チャールズ・ワグナーというフランス人の牧師は言いました。年をとることは悲しいことではないと言うことは難しく、そう言える人は、ほとんどいないでしょう。もし、あなたが過ぎ去った年月を取り戻そうと努め、髪が白くならないように、また目がかすみ、額にしわが寄らないようにしたいと思っているなら、確かに年を取ることは悲しいことです。
しかし、この世で最も美しいものの一つは、経験を積んでより寛容に、より優しくなった老人です。人間をその弱さにもかかわらず愛することができ、青年達をその若さゆえに軽んじない老人です。そのような人はストラディバリウスのバイオリンにたとえることができます。年を取るにつれてその音色は洗練され、その価値は百倍にもなります。そして、まるで魂を宿しているかのようになるのです。
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日英合同礼拝
取るべき地はまだある
2020年9月20日
今日、こうして日英合同で敬老の日をお祝いし、礼拝をもつことができますことをとても嬉しく思います。ご存知のように敬老の日とはご高齢の方達への敬意と感謝をあらわす日で、日本では九月の第三月曜日がこの日と定められており、私達の教会もそれにならい、毎年、九月の第三日曜日にこの日をお祝いしています。
今年はコロナという状況に見舞われ、皆さんと共に教会でこの時を持つことができないことはとても残念です。しかし、現代のテクノロジーにより、このように共に主の御言葉に耳を傾けることができますことを感謝します。
ヨシュア記13章1節にはこんなみ言葉が書かれています。「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地はなお多く残っている。その残っている地は次のとおりである」。
数年前に高校時代の友人と28年ぶりに会うことがありました。彼らの姿を見た時、自分の前に立っている友の姿はおじさんでした。かつては毎日、スポーツに打ち込んだ体形だったのに、手の込んだ髪型をしていたのに、今やその面影がない互いを見て、思わず「俺たちも年とったな」という言葉が口から出てきました。
この言葉は特別な言葉でして、それは全ての人に向けて言うことができる言葉ではありません。それは限られた者達の間だけで言うことができる言葉なのです。この言葉をスターバックスで隣り合わせた方に向かって言うことはできませんし、自分の子供にも、また自分の恩師に向かって言うことはないのです。しかし、それが高校の同級生であるのなら言えるのです。なぜなら、彼らとは同年代、同じ目線で、喜怒哀楽を共有した年月を過ごしたからです。
先に読みましたヨシュア記の御言葉はモーセをリーダとしたイスラエルが、エジプトを脱出し、荒野に40年を生き、約束の地、カナンに入ってから後、モーセの後を継いでイスラエルのリーダーとなっていましたヨシュアに向かい神様が言われた言葉です。
神様はここでヨシュアに「あなたは年が進んで老いたが」と言っています。そうです、その時、ヨシュアは敬老会の招待状を受け取るような年齢になっていました。この一言の言葉に神様のヨシュアに対する温かいまなざしを感じます。神様はヨシュアのこれまでの人生に同伴し、その苦楽の全てを知っておられたのです。そのお方が今朝、私達にも語りかけるのです。「あなたも年を取りましたね」。
同窓会では「俺たちも年をとったなー」という言葉の後はだいたい持病のこととか、健康のことについての会話となります。私達は血圧について、取っているサプリメントについて話し、最後に「あまり無理すんなよ。ボチボチ行こうよ」と互いをねぎらうのです。
神様はどうでしょうか。神様はヨシュアに「あなたも年を取りましたね」と言われた後にこう言いました。「あなたが取るべき地はなお多く残っている」。
ヨシュアの年齢を考えたら意表をつく言葉です。学校を卒業したばかりの若い人に対して「これからやることがいっぱいあるね」と言うのなら分かりますが、「あなたは年を取りましたね」と言った直後に主はヨシュアに「取るべき地はなお多く残っている」と言われたのですから。
そして、すぐに「その残っている地は次のとおりである」と言われ、それ以降、具体的にヨシュアが取るべき地というものが神様によって示されました。
すなわち、その残っている地は『ペリシテびとの全地域、ゲシュルびとの全土、エジプトの東のシホルから北にのびて、カナンびとに属するといわれるエクロンの境までの地、ペリシテびとの五人の君たちの地、すなわち、ガザ、アシドド、アシケロン、ガテ、およびエクロン・・・』(ヨシュア13章2節-3節)。
これ以降、ヨシュアは彼が取るべき地の名前を挙げています。その地名を数えようと思ったのですが、10まで数えてやめました。多すぎるからです。
詳しくはここでお話しませんが、ヨシュアに課せられた取るべき地の多さ、広さに驚きます。神様は具体的に何々民族の所有する何々という土地を取りなさいとヨシュアに語っているのです。神様は本気なのです。
同じように、神様は私達にも具体的に何かを語りかけていると思います。主のために生きること、そこにリタイアメントはないのです。生かされているということは、今も主が私達に使命を与えてくださっているということです。
既に主の元におられる方ですが、かつて教会のある姉を訪問した時のことを思い出します。彼女は当時88歳でスプリングバレーのグループホームに暮らしていました。お一人で生活をすることが難しくなり、その施設に移られたのです。
その姉を訪ねますと必ず彼女から聞かされる言葉がありました。「先生、イエス様ってすごいね~、こんな私のような者を救ってくださったんだものね~」。
私が訪問すると彼女はいつも必ず、この言葉を私に語りかけました。そして、それを聞くたびに私は思わされたのです。「そうだよな。私はそのことを伝えるために、この人生をかけているのだな」と。「そのことをどう伝えるのかということを、寝ても覚めても四六時中、考えているのだな」と。
彼女を訪問する度に、私はいつもその言葉によって原点に立ち返らされ、励まされ、勇気づけられ、背を押されたのです。肉体的には、かつてのような強さはありませんでしたが、彼女はその言葉を本当に、心から嬉しそうに言われるのですから、その言葉には力があり、その喜びが彼女の息子のような齢の私の心に伝染したのです。
そして、その施設から家路に着く時には、これからも私のできる限りをもって主の励ましの言葉を語らせていただこうと決意させられました。彼女の言葉は私の心にただ留まるのではなく、彼女の言葉を通して、主はこんな私を用いてくださり、主の御言葉は告げ広められたのです。彼女は自ら取るべき地を、彼女の方法で拡げ続けていたのです。
食べ物には「賞味期限」というのがあって、食品のパッケージには「何年何月何日までにお召し上がりください」と書いてあります。ある人がそのことから、「私もそろそろ賞味期限が近づいてきました」と言っているのを聞いたことがありました。とてもユーモアにあふれた表現だと思いますが、実際には神様が私たちをお造りくださった時、私達に「賞味期限」をおつけにはなりませんでした。
食品は賞味期限が過ぎると処分されてしまうのでしょうが、私たちの人生は生きるかぎり、主を賛美し、命のあるかぎり、私達の神にほめ歌を歌うのです。確かに私達にもその最後の日は来ます。神様が私達の名を呼ぶその日です。しかし、その日まで私達が取るべき地はあるのです。
私達が齢をとれば若い時のようなことができなくなることに私達は気がつかされていきますでしょう。しかし、そのような時に神様は私達に一番、力ある役目を与えてくれています。
パウロはその力についてこう書きました。『わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである』(2コリント10章4節)。
このような類の力はたとえ私達が知的、肉体的に充実していても持ち得るものではありません。どんなに気力、体力がみなぎっていても、だれが要塞を破壊することなどできましょうか。
それでは、その力はどこにあるのか。それは私達の祈りにあります。私達が祈る時、私達は最も力ある者とされるのです。祈りは私達が主の身元に行く、その直前まで私達がなしうる、主からの賜物なのです。
神様は私達ひとりひとりに語りかけます。「あなたは年をとりましたね」。主はこれまでの私達の人生をよくよく承知しておられますゆえに、この言葉をかけることができるのです。私達がどのように生き、今、どのような状態にあるのかを承知の上で主は言われます。「あなたにはまだ取るべき地がある」と。
チャールズ・ワグナーというフランス人の牧師は言いました。年をとることは悲しいことではないと言うことは難しく、そう言える人は、ほとんどいないでしょう。もし、あなたが過ぎ去った年月を取り戻そうと努め、髪が白くならないように、また目がかすみ、額にしわが寄らないようにしたいと思っているなら、確かに年を取ることは悲しいことです。
しかし、この世で最も美しいものの一つは、経験を積んでより寛容に、より優しくなった老人です。人間をその弱さにもかかわらず愛することができ、青年達をその若さゆえに軽んじない老人です。そのような人はストラディバリウスのバイオリンにたとえることができます。年を取るにつれてその音色は洗練され、その価値は百倍にもなります。そして、まるで魂を宿しているかのようになるのです。
年をとることは悲しいことではないとワグナーは言いました。そして、世で最も美しいものは、そんな皆さんの寛容さ、優しさであると言いました。皆さんはストラディバリウスのバイオリンが奏でる音色のようだというのです。
先日、私達は植地姉を天国にお送りしました。確かに今、思うに生前の植地さんの笑顔、そして優しいお言葉は、私達にストラディバリウスのバイオリンが奏でる音を聞かせてくれました。
そしてその音色は今も私達の心に鳴り続けているのです。その音色は私達を励まし、私達に力を与えて続けてくれます。そう、たとえ私達が召されても、主にある者達はその取るべき地を拡げ続けているのです。
主にある皆さん、あなたに主は言われます「確かにあなたは年をとられましたね。私はそんなあなたを最後まで私の器として用いますよ。私はあなたしかできないことを与えています。それは時に要塞をも破壊する力を持つものです。あなたという音色をもって兄弟姉妹を力づけてあげてください」
お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2020年9月20日
1)あなたはこれまでの自分の人生を振り返り、これからどのような歩みをしていこうと考えていますか。人生にリタイアメントアはありますか?
2)「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地はなお多く残っている。その残っている地は次のとおりである」(ヨシュア記13章1節)「あなたも年をとりましたね」という神様の語りかけから、どんな神の御心を感じ取りますか。
3)ヨシュアが高齢となっていることを承知の上で神様は「取るべき地はなお多く残っている。その残っている地は次のとおりである」 と言われました。 あなたはこの神様の言葉をどう思いますか。この言葉は何を私達に語りかけますか。
4)あなたの生きる意味と目的はどのように知ることができますか。
5)あなたがいよいよ主の御元に行く時、どんな思いと共にその時を迎えたいですか。
6)『わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである』(2コリント10章4節)は私達に祈りの力を明らかにしています。あなたはこの力を今も行使していますか。
7)神様はあなたに今、どんな使命を与えておられるのでしょうか。