歩くべき道を知っていますか? 

1968年4月3日の晩、マーティンルーサーキング牧師はテネシー州、メンフィスの教会において、こんなメッセージを群集に向かい語りかけました。

こうして私はメンフィスにやってきた。ある人々は脅迫のことを話し始めていた。それは撒き散らされていた脅迫のことである・・・。

今私に何が起ろうとしているのかは、私には分からない。ともかく我々の前途は多難である。だがそれはもはや私には問題ではない。なぜなら、私は山の頂きに登ってきたのだから。私は何も心配していない。他の人と同じように、私も長生きはしたい。長生きにはそれなりの意味がある。しかしそのことも私は今、気にしていない。私はただ神のみ心を行いたいだけである。

神は私が山に登るのをお許しになった。私は周囲を望み見た。そして私は約束の地を見た。私はあなたがたと共に、そこには行けないかもしれない。だが今晩、私はあなたがたに知って欲しい。それは我々は一つの民として、約束の地に至るということである。だから私は今晩、幸せである。私は何も心配していない。また誰も恐れてはいない。私の目が主の来臨の栄光を見たのだから。

My eyes have seen the glory of the coming of the Lord.

翌4月4日、マーティンルーサーキングはメンフィスのローレイン・モーテルにて銃弾に倒れました。その年39歳でした。

彼の生涯は今日、お話した神の道を歩いてきた生涯でした。その最後の時、自らの命が危険にさらされながらも、彼はもう一つの世界を見ておりました。その世界は、目の前で自分の命を狙う者達がいるという情報を伝えにくる警察官の緊張に満ちた顔だけの世界ではなく、キング牧師はそのような状況の中、主イエス・キリストの来臨の栄光を見ていたというのです。故に彼は恐怖に支配されてもおかしくない夜に、「だから私は今晩、幸せである」と言ったのです。

皆さん、こんな人生があるのか?「ある!」と聖書は約束しているのです。一つの問いかけをあなたにします。皆さんの歩いている道はどんな道ですか。神が備えたもう、その道を歩みませんか。

Sol Deo Gloria!

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マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。                    よかったらどうぞ!

 

 

歩くべき道を知っていますか?                         詩篇107篇1節-9節                            2009年1月22日

1「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と、2 主にあがなわれた者は言え。主は彼らを悩みからあがない、3 もろもろの国から、東、西、北、南から彼らを集められた。4 彼らは人なき荒野にさまよい、住むべき町にいたる道を見いださなかった。 5 彼らは飢え、またかわき、その魂は彼らのうちに衰えた。 6 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから助け出し、7住むべき町に行き着くまで、まっすぐな道に導かれた。8どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。9主はかわいた魂を満ち足らせ、飢えた魂を良き物で満たされるからである。 

私達は日曜礼拝メッセージシリーズとして「あなた物語」というテーマで毎週、聖書の言葉に心の目を向けています。すなわち、私達自身の物語に聖書に記されている神の物語を重ね合わせることによって、もう一度自分の人生というものを考えてみようではないか、これからの私達の歩みというものを見渡してみようではないかというシリーズです。

 

そこでこれまでその「私達の物語」の始まりである「私達の誕生」について、また私達が生まれてから成長していく過程における「私達の学習」ということについて、過去二週にわたり私達は見てまいりました。そして、今日はもう一度、この物語のある意味、とても大切な前提となります私達が歩いている「道」というものを確認したいと願っております。

 

言うまでもなく道というのは点ではありません。道には方向があり、終点と呼ばれる行き着く場所があります。フリーウエィ5はサンディエゴから北にカナダ国境まで続きます。フリーウエィ8はサンディエゴから東にアリゾナ州、カサグランデ(Casa Grande)まで続くのです。そして、車がはしる道と同じように私達の人生というものも、その道によって向かう方向と行き着く場所というものが異なるということができるのです。そのことを踏まえてまず、今日は「道はいくつもある」ということからお話したいと願っています。

 

道はいくつもある

2 主にあがなわれた者は言え。主は彼らを悩みからあがない、3 もろもろの国から、東、西、北、南から彼らを集められた。 4 彼らは人なき荒野にさまよい、住むべき町にいたる道を見いださなかった。5 彼らは飢え、またかわき、その魂は彼らのうちに衰えた。

私達は生活の中で「これぞ花道」とか「今、私は茨の道を歩んでいます」というような言葉を聞きます。私達が歩く道について、それは歌の歌詞にもなりますし、映画のタイトルにもなります。私達はそれを実際に見ているわけではありませんが、私達の人生には道と呼ばれるものが確かにあります。そして、聖書も確かに私達は道を歩いていると言っています。すなわち、今日の箇所においても「彼らは人なき荒野をさまよい、住むべき町にいたる道を見いださなかった」と書かれている通りです。

 

そして、聖書は漠然と道があるということを言うだけではなく、私達には歩くべき道があるのだと言うことが、色々なところにおいて語られているのです。たとえばイザヤ30章21節には「あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩めと言う言葉を耳に聞くと明確に神によって歩めという道があると書かれており、イザヤ53章6節などを見ますと「私達はみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かっていった」と自分勝手な道を歩むということは、本来歩くべき道を見失いさ迷っていることなのだと暗に書かれており、箴言14章12節には「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある」というような厳しい言葉があります。この言葉はひっくり返して言えば、「その終わりが死に至ることがない道もある」ということをこの箴言の言葉は私達に語りかけているのです。

 

しかし、これらの聖書の言葉に対して、今日のポストモダンと言われるこの世界に生きる私達は次のような言葉をもって、自分の道というものを選んでいます。すなわち「お好きな道を歩みなさい」ということです。そして、人は各々そのように色々な道を歩んでいるのです。

二つ目のこと、それはこれら諸々の道の中でどの道を歩くかを決めるのは他でもないあなた自身ということです。

道を選ぶのはあなた

6 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから助け出し、7住むべき町に行き着くまで、まっすぐな道に導かれた。

 

皆さん、私達の人生は選択の連続です。私達はいつも何かを選び取って生きています。今日、何を着ようかしら、何を食べようかしらという日々、繰り返される選択から、どんな仕事をしようかしら、誰と結婚しようかしらというように、その人生にとってとても大切な選択があります。

 

使徒行伝14章にはバルナバとパウロがルステラという町において伝道をしていた時に、そこに住む人たちがこの二人を神として崇めようとしたということが書かれています。それに対して、この二人はその群集の中に飛び込んで行きこう叫びました。

15「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。16 神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、17それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。

彼らは叫んだのです。神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれた。

マルコ6章34節にはイエス・キリストがある時、その話を聞こうとその行く先々に押しかけてくる群衆を見て「飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんだ」(マルコ6章34節)と書かれています。私は羊飼いではありませんから、飼い主のいない羊がどうなるのかは分かりません。しかし、その毛は汚れ、彼らはどこに居ればいいのか、自らを守る安全な場所も見つけることができずに、ただ吹きざらしの風の中、各々が意味もなくあちこちに散っていたというような姿がそこにはあったのではないでしょうか。

またイエスのその生涯最後の時が近づいた時、イエスはエルサレムに近づき、その町を見た時に泣いてこう言われました「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら・・・しかし、それは今おまえの目に隠されている」(ルカ1941節-42節)。イエスが涙を流されたというこれは数少ない聖書の記録の一つです。イエスはエルサレムを見て泣かれたというのです。それはエルサレムという町の町並みを見たからではなく、その町に住む人達を見てイエスは泣いたというのです。こう泣いたのです「もしおまえが平和をもたらす道を知ってさえいたら」

箴言を書いた知者、ソロモンは言いました「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある」(箴言14章12節)。 これはとても緊迫した言葉です。私達の選択の中で、ここを歩むという道が実は死に至る道だというのですから。皆さん、ご自身の生涯を振り返った時に「これぞ、わが生きる道」と思われた道を歩き始めて、実際はその道が間違っていたのではないかと思われたことはありませんか。正しいと思われた道なのに、私の心は今、死んでいるという方いませんか。今までいつも人と衝突して、人を傷つけ、そればかりか自分を傷つけてきました。それが私の歩んできた道ですという方いませんか。イエスはそんな私達を見て、そのことに心揺さぶられるほどに悲しみ「もし、あなたが私が与える平和の道を歩いていたら」と語りかけているのです。

米国で車を運転する方なら、必ず経験するでしょう。フリーウエイで降りるべきイグジット(出口)をミスして、行き過ぎてしまうことが。そして、行き過ぎてしまった場所で私達はどうするのか。私達は再び、フリーウェイに乗り、行き過ぎた場所に立ち返り、そこで望んでいた出口から降りるのです。もう一度、そこに立ち戻るのです。でも、時々私達は面倒くさくなり、願っていない出口で降りた、その一般道を使って元の場所に帰ろうとします。しかし、そうすることによって、ますます私達は道に迷い、多くの時間を無駄にすることになります。

皆さん、私達がもし道を誤ったのなら、その道をはしっていた車を買い換えることによって、その問題は解決しないのです。私達はもう一度、その道の原点に帰り、新しい道を歩み始めるのです。イザヤという預言者はその歩むべき道を知らずに各々、好き勝手な道を選んで歩んでいた者達にこういいました(イザヤ55章6節-9節)

6あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。7悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。8わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。9天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。 

今日の聖書箇所にはこう書かれているのです。6 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから助け出し、7住むべき町に行き着くまで、まっすぐな道に導かれた。

 

神は人に自由意志を与えられました。ですから、私達は自分の歩むべき道を選ぶことができます。これは大きな祝福です。私達がもし自分の歩いている道というものについて、「これで本当にいいのだろうか」「このままこの道を歩んでいったらどうなってしまうのだろうか」と言う思いがその心にあるのなら、あるいはもうこの道を歩むのは限界だという方がいるのなら、その悩みのただ中に主に呼ばわって神様に立ち帰ることをお勧めします。その時に「既に遅し」ということはありません。今、あなたは方向を転換して、今日からこの神の道を歩み始めることができるのです。

 

最後のことをお話して終わりましょう。それは「その道を楽しみ希望をもって生きる」ということです。

その道には楽しむがあり希望がある

どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。9主はかわいた魂を満ち足らせ、飢えた魂を良き物で満たされるからである。

皆さん、私達がこの神の道に立ち返り、そこを歩き始めるということについて誤解されている方達が大勢います。すなわちその時から私達は粛々と「あれもだめ、これもだめ」と浮世離れの生活するのではないだろうかと考えているということです。今も多くの方々はクリスチャンになるということは、人生の喜び楽しみを全て手放すことになると誤解しているということです。

しかし、そうでしょうか。今日の箇所にはこう書かれているのです。「どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように」私達がこの道を歩み始める時に、私達はとてもエキサイティングなことを経験することになります。なぜなら、それまでは目に見える世界だけで一喜一憂していた私達が目に見えない世界を知るようになるからです。神が自分の人生にしていて下さる奇跡的なみわざを見出していくということ、これはエキサイティングなことです。そして、それによって、私達のかわいた魂は満ちたり、飢えた心も良き物で満たされるというのです。

人間はラジオを発明し、そのうちに声だけでは満足できなくなり、テレビを発明し、平面的なテレビでは飽き足らずになり、3Dというような特殊なめがねをつけると画面が飛び出てくるようなテレビを発明しました。その技術の移り変わりに私達は驚くと同時に私達はそれを楽しんでいるのです。

皆さん、同じように私達が神の道を歩むということは、その道で神が成してくださる奇しきみわざ、すなわち私達には思いもつかない、想像もしない神のわざを信仰をもって見ることができるということなのです。これまでどうひっくいり返っても見える世界だけ、その中だけで一喜一憂していた私達に、新しく目に見えない世界を同時に見るということが加わるのです。私はこの特権を一つの人生を二倍楽しむことなのだと受け止めています。詩篇16篇を書いたダビデはそのこ醍醐味を知っていたのでしょう。彼は11節においてこう歌ったのです「あなたは命の道を私に示される。あなたの前には満ち溢れる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」。

先週、誕生日を迎えたかのマーチン・ルーサー・キング牧師がこれから職業人としてその人生を歩み始めようとする青年に「君は神を含むほど大きく、永遠を包み込むほどに遠大に人生の計画を立てなければならない」と言いました。これは驚くべき生涯への誘いです。自分の人生、学校を卒業して、あの辺りの会社に勤めて、何歳で部長になって、何歳で退職して、生涯に与えられる給与はだいたいこれだけで・・・。私達の人生はだいたいそんなもんです。しかし、そこに神を含んだ、永遠を包み込むほどの視点をもつことで、どんなに私達の人生は喜びと楽しみに加わることでしょうか!

おそらく私はこのお方の存在を知らなければ、あの人の顔色、この人の顔色とそのようなことに気をとられ、人生を送っていくことでしょう。でも、私達は今、その視線を天高く向けることができるのです。

そして、そればかりではありません。この道には決して朽ちることのない希望があると聖書は約束しているのです。

今日の詩篇の言葉には「 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから助け出し、7住むべき町に行き着くまで、まっすぐな道に導かれた」とあります。この箇所に私達には住むべき町があると書かれています。それは神様が私達に与えてくださった地上で生きるべき場所ということを言い表すものでありましょうし、それと同時に私達が生涯かけて歩むその道が最後に行き着く所、すなわち聖書のいうところの天国ということを意味しているでしょう。この事を知らされているということはとてつもなく大きなことです。ビジョンを持ちなさい、目的と持ちなさいと今、人々は声高らかに言いますが、誰もその人生の最後に行き着く所は分からないからです。

1968年4月3日の晩、先ほどお話したマーティンルーサーキング牧師がテネシー州、メンフィスにおいて語ったメッセージをもって今日のお話を終えたいと思います。彼は教会に集まった群集に向かい言いました。

こうして私はメンフィスにやってきた。ある人々は脅迫のことを話し始めていた。それは撒き散らされていた脅迫のことである・・・。

今私に何が起ろうとしているのかは、私には分からない。ともかく我々の前途は多難である。だがそれはもはや私には問題ではない。なぜなら、私は山の頂きに登ってきたのだから。私は何も心配していない。他の人と同じように、私も長生きはしたい。長生きにはそれなりの意味がある。しかしそのことも私は今、気にしていない。私はただ神のみ心を行いたいだけである。

神は私が山に登るのをお許しになった。私は周囲を望み見た。そして私は約束の地を見た。私はあなたがたと共に、そこには行けないかもしれない。だが今晩、私はあなたがたに知って欲しい。それは我々は一つの民として、約束の地に至るということである。だから私は今晩、幸せである。私は何も心配していない。また誰も恐れてはいない。私の目が主の来臨の栄光を見たのだから。My eyes have seen the glory of the coming of the Lord.

翌4月4日、マーティンルーサーキングはメンフィスのローレイン・モーテルにて銃弾に倒れました。その年39歳でした。

彼の生涯は今日、お話した神の道を歩いてきた生涯でした。その最後の時、自らの命が危険にさらされながらも、彼はもう一つの世界を見ておりました。その世界は、目の前で自分の命を狙う者達がいるという情報を伝えにくる警察官の緊張に満ちた顔だけの世界ではなく、キング牧師はそのような状況の中、主イエス・キリストの来臨の栄光を見ていたというのです。故に彼は恐怖に支配されてもおかしくない夜に、「だから私は今晩、幸せである」と言ったのです。

皆さん、こんな人生があるのか?「ある!」と聖書は約束しているのです。

今日、一つの問いかけをお一人お一人にします。皆さんの歩いている道はどんな道ですか。神が備えたもう、その道を歩みませんか。

お祈りしましょう。

 

 

 

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