与えましょう、与えられます

日本語には以心伝心という言葉があります。「言わなくても分かりあっている」のだから、口に出すなんて野暮なことなのだと私達は言います。「何も言わないけれど、心の中では喜んでいるんですよ、感謝しているんですよ」って、本人はそれで完結しているのでしょうが、そこで完結してしまうのは何ともったいないことなのかと思います。

そもそも私達は神様がその御心を内に込めているだけではなく、その御心を言葉によって私達に語りかけてくださいましたゆえに、救いにあずかり、このバイブルと共にこの人生を渡り歩いていくことができるのです。今を生きる意味とその指針を、そして神の愛というものを、私達は神の言葉によって知ることができるのです。

素直に嬉しい事があったり、ありがたいなと思うことがあるのなら、しんどさの中を生きている方が目の前にいるのなら、私達の思いを表情に、そして、その思いを言葉で言い表すことができるのなら、そのことがおよぼす祝福は、それこそ言葉では言い表せないほど大きいのです・・・。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「一日一生」はこちらから。
今日の「日英礼拝メッセージ原稿」、「おもちかえり」はこちらから ↓

与えましょう、与えられます
2021年3月14日

1956年、日本初の第1次観測隊が南極観測船「宗谷」に乗って東京を出発しました。翌年、この南極観測隊の隊長であられた永田武氏さんは帰国後の記者会見でこう言いました「一番苦労したのは、隊員同士の人間関係でした」。

ある本を読んでいました。そこには刑務所で刑期を終えて、出所してくる人達が開口一番、最も多く言う一言が書かれていました「所内では仲間とのつき合いが一番大変でした」。

たとえそれが周囲数百キロ、人が住まないような土地であっても、自由が制限されている塀の向こう側であっても、どこに行っても、何をしていても、人がいるところから問題がなくなることはありません。

先週から三回にわたり、人との関係にフォーカスをあててメッセージをお届けしています。今日はその二回目として、聖書、ルカによる福音書6章32節-38節からイエス・キリストの言葉を見ていきましょう。

32自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。33自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。34また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。35しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。36あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。37人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。 38与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカ6章32節-38節)。

先週は「私が変わります」ということをお話しました。今日、お話ししますメッセージも結局のところ「自分が変わる」ということになると思います。

このことは現実的な可能性を秘めています。なぜなら、自分が変わるということは、私達の手の中にあることだからです。相手の出方次第ということではなく、このことは私達の決意次第で、この礼拝後から始めることができることなのです。そして、このことには大きな収穫が伴います。

「エコーの法則」というものがあります。私達が山に向かって何かを叫ぶとその声が山にぶつかり、はねかえってきます。私達はこの現象を「やまびこ」、または「こだま」と言います。私達が山に向かい「ヤッホー」と言えば「ヤッホー」という言葉が返ってきます。

このエコーは人と人との関係にも成り立つと言います。すなわち「あなたは素晴らしい人ですね」と、私達がその言葉やしぐさで、メッセージを相手に送れば、その人からも「あなたは素晴らしい人ですね」という言葉やしぐさが返ってくるからです。「ありがたい」という気持ちで人に接すれば「ありがたい」という相手の気持ちが私達にも伝わるのです。

言うまでもなく、この反対もあります。荒々しい言葉を語りかければ、同じような荒々しい言葉が返ってきます。ドアをバタンと閉めて去っていくならば、相手もあなたの目の前に湯のみをガチャンと置いて立ち去ります。無言を貫き通すのなら、無言が返ってくることでしょう。

よく見ていただきたいのですが今、読みましたルカによる福音書に書かれているものも、この「エコーの法則」なのです。37節-38節にはこう書かれていましたでしょう。

37人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。38与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカ6章37節‐38節)。

この箇所の言葉を言い換えますとこうなります。「人を裁いてごらん、あなたも裁かれるよ、人を罪に定めてごらん、あなたも罪に定められるよ。赦さずにしておいてごらん、あなたも赦されないよ」。そして、これらの私達の言動に対する背後の応答者は神様ご自身なのです。すなわち、もしあなたが裁き、罪に定め、赦さずにおくなら、あなたも同様に同じ量りで量られ、神はそれぞれに同じように報われるということです。まさしくこれは「エコーの法則」そのものです。

さらに、ここに書かれていますように、このことは人を裁くとか、人を許さないということだけではなくて、「与えてごらん、そうすれば与えられる」ということにもなるというのです。さらには「人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るほどに、あなたのふところに入れてくれるであろう」というのです。

私達は一体、何を人に与えればいいのでしょうか。考えますに私達が与えることができるものは無数にあると思います。お歳暮や諸々の贈り物なるものは確かに私達が与えることができるものです。誰かをお医者に連れていくとか、車の修理をしてあげるということも、自分の時間と労力を与えるということになりますでしょう。

しかし、今日は一つのことに注目したいと思います。それはたとえコロナ下であっても、今日から始めることができることであり、このことは世界を変えるほどの力をもっています。私達が今、与えることができるもの、それは私達の「言葉」です。

今から150年ほど前、マサチューセッツ州ボストン郊外の病院にアンと呼ばれる少女がいました。彼女は三歳の時に目の病気を患い、9歳の時に母を亡くし、結核を患っていた弟と共に救貧院、今日でいうホームレス・シェルターに入れられます。弟はその後、亡くなり、自身の視力も失い、デプレッションとなります。その時に病院のナースが「I Love You」と彼女に毎日、声をかけ続けたというのです。その結果その少女は心を開き、徐々に視覚も回復し、病院を退院し、やがて学校を卒業し教師の資格をとりました。

そして、ある家庭に家庭教師として遣わされました。その家庭には三重苦の少女がいました。その少女を人々はヘレン・ケラーと呼びました。もし、あのナースの言葉がなかったらアン・サリバンは教師になれなかったでしょうし、私達はヘレン・ケラーという女性を知ることもなかったことでしょう。一人の婦人の一言が、そう私達にもできる、本当に小さな一言が、これら二人の女性の人生を変えたのです。

日本語には以心伝心という言葉があります。「言わなくても分かりあっている」のだから、口に出すなんて野暮なことなのだと私達は言います。「何も言わないけれど、心の中では喜んでいるんですよ、感謝しているんですよ」って、本人はそれで完結しているのでしょうが、そこで完結してしまうのは何ともったいないことなのかと思います。

そもそも私達は神様がその御心を内に込めているだけではなく、そのことを御言葉によって私達に語りかけてくださいましたゆえに、救いにあずかり、このバイブルと共にこの人生を渡り歩いていくことができるのです。今を生きる意味とその指針を、そして神の愛というものを、私達は神の言葉によって知ることができるのです。

素直に嬉しい事があったり、ありがたいなと思うことがあるのなら、しんどさの中を生きている方が目の前にいるのなら、私達の思いを表情に、そして、その思いを言葉で言い表すことができるのなら、そのことがおよぼす祝福は、それこそ言葉では言い表せないほど大きいのです。大げさではなく、このことで世界は変わります。

もし世界中の全ての人が一日に三回、「ありがとう」や「よくやっているね」、「だいじょうぶだよ」という言葉を毎日、誰かに語り続けたら、この世界はどうなりますか。夫婦問題、親子問題、教育問題、治安問題について、私達は専門家の意見を聞き、時にお金を使って、これらの問題を解決しようとしています。しかし、もし私達が各々、置かれている場所で、既に私達と共にあるこの唇から出る言葉によって語り始めたら何が起こるでしょうか。

イエス様はかつて言われました「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」(マタイ10章8節)。皆さん、私達が何かを話す時にお金を支払いますか。いいえ、日常の会話料といって、自分が話した分、お金を払っている人などはいません。

それらを全て私達は無料(ただ)でしているのです。そして、私達が話すことができるのは神から無料(ただ)でいただいている賜わりものです。ですから言葉は、そうたやすくお前には語らぬ、話さぬと押しとどめておくべきものではなく、惜しみなく与えるべきものなのです。

皆さんの中にはきっといらっしゃることでしょう。「確かにそうですね。でも、それは相手次第ですね。相手が前向きなことを話しかけてくるのなら、私もそうしましょう」。

主にある皆さん、ここがいつも私達の分かれ道です。ここで立ち止るのなら、これまで話してきたことは、ここから先には進みません。それはあたかも「この議案は来月、審議します」と毎月、言われ、何年も議事録に残り続けている議題のようです。そして、大抵、この類の議題がその後、決議され、実現することはないのです。

ガラテヤ書は言います「人は、蒔いたものを刈り取ることになる」(6章8節)。この言葉は神が創造された私達の世界に確立されている法則を言い表しています。コスモスの種を撒けば、コスモスの花が咲きます。茨の種を撒けば、茨が芽を出すのです。

私達が良きものをまき続けるのなら、良きものを刈り取ります。そして、このことを知り、このことに生きようとする者達について、そこまで言ってしまっていいのですかというような、約束の言葉をイエス様は言われたのです。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう」(ルカ6章38節)。

コロナになり、野外で神様の造られた自然をあらためて注意深く観察することが多くなりました。そこには明らかな秩序があり、生きもの達の間には調和があります。それは鳥と鳥の間だけ、植物と植物の間だけというような調和ではなく、空を飛ぶ動物から地中に生きる動植物にいたるまで貫かれている秩序であり、調和です。

秩序があるということはデタラメであるということではなくて、そこには明確な知性があることを意味します。そう、それは神の知恵であり、私達人間を含めた天地万物は全てその神の支配のもと、神の法則のもとに置かれているのです。動植物は皆、この神の法則に従い、生きているのです。

本来、人間もその動植物と共に神が定めた秩序と調和の中に生きる者なのですが、人間だけがその心にある我欲ゆえに、この神の法則から常に外れようとします。言うなればその神の法則にチャレンジしよう、反抗しようとするのです。アダムとイブの失楽園はまさしく、この神の支配と法則に彼らが反することにより起きたのです。そして、私達は今も彼らと何ら変わらず、同じ道を歩んでいます。

主にある皆さん、もし、私達が神の存在を心より信じているのなら、この神の法則に挑んではなりません。この世界は神様が定められた法則で動いているのです。事実を申し上げますが、この世界は私、そしてあなたの法則で動いているのではないのです。「そんなのいやだ、俺は負けない。自分が撒いたものを刈り取ることなんてないように生きる!」。

もし、そのように私達が考えるのなら、それは愚かなことです。神の法則に逆らう私達に勝ち目はないのですから、これだけはしてはなりません。聖書に書かれているように「とげのあるむちを蹴れば、傷を負う」のです。

そうではなく、何を差し置いても、私達がすべきことは、この法則に従い、生きるように努めるのです。そこに私達が神様からいただける祝福があります。天の扉は開かれるはずなのに、なぜ、それを私達の側で拒み、十分に私達に与えられるはずのものを、自分の力で必死に何もかも獲得しようとするのでしょうか。

この法則に対して聖書は徹底しています。マタイ13章12節においてイエス様は言われました「おおよそ持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」

この言葉から分かることは、持っていない者がそのことで考慮されることはなく、その持っているものまでも取り上げられてしまうということであり、持っている者は、既にあるのだから、それ以上、与えられないということはないというのです。私達はこの主イエスの言葉を厳粛に受け止めようではありませんか。

ここまでのことをお聞きくださった方々の中には、このように思われる方が少なからずいるかと思います。それは「そんなこと言ったって、オハヨウと言っても何も言わないでツンとしている人だっていますからね」。そうなのです、このことは驚くべきことではないのです。ご存知のように、そのような人は確かにこの世界にいくらでもいます。

でも、それでも、私達はよきものを、良き言葉を語りかけるのです。それに対する返答がなくとも、それは相手の意思であって、私達はその人を捕まえて口を開かせて「お・は・よ・う」と言わせることなどできないのですから。

演劇をしている俳優が、舞台から観衆を観察して、こここそ感動する場面なのに感動していない客を見つけて、舞台から飛び降りて、その人に「感動しなさい」とは言えないのです。俳優のすべきことはその瞬間、瞬間の演技に全力を注ぐ事です。観客の心は私達にコントロールできることではないのですから。

ですから、皆さん、自分でコントロールできないことにクヨクヨと悩むことはやめましょう。一度ボールを投げたら「主よ、今日もボールを投げることができました、感謝します」と後は神様にお委ねするのです。

私達はきっと気がついていないと思います。しかし、このことにより私達は一歩、前に進んだのです。そう、主の前に前進したのです。そうです、私達は成長させていただいたのです。「自分が変わる」ということは、すなわち「自分が成長する」ということなのです。

さらにはこのことにより、私達はとてつもないステイタスを神様からいただくのです。ルカはこのような人について、イエス様の言葉をこう書き残しているではありませんか。

35しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。36あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。(ルカ6章35節-36節)。

ルカはここで神を「いと高き者」と呼んでいます。そして、このいと高きお方は「恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深い」というのです。このように情け深い、慈悲深い者とあなたたちもなりなさいと私達の父なる神は願っておられます。

「何も当てにしないで貸してやれ」とは「あなたが語りかけた言葉に対して、あなたがその人のためにしたことについて、あなたが期待するようなリスポンスを求めるな。そうする時に、何が起こるかあなたに知らせよう、そう、あなたの受ける報いは大きく、あなたは「いと高き者の子」となるであろう」というのです。

そう、神様は私達に「いと高き者の子」というお墨付きをくださるというのです!なぜ、そんな大それたステイタスをいただけるのでしょうか。このお方と同じように私達も生きているからです。

よくよく考えれば我らの神はよくぞ、この私達に対して来る日も来る日も割りの合わないことをしてくださったことか。私達はいったい何年、いや何十年、神様から投げかけられている愛に応えずにきたのでしょうか。来る日も来る日も、リスポンスがない私達に神様の恵みと愛は来る日も来る日も注がれていたのです。

このような慈悲、すなわち愛はもはや人間が持ち合わせているようなものなのではなく、もし、そのような愛がこの世界にあるとするならば、それはDIVINEなもの。すなわち、神的なものなのだというのです。

ですから、もし、私達がそのような神のご性質を受け継がせていただき、それに生きようとするのなら私達は「いと高き神の子」と呼ばれるのです。

世の中には色々な肩書と言われるものがありますでしょう。しかし、この「いと高き神の子」という肩書以上の肩書きがこの世界にありますか。いいえ、何も思い浮かびません。もし、主からこのように呼んでいただけるのなら、もう他の肩書などいらないではありませんか。これ一つで十分ではありませんか。

コロナ下、私達の行動は制限されています。しかし、今日、お話したことは私達がこのコロナ下でこの午後からできることです。そして、このことから受ける報いはとてつもなく大きな報いです。

この一年の間、私に収穫はあったのだろうかと問う時に、皆さんの心に思い浮かぶことがありますか。もし、私達が今日の御言葉に従い、生きるのなら私達の人生は変わります。そして、私達と共に生きる者達の人生にも天の光が注がれることでしょう。あのコロナの時から私は変わったのだということができたら何と幸いでしょうか。

主にある皆さん、天の扉が開かれるということがどういうことか考えたことありますか。私達はいつも何かいいものは落ちていないだろうかというようにして、足元に落ちているものを探します。しかし「天の扉」が開かれるとは、その下を向いて私達が探しているものをはるかに凌駕するものが私達の上に注がれるということです。

神の法則に従い、そして生きましょう。その法則とは何か。「与えよ。そうすれば、与えられる」という法則です。そして、この法則にはリーズナブルな理由があるのです。そうです、私達は「ただで受けたのだから、ただで与える」のです。

これがこの天地万物を造り、天地万物を所有しておられる、私達を造られた神様が定められている法則であるのなら、この法則に生きることこそが、私達の最高の生き方となるということは、これ以上なく明らかなことなのです。

まずは始めてみましょう。続けてみましょう。それを私達の習慣としましょう。私達は思い描いたこともないような、数々の神のみわざを見ることになるでしょう。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年3月14日

1)ルカによる福音書6章32節-38節を読みましょう。この中に心に残る御言葉がありますか。

 

2)「エコーの法則」は「鏡の法則」とも呼ばれます。それは鏡に映っているあなたの姿がそのまま返ってくるということです。このことについて何か心当たりがありますか。

 

3)「言葉」にはどんな力がありますか。あなたは「言葉」で励まされたことがありますか。あなたは神様が望まれるように「言葉」を用いていますか。

 

4)イエス様は「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」(マタイ10章8節)と言われました。あなたが神様から「ただで受けているもの」をあげてみましょう。「ただで受けたものを、ただで提供する」ということは無理な提案ですか。

 

5)「人は、蒔いたものを刈り取ることになる」(ガラテヤ6章8節)は神が定めた法則です。この言葉の成就をどんな時に、どんな所で見聞きすることができますか。

 

6)上記の御言葉は良きものを蒔けば、良きものを刈り取ることを意味します。あなたが撒くことができる「良きもの」にはどんなものがありますか。

 

7)ルカ6章35節-36節を読みましょう。「いと高き者」はどんなご性質をもっていますか。私達はどのようにして「いと高き者の子」となるのですか。

 

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村 ↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください