早いもので「世俗牧師宣言」を始めて2年がたちました。このタイトルを決めた時に容易に予想できることが一つありました。それは、多くの牧師やクリスチャンと呼ばれる方々にはあまり良く思われないだろうーなということです。なぜなら「世俗」という言葉は私達の「信仰生活」において極力、締め出さなければならないものなのだという考えがあるからです。
しかし、反面、このタイトルをつけたことには理由がありました。それは、私達クリスチャンが世の中とは全然かけ離れた言葉を用いているのみならず、あたかも世と遊離しているように生きているのではないかということを、いつも感じていたからです・・・。

マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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「白い巨塔」というドラマがありました。そのドラマには医療ミスにより亡くなられた夫、父の無念を思い、大学病院に対して訴訟を起した親子が出てきます。彼らは若い弁護士と共に裁判に備えて戦うのです。そんな彼らが弁護士事務所で次の裁判のために準備をしていた時に、この親子が自分達には検事や弁護士が医療や裁判の専門用語ばかりを話していた何を言っているのか分からないというようなことを洩らすのです。それを聞いたこの弁護士、はたと我にかえります。本来、この家族こそが裁判の主役なのに、彼らには通じない言葉で裁判は続けられている・・・。
「福音伝道」という私達に課せられた使命。私達も含め、私達の周りには日常生活の中に起こる、様々な問題や悩みに傷つき倒れている人達がいます。聖書は素晴らしい書物に違いないと分かっていても、神学的な専門用語や牧師や長年の信者にしか分からない関心や言葉が語られていて何を言っているのか分からないということがないでしょうか。聖書の言葉と自分が今、生きている生活の現場とは何の繋がりもないような抽象的な言葉だけが並び、本来、聖書の言葉はこれらの人達に語られるのに、その言葉は世の上空をフワフワと飛んでいく、イエスを信じているということと日常生活とが全くかけ離れているということがないでしょうか。
今日はこれらの現実を思いながら3つの事実を皆さんにお話したいのです。①イエスは世のただ中に送られた②イエスは世のただ中で生きた③イエスは世に染まらず、その只中で喜ぶことを勧めた。
①イエスは世のただ中に送られた。
今日、出産を控えている親達は我が子を産む場所というものに細心の注意を払います。当然です、そこが不潔な場所であったり、家から遠かったり、医者はどんな人なのかとか、色々なことを私達はチェックします。不衛生な場所で、家から200マイル離れた場所で、もぐりの医者のもと出産しようという親はいません。
私達はあと3ヶ月するとクリスマスを迎えます。この日は私達にとって特別な日なのです。ガッツ石松さんは「クリスマスは七面鳥の誕生日」だと言ったそうですが、そうではなく、その日に神の子、イエス・キリストがこの地に産声をあげた日だからです。
そして、その誕生はこの地上の特別な場所で起きたかというと、そうではなく、ある意味、普通の人でもその場所を出産の場とは選ばないというような馬小屋でイエスは生まれたのです。この日こそ、イエスがこの世界に、別の言い方をするならば俗世界にイエスがその一歩を踏み出した時なのです。
曽野綾子さんがこんな言葉を書いています「神の手さえも働く時は汚れるのです。というか汚れていなければ実際には働けんのです」。
私達は手を汚すことなく畑を耕すことはできません。汗をかかなければ、大きな仕事を成し遂げることはできません。神は天上はるか上から、地上を余すところ眺めて「おーい、そっち行くなよー」とか「そういう生き方じゃ、だめだよー」とは言わなかったのです。イエスはこの地上に足跡を残されたのです。
よく言われることですが蟻の譬がありますね。私も数ヶ月前、蟻を飼いました。小さなケースに蟻を入れて、彼らが穴を掘っていくのを観察するのです。時にケースの外から眺めていると、そちらに向かって掘っても行き止まりという方向に蟻達は穴を掘るのです。そこで、外にいる私が「そっちは行っても無駄だ」とどんなに叫んでも、ドラを叩いても、笛を吹いても、彼らはそちらに穴を掘り続けます。唯一、彼らにそのことを伝えるには、そのケースの外側から手を汚さずに叫んでいても、その心は通じないのです。
イエスはこの世俗の世界のただ中にお生まれになりました。しかも、普通の人間ですら、その場を出産の場としないような場所で生まれることをよしとされました。時々、聞かれる方がいるのです。イエスがその教えをされるのであるならば、その年、30歳ぐらいの成年男子としてこの地に姿をあらわせばよかったではないか。
そうでしょうか。確かにそれは効率的かもしれません。しかし、イエスは自らが持ち合わせているその永遠性を限りのある小さな赤子の肉体に収めることをよしとしたのです。そして、その成長の過程で自分の家庭や地域社会で起きてくる事がらを全てその眼に焼き付けたのです。
「誰でも幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(ルカ18:17)という言葉がありますが、これは幼子として生きることを良しとされたイエスから語られた言葉ゆえに、そこに力があるのです。
父なる神とイエスの姿について聖書の本質を語っている有名なヨハネ3章16節の言葉があります。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」
神はこの世を愛された。故にそのひとり子をこの世界に与えられた。私達の愛というものが、時にどれだけのものをその相手に与えることができるのかということで計ることができるとしたら、神は最も大切なものを私達に下さったということになるのです。
②イエスは世のただ中で生きた。
二つめのことを見ましょう。それは「イエスは世のただ中を生きた」ということです。イエスが世に生まれた。それでは、その後はイエスはどのような生活を送られたのだろう。誕生後、すぐに何か特別な生活を送られたのだろうか。世俗とは隔離された荒野にポツンとある修道院のような所で時を過ごされたのだろうか。イエスの目に街角で起きるケンカや、袖の下でなされる賄賂や、遊女達が立ち並ぶ裏通りの光景とは無縁だったのだろうか。
いいえ、イエスは世のただ中に生きられた。イエスが語られたたとえ話は普通の人達の日常の出来事で満ちており、それはイエスが実生活の中で実際に見てきたことに違いありません。物を貸し借りする人達の譬、親子関係がうまく行かず子供は親の財産をもって家を出て行く譬、自分の上司や主人を痛みつけようとしている労働者の譬などなど。
そして、今日「友が類を呼ぶ」などという諺を警告として我が子にシャウトしている私達にとっては驚くべきことなのですが、イエスは当時、普通の市民達なら眉を潜めるような人達との交友関係をもっていた。今日、政治家達が暴力団関係者と食事をしたというようなニュースが時々流れるが、この類の出来事はイエスの日常であった。すなわち、イエスは世俗から自らを隔離するのではなく、その世俗のどまん中で神の愛を説き、そしてそれに生きたのだ。
そのことを裏付ける出来事がルカ5章27節‐32節に書かれています。
そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。
イエスはこの時、町の人々が見て眉を潜める人達の中で食事をしていたのです。ですからこの光景を見た人達は思わず尋ねたのです「どうしてあなたがたは、取税人や罪人と飲食を共にするのか」。イエスは応えました。「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。
イエスは世の中で生まれ、そこから隔離することなく、そのただ中を生きられたのです。世と隔離して生きたのではありません。皆さん、私達の信じているものが、ただ抽象的な言葉だけで終わってはなりません。聖書の言葉は私達の生活のただ中、それがキッチンであっても、オフィスであっても介入してくるのです。
夫婦の関係に問題を抱えている方がいるでしょう、長い間、互いに会話がないという方がいるかもしれません。思春期の子供と向き合っている方々がいるでしょう。病の床に伏している家族を看病しているという人がいるでしょう。職場での業績と人間関係に心が擦り切れているという方いるでしょう。主はそんなあなたと共におられます。
神様は天から私達を見下ろして「がんばれ」と言っているのではないのです。私達の生活のただ中に神様はいるのです。そして、この聖書の言葉は確かに、私達が今日を生きるための指南書なのです。
③イエスは世に染まらなかった。
3つ目、イエスは世俗のただ中に生まれました。そして、世俗のただ中を生きました。しかし、その世俗のただ中で、その世俗に染まらずに生きました。
ヨハネ1:29にはこう書かれています。「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。 ヨハネはここで「見よ、世から取り除かれている神の小羊」とは言わなかったのです。「世の罪を取り除く神の小羊」と言われたのです。そして、世の罪を取り除くためにイエスは世に止まる必要があったのです。
皆さん、世の力というものはとてつもなく大きいのです。誘惑がうごめいているのです。どうしたらこれらの力に打ち勝つことができるのでしょうか。あの日光にあるお猿さんよろしく、見ざる、聞かざる、言わざるという姿勢を一貫すべきでしょうか。
確かにそれも一つあります。誘惑に会う時に私達は簡単にそれに屈してしまうという自分の姿を知り、その誘惑から常に自分の距離を置くことが大切です。その誘惑に負けてしまう可能性のある環境から意識して離れることが大切です。.
しかし、それではあまりにも防御的な受身一方の生き方です。「攻撃が最大の防御」とも言われますが、私達はこの世のものがかすんで見えてしまうほどに、さらに勝ったキリストにある生き方に魅了されていくことこそが、私達のクリスチャン・ライフではないでしょうか。本物のグランド・キャニオンを目の当たりに見た人は、たとえそれが精巧なものであっても、人の手で造ったグランド・キャニオンを見て感動はしません。
ヨハネ17章13節―19節を読んでみましょう。これは、イエスが十字架にかかられる直前に父なる神に祈られた祈りです。 今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。
ここには幾つかのポイントがあります。すなわち「イエスは私達が世から取り去るのではなくて、私達が悪しき者達から守られるように」ということ。そして「イエスは私達をこの世に遣わされた」ということ。そして「世を生きられたイエスがそうであったように、そのイエスの喜びが同じく私達、世を生きる者達のうちに喜びが満ち溢れるため」だというのです。
先ほども言いました。私達が世に染まらずに生きようという時に、私達が直面することは「今日は世の誘惑に負けた、昨日は大丈夫だったのに」というように、毎日、チェック・リストに〇×をつけていくような、勝率を数えていくようなものではないのです。
そうではなく「あなたがたの内に、私の喜びが満ちるように」というイエスの喜びに魅了されていくのが私達の人生なのです。そして、そのイエスが言われた「私の喜び」とは何なのでしょうか?このヨハネ17章の26節がこういっているのです「それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。
すなわち、私達を愛して下さるその神の愛が私達の内にあることにより、私達の内にキリストの喜びが満ち溢れるのです。ただ喜んだのではなく、その喜びが心に満ち溢れてくるのです。
耳にタコができるほど言いますが「私達の人生はたった一度なのです」。そして、その人生をどのように歩むのかを決めるのは、私達自身です。この間もオギマチ先生が言っていました。私達は誰しも拳の中に一枚のコインが与えられている。それをどう使うかは私達一人一人次第なのです。
キリストは世のただ中に生まれました。そして、その世のただ中に生きたのです。しかし、その世の中に同化するのではなくて、その中でさらに優れた道を説かれたのです。
イエスは言われました「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10章10節)。イエスはこの世界でどうしたら最も良く生きることができるか、豊かに生きることができるかを、もう一つの世界から教えに来たのです。
皆さん、よくよく覚えて下さい。クリスチャンは喜びとか楽しみを拒絶して生きるものではないのです。もし、そうなら私達はしかめっつらのままで死後の世界に行くことになるのです。しばしば、私達はあらゆる楽しみを排除することが「霊的」なのではなかろうかと思うことがあるのです。
パウロという人は、ストレートな人です、彼ははこのような人達を「うそつきどもの偽善」と呼びました。すなわち、彼はテモテ第一の手紙4章3節‐5節において「これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり、真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の作られたものである。神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言葉と祈りとによって、きよめられるからである」と言ったのです。
聖書を読んでいく時に、特にイエス・キリストの生涯を見ていく時に明らかなことは、神様は私達が欲望を放棄するために私達を造られたのではないことがわかります。パウロが言っているようにこの世界は神の創造物であり、私達を造った神は人の親がそうであるように、私達に最高のもの、可能な限り満足な喜びのある人生を願っておられるのです。
しかし、それは個人的な快楽に埋没するということではなく(実際、しばしばこれらの快楽には常に虚無という影が伴う)、すなわちこの世にすっかり染まってしまうことではなく、聖書が約束している私達の最良の人生とは私達の人生と神が私達のために備えていてくださる喜びに私達の人生を結びつけていくことなのです。
それが説教の準備であれ、子供の送り迎えであれ、契約書の作成であれ、一日の暮らしの中に神の愛を読み取って、この二つの世界を結びつけることなのです。そこに私達の生活の喜びが生まれてくるのです。そして、そのように生きたのがイエス・キリストであり、イエスはそう生きることの喜びを私達にも与えていて下さるというのが聖書の言うところなのです。
皆さんの中にクリスチャン・ライフというものを誤解している人がいませんか。そんなあなたにもう一度イエス・キリストの言葉を申し上げます。
今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」
お祈りしましょう。
世俗だから真実なんだと思う。信仰の環境がないところで信仰するのって大変だろうし、なんか 言葉にすると軽くなっちゃうな・・・大変とかそういうことじゃなくて・・・
さんぼ
コメントをありがとう!確かに世俗のただ中で生きていなければ、信仰をもつ理由がないね。大切なインサイトをありがとう。