日本語では神は神。でも英語圏ではGodとgodsは区別されます。Godとは唯一の神。godsとは神々のこと。
ポテトチップには色々なフレイバーがあってもいいし、その時の気分で塩味やらバーベキュー味を選んでもいいでしょう。でも「God」か「gods」かということは「好み」や「情緒」や「都合」で決まるものではないと思うのですがいかがなもんでしょーか。
マック
今日の礼拝メッセージです。
よかったらどうぞ!
godsなのか、それともGodなのか。
使徒行伝17章16節‐31節
私達は「あなたはどう観ていますか」というテーマのもと礼拝メッセージを進めています。そして、今日は神観というものを皆さんと一緒に見ていきたいと願っているのであります。一口に神観と言っても、その幅はとても広いものです。一つ、興味深いお話をしましょう。1998年、日本のあるプロ野球チームが日本一になった時、その優勝の立役者であったピッチャーのフォークボールの握りをした金色の手の像をご神体とした神社が地元の駅にでき、当時、連日一万人以上がこの手に手を合わせ最終的には約5ヶ月で延べ170万人が参拝したといいます。
しかし翌年1月、多くのファンに惜しまれながらこの神社は撤収されました。その後、この選手の活躍は続きますがある年、度重なる怪我に悩まされ不運が続いたことで、関係者は占い師に相談しました。すると「あのご神体が影響している。本人できちんと管理すべきです」と思わぬ助言を受けたといいます。「あれは単なるブロンズ像ではなく、その投手の右手の分身。不思議な力が宿っていると思う」と当時のこの神社関係者は話したといいます。そして、このご神体は現在、東北にあるお寺に祭られているということです。
それにしても、170万人の人が足を止めて参拝しているということや、この投手の不調をこの「手の像」のせいにしているところなど、そのようなことは日本ではよく見聞きすることです。かたや他の国ではアラーという神の名の元に体に爆弾をくくりつけて自害する人もいるのですから、一口に神観といっても色々あるのです。
今日はバイブルが語っている神観というものを皆さんと共に観て生きたいと思います。これは神論という神学の分野のことですので、細かくお話しますと数日を要することなのですが、このタイトルに許されている時間はこの一回のメッセージですので、シンプルに3つのことをお話します。まず、最初に「神は霊なるお方」であるということについてお話します。
神は霊なるお方
一月ほど前に礼拝である神社にあったご神体ということについてお話しました。何百年来も人々に恐れ拝まれてきた開かずの箱の中にあった御神体の正体はねずみのかじった木屑であったという話です。とても反響がありまして、色々な方からのご意見をいただきました。その話は一言で言いますならば「神は人間の作った物の中に収まる方なのか、否か」ということです。
先ほどの神社の話ですが、そのご神体は期限が来ましたから撤収されたのです。その具体的な理由は分かりませんが、もしかしたら、その神社の後に何か売店ができるということで、どいてくれ」ということだったのかもしれません。売店に場所を譲る神。どこか人間の脇にいて、人間の都合でどうにもなるのが日本の神々・・・。神様は私達に理性というものを与えてくださいました。これは他の動物にはないものです。この理性というものは、このようなことに対して、冷静に使われるべきものではないでしょうか。
このことに対してメッセージを語ったキリストの使徒パウロという人がいます。彼は紀元50年から52年頃にギリシアのアテネを訪ねています。その時の様子について書かれていたのが先ほど読んだ使徒行伝の言葉なのです。ギリシアと言えば、ギリシア神話であり、その神話にはざっと数えて50以上もの神々がいます。その中には雷を司るゼウスや、夜の神ニュクスや、恋心と性愛を司るエロースというような神々がいます。パウロはそれらの神々のみならず、それこそ人が考えつくありとあらゆる神々が石や木に彫られて、アテネの町を埋め尽くしているのを見ました。果てには、彼がアテネの街中を歩いてみれば「知られない神に」という祭壇までも見たというのです。つまり、当時のアテネ市民が忘れてしまっている、人に知られていない神もいることだろうからと人々はそんな神々のためにも祭壇を作ったというのです。
パウロはそんなアテネの街中でイエス・キリストについて語ったのです。アテネといえば、当時、世界最高の学問の町。人々はこのパウロという男が語っていることに好奇心をいだき、アレオパゴスという評議場に連れて行き彼に話す機会を与えたというのです。今日、読んだパウロの言葉はそのアレオパゴスで彼が語った言葉です。
3年前にギリシア旅行に行きました。私達はこのパウロの伝道旅行の旅路を旅行したのですが、私にとって一つのクライマックスはこのパウロも立ったというアレオパゴスの岩の上に立ったことでした。そこは大きな一枚岩のような高い場所になっていまして、その岩壁にはこの使徒行伝の言葉がギリシア語で彫られていました。
そこに立った時に私は愕然としたのです。聖書を読むだけでは分からない事実に気がついたのです。そのパウロが立ったアレオパゴスの丘に立った時に、まず目に飛び込んでくるのがあの今日、世界遺産となっている壮大なパルテノン神殿だったのです。そして、その彼の背後にはアテネの街が眼下に広がっていたのです。そうです、パウロが幾百もの偶像を見つけたあの街です。その岩の上でパウロは叫んだのです。
「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。23実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。24この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。25また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、26また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。27こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。28われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。
世界広しと言えどもパウロがこの言葉を語るのに当時、この地以外にないというのがこのアテネだったのです。パルテノン神殿はアテナという女神を祭っている神殿です。パウロがアレオパゴスに立った時にこのパルテノン神殿はもうそこに建っていました。彼はその神殿を指差すように、そしてアテネの街を見下ろしてこの言葉は語られたのです。
私達が訪ねた時、それはオリンピックを翌年にひかえた年だったという理由もあったのでしょうか、このパルテノン神殿は大規模な修復工事がなされていました。女神を奉納している大理石の巨大な柱は人間の手によって床に倒され、今日の工事車両がクレーンでそれらを持ち上げたり、下ろしたりしていたのです。言うまでもない、これら修復作業をしているのは「修復作業の神」ではなく人間なのです。主にある兄弟姉妹、もう一度パウロの言葉を申し上げます。
この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。
主にある兄弟姉妹、私達の信じている神は目には見えませんが、この天地万物を支配されているお方です。実に聖書に書かれているとおり「われわれが神のうちに生き、動き、存在しているのです」(28)
義なるお方
二つ目のこと。それは神は義なるお方であるということです。28節以降を読みましょう。
28われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。29このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。30神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。31神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
パウロはこのところの結論において、こう言っています「神は義をもってこの世界を裁くためその日を定められた」。
聖書は神は義なるお方だといいます。すなわち、それは神は絶対に正しいお方だということです。これは、とても強引な言い方に聞こえるのです。でも「神は本来人間に対して、いかなることもする権威がある」というのが神の姿です。今までお話してきたように「人間が神に対して、いかなることもする権威がある」ということとは全く逆なのです。人間がその神の住む神殿を設計して造ってあげて、必要とあらば、別のところにその神殿を移してあげましょうということではないのです。全ての主導権は人間の手にはなくあちらにある、そのような存在を聖書は神と呼びます。
聖書に記されているヨブという人はその全ての財産と愛する家族を失った時に言いました、「主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな」。これは普通、言えない物凄い言葉なのですが、でも本来の神というものを考える時に、彼はきわめて正しいことを言っているのです。すなわち神が自分にも子供にも命を与えて下さり、それのみならず神が自分の財産を豊かに祝福して下さったのだから、神がそれらを取ったとしても本当は私達には何も言う資格はない。「主が与え、主が取られたのだから」ということです。
この全ての主導権を握っておられるお方が義だというのです。そして、パウロは「神は義をもってこの世界を裁くためその日を定められた」と言ったのです。聖書は言います「義人はいない、一人もいない」。人間が人間を完全に裁くことはできません。本当に人間を完全に公平に裁けるのは神だけなのですと。
皆さん、このことはなんと私達の理性にピンとくるでしょうか。そうです、神という存在がいるなら、その存在は絶対的に正しいお方であるべきだと私達の理性は私達に語りかけてこないでしょうか。そして、義であるということは、その義というものは常に変わらないということです。義であるゆえに悪に対してはそれを何一つ見逃さずに、裁きがなされるというのがこの神なのです。時と場合によって気分によって義が変わってしまう、それは人間の姿ですが、神の義は完全に悪を裁くというのです。
多くの人にとって、この神観は理解できると思います。神はいつも私達を見ておられる、その前に私達は何一つ隠すことなどできないということを多くの私達は知っています。人によっては、この神の義の裁きによって罰せられるということを恐れています。まことに神は義しいお方なのです。
しかし、聖書はもう一つ、私達の意表をつくようなことを言っています。すなわち、神は義なるお方であると共に「愛なるお方」であるということです。
愛なるお方 「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
神は義なるお方、その「義をもって、世界を裁く日を定めている」という。しかし、その後にこう書かれています「お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
この義の裁きは神が選ばれた方によってそれを成し遂げようとされている。この方は死人の中から甦られた方だ、そのことによって全ての人に確証を与えられたのだとパウロは書いているのです。
この方とは誰か。イエス・キリストです。
神の義は容赦なく私達の日々の出来事をバサバサと裁いているのではないというのです。神と私達の間にキリストがいるというのです。本来なら、私達は神の前に裁かれるべき者です。これは、「私は獄屋に入ったこともなく、皆がいい人だと言ってくれてますから私は裁かれる理由はありません」というようなことではないのです。私達が取り繕っている外面だけを言っているのではないのです。神は私達の心の奥底、その心にある私達の思いや動機まで見つめられているのです。何人もこの神の前に自分の義を主張できる人はいません。
しかし、そんな私達のために神はキリストを立てられたというのです。これは逃れることなどできない死罪に当たるような人間に対して、裁判官の側から確定無罪になる方法を提示してくださったということです。
そして、それは神の一人子イエスを十字架にかけることによってなされたのです。
神は義なるお方ですから、それをナァナァにすることなど決してできないのです。罪に対してはやはり正当な裁きが下されなければならないのです。でも、それではこの裁きを免れる人間などこの世界には誰もいないのです。
だから、何も罪のない、汚れのないイエス・キリストが私達の罪の身代わりとなられて十字架にかかられたのです。「そのイエスの十字架とは、実は私達がかかるべきものであったものが、イエスが私達のために十字架にかかってくださった、イエス様、ありがとうございます。私はあなたの前に私の罪を悔い改めます」と心から祈るならば、あなたは神の前に完全に義とされるというのが聖書の約束していることなのです。
裁判官が確定的に死罪にあたる被告を無罪として赦そうと努めること、こんなことは法治国家ではありません。しかし、驚くなかれ、神はまさしくその考えられないことをなさったのです。その方法としてご自身の愛する一人子の命を私達のために捧げられたのです。
神は義なり、そして神は愛なり。世界を見回せば金粉で包まれた神々はいくらでもいます。人々の恐れの対象になっているような神々は多くいます。人間の欲望のために都合よく担ぎ出されている神々の数は数えきれません。
しかし、世界どこを見回しても、あなたの罪を一身に背負い、ご自身が人のために十字架にかかられたという神はいません。愛というものを、何をその相手に与えることができるのかということで計るとするならば、神はその一人子を私達に与えるほどにこの世を愛してくださったのです。
今日、お話しましたことは多くの日本人の方々にとって「何をかたいことを言っているの」「そんな難しいこと考えないで、今が楽しけりゃいいじゃない」「いいじゃない、もっとなぁなぁで」という風にとられるかもしれません。しかし、今日の世界を見て下さい。私達の身の回りをよくよく眺めて下さい。何が今日の世界の問題なのでしょうか。何が私達の個人的な問題なのでしょうか。その問題は今日お話した3つのことに集約されるのをご存知でしょうか?
私達にとって、目に見える神々とは色々なものに形を変えます。どんなものでしょうか、それは時に物であり、金銭であり、それらのものが私達の人生をコントロールするのであるならば、それは崇拝の対象です。そして、これらの物が私達の心や人と人との関係を次々と壊していく様を私達は目の当たりにしています。
そして今日の世界、私達は何が本当に正しいのかということ、すなわち義の基準なき時代を生きています。「あなたがよければ、いいじゃない」という世界は私達の道徳や倫理を完全に骨抜きにしています。「弱い者をいじめて何が悪い」「人を刺して何が悪い」。私達に必要なものは決して動かない義の基準です。
そして、最後に一番の問題。それは、私達の愛が冷め切っている。愛という言葉は今日、自己愛という仮面をかぶって闊歩しています。作家、有島武郎(ありしまたけお)は「愛は惜しみなく奪い合う」と言いました。このことが新聞の見出しになることはありませんが、民族を超えて私達が抱える諸々の問題の根源はここにあるのではないでしょうか。「愛しているわ、愛しているよ」といいながら、その心の底では互いに愛を惜しみなく奪い合っている。そこが破れていくは当然です。
聖書はあなたを宗教家になれとは言っていません。禁欲主義者になれとはいっていません。神は目に見えて、手に取ることはできないけれど、その生涯、片時もあなたと離れずに、あなたと共にいるということ、そして、私は「惜しみなく私自身をあなたに与えたよ」というキリストの愛に包まれて、神の義の内を生きて行くのです。このことを人生の土台として生きていってごらん。人間を造ったのは私、故に本当の人の幸いを知っているのは私なのだからとこのお方は私達に語りかけているのです。
お祈りしましょう。