この国で過去に二回、私は礼拝で話すメッセージを急遽変更したことがある。一つは「911の起きた時」、そしてもう一つは「米国がイラクを攻撃した時」。そして、今日が3度目となった(今回は私の手術がキャンセルされたということもあるのですが・・・)。
それが多くの人達の痛みであり、また理不尽で不可解に思えることであればあるほど、教会はバイブルから世界にメッセージを語らなければならない。
去る週のWild Fireについて、私達はバイブルからどんなメッセージを聞くのだろうか・・・。
マック
再考する時
先週の日曜日、礼拝が終わり外に出ました時に、生暖かい風と異常に乾燥した空気をすぐに肌が感じ取りました。それは私達がよく知っているサンタアナであり、この風が今回の火事に大きな影響を与えました。
サンデイェゴは台風や竜巻もなく、地震もめったになくと言われますが、この火事だけは常に、特にこのシーズンには私達の脅威となっています。皆さんの中にも避難なされたり、一日中、テレビの前でニュースを見ていたという方も多いかと思います。
22日の朝には今回の火事の避難の最中、私達は敬愛するTさんを神様のもとに送りました。その時、Tさんがいたパウェイーのポメラド病院には避難命令が出ていましたので、神様は騒然とした避難場所に逃れるよりも、高齢になるTさんに「私のもとに来なさい、こここそ本当の逃れ場だから」と彼女の名前を呼んで下さったのだと思います。そして、その瞬間からTさんは火炎も届かない神様のみ胸の中、抱かれていることを私達は知っています。
これからも私達はこの火事が残していった痕跡を見つめていかなければなりませんが、Tさんは今、主の平安のうちにあることを私達は知っています。どうか悲しみの中にいるAさんとそのご家族を覚えて、お祈りください。
今日は本来ですならF先生が私に代わり、メッセージを取り次いでくださる予定でしたが、私の手術もこの火事が原因となり、キャンセルされましたので、急遽、また準備をさせていただきました。次の予定は分かりませんが、F先生と通訳の予定でしたMさんには準備していただいたものを、次回のためにリザーブしていただけましたらとお願いしました。
今回の火事については皆さんも様々なメディアで色々な情報を見聞きしていると思います。私達の目に映るのは、原野で燃え続けている不気味な炎であり、また家を飲みつくして燃えている炎であり、また灰色にくすぶっている中に残された暖炉のブロックであったりします。これらの炎を見ていますと、私達は何かその炎が生き物のように見えてくることもあるのかもしれません。
これらの火事が始まった時刻が、だいたい日曜日の晩から月曜日の朝方にかけてといわれています。そして、翌朝、私達が目覚めてみたらもう手のつけられないほどに、その火は回っていたのであり、その火は多くのものを飲みつくして広がっていきました。
私達はこの火災を通して、それを「大変だな」ということで終わるのではなく、その犠牲の中からとても大切なことを今一度、考えなければなりません。
去る週のはじめ、私の家でも一日中、テレビをつけていて、私達夫婦の間でも避難するものを準備しようとか、あちこちに電話をして安否を問うたりするということがなされました。子供達も何かを感じるのでしょう。不安に感じます。そんな彼らにはこう話しました「今、大きな火事がサンデイェゴで起きている。そして、この火事が色々なものを燃やしている。確かに、どんなに立派なものも、どんなに守っていても燃えてしまうんだ。でも、君たちの心の中にあるものは決して燃えてしまうことはないんだよ」。
私達の心の中にあるものとはいったい何なのでしょうか。このことに対する答えを書いているのが、聖書なのですが、その中でも特にペテロ第一の手紙の一章にはいくつかのことが書かれているのです。今日はそこから見ていきたいと思います。
①全てのものは瞬時になくなる
本当にシンプルに2つのことをお話しましょう。まず最初に、私達はこの火事を通して、全てのものは瞬時になくなりうるということを確認しました。
そして、多くの人達は言うでしょう。「そんなこと、あえて言われなくても分かっている」と。でも、いつのまにか私達はこれらの物に心が奪われてしまうのです。そして、自分の人生の主役は神でも、自分でもなく「あれ」や「これ」と私達が指差すことができるものとなってしまうことがあるのです。
ペテロ第一の手紙1章3節‐5節において、ペテロはこう言いました。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは、終わりの時に啓示されるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
誤解しないでください。聖書は私達にとって形あるものが全て悪いとはいっていないのです。神様はこれらのことにおいても私達を祝福してくださるお方であり、神様が与えてくださるものを私達は感謝していただくべきです。私達はそれらを感謝と共にいただき、忠実に管理することを求められています。
しかし、私達はいつも確認していなければなりません。これらのものは明日、風がふけば私の手からすりぬけていくものであるということを。そのためにたとえ50年を注いでそれらを得たとしても、それらを一晩で失うかもしれないという中を私達は生きています。今日、自分の家に様々なセキュレティーを取り付ける人達がいます。今回の家々にもそのような家があったことでしょう。超高級な家々には24時間の守衛もいたかもしれません。しかし、炎はそれらの家々をも焼き尽くしてしまったのです。
ある神社に神主の息子がいました。息子は御神体を収めた箱が境内の中に何百年も前からあるということを父や祖母から言われて育ちました。その御神体はこれまで開けられたことがなく、開けてしまえばたたりがあると言われてきました。
父も祖父もそして、その地域の人達も熱心に朝夕とこの御神体を拝みに来たといいます。しかし、彼はどうしてもその箱の中が見たい。その気持ちを抑えきれずに、ある晩、こっそりと境内に入り、数百年来開けられたことのない箱をおそるおそる開けたのです。
そうしましたらそこにはもう原型も分からないボロボロになった木屑とネズミの糞があったというのです。少年はそれを見て、口惜しくて口惜しくて父と祖父に泣きながら詰め寄って言いました「おじいちゃんも、お父さんも、僕らの家族は何百年もこのボロボロの木屑とネズミの糞を大切にして、朝に夕に拝んできたのかい」
皆さん、私達はこの現実ともう一度、向き合わなければなりません。「全て形ある物は朽ちてしまう」ということ、そんなこと分かっていると私達は思います。でも、いつの間にか、その物がいつまでも永続していくように、それこそが自分の寄り頼むものだというように私達は錯覚してしまうことがあります。
心に刻みましょう。形あるものは、いつかは無くなるものです。
②私達が大切にすべきこと
二つ目のこと、それはこの火事を通して、私達がこれから生きていくために大切にしなければならないことを学ぶことができるということです。「今まで、自分が目に見える形で獲得してきたものこそが自分の全てであった。でも、それらが全てではないのなら、何を大切に生きていけばいいのか」ということです。当然の疑問です。
ペテロ第一の手紙1章18節‐19節にはこう書かれています。1 Peter 18-19 said ; あなたがたのよく知っているとおり、あなたがた先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、傷も、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
ここに私達がこれから寄って立っていくべきものが書かれています。すなわち、それは傷もしみもない小羊のようなキリストの血、すなわちキリストの十字架、すなわちそれはキリストの愛なのだというのです。
先ほど、神社の境内からボロボロになったかつては誰か人間が彫った形のある御神体についてお話しました。これら人々が崇拝していたものは、傷やしみでボロボロだったのです。それを人は拝んでいたのです。しかし、ここで聖書はキリストは傷もしみもなかったと書かれています。
聖書はキリストは罪を犯さなかったと書いています。その意味においてキリストは傷もしみもない方でありました。しかし、実際にはキリストの肉体は打たれたのです。映画パッションでも映されていたように、キリストは十字架にかかる前にローマ兵から激しくムチを打たれました。
その体はボロボロに割かれました。そして、肉体的にも限界にある中、自分が架けられる十字架を背負って、カルバリの丘へと歩んでいかれ、その手と足が十字架の上に釘打たれたのです。その意味においてキリストにも傷がありました。しかし、それは時の流れによって風化した傷みではなく、私達のために十字架に架けられたために受けた傷なのです。
この度の火事でも、4年前の火事でも、いいえ、様々な震災がある時に、私達は常にその現場にいるファイヤーファイターを思います。マシュマロを焼いている焚き火の炎の暑さを知る私達が、家や野山が燃えているその中で消化活動にあたる彼らの働きに感謝の言葉はありません。
先週はじめ、私の家から10キロほど離れたジャミールという場所でのあつぷデートされたニュースが送られてきました。それにはその火災現場の状況が説明されていました。その中で一文が目にとまりまいた。Fire crews are stationed at some homes to protect them from any approaching flames.消炎を促す飛行機が飛ぶさ中、消防士達がいくつかの家に配置され、家々に延焼しないように守っていると書かれています。大変な熱さと煙の中、体をはって家々に立ちはだかっているというのです。
罪とは罰せられるもの。もし、それがないがしろにされて「なぁなぁ」にされるなら、神はいない。絶対に正しいお方であるから、私達はその存在を神と呼ぶのです。ですから、私達の犯した罪というものも、それには私達が報いなければならないのです。そして、聖書はその報いは死だというのです。しかし、この私達の罪のために、キリストはあたかも私達の前に立ちはだかり、そして十字架の上にはりつけにされながら言われたのです「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」(ルカ23章34節)と私達の身代わりとなり十字架にかかられたのです。
そして、このキリストはこの十字架により死に、三日後に甦られ、今も私達と共にいると聖書は語りかけているのです。私達が大切にすべきことは、このキリストなのだと聖書はいうのです。私が先に子供達の心を指していったものは、我が内におられるこのキリストなのです。このキリストを私達の心から奪うことはできません。このキリストは私達がどんな状況の中にいる時も、私達と共におられます。私達にとって一番大切なものが、何であるか、それはこのキリストを心の内にもつことです。
先日、内村鑑三の「一日一生」を読んでいました。その中で「神を知ることこそが人生の目的」だと書かれていました。今年、自分の身の回りに起きた諸々のことに対して、それは光を宛ててくれました。私達は自分で自分を中心においていると、私達自身に、そして私達の周りに起きてくる諸々の事がらは自分にとって、いいものか、悪いものなのかということで考えますから、そして自分にとっていいことばかりが起きることなどはないのですから、私達は浮き沈みします。たまたま5回続けていいことがあると「最近の私は運がいい」ということになって浮かれたりします。でも、それから6回続けて何か悪いことが起きるかもしれません。
ヨハネ伝17章3節にはこう書かれています「永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります」もし、私達が自分の生涯に対してイエスを知ることを第一の目的としているということを知っているなら、私達は自分を取り巻く環境に支配されるということよりも、その環境を通してイエスは何を自分に語りかけているのかということを知るのです。そして、その私達が知ることは、確かに私達に力を与えることなのです。
皆さん、今朝、私達はこの大惨事を通してペテロ書から神を知ることに努めたのです。そして、それによって私達は「全てのものは朽ちてしまうのだよ」という神からのメッセージを聞いたのです。そして、それでは、これから何を大切にしていけばいいのかということに対して、同じく神からのメッセージを聞いたのです。すなわち、私達は私達の内にいますキリストと共にこの生涯を歩んでいくということ、そして、その日々の生活の中で神とはどんなお方であるのかということを教えていただいて行くということ、そこに私達がこれから生きていく勝利ある生涯の秘訣があるのです。
お祈りしましょう。
①のところで、神社の話を引き合いに出したのは、少し疑問を感じるな・・・
②でキリストを心の内にもつ事が大切と言っているなら、神社で朽ち果てたものをありがたく奉る事も同じ事なはず、キリストは正しくて、神社は正しくないっていうふうにもとれてしまう。キリスト教も神道もイスラムも、もっと仲良くなればいいのにと思う・・・神社の、開けた事によって起こる祟りって、いままで信じていた神を信じれなくなる事なんだろうね・・・ちょっと、違和感を感じた、旧友でした(今も友達だよ)
さんぼ
コメントをありがとう。何よりもさんぼが長いメッセージを読んでいてくれることがとても嬉しいよ。本当に励まされています!
人は過ち多いもの。昨日言っていたことは翌日、覆されるし、自分の身近にいる家族や親しい人達を無条件の愛で受け入れることすらできない、それが人の姿。そんな人間が彫り上げた木や石が人間を超えた神となってしまうことには疑問を感じる。
そもそも形あるものは朽ちていく。それがいかなるものであっても。非常に厳しい現実だけれど私達もやがていつかは死ぬ。そんな限りある人間が彫ったものを神として拝むことはできないという主旨だよ。そして、その朽ちてしまった木や石に何かを祈るということはおかしいのではないかということ。
その背後に心を注いでその神々を彫った人の苦労や心は分かる。日本人として朽ちていくものの中に「もののあわれさ」を感じてシンミリとすることもよく分かる(私もシンミリする、分かるだろ、さんぼ(笑))。風情や情緒としては分かる。でも、それらを神として、本当の信仰の対象とするのはどうかなと思う。
かといって一部の過激なイスラム教徒があのバーミヤンの仏像を偶像として爆破したことは愚かな行為だと思うし、憤りも感じる。神社、仏閣であれ、その背後に心を注ぎ、それらを建築した人間の心を踏みにじることだからね。
さんぼのいうとおり、「教徒」ではなくて、先にも書いたように「過ち多い人間」として互いを見ないといけないね。そして、各々の地域限定の幾万もの神々ではなく、その世界の全ての人間を見つめている唯一のGODがいるということを忘れたくはないと思う。そのGODの本当の姿(それは愛)を皆が知れば(テロが神の御心などというのは、もうとんでもない神理解でしょ)、私達は明日に希望がもてると思うんだけど。
My Buddyへ
マック
この長いメッセージは毎回楽しみにしてるよ。教会に行かないでも、こうやってメッセージを聞けるのは凄くありがたい事だと感謝しています。やっぱり信者でもないのに教会に行くのはちょっと気がひける・・・(笑)
絶対な神っていうのも分かるんだけど、日本は多神教じゃん、火の神、水の神、このあいだ書いてあった「お天道様」っていうのも神なのかな・・・この神様がいっぱいいて、いろんな時に感謝できるっていうのも有りかな、とも思う。大概、感謝するより、自分の都合のいい時だけお願いする対象になってるけど(笑)
なにか形があるっていうのは、凄く分かりやすいんだと思う。キリスト教にもクロスを身に着けたり、婚約指輪を着けたりするでしょ、本当はその時の気持ちを持ちつづけられれば形あるものは要らないんだろうけど、忘れちゃうじゃん・・・形のないものに祈るより、何か形にした方が分かり易いんだろうね、要は、「気持ち」なんだけど、その大切な気持ちは忘れ去られて形だけが残っていくんだよね。
アメリカで「オーラの泉」って見れる???江原さんの本が家に沢山あるんだけど(笑)、言っている事は、マックのメッセージと同じなんだよね・・・多分、キリスト教も信じていると思うけど、そう言っちゃうと、他の教徒の人は聞かなくなるから言わないんじゃないかと思ってる。なんとなくね、どの宗教も教えている根本は同じなんじゃないかと思うんだ、世界全部が、神を信じちゃえばいいのにって思うけど、そうは、いかないんだろうね・・・
突然ですみません。人として大切なことを学ぶため道しるべとして 宗教があるのではないかと思います。
教会の十字架も 神社の御神体もそれ自体に向かって祈っているのではなく目に見えない「その先」に祈っているのではないでしょうか?
マックさんが今度行く展示会にあるものも風化していってますよね。千年後、二千年後、それ自体無くなっているかもしれません。
でもマックさんが大切にしている「教え」はきっと子から孫へと 永遠に続くのでしょうね。
さんぼ
コメントをありがとう!色々と教えられているよ!江原さんの本はこっちの日系本屋でも並んでいるね。今度、読んでみよう。色々と教えられるだろうね。
さんぼが言うように、そうだよね。形があれば分かりやすくていいな。所持していることで、忘れずに心に残るものがあるし、自分の左手の指にも大切なものが輝いて(?)いるしね。
でも、確かにさんぼがいうように、私も自分の指輪がなくなったとしても、家内との結婚が終わるわけでもないしね。かえって、それらの物があたかも神々になってくると(別にそれらを拝むということではなくて、それらの物々が生活の中心になって振り回されてくること)、けっこう私達は心中しんどくなってくるように造られているんじゃなかろーか。
それと、あちこちに色々な神々がいればいいと自分も思うよ。それはとても便利だし、風当たりもいいし、とても都合がいいね。でも、便利・都合はあくまでも自分の願望にすぎないとも思うんだけれど・・・。本来、自分の都合で作られ、必要な時にだけ持ち出される存在は、人間の手中にあるものであるということで・・・。それはもはや神と呼ばれるものではなく・・・、ということは結局、神を手中としている自分が神だということになってしまうのではないかと・・・思うわけで・・・、そして、あたしも自分を神と呼ばれても困ってしまうわけで・・・(北の国からの純のナレーション風になってきました)。人がそれぞれ神となってしまったら、世界は崩壊しちゃうもんね。
だんだん、さんぼとの往復書簡となりつつあるね(笑い)。
マック
卵の花さん
はじめまして(おそらくです)。
コメントをありがとうございました。
おっしゃるとおりですね。死海写本もやがてはいつかこの世界から失われていくでしょうね。私達ができるのは、必死に温度や光を調節したりして、その時を先延ばしにすること以外にないと思います(ちなみに私は死海写本を拝みにいくのではなく、わくわくしながら見に行きます‐笑)。
でも、その中で永遠に残るもの、それが私達の道に価するものなのではないでしょうか。そして、それは歩きがいのある道だと思うのです。
マック
本来、自分の都合で作られ、必要な時にだけ持ち出される存在は、人間の手中にあるものであるということで・・・。それはもはや神と呼ばれるものではなく・・・、ということは結局、神を手中としている自分が神だということになってしまうのではないかと・・・思うわけで・・・
さすが バスターマック! 北の国からのBGMが聞こえてくるようだ、「神の国から」だな!!!
次の礼拝メッセージも楽しみにしてるよ!
会社の昼休みに、凄く心が洗われるよ!!!
さんぼ
会社の休みに読んでいてくれるなんて、泣かせるじゃない。私も五郎さん(田中邦衛)のように嬉しくて泣きそうです。
職場でがんばっているさんぼを想像し、わしもがんばるよ。