点はつながり、やがて線となる

私達が人生で経験する出来事は一つの点となり、私達の心に刻まれます。私達が後ろを振り返れば、そんな無数の点を過去に残しながら、私達は今日まで歩んできたことに気がつかされます。

目を凝らして、そんな点を見つめなおすと、幾つかの点は他の点と一本の線でつながっていることに気がつかされます。その時、私達はそこに神の御手のはたらきを感じ取ります。

しかし、全ての点が互いにつながっているわけではないということにも私達は気がつかされます。中にはとんでもないところに点在している点もあり、その時に私達は心の中で思います。この生涯で、私は全ての点のつながりを見届けることなどはできないだろうと。

私達が神の前に立つ時に、全ての点が私達の前に解き明かされ、それらが互いにつながり合い一本の線となる。あなたはこのことを信じますか。

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点はつながり、やがて線となる                                                                                       2021年2月7日

昨年の四月から見てきております出エジプト記からのメッセージもいよいよ今日が最後となります。そのメッセージの中心にはいつもイスラエルのリーダー、モーセがいました。その彼の人生もいよいよ幕を閉じる時がきました。その時、彼は山の頂に立ちました。

申命記34章1節から5節、1モーセはモアブの平野からネボ山に登り、エリコの向かいのピスガの頂へ行った。そこで主は彼にギレアデの全地をダンまで示し、2ナフタリの全部、エフライムとマナセの地およびユダの全地を西の海まで示し、3ネゲブと低地、すなわち、しゅろの町エリコの谷をゾアルまで示された。4そして主は彼に言われた「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せるが、あなたはそこへ渡って行くことはできない」。5こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。(申命記34章1節‐5節)。

「人生は一つの山を登るようなものだ」と言われることがあります。詩篇121篇には「わたしは山に向かって目をあげる。わが助けはどこから来るであろうか。我が助けは天と地を造られた主から来る」(1,2節)という言葉がありますが、私達は前途にそびえたつ山に分け入り、天と地を作られた主からの助けをいただきながら、人生をかけてその山に登り、最後にその山頂に立ちます。

そして、その頂きに立つ時、後ろを振り返れば、それまでの人生の歩みを見渡すことができ、周囲を見渡せば、その時の自分の立ち位置が分かり、前方を見れば、分け入ることができなかった未踏の地が眼下に広がっています。

モーセが生まれた時、エジプトの王パロはエジプトに400年もの間、奴隷となっていましたヘブル人の男児を全て殺すようにと命令を下していました。このことゆえにモーセの親家族は苦しみを経験しました。我が子を殺すことなど出来ない彼らは、苦肉の策としてモーセを籠に入れてナイル川の岸辺に置いたのです。「苦悩」という点がモーセの白紙の人生に記されました。

籠に入れられたモーセは、ナイルに体を洗いに来ていたエジプトの王、パロの娘に見つけられ、そのままエジプトの王宮に引き取られ、以降、40年、そこで世界最高の教育を受け、国政に関わるようなポジションを得ます。人は彼のことを「幸運な男」と呼ぶでしょう。しかし、私達は「運」という言葉を使いません。そこに神の御手がはたらいていたということを私達は知っているからです。この間にいくつもの「研鑽と経験」という点がモーセの人生に加わりました。

そのままいけばモーセはその生涯、エジプトの豊かさと共に人生を送ることができたことでしょう。しかし、ある日、同胞の民がエジプト人に打たれているのを見て、へブル人の血が流れる彼は、義憤にかられ、そのエジプト人を打って殺してしまい、パロの怒りを買い、ミデアンの荒野に逃れます。「逃亡」という点がモーセの人生に記されました。

ミデアンで彼は家庭を持ち、以後40年間、荒野に身を置きます。そこで彼は羊を飼い、家族を養い、私達と同じように忙しない生活に追われます。エジプトでの日々と比べるのなら、そこには彼に仕える従者などおらず、生きるために必要な全てのことを彼は経験したことでしょう。その間に「荒野で生きる術」という点が幾つも刻まれたことでしょう。

自分の仕事を我が子や孫に託すような、その齢八十となった時、神は彼に語りかけます『今、イスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう』

彼はとまどったことでしょう。自分ではなく、他に誰かいるのではないか。しかし、よくよく考えてみれば、へブルの民の中に彼以上にエジプト王朝について知っている者はいません。彼はエジプト王朝の内部を手に取るように知っていたのです。彼以外にパロの前に立つことができる者はいないのです。こうして、その誕生からエジプトで過ごした日々に刻まれた点が一つ、そしてまた一つとつながっていきます。

この使命を受け止めたモーセは神の大いなる力添えにより、パロとのかけひきを成し遂げ、エジプトを脱出し、数百万もの同胞と共に荒野に出ていきます。そして、その日から彼の肩に同胞の仲間達の荒野での生活が重くのしかかりました。

それは途方に暮れるようなことでしたが、荒野は彼にとって未知の土地ではなく、そこはまさしく彼が40年、家族を養い、守り、そして生活の糧を得た馴染みの場所でありました。モーセは考えもしなかったでしょう。ミデアンの単調な日常のあれもこれも、後にこのように生かされていくとは・・・。あの日々の無数の点が一つ、そしてまた一つ、つながり始めました。

そして、今や彼の眼下には約束の地が広がっています。彼は知っています、静かに受け止めています、自分はそこに入ることはできないということを。彼の役目はここで終わります。まさしくこの地上での最後の点が今や刻まれようとしていました。

なぜ彼の最期は「約束の地」ではなく、約束の地を見渡すことができる「ネボ山」となったのでしょうか。そうです、民数記20章はモーセとアロンが、チンの荒野で民の求めに応じて岩から水を出す時、神が「岩に命じよ」と仰せになったにも関わらず、自らの民に対する怒りを抑えることができずに、力を込めて岩を杖でたたいてしまいました。そのことにより神はモーセがその命令に従わなかったことを咎め、彼の約束の地への扉を閉ざしたからです。

この時から約1500年の年月が経ち、モーセの人生全体を伝え聞いたイエス・キリストの弟子、ヨハネはヨハネ1章17節においてこう書き記しました。律法はモーセによって与えられ、恵みとまこととはイエス・キリストによって実現した」

そうです、旧約聖書においてモーセは神からの律法を受けた代表者、すなわち律法の象徴として取り扱われています。そして「律法」とはすなわち「自分の力によって義を勝ち取る」ことを意味します。神から言われたことに応え、それを自力で守り通すことにより義とされるということです。

その意味においては「岩に命じろ」と言われた神の命令に応えられずに、怒りと共に岩を打ってしまったモーセは、彼自身が律法の代表者でありながら、その律法の限界というものを明らかにしてしまったのです。そして、そのために彼が支払はなければならなかった代価が約束の地に入れないということだったのです。

モーセがピスガの頂に立った時、彼はそこまで悟ることはできませんでした。彼は自分が律法の代表者であるなんてことは夢にも思わなかったことでしょう。しかし、彼亡き後も継続された神の御計画を私達が聖書の中に読み取る時に、私達はモーセのポジションと役目を知ることができるのです。

彼はその時、自分の人生を振り返り、ピスガに至るまで自分の人生を導いてくださった、一つ一つの点を線としてくださった神の恵みに気がつかされ、信仰をもって自らの最期を神に委ねたことでしょう。そう信仰です、なぜなら、その時の彼にはその先のことは何も知りえなかったからです。

新約聖書、へブル書11章は彼のように生きた古の人間についてこう書いています。

13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。(へブル11章13節-16節)

モーセは約束の地に入ることはできませんでしたが、彼は神自らが天に備えたもう都に迎え入れられました。彼は地上で約束されたものを受けませんでしたが、この都をはるかに望み見て喜び、自分は地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言い表したのです。

二週間前にこのモーセが死んでから約1500年後に預言者エリヤと共に彼はヘルモン山にて、イエスの前に現れたとお話しました。ルカが記している通りです。

28これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。30すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、31栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。(ルカによる福音書9章28節-31節)

その時、モーセとエリヤは神の御子イエス・キリストがその後、エルサレムで遂げようとする最後のこと、すなわち十字架について話し合っていました。

ここに記されている31節、「栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」を英語、NIV訳の聖書は「 They spoke about his departure, which he was about to bring to fulfillment at Jerusalemと記しています。

そうです、「最後のこと」を「Departure:出発」と英語聖書は訳しています。すなわち、このことを直訳しますと「彼らはイエスがエルサレムで成し遂げようとする出発について語り合っていた」ということになるのです。そして、この「Departure:出発」という単語を、新約聖書の原語であるギリシア語は「Exodus」という言葉で言い表しているのです。

そこにいたエリヤは旧約聖書の中の「預言者を象徴する人物」としてイエスのもとに来たと言われています。預言者とは神の言葉を預かり、時に未来に起きることを予め語る者です。そして、先にお話しましたようにモーセは律法を代表する「律法を象徴する人物」としてそこに立ったのです。

その彼らがイエス・キリストの十字架による新しい出発、Exodusについて語り合っていたのです。それはあたかも古の昔からイスラエル民族の間で語り継がれてきたメシアに関する預言がいよいよ成就するのを見届ける預言者の代表エリヤと、自らエジプトからのExodusの先頭に立った律法の象徴、モーセの立ち合いのもと、イエス・キリストが成そうとする新しい出発、Exodusを打ち合わせするかのような光景です。

モーセは確かにエジプトにてExodusを成し遂げました。しかし、エジプトは出ましたが、彼はそのゴールにいたりませんでした。それは律法の限界を象徴していました。しかし、このキリストの十字架により、私達のために真の出エジプトが成し遂げられたのです。このキリストの十字架と復活は私達のための新しい出発のことであり、私達はキリストゆえに必ず神が備えたもう約束の都に迎え入れられるということが保証されているのです。

さすがのモーセもピスガに立った時に、ここまでを見通すことはできなかったことでしょう。すなわち彼は約束の地に入ることができなかったという一点を、その時、保留して地上での生を終えたのです。このことはモーセが地上にいる間に明らかにされることはなかったからです。

ある牧師はこの時の三者の会談を先進国首脳会議、G7になぞらえてG3と呼んでいます。そうです、トップ三者会談です。天から遣わされた預言者の代表者、律法の代表者、すなわち旧約聖書を代表する二人が神の御子、イエス・キリストと語り合っているのです。この世のいかなる首脳会談もこの三者会談の前にはかすんでしまうことでしょう。そのような時にイエス様がその場に伴ってきていた弟子達はどうしていたのでしょうか。ルカはこう記録しています。

32ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た。33このふたりがイエスを離れ去ろうとしたとき、ペテロは自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。34彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。35すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」(ルカ9章32節ー35節)。

 なんと、ペテロとその仲間達は熟睡していました。彼らはこの世界がひっくり返ることが話し合われている現場におりながら、なんと眠りこけていたのです。そして、目を覚ましますとモーセとエリヤがイエスと立っているのを見、既にその二人がイエスを離れ去ろうとしているのを知ったペテロは、慌ててこのトップ会談に割って入って言ったのです。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」

「ここぞ」という時に眠りこけている、眼が閉ざされている。何が起きていたのかさえも知らないペテロは言います。「小屋を三つ建てましょう!」と。なんということを、この男は言ったのでしょうか。栄光の輝きの中に現れたモーセ、エリヤ、そして栄光の姿に輝くイエスを前に、これ以上の的外れな言葉があるでしょうか。あちらの世界とこちらの世界を行き来することができる、神の栄光に包まれた者達を前に地上の小屋が何の意味をもつのでしょうか。

主にある皆さん、私達はペテロにあきれ、ペテロの言葉に閉口します。しかし、よくよく考えれば、このペテロの姿こそが私達の姿なのです。我々の前に聖なる神の御心が進行しているような時に私達は眠っている。目が閉ざされている。仮にそれを目の当たりに見ても、そのことを理解することなどできない。とんちんかんな思いしか浮かばない、それがこの地上に生きている私達なのです。

モーセがそうであったように、私達も現在、立っているポジションから過去を振り返る時に点が線となっている幾つかの出来事に気がつかされます。そのことゆえに私達は神の御名を崇めます。

しかし、私達がこの地上で肉の体をまとっている間は、全てのことにおいて限界があります。ですから、私達は自分の歩んできた全ての点が線となってつながっていることを見届けることができません。

あの点、この点、今も私達には「なぜあのことが起きたのか」、「なぜそのことが降りかかってきたのか」と私達はそれらを理解できず、その出来事を思う度に私達の心がしめつけられるようなことがあるのです。

モーセの最期にもそんなものの一つや二つあったことでしょう。やはり約束の地に入ることができないということが心のどこかに引っかかっていたかもしれません。

しかし、その彼も約束の都に行き、神の前に立った時に全てが解き明かされたのです。彼は地上の約束の地に入ることはできませんでしたが、神が備えた約束の都において、全てのことを知ったのです。私達が向かっている終の棲家、神の都とはそのような場所なのです。パウロはこのことを不思議な言葉で言い表しています。

 

12わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。13このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(コリント第一の手紙13章12節ー13節)

この手紙の宛先となったコリントは当時、鏡の生産地として有名でした。当時の鏡は当然、今の鏡のようなものではなく、それは金属の表面を磨いたようなもので、そこに写る自分の姿は今日の鏡のようにはっきりしたものではなく、ゆがんでおり、ぼんやりとしていました。すなわち、それはパウロが言うようにおぼろげなものだったのです。

私の家のシャワーの脇には鏡が壁に貼られています。「曇らない」という歌い文句に惹かれて日本で買ってきて貼りつけたものです。髭を剃るために私にはどうしても鏡が必要だからです。買ってきたばかりの時には確かにクリアーに自分の顔を見ることができました。しかし、一年ほどたちますと「曇らない」という謳い文句は効力を失い、その鏡に映る私の顔はおぼろげになりました。何度、手でこすってもぼんやりとしているのです。髭を剃るのも注意深くしなければならない状態となってしまいました。

私達が生きている世界、その世界で私達はこのような状態でこの世界をおぼろげに見ているのかもしれません。点と点とは確かに結ばれているのに、この世にある限り、私達はまだそこに線を見出すことができない。

しかし、やがて私達が主の前に立つ時に、私達はおぼろげな鏡を介して見るのではなく顔と顔とを見合わせるかのようにして見ることができる。私達が今、知っていることは一部分に過ぎませんが、その時には私達が完全に神に知られているように、私達も完全に神を知ることができる。

そう「神を知る」ということはすなわち「神が私達の人生に成してくださったことが全て明らかになる」ということです。全てのことが解き明かされるということです。

ですから、主にある兄弟姉妹、今、私達が抱えている人生の「なぜ」を、その時まで保留して、今、私達に神が託してくださっていることに心を向けましょう。神様はその時に全てを明らかにしてくださる。このことを些細なこととしないために、イエス・キリストはその命と引き換えにしてまで、私達のために新しい出発、Exodusをなされたのです。

私達が神の都に入国した瞬間、神様は私達がさっきまで居りました地上での日々の全ての出来事を一瞬にして明らかにしてくださいます。そうです、全ての点が一つの線となり、それが神の都にまでいたっていることを私達は知らされます。その時から私達の思いから「なぜ」という言葉は消え去ります。そして、同時にその瞬間、私達は人知を超えた神の深い愛を知り、それに完全に包まれるのです。

ですから、パウロはこれらの解き明かしをした後に、続けてあの有名な言葉を書き残しているではありませんか。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(コリント第一の手紙13章13節)

なぜ全てのことが明らかにされる、解き明かされると書いた後に彼は「愛」について語るのでしょうか。なぜなら、その時に私達はまことに神の愛を知るからです。神の都に入る、その時まで私達は「信仰」と「希望」を携えて生きてきた。そして、神の都に入った。その時、私達は神の周到な、圧倒的な愛に完全に捕らえられるからです。

ヨハネは黙示録の中に私達が神の御前に立つ時のことを書いていますでしょう。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」』(ヨハネ黙示録21章3節‐4節)

当初、私はこの涙は私が地上で受けた苦悩を思い起こし、流した涙なのかと思っていました。確かに主を前にしばし、私達はそのような涙を流すかもしれない、しかし、すぐにこの涙は歓喜の涙と変えられることでしょう。主が全てのことを解き明かしてくだされた後に、私達はその背後にあった人知をはるかに超えた神の圧倒的な愛を知り、感激の涙がとめどもなく流れる。神はその涙をふいてくださるのです。

主にある皆さん、今日で出エジプト記の講解説教は終わります。ここにいたるまでの10か月を通して「出エジプト記」はその一書で完結する物語ではないということをお分かりいただけたかと思います。同じようにモーセもモーセの人生だけで終わった人ではないのです。

そして、私達の人生もこの人生で完了するものではないのです。私達はこの世にあっては旅人であり、寄留者なのです。皆さんは現在の自分を見て、自分は一つ所に定住していると思われるでしょう。しかし、それは決して正しい理解ではありません。私達はこの世では旅人であり、寄留者であり、キリストが成し遂げてくださった新しい出発と共に最終的に神の都を目指す者達だからです。

旅人であるのなら、どちらに向かって旅をすべきかそのディレクションを知らなければなりませんでしょう。寄留者であるのなら、仮の住まいに生きるための土台を知らなければなりませんでしょう。しかし、私達はあのペテロと何ら変わらない不完全な人間なのですから、何を言い出すか、何をしでかすか分かりませんでしょう。

「三つの小屋を!」とペテロが叫でいる間に、天から雲がわき起こり、彼らをおおい始めたとルカは記しています。そして、その時にその雲の中から声が聞こえたのです。「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」(ルカ9章35節)。

モーセは私達をこのイエス・キリストに繋げる橋渡しをしてくれました。私達が生きる指針はこの神が選んだ、その一人子、イエス・キリストにあるのです。このお方のうちに私達の信仰があり、ここに私達の喜びが、希望があるのです。

だから主にある兄弟姉妹、恐れず、勇気をもって、今日も明日も主イエスと共にこの人生の旅路を歩んでいこうではありませんか。このお方は私達の先頭を歩いてくださり、私達を見捨てずに世の終わりまで私達と共にいてくださるのですから。神は私達に「これはわたしの子、私の選んだ者。これに聞け」と言っておられるのですから。

私達がこのイエスと共に生きるのであるのなら、古に生きたモーセが残した最期の一点はそこで終わらず、今も、そのつながりを世界に広げ続けているのです。お祈りしましょう。

おもちかえり                                                   2021年2月7日

1)申命記34章1節‐5節を読みましょう。この時、ネボ山に立つモーセの心境はいかなるものだったと想像しますか。もしあなたがモーセなら何を思いますか。

 

2)モーセの人生は三つの区分に分けることができます。1)40年のエジプト王宮での日々、2)40年のミデアンの荒野での日々、3)出エジプト後、40年の荒野での日々。これらの三つはどのように結びついているのでしょうか。

 

3)あなたの人生を振り返る時に、点が線となっていることに気がつくことがありますか。当時、その点として生きていた時、その点がどこにつながっていくのかを想像できましたか。あなたはそこに神の御手のはたらきを認めますか。このようなことを知る時にあなたの人生の見方は変わりますか。

 

4)モーセとイエス・キリストには1500年もの隔たりがあります。しかし「律法はモーセによって与えられ、恵みとまこととはイエス・キリストによって実現した」(ヨハネ1章17節)と聖書の言葉はモーセとイエス様の関係について語ります。モーセとイエス様はどのようにつながっているのでしょうか。

 

5)ルカ9章28節‐31節を読みましょう。31節の「最後のこと」を英語、NIV訳の聖書は「About his departure:彼の出発」と記し、原語のギリシア語はこのことを「Exodus」と記しています。このことは何を意味していますか。

 

6)なぜその時、モーセとエリヤがイエス様の出発に立ち会ったのですか。このことによりモーセの人生に新しい解釈が加わります。それは何ですか。

 

7)コリント第一の手紙13章12節‐13節を読みましょう。ここに私達はどんな約束と希望を見出しますか。なぜこの言葉の最後に「愛」が語られているのですか。

 

8)へブル11章13節-16節を読みましょう。あなたは自分が「旅人」であり「寄留者」であることを自覚していますか。もし、そうであるのなら旅人であり、寄留者である私達に不可欠なことは何ですか。それは誰が私達に与えてくれますか。

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