彼がいる限り

バプテスマのヨハネという人がいた。

彼はイエスの親戚であり、イエスがその働きを公にする前から荒野でイエスのためにその道備えをしていた人だ。彼は世と断絶しらくだの毛衣に皮の帯を締め、いなごと野蜜を常食としていた。

ヨハネは話を聞きにくる人達に対して、いつも一人のお方、すなわちイエスについて語った。「あなたはどなたですか」と問われると「私はキリストではない。わたしはその人の前にかがんで靴のひもを解く値打ちもない」と答え、自らを「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」にすぎないと告げた。人々はぞくぞくと彼のもとに行き罪を告白し、彼からバプテスマを受けた。

やがてイエスの名声が巷で聞かれるようになり、そのことを聞くとヨハネは喜んで言った「この喜びは私に満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える

後に彼は領主ヘロデによって捕えられ、獄に投じられる。ある日、ヘロデの誕生日の祝いの席で、彼は自身の前で舞を踊った少女に対して、酒によって気持ちが大きくなったのだろう、どんな願いでもかなえると言い放った。

この少女はすぐさま母に相談し、彼女にそそのかされてこうヘロデに願った。「バプテスマのヨハネの首を盆を載せて、ここに持ってきてください」。ヘロデは列座の者達の前で誓ったゆえ、彼女達の願いを聞き、ヨハネの首はすぐさまはねられ、盆に載せられてこの親子のもとに運ばれた・・・。

ヨハネはあらゆる世の楽しみから自ら距離を置き、荒野で一人、神に仕えたのだ。その人生の目的は明確で、ただイエス・キリストの道備えをするために彼はその生き方を選んだのだ。私は世俗牧師だから、彼もイエスの活躍を見届けたら、荒野から出てきて、街で幸せな家庭でも築いて、その残りの生涯を送ってほしいと願う。それまでの人生、全てを神に捧げて生きてきたのだから、そのような晩年を過ごすことに誰が反対しよう。

でも、彼の生涯は一人寂しく獄中の中で閉じられた。仲間が一人もいない獄屋で、突然、どやどやと入ってきた酒臭い男達に取り囲まれ、有無も言わされず首がはねられた。しかも、その原因は愚かな親子の願いと自分の面子を保とうという醜い人間によるものだった。そんなことで、このヨハネの人生が終わってもいいのだろうかと私は思う。

しかし、イエスは彼の生涯をしてこう言っている「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない」。

生きている限り、信仰の有無を問わず、人生には色々なことが起こる。牧師である自分の信仰が揺さぶられるようなこともあるだろう。しかし、その時にどん底へと続く道の行く手には彼がいる。イエスをして、女の産んだ者の中で、彼より大きい人物はいないと言わしめたこのヨハネが・・・。彼がいる限り・・・

いかなる時もSoli Deo Gloria!

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