人生観の確立(6):死生観

レオナルド・ダ・ブィンチやマキャヴェッリとの親交もあったというイタリアの政治家、チェザーレ・ボルジャは言いました。「私は生きている時に、死以外のあらゆるものに対して備えをしていた。今、私は死なねばならぬ。そして、まだ何の備えもない」。

かつて沖永良部という島にいた時に80歳ほどになる女性がおりました。その方は毎晩、眠れないというのです。「なぜ?」と問えば、自分の葬儀には誰が来てくれるのだろうか、その時にはこの家では狭いのではないかと思うと、眠れないというのです。「そんなこと心配しなくて大丈夫、その時におばあちゃんは、そこにいないんだから」と話しましても、彼女の不安は消えないのです。その時に思いました。死ぬことの恐れと心配は尽きることがないのだと。

彼女は自分の葬儀について心配していました。しかし、多くの方達はこの備えを予めしています。墓は既に購入している、火葬の手続きも済ませているという方は大勢います。「終活」という言葉は日本ですっかりと定着しましたでしょう。

しかし、先のボルジャが言っていることは、このような葬儀や埋葬の備えではないのです。ボルジャが言っているのは私達の「心の備え」です。死に対する心備えとは何か。それは「死とは何か」ということを知ることです。私達が死ぬ時、自分はどうなるのだろうかということを知り、その死を心にしかと受け止めることです。

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人生観の確立(6):死生観                            2021年7月11日

私達はこれまで5回にわたり「人生観の確立」というシリーズをお話してきました。それも今日が最後となります。

このシリーズをお話させていただきました理由は、コロナという未曽有の中を通っている私達が、今一度、どこに立って、何を目指して歩んでいくのかということを一同、確認したく願ったからです。

これからも私達の生きていく環境や状況は変化することでしょう。私達の肉体にも色々な変化が生じることでしょう。全てのことは移ろいゆきます。このことから私達は免れることができません。しかし、その移ろいゆく世界を見る私達の観方を変えることなら私達にもできます。

万物の法則を手中に収め、私達の今、この時の命をも握っておられる神様は私達にどのようにこの世界を見てほしいのか、そのことに私達はこれからも目を注いでいきたいと願います。

私達の周りにあります家庭機器には大抵、スイッチなるものがあります。それをオンにしますとその家庭機器は動き始めます。そして、オフにすればその機能は止まります。

同じように寝つけない夜に、自分の体のスイッチをオフにして、翌朝、誰かがオンを押してくれればいいなと思うことがあります。しかし、私達の身体にそのようなスイッチはなく、母の胎で私達の鼓動が動き始めて以来、それは止まることなく今日にいたっています。

そして、その時以来、私達は皆、確実にあるところへ向かい始めました。そうです、それは「死ぬ」ということです。これが人間、全ての生きとし生けるものが負っている宿命です。

そして、私達を言い知れぬ不安にさせるのは、この死はいつやってくるのか分からないということです。結婚式や卒業式ならその日、その時間をカレンダーに書き込み、それに備えることができます。同じように自分が死ぬ日程が分かっているならば、私達はそれに合わせて人生設計をたてるでしょう。明日がその日だということが分かっているのなら、私達は今日、スーパーで週末の食材を買ったり、冬服を買い求めることはありません。

レオナルド・ダ・ヴィンチマキャヴェッリとの親交もあったというイタリアの政治家、チェザーレ・ボルジャは言いました。「私は生きている時に、死以外のあらゆるものに対して備えをしていた。今、私は死なねばならぬ。そして、まだ何の備えもない」。

私達は車に保険をかけます。家にも保険をかけます。しかし、実際、私達が事故を起こす確率や家が水浸しになってしまうという確率はどれくらいなのでしょうか。毎週、事故に遭う人や、毎週、床上浸水している家はありませんでしょう。ですから、その確率は決して高いものではありません。しかし、私達が死ぬ確率は誰がなんといおうと100パーセントです。この100%、私達の身に起こることについて皆さんは何か備えておられますか。

かつて沖永良部という島にいた時に80歳ほどになる女性がおりました。その方は毎晩、眠れないというのです。「なぜ?」と問えば、自分の葬儀には誰が来てくれるのだろうか、その時にはこの家では狭いのではないかと思うと、眠れないというのです。「そんなこと心配しなくて大丈夫、その時におばあちゃんは、そこにいないんだから」と話しましても、彼女の不安は消えないのです。その時に思いました。死ぬことの恐れと心配は尽きることがないのだと。

彼女は自分の葬儀について心配していました。しかし、多くの方達はこの備えを予めしています。墓は既に購入している、火葬の手続きも済ませているという方は大勢います。「終活」という言葉は日本ですっかりと定着しましたでしょう。

しかし、先のボルジャが言っていることは、このような葬儀や埋葬の備えではないのです。ボルジャが言っているのは私達の「心の備え」です。

死に対する心備えとは何か。それは「死とは何か」ということを知ることです。私達が死ぬ時、自分はどうなるのだろうかということを知り、死を心にしかと受け止めることです。

聖書の中には不思議な言葉があります。伝道の書の3章11節、「神はまた人の心に永遠の思いを与えられた」、「He has also set eternity in the hearts of men」

昼下がりに気持ちよさそうに欠伸をしている犬がいます。彼らはその時、永遠について考えているでしょうか。庭にやってくる鳥達は永遠を賛美しているのでしょうか。いいえ、ここには神は「人の心に」永遠の思いを与えられたのであって、他の諸々の動物にもとは書かれていません。

私達は明日のこと、来年のこと、30年後のことを思い、想像し、そして必要とあればそのために色々な備えをします。なぜ?なぜなら、その日は先のことではありますが、一応、カレンダー上に存在する日程だからです。

今晩の夕食のことを考える、3年後のアニバーサリーについて考える、それなら分かります。なぜなら、これらはカレンダー上にある日だからです。私達は100年後の今日が何曜日なのかということも知ることができるのです。

しかし、「永遠」とはこのカレンダーには含まれていないものです。しかし、なんと神はその時間枠を超えた「時」に思いを寄せるように我々人間を作られたというのです。英語聖書によりますと、God set eternity in the heartsと書かれています。

すなわち神はそのような思いを予め私達の心にセットされた、組み込まれたのです。これは私達の心には、これらのことを思う思いがあらかじめクリエイターによってインストールされているということなのです。

私は犬やハムスターの気持ちを思いはかることができませんが、確かなことは、彼らの仲間が死ぬ時「また会おう。あちらで待っていておくれ」とは思わないでしょう。

しかし、普段、神などはいないと言っている人でも、その時が来たら心に思うのです。口に出してこう言うのです「お父さん、私達を見守っていてね、天国で待っていてね」。この言葉は明らかに私達の生きている世界とは異なる時間を超えた世界のことについて言っているのです。なぜ、人はこんなことが口から出てくるのですか?神は人の心に永遠の思いをセットされたからなのです。

主にある皆さん、はたして神は私達に「永遠」と呼ばれる、実在しないことを夢物語のように思いめぐらすようにと、一時の慰めを得るために、それを思う思いを私達の心にセットされたのでしょうか。

パウロという人がいます。彼はかつてキリスト教を迫害していた人でありますが、その後、劇的な回心をした人です。以後、それこそ命をかけてキリストを伝えた人であり、実際その信仰によって殉教していくのですが、彼はキリストの死とその復活について第一コリント15章14節においてこう書き残しているのです「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(第一コリント15章14節)

大胆、かつ断言的なこの言葉は図々しくも聞こえますが、私も強くこのパウロの言葉に同意するのです。本当にそう思うのです。

私達の心に神が予め永遠を思う気持ちを与えていてくださり、実際に私達がそのことを思いめぐらし、その永遠に希望を置くのであるなら、こちらの世界と永遠の世界との境目にあたる「死」ということについて、この創造主、神が明確にその説明とその後のことについて何も示してくださらないのであるならば、地団駄踏んで、名指しして「神よ、あなたは無責任だ、私達の心に永遠を思う心をセットしておきながら、そのことに対して私達を放っておかれている。そんなのありか!?あなたはそんな私達を見て笑っているのか。しょせん人はやがては死ぬのだ、その先は分らないのだ、こんな虚しい人生、やっていられるか」と大いに反発していいと思います。

世には多くの宗教や哲学、また心に残る言葉なるものがありますが、この死ということについて本当に明確な答えを示していないのであるならば、それは虚しいものです。

例えば「死とは諦めること」だというような曖昧で、曖昧であるが故に一見、何かそこに深い真理があるのではないかと思わせるような言葉だとか(でも、実際は諦めるとは文字通り、「諦める」ということで、それはただ単に「どうしようもないことなのだよ」と言っているだけです)、「たとえ明日、世界が終わっても、私は今日、リンゴの種をまくであろう」というような類の言葉によって「あぁ、いいなぁー、素敵な言葉だなー」と思うかもしれませんが、私達の愛する者が実際に死を前にした時に、この言葉に力はありません。

ましてや「死」に触れることなく、この現世の「豊かさ」や「病からの癒し」だけを売りにしているものは、もはやそれは宗教ではなく、それはどうしたら「金持ちになれるのか、病気にならずに済むのか」ということを語る世の諸々のセミナーと何ら変わりないのです。

聖書は果たして死について何と言っているのでしょうか。聖書は死について伝道の書12章7節において「ちり(死によって分解が始まった肉体のこと)はもとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」と記しています。

すなわち、これは私達の肉体は神が地の土から造られたように、その機能が止まれば、土に帰るということです。そして、その霊はこれも土に帰るというのではなくて、その霊は神に帰るというのです。そう、これは私達が永遠なる世界に行くということなのです。

私達がイエス・キリストの生涯を見ます時に、あることに気がつかされていきます。このお方には人知を超えた力があり、語られる言葉には人を生かす力がありました。

もし、イエス・キリストが現在、アメリカにおりましたら、人々はイエスをアメリカ合衆国の大統領に推すことでしょう。しかし、このお方はたとえ全ての国民が彼を支持したとしても、選挙への出馬はしないことでしょう。

実際イエス様が生きていた時代、彼の弟子を初め、多くの民衆の心にあったのはイエス様が彼らのリーダーとして立ちあがってくれることでした。しかし、待てども暮らせども、イエス様がそれらのことに関心を寄せることは全くありませんでした。

民衆の間では熱狂的な支持があり、その機運が高まったと思えたような時に、イエス様はその機運に乗ることを避けるかのように、ひとり寂しい場所に退かれたのです。なぜでしょうか?

イエス様がその心に思い描いていた事は、私達が考えていることとは全く違ったのです。 預言者イザヤが記しているように「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55章9節)のです。

すなわち、イエス様は私達に整った政治体制や豊かな経済を提供すべく、この世界に来られたのではなく、私達が神から与えられた生を神と共に生きるために、そして、もう一つ、イエス様にとりましてとても大切なことがあったのです。

そう、それは私達の「死」という問題でした。この問題に真の希望を与えない限り、どんなに私達の生きる環境が整い、豊かになっても、決して私達の心に本当の平安と喜びは生まれることがないということをイエス様は知っておられたのです。

故にイエス様の生涯の最後は一国の王や大富豪や無敵の軍人として終わったのではなく、カルバリの丘に建てられた十字架の上で終わったのです。そして、聖書はその十字架において死なれたイエスが、その三日後に復活したと言っているのです。イエス様は十字架にかかる前に、既にご自身が歩む道を知っておられ、弟子達にこのような言葉を残していたのです。

わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11章25節-26節)

どんなキャスケットに身を置くか、どんな骨壺に入れてもらうか、どんな墓に安置されるのか、否、海に灰を撒いてもらいたいのか、このようなことは生前、自らが決めて備えておくことができます。しかし、これらのものよりもさらに、さらに、さらに大切なことは、あなたが死んだ時、あなたはどこに行くのかということです。

イエス・キリストは聖書の中で言われています。ヨハネ14章1節‐3節、1「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。

イエスが王にもならず、政治家にもならず、将軍にもならなかったのは、私達が行くその場所を用意するためでした。今日の米国大統領候補者は医療保険や移民政策のことを公約にはいれます。私達のコミュニティーに新しい共同墓地を作るということなら公約できるでしょう。

しかし、「私達が死んだ後に行く先について」公約することができる政治家はいません。このことを公約できる人間はこの世界には誰一人いないのです。しかし、イエス・キリストはこの公約を私達にしているのです。

主にある皆さん、これはとてつもない約束だと思いませんか。キリストは「あなたの人生の最後は大丈夫だ」と太鼓判を押してくださっているのです。そして、そのことを知った時に、私達はどうなるのでしょうか。

私達はその時、「今」と向き合うことができるのです。この世で見聞きする全てのことについて、その最期に希望を置いて向き合うことができるのです。そうです、それはすなわち私達に約束されている最後を知ることにより、私達が与えられている「今」を、本当にフルに生きることができるということなのです。そう、私達は最後を心配することなく、私達に与えられているこの一度の人生を思いきり生きていいのだという神様からのお墨付きをいただいているのですから。

かつて40年も昔、日本ホーリネス教団に松村悦夫という牧師がいました。松村先生は教団委員長という重責を務めていらっしゃる時に倒れられ、天に召されました。当時、私はまだ小学生だったかと思います。よくこの先生に会うと頭に手を置いて祈ってくださいました。

まだ幼かった私は事の詳細を知るすべもありませんでしたが、先生は寝かされて救急隊員によって救急車で運ばれていく時に、天を指差してオーケーと微笑まれたということを後に聞きました。そして、その後、間もなく松村先生は天に凱旋されたのです。当時、先生はまだ50代ではなかったかと思います。

私は先生の生涯を皆さんにお話しすることによって、先生を何か信仰の勇者として美談しようとは思っていません(松村先生もそう願っているでしょう)。しかし、これが自分の最後だと思われた時に天を指さして、微笑むことができる先生の生きざまに惹かれるのです。そう、先生が指さされた場所こそが、私達が本来あるべき場所なのです。そここそが「永遠」と呼ぶことができる場所なのです。

主にある皆さん、これが聖書が私達に約束していることなのです。神は私達の心に永遠を思う思いを与えて下さいました。そして、ただその思いを与えるだけ与えておいて、神は私達を放っておくことはないのです。イエス・キリストは私達の初穂として、永遠の命の扉を開いてくださったのです。

日本へ飛び立つ家族を空港から見送りしたとしましょう。私達、見送る者は彼らがセキュレティーチェックを通過していく所まで彼らの姿を見ることができます。しかし、その後、彼らがゲートに向かって歩き出すと彼らの姿は私達の視界から消えます。

しかし、私達の視界から消えてしまった彼らはこの地上からいなくなってしまったということではありません。彼らはその後、飛行機に乗り、空高く羽ばたき、何時間か後に遥か彼方の異国に着き、あちらでの日々を過ごします。私達は互いに目には見えませんし、手を取り合うことはできませんが、その存在を知り、その心は結ばれ、再会の日を待ち望みます。

私達が迎える死も同じようなものです。私達よりも先に主のもとに行かれた者達は主イエスが備えたもう場所で永遠の中に今もあるのです。そして、私達も主が備えたもう日に彼らに加えられるのです。実に神は私達の心に永遠を思う思いをお与えになり、主イエス・キリストにあって、それが戯言ではない、夢物語ではないということを明らかにしてくださったのです。

いつの時代にも私達の心からぬぐいきれない「死」。この死について語られている聖書の確かな約束の言葉。この言葉を知れば知るほど、私達の現在の生には深みが増します。キリストにあって、私達の地上最後の日が私達の人生のハイライトなのです。そこから逆算して今を生きる時に、そこから生きることの喜びと楽しみが生まれるのです。

このような驚くべき世界を私達のために備えてくださいました主に全ての栄光を帰します!Every Praise belongs to God! お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり                            2021年7月11日

1)あなたはこれまでの6回の「人生観の確立メッセージシリーズ」により、人生に対する新しい観方が与えられましたか。私達が自分の人生をどのように観ているのかということは、なぜ大切なことなのですか。

 

2)「死」ということについてあなたはかつてどんな思いを抱いていましたか。今、あなたは「死ぬ」ことをどう受け止めていますか。「死」に向き合い、「死」とは何かということを知ることはなぜ、今を生きるために必要なのですか。

 

3)「神はまた人の心に永遠の思いを与えられた」(伝道の書の3章11節)とあるように、あなたはいつ、どんな時に「永遠」について思いますか。無神論者であっても死に直面する時に祈ります。このことは何を意味しますか。

 

4)パウロはキリストの死とその復活について「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(第一コリント15章14節)と言いました。なぜキリストがよみがえらなかったら、私達の宣教も信仰もむなしいのでしょうか。

 

5)「塵はもとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12章7節)と聖書は記しています。このことは私達の肉体と霊について何を語っていますか。私達の暮らしの中で肉体と霊をバランスよくケアーすることはなぜ大切ですか。

 

6)ヨハネ11章25節-26節、14章1節‐3節のイエス様の約束の言葉に生きることは今の私達にどんな影響をもたらしますか。死んだ後の行き先を知っていること、そして実際にそこに行くということ、そちらこそが私達のメインであるという事実は私達にどんな人生観を与えますか。

 

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