださったものです。
であるのなら、これに従わない手はないでしょう。幸いなことに、そこには100の項目が書かれているのではなく、その数やたった10、そうたった10の言葉なのです。
これから10週にわたり、この10戒を一つ一つ、お話ししていきたいと願っています。この10週を通して、なぜ私達にこの十戒が必要なのかということが分かっていただけると思います。
それではまずその最初の戒めを今日は見ていきましょう。出エジプト記20章1節から3節を拝読します。
1 神はこのすべての言葉を語って言われた。2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない(出エジプト記20章1節―3節)。
十戒が民に明らかにされるにあたり、ここにはこう記されています。『神はこの全ての言葉を語って言われた』。「この全ての言葉」という、その言葉はこのことの前に書かれていることです。それでは出エジプト記20書の前に語られていることは何なのでしょうか。また、ここには『わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである』と書かれています。このことはどういう意味なのでしょうか。そう、このことはこの20章の前、 19章に書かれていることなのです。
出エジプト記19章4節―6節、『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」(出エジプト記19章4節―6節)。
ここに書かれていることは神がイスラエルの民をエジプトから救い出してくださり、鷲の翼に載せるかのようにして、彼らを守り導いてくださったということです。そんなあなたたちがもし私との契約を守るのなら、あなたは私の宝となるという言葉です。ここには神のイスラエルに対する深い愛が込められています。
イスラエルがエジプトを脱出してから、この時にいたるまで彼らは神様から一方的にこの愛と保護を受け取ってきました。あのパロと向き合った時の10の災い、天から朝毎に降るマナ、紅海が開かれて奇跡的にエジプトの軍隊から救われたこと、これらは全て神が彼らに一方的にしてくださったことです、無条件で彼らに与えられたことです。
しかし、ここに来て神は民に対して10のことを求めたのです。ここにいたるまでの矢印は神から民に向けられていたのですが、ここからその神に対して向けられる、民の応答の矢印が求められるようになったのです。
それは「せねばならない」ということによって成り立つ矢印なのではなく、そこにいたるまでの神の深いご愛に対してなされる民の応答なのです。そう、それは神と民との間に取り交わされた愛の契約なのです。このことは愛を基とする信頼によるものですので、そこに義務はなく、その契約を守ることには喜びすら伴うものなのです。
この間柄から言えることは、イスラエルの民にとりまして、この十戒に対する応答は「面倒だけど仕方ないので、あなたのことが恐ろしいので守ります」というようなことではなくて、「あなたが私をこよなく愛してくださっていますので、私もあなたを愛するゆえに、当然、このことを喜んで守ります」ということなのです。神は十戒を彼らに与えるにあたり、まずこの前提を示されたのです。そして、与えられたのが、その第一の戒めでした。出エジプト記20章3節、
『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない』 (出エジプト記20章3節)。
ポストモダンの世界でこのような言葉は一番、敬遠されるのかもしれません。しかし、太陽が一つ、月も一つということに抵抗があって、太陽は二るあるんだよ、月は四つあるんだよという人はいないでしょう。同じように神は唯一なる神であり、それ以外のものをその神が占めるところに置き換えることはできないということは覆すことができない、変えることができないことなのです。
そして、ここに立ち、私達がこの言葉と共に生きようとする時に、私達は多くのものから解放されます。私達の日々の生き方が整理されます。
それは色々なものが散在している机の上から、それらのものが全て取りのかれて、自由に、存分にそのスペースを使うことができるような環境が整うようなものです。なぜなら、私達が諸々の神々とよばれるものに心がとらわれることがなくなるからです。
「神などいない」と生きる人も時に、神々に仕えているような人生を送ることがあります。金銭、地位、人間、その他諸々、これらを前に私達は祈ったり、礼拝を捧げたりすることはありません。しかし、それらをあたかも神々のようにして、その前に屈服し、それらを至上のものとし、それらが私達の心を占め、私達の心を支配しているということなら世界のいたるところで見ることができます。いいえ、かくいう私達もそのことに邁進している、でもそれに全く気がついていないということがあるのです。
そして、これらのものには大抵、共通点があります。そうです、これらを私達が求める理由は、これらのものが自分の願いを叶えてくれる、そのことにより、自分の不安を解消してくれると思うということです。ですから、私達はこれらのものを追い求めます。
しかし、悲しいかな、これらの神々は決して私達の心の不安を完全に取り払ってくれることはできないのです。なぜ?人が今も昔も抱える深刻な問題は「私達の不安は、安心の根拠なる神々をたくさん持てば持つほどにかえって強くなる」からです。
頼りになる人に出会って「この人さえいれば安心だ」とその人を自分の神々にしようとする。財産を貯めながら「これだけあれば安心だ」とその財産が私達の偶像となる。何か特殊な技術や資格を身につけて「これができるから、もう大丈夫だ」と自分に言い聞かせる。
そのような思いや願いは必ずしも悪しきものではなく、大切なことではあります。しかし、それらが私達の希望であり続けることは決してないのです。その神々を獲得しても私達の心にはまだ不安があるのです。否、かえってその不安が増すのです。なぜ? それを獲得しましたら、次に私達の心に去来する思いは「それはいつか失われてしまうかもしれない」という恐怖であり、このことは延々と続くからです。
ゆえに、この十戒の第一の「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という言葉は私達を捕えているこれらの諸々の神々からの解放宣言なのです。私達に対してこの第一の言葉は語りかけるのです「あなたは、もはやそれらのものに捕らわれなくていい!あなたは私だけを神として生きればいいのだ」と。
天を突き抜けて私達の心に届けられている、この天来の言葉は私達の心をつかみ、私達の生きる道を真っすぐなものにしてくれるのです。
さらに、この文章について私達が心に留めたいことは、この言葉には「あなたたちは」とは書かれておらず「あなたは」と書かれているということです。このことは誰彼ではないのだ。「私」と「あなた」の関係なのだと神様は私達に言われるのです。
このことにより数百万の群衆の中にいるイスラエルの民は一人一人、神の前に立たされたのです。このことにより彼らは神の前に立つ「私」が神との関係を確立することを求められたのです。それは群衆の中におりながらも、私は神の前に立つ、神に愛されている一人の人間なのだということを知ることです。
主にある皆さん、このことは私達の人生にとってどんなに大きな意味を持っていることでしょうか。とかく私達の人生は他者の影響を多大に受けるからです。もちろん、私達は多くの素晴らしい影響を人から受けます。しかし、時にその影響は私達にとってよきものとは成りえないものがあります。
たとえば「自分はどう思われているのか」「このことをしたらあの人はどう思うだろうか」。そのような類の事で私達の人生は少なからず影響を受けます。そのことにより、その人生の方向が決まってしまうことすらあります。その思いはまさしく神々のささやきのようなものです。人の視線が神々の視線となって私達をコントロールするのです。
そんな私達に主は言われます。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記20章3節)。
この「神とわたし」というものが確立します時にはじめて、私達は「私の人生」と呼べる人生を、神の前に生きることができるようになります。私の上に諸々の神々はなく、私の上には父なる神だけがあり、その間をさまたげるものはないからです。私達は父なる神のまなざしのもと、主と共に私を生きるのです。
そして、このことが確立しますと、それは横につながりを広げていきます。すなわち「あなたはわたしの他に、なにものをも神としてはならない」という言葉に立つ者が、同じように「あなたはわたしの他に、なにものをも神としてはならない」という言葉と共に歩んでいる者と共に生きる時に、私達は本当の意味で人と人との対等な関係をもつことができるのです。
なぜなら、諸々の神々が取り除かれた状態で、神の前に立ち、神に愛されている一人の人間として互いを見ることができるからです。私達は同じ神を己が神としている者であるゆえに、その立ち位置は同じなのですから、互いの喜びを、互いが抱える課題を神の前に等しく持ち出し、共に喜び、共にその課題の解決に向かうことができるのです。
昨年まで私は母を訪問すべく年に二回、訪日していました。私は訪日しますと必ず本屋に立ち寄ります。年に二回しかないチャンスですから、一通り店内をめぐり、タイトルと目次を見て、その時の自分の心にひっかかる本を、手あたり次第に毎年、買って帰ります。このことゆえに私はいつも成田空港のカウンターで汗を流しながら重量制限をパスするために格闘しています。皆さんが空港カウンターでであたふたとしている人がいたら、それは私かもしれません。
このコロナ下、そんな日本で買ってきた本をあれこれ読んでいるのですが、ここ数年の間に買ってきた本を眺めていましたら、あることに気がつきました。それは、その時には気がつかなかったのですが、いつの間にか「50代をテーマにしている本」を私は何冊も買っていたと言うことでした。
おそらくそれは数度の訪日の度に買い求めていたものだと思われます。その当時、私は50を前に、自分の人生の節目を意識していたのではないかと思われます。折り返し地点を超え、残された年月をどう生きたらいいのか、世の中では50歳という年齢はどのように受け止められているのかという関心があったのだと思われます。
そして、あらためてこれらの本に目を通してみたのです。もちろん、どの本もそうですが、そこには同意できないことがあり、なるほどと思わされることが書かれていました。
その中に「50を過ぎたら、もう他人からの承認は必要としなくともよい」と書かれていました。「人からの査定はもう終わり」だというのです。そうです、思えば若い時から長い間、いかに自分が人から承認されるか、評価されるかということに心を配ってきました。しかし、もうそのような舞台からは降りる時ではないかというのです。
このようなことを読んでいましたら、西郷隆盛の言葉が思い起こされました。
人を相手にせず、天を相手にせよ。
天を相手にして己を尽くし、
人を咎めず、
我が誠の足らざるを尋ぬべし
西郷隆盛(南洲翁遺訓)
この言葉は同じく西郷さんが大切にした「敬天愛人」、すなわち「天を敬い、人を愛する」という言葉に通じるものです。この言葉はまさしく聖書のメッセージを凝縮したような言葉で、西郷隆盛はその生涯、聖書にも影響を受けたと言われていますが、「天を相手にする」という言葉に50を過ぎた私の心は強く惹きつけられました。
そして、天を相手に生きていくために、まず心に据えなければならないことは「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記20章3節)という十戒の第一戒なのだということに気がつかされたのです。
この第一の戒めにより、今や私達の思いはストレートに天に向かいます。神の他に神々はいない、ですから神と私達を隔てるものはもはや何もない。なんと潔く、力強い関係でしょうか。私達は天から降り注がれる神の愛を全身に受けて、天からいただく神の愛の眼差しの下、私を精一杯、生きることができるのです。そんな生涯を送ることができるのです。
私達が気づいている、気づいていないにかかわらず、既に神の愛は私達の上に注がれています。その神が私達に今も語りかけるのです。わたしの他になにものも神としてはならない。私だけを神として、私とまっすぐに生きていかないかと。お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2020年8月16日
1)十戒を顧みない生き方は私達をどこに向かわせますか。①主が唯一の神である、②偶像の神々を作ってはならない、③神の名をみだりに唱えてはならない、④安息日を守れ、⑤父母を敬え、⑥人を殺してはいけない、⑦姦淫をしてはいけない、⑧盗んではいけない、⑨偽証してはいけない、⑩隣人の家をむさぼってはいけない
2)『神はこのすべての言葉を語って言われた。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」』(出エジプト記20章1節―2節)は十戒の前提となっています。このことは何を意味していますか(参考:出エジプト記19章4節―6節)。
3)私達にはどんな神々がいますか。無神論者でも神々を持ち得るということはどういうことですか。
4)第一戒、『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない』(出エジプト記20章3節)はなぜ、私達を解放する言葉なのですか。
5)一戒は「あなたたち」ではなく「あなた」と書いています。このことにはどんな意味がありますか。「一人、神の前に立つ」ということは私達の人生にどのような影響を与えますか。
6)「同じ神の前に生きる人間」という共通理解と「自分を主として生きる人間」という共通理解、これらによって築かれる人間関係にはどんな違いがありますか。
7)「人からの査定は終わり」「人からの承認は必要としなくともよい」という生き方をあなたはどう思いますか。そのために必要なことは何ですか。
8)「天を相手にして生きる」という生き方に、どんなイメージをもちますか。