壁越しではなく、垣根越しに

メキシコとの国境に行きますとそこには高い壁が建っています。その壁はとても高いもので、こちらからあちらをうかがうことができません。中にはその壁の上に痛々しい針金が巻いてあるところもあります。なぜなら、私達は観光に来ているわけではなく、向こう側を見る必要はありませんし、何よりもその壁は互いに行き来ができないようにという目的のために、そこに建てられているからです。

私の住んでいる家とお隣の家の間には、いわゆる塀というものはなく、腰ほどまでの垣根で互いが隔たれています。ですから、お隣が日向ぼっこしたり、芝を刈っている姿が見えます。そんな間柄ですから、私は時々、庭で垣根越しにお隣さんと会話をすることがあります。その時、私達は互いに顔の表情を見ながら、しかし、垣根が互いの間にあるので互いの土地に入ることなく、話すことができます。そして、必要であればしかるべき入り口を使って、互いの了承のもとに垣根を越えて行き来して、いつでも隣同士、助け合うことができるのです。

私達は互いを大切にするために、リスペクトするために境界(バウンデリー)が必要です。しかし、それはそびえたつ壁なのではなく、垣根なのです。

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壁越しではなく、垣根越しに
2021年3月21日

三回にわたり「人間関係」についてお話してきました。第一回では「自分が変わりましょう」ということについて、先週はその具体的なこととして「与えましょう、与えられます」ということをお話してきました。今日は「壁越しではなく、垣根越しに」ということをお話します。

聖書の中でイエス・キリストは度々、ご自身を羊飼い、そして私達を羊として譬えを話されました。たとえばマタイによる福音書18章12節-14節にはこんな言葉があります。

あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみ心ではない(マタイに18章12節-14節)

ここには100匹の羊を飼う者が迷い出てしまった一匹の羊を捜すために、他の99匹を山に残して、探しに出かけると書かれています。そして、その一匹を見つけたら喜ぶというのです。

もし私達の目の前に100匹の羊がいたら、私達には全ての羊を区別することはできないことでしょう。しかし、この羊を飼う者にとりまして、失われた一匹は他の99匹と同じなのではなくて、その一匹はかけがえのない一匹であったということがうかがい知れます。そして、それはたとえ私達が代わり映えのない一人の人間であったとしても、神様にとって私達はかけがえのない一人の人間であるということを意味します。

さらに、この「羊飼いと羊」ということ、すなわち「イエス・キリストと私達」について、ヨハネ10章1節‐5節などを見ますとこうも書いてあります。1よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いに入るのに、門からでなく、他の所から乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者は、羊の羊飼いである。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す。4自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。5他の人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである。

ここに記されている羊飼いは囲いの中にいる羊の名前を呼んで、その囲いから羊を連れ出すというのです。もう一度申し上げますが、私達にはどの羊も同じに見えるのですが、この羊飼いには、一匹一匹の羊が特別であるというのです。この羊飼いにとって、そこにいる羊は「お前達」ではなくて、「太郎」であり「花子」なのです。

皆さんの中に誕生する前に、自分の兄弟姉妹と話し合って、互いに誰が先に生まれるとか、あるいは双子、三つ子として一緒に仲良く生まれようねと話し合った人はいますか。くだらない質問でごめんなさい。そんな人はいないのです。私達は一人の人として神に選ばれて生まれてきたと聖書は書いています。たとえそれが一卵性の双子であっても、その二人は二人で一人なのではなく、それぞれが独立した個として、神様は私達に命をお与えになったのです。

そして、この「個」というものは、私達が人間の集団の中にいると失われてしまうことがあるのです。「個」というものは、私達を一人の人間として見つめ、愛してくださる神と私達が一対一で向き合い、「あなた」と「わたし」という関係に入らせていただく時に確立されていくものなのです。

イエス・キリストはかつて『狭い門から入れ』(マタイ7章13節)と言われました。その門は皆で手をつないで「さぁー緒に行くよ~、せ~の」といって入るものではないのです。私達、日本人は他国人に比べて、グループ行動を好む傾向があるように見受けられますが、その門は皆でくぐりぬける凱旋門ではなく、一人でくぐりぬける門なのです。

「無理心中」という言葉は人を殺し、自分も死ぬという悲しい言葉です。このような死に方に対して人は「無理」という言葉をつけました。そう、人を巻きぞいにして自分も死ぬということは無理なこと、強引なこと、あってはならないことだからです。現実的なことですが、人は誰しも神の御前に一人で生まれ、神の御前に無二の存在として生き、神に見守られ一人で死んでいく、それが神が私達に求められている生まれ方であり、生き方であり、死に方なのです。

なぜ人と人との関係をお話しするのに、このようなことをお話するのでしょうか。それは「私達が神の前に、このように一人の個である」ということは、これからお話することの前提となることだからです。

この個である私達に神様は「境界」、英語でいうところの「バウンデリー」というものを定められました。そのことを一番、実感できるのが私達の肉体です。今、私は自宅の部屋で、一人でこの動画を録画していますから、皆さんとの接触は全くありません。

しかし、もし、私がこれから皆さんのご自宅を訪ね、皆さんの顔に20センチまで顔を近づけて話しをし始めたら、おそらく皆さんはのけぞり、かなり動揺し、不快な思いをすると思います。「嬉しい!感激!」という人は一人もいないと思います。

なぜ?なぜなら私達の肉体は互いに境界、バウンデリーがあるからです。私達は各々バウンデリーを必要とする者として造られているからです。その境界を越えてしまう時に私達はプレッシャーを感じたり、それが強制的なものになりますと、心に癒しがたい深い傷を負います。

このように私達が明らかに観察できる肉体のことなら分かりやすいのですが、実は私達の心にもこの境界線があるということを皆さんは御存じでしょうか。私達にはこの心の境界線が見えませんから、時に私達はこの人と人との境界線を見失ってしまうことがあり、そのことが私達に多くの問題をもたらします。

私達の教会図書にもありますが「境界線」という本があります(ヘンリー・クラウド&ジョン・タウンゼント 地引網出版)。この本はそのタイトルが言っているように、私達には身体的境界線、精神的境界線、感情的境界線、霊的境界線というような境界線があるのだということを分かりやすく書いています。

この著者は「私達が抱える鬱、不安障害、摂食障害、依存症、衝動障害、罪責感、恥、パニック障害、結婚や人間関係における葛藤など、臨床心理学的な多くの症状はその根底に境界線の問題があります」と書いています(拙者P37)。どうやら私達の人間関係に生じる問題の多くは、この境界線と無関係ではないようです。

既にリタイアされた私の知り合いのある牧師は自分の50年もの牧会生活において、自分が50年の間、直面してきた漠然とした問題が何であったのかがやっと分かった、ここにヒントがあった、もっと早くこの境界線について知っておけばよかったと言っています。

境界線ということについて、この著者はその定義として「何が私であり、何が私ではないのか」ということを書いています。すなわち「私がどこで終わり、他の人がどこから始まるのか」ということです(P42)。このことの見境がつかなくなる時に私達の間には問題が生じるのです。

皆さん、先ほど読みました聖書の言葉には私達、羊は囲いの中にいると書かれています。囲いとはすなわち「自分の場所」と「外」を区別するものです。囲いは、それを越えて誰かが自分の内に無許可で入ってこないためにあります。そして、言うまでもなくこの囲いは羊が造ったものではなく、それは羊飼いによって作られたものです。もう一度、申しますが、この譬において、羊飼いはキリストであり、羊は私達なのです。

すなわち、この譬えは「私」と「外界」には超えてはならない囲いが、あらかじめ神様によって定められているということを明らかにしています。互いを行き来することができる場所は門だけであり、私達の羊飼いですら、その門を通って入ってくるというのです。そして、その羊飼いを聖書は「良き羊飼い」、門を通らず囲いを乗り越えてくる者を「盗人」と呼んでいます。

果たして私達がこの囲いを超えてしまう時にはどんなことがあるのでしょうか。ガラテヤ6章2節にはこのような言葉があります「互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」。Carry each other’s burdens, and in this way you will fulfill the law of Christ.

私達が聖書そのものの意味を知ろうとする時に、日本語だけでは見落としてしまうことがあります。このところに書かれている「重荷」という日本語は英語の聖書には「BURDENS」と書かれています。そして、それに対応する新約聖書の原語であるギリシア語は「過剰な荷物」を意味します。すなわち、ここで書かれている「重荷」とは到底自分、一人では負いきれない重荷を意味します。

それに対してこのすぐ後、5節にはこう書かれています「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである」。For each one should carry his own load.

ここにも先の2節に書かれているように「重荷」という言葉がありますが、実はこちらの重荷は先の重荷とは違う意味があり、英語の聖書ではこちらは「LOAD」と書いています。実際にギリシア語ではこの「重荷」とは「過剰な荷物」ではなく、「日々の労苦という荷物」のことを意味します。これは毎日の生活で私達が各々、負わなければならないものであります。

すなわち、聖書は「過剰な荷物」に対しては互いに重荷を負いあいなさいというのです。そうすることによりキリストの律法が全うされるというのです。

もし一人では負いきれない「過剰な荷物」を一人で負おうとしているのなら、最初はなんとか踏ん張れても、いつかその重荷に押しつぶされてしまうことでしょう。そうなる前に、私達は「助けてください」という言葉、「何か助けが必要ですか」という問いかけを互いに必要としています。

それに対して後者の「自分の日々の荷物」に対して聖書は、それらは各々が負うべきだと言っています。そうです、明らかにこれらの二つの荷には区別があるのです。

そして、私達の人間関係に問題が起きるのは、この二つのことが区別できなくなってしまう時なのです。すなわち、私達が「日々、負うべき自分の荷」をあたかも「過剰な荷物」であるかのようにして負うことをしない時、そして、それを他者に負わせよう、他者が負おうとする時に問題が起こるのです(もちろん、このことには健康状態とか、年齢とか、色々な事情や状況がありますし、私達が母国で住んでいて当たり前にできることと、海外であるが故に日々の荷に対しても、誰かの助けを必要とすることがあり、全てをそのままあてはめることはできませんが)。

これらの問題に対して私達、クリスチャンは時にバウンデリーを見失ってしまうことがあります。それは聖書が「互いに愛し合いなさい」と言っているのだから、その荷がたとえ「LOAD」、すなわち個人が日々の生活の中で負うべき荷であっても、それらを私ができるだけ負わせていただくことがクリスチャンとしての私の役目なのだ、それがキリストの愛なのだ、神のみ心なのだと思い込んでしまうのです。

さらに私達の心は時に、このようなことに対して良心の責めを感じることがあるのです。「なぜいい人が心を病むのか」というタイトルの本がありますが、その理由の多くはこのバウンデリーを見失ってしまっている時に起こるものなのです。

神様は私達一人一人に自由意志をお与えになりました。自由意志をお与えくださった、その背後には神様の大きな愛があります。私達は神の言いなりになるロボットではないのです。そして、その「自由」の背後には常に「責任」が伴うのです。

聖書は私達には、自分で考え、自分で決め、自分で行動し、その結果に対して、神の前に自分で責任を負うということを明確にしています。聖書がいうところの「罪からの救い」ということもまさしく、そのことを明らかにしています。救いとは私達が自分で考え、自分で決めて、信じて受け止めることなのです。私達が主イエスの救いを受け取るか否か、それは私達一人一人の責任です。

親が子のために悔い改めて子が救われることはありません。牧師が誰かのために悔い改めることはできないのです。その人が自分ですべきことをしなければ、決してその生涯は変わらないのです。

私達は自分自身が負っているものが「バーデン」なのか「ロード」なのかを知らなければなりません。私達は他者が負っているものが「バーデン」なのか「ロード」なのかを見分けなくてはなりません。そして、このことを見分け、互いのバウンデリーを尊重する時に私達の人間関係は整理されるのです。

相手の責任を尊重すること、それは人間である私達が互いにできる最大のリスペクトだと思います。相手が負うことができる責任を代わりに担うことは「その人は責任を負うことができない人」であることを認めることであり、そこにはその人に対するリスペクトがありません。

互いの境界線が曖昧になることは、決して健全なことではありません。そう、健やかなことではないのです。健やかさが損なわれるとき、やがていつかどちらかが、あるいは両者ともに倒れてしまうでしょう。

とここまで聞きますと、私達はとても冷たい人間関係を思い起こすかもしれません。私達は互いを隔てる高い壁によって隔たれているのだと思われる方がいるかもしれません。「私はあなたに関与しません、あなたのことは気にかけていません」ということのように聞こえるかもしれません。

メキシコとの国境に行きますとそこには高い壁が建っています。その壁はとても高いもので、こちらからあちらをうかがうことができません。中にはその壁の上に痛々しい針金が巻いてあるところもあります。なぜなら、私達はメキシコ観光に来ているわけではありませんから、向こう側を見る必要はないし、何よりもその壁は互いに行き来ができないようにという目的のために、そこに建てられているからです。

しかし、羊や馬を囲んでいる囲いを見ると、それは決して高い、中が見えないような壁ではなく、それは垣根なのです。外から羊や馬の様子が見えるのです。しかし、確かにそこには境界があり、二方を隔てています。

先ほど読みましたヨハネ10章には「よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いに入るのに、門からでなく、他の所から乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者は、羊の羊飼いである。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く」と書かれています。

なぜ羊は他の人にはついていかないのか。他の人とは門から入ってくる人ではなく、垣根を飛び越えてくる盗人であり、強盗であり、羊達はその人のことも、その声も知らないからです。

しかし、羊は羊飼いのことなら、その姿もその声も知っており、羊飼いも自分の羊の姿も名前も知っているのです。なぜ?それは「羊飼いが暮らす場所」と「羊が暮らす場所」は確かに違うのですが、彼らは互いを見ることができ、互いの声を聞くことができる信頼関係にあり、日中は囲いなしで共に各々の時間を草原で過ごしているからです。そして、羊飼いは門を通ってくることをわきまえ、羊達もそのことを知っているからです。

この羊を囲んでいる囲いはそびえたつ高い壁ではなく、互いを守るために隔たれた柵なのです。私達は国境の壁のようなもので隔たれた家畜を見たことがありません。たいてい家畜を囲うものは柵であり、大抵、それは高くて私達の胸の高さほどのものであり、それは木と木で組まれたようなものであり、中からも外からも互いをうかがうことができるものなのです。

カリフォルニアの家の多くは隣の家との間に塀を構えています。そんなカリフォルニアにありながら、私の家とお隣さんとの間には、いわゆる塀というものはなく、私達は腰ほどの高さの垣根で隔たれています。ですから、お隣が日向ぼっこしたり、芝を刈っている姿が見えます。かといって垣根がありますから、互いの場所にずけずけと侵入することはできないのです。

そんな間柄ですから、私は時々、庭で垣根越しにお隣さんと会話をすることがあります。その時、私達は互いに顔の表情を見ながら、しかし、垣根が互いの間にあるので互いの土地に入ることなく、話すことができます。

さらには庭に侵入者がいないかということを常日頃から互いに見守ることもできます。そして、必要であればしかるべき入り口を使って、互いの了承のもとに垣根を越えて行き来することもできる。必要であればいつでも隣同士、助け合うことができるのです。

私達は互いを守るために、互いをリスペクトするために境界線を持つべきです。しかし、それはそびえたつ壁であってはなりません。それは互いの姿や表情を見合うことが出来る、互いの表情や言葉を聞き合うことができる垣根であるべきです。私達は牧者なるイエス・キリストが羊なる私達を愛してくださり、羊を守るために垣根を造り、しかるべき門を造ってくださったように、互いを見守り、支え合うべきです。

私達の境界線は互いが背負っているものが「バーデン」か「ロード」なのかを判断することができるような垣根でしょうか。高い壁が隔たりとしてあるのなら、その区別をすることはできませんでしょう。今、「バーデンを負っていますから、助けていただけないでしょうか」という言葉が届く垣根、相手の「ロード」を見守ることができる垣根です。

私達の人間関係は、この互いの境界というものを尊重している時に健全な関係が築かれます。「わたし」と「あなた」は完全に神の前にそれぞれが独立しているものです。たとえそれが血を分け合った親子であっても、その子は父なる神の一人の子であり、その親も父なる神の一人の子なのです。たとえそれが生涯の契りを結んだ夫婦であっても、その妻は神の前に一人の子であり、その夫も神の前に一人の子なのです。

時に私達は自分の家を囲むフェンスをチェックします。時がたてば損傷し、修理が必要なところが見つかる時もあります。同じように私達の心の垣根はいかがでしょうか、私達の垣根はその機能を果たしていますか。垣根が崩れて、まさしく見境がない状態になってしまっていませんか。知らないうちに垣根がそびえ立つ壁となっていませんか。

羊飼いではない者は私達の垣根を飛び越えて入ってきます。しかし、羊飼いなるイエスは垣根の中にいる私達を見守り、私達を励まし、助けてくださいます。そして、主なる私達の牧者は門から入ってこられます。主にある皆さん、イエス・キリストが私達を愛してくださったように私達も互いに愛し合おうではありませんか。

互いの心を大切に、各々神の前に立つ尊い一人の人間であることに敬意をあらわし、そんな私達が出会い、垣根越しに互いを見守り、時には門を出入りして諸々の喜びと楽しみを共有し、互いの荷を負い合うことができますことを主に感謝しようではありませんか。このことをしかと心に刻み、一同、教会に戻ってこようではありませんか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年3月21日

1)マタイ18章12節-14節を読みましょう。このところから羊飼いである主の「一匹の羊」に対するどんな思いをうかがい知ることができますか。

 

2)ヨハネ10章1節‐5節を読みましょう。羊飼いなる主は私達の名前を知っていてくださるということを知る時にあなたはどんな思いになりますか。「あなた」と「私達」ではなくて、「あなた」と「わたし」という主との関係を確立することはなぜ大切ですか。

 

3)「人は誰しも神の御前に一人で生まれ、神の御前に無二の存在として生き、神と共に一人で死んでいく」。この事実を知り、このことを踏まえて生きることはなぜ大切ですか。

 

4)私達の肉体が個々あることは、私達には境界線(バウンデリー)があるということを物語っています。そして、それは私達の心も同じです。あなたの心には自分と他者を区別する境界線(バウンデリー)がありますか。

 

5)この境界線が失われる時に起こる問題で思い当たることがありますか。

 

6)境界線を持つということはキリストの愛に反することですか。イエス様の生涯にどんなバンデリーを見出すことができますか。

 

7)「国境にある壁」と「牧場にある垣根」の違いは何ですか。「垣根越しのつき合い」をあなたはどのようにイメージしますか。

 

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