私達が抱えている問題には色々なものがあります。しかし、それらを突き詰めて行きますと、どこに問題の根源がありますか?遺産相続が骨肉の争いになると言いますが、その問題はお金のせいですか?子育てが夫婦の間にとって頭痛の種となることがありますが、その問題は子供のせいですか?教育制度に問題がありますか。いいえ、よくよく突き詰めて考えてみれば、それらは全て人の心の問題です。そして、それもあの人、この人の問題ではなく、自分の心にその問題がないでしょうか。
人によっては、これらの問題は呪われているからだとか、家の方角がおかしいからだ、先祖が怒っているからだと言い出す人がいる。私達はそろそろ自分の心の問題を、自分以外の諸々の物や人、亡くなられた人までも引っ張り出してきて、彼らにその責任を転嫁することから抜け出さなければなりません。自分の心と真摯に向き合わなければなりません。
マック
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今日、礼拝でお話したメッセージです。
「心の問題に決着をつける」
2009年11月1日
心のきよい人達は幸いである。
彼らは神を見るであろう。
マタイ5章8節
数週間前に「悲しんでいる人達は幸いである」とお話しました。この人達は何を悲しんでいるのでしょうか。この人達は自分の心の状態を悲しんでいるのです。この人達は自分の罪深さを悲しんでいました。この人達は「悪事を犯してしまった」ことを悲しんでいるのではなく「悪事をしてしまう自分の心」に悲しんでいるのです。
この悲しみを経て、到達していくのが「心の清い人は幸いである」という言葉です。なぜなら「心の清い人」とは「自分の心の汚れ」を悲しんでいる人達のことだからです。清い心をもつ唯一の道は、自分が汚れた心をもっていることを自覚することであり、きよめ、きよさに導かれるまで、その心を悲しむからです。
このイエス様の言葉があえて「心のきよい人達は」と「心」で始まっていることにはとても大切な意味があります。なぜなら、当時の人達は汚れとは外からくるものだと信じていたからです。マルコ福音書7章3節-4節には「3もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言い伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をしない。
4また市場から帰った時には、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった」と書かれています。 このような生活の姿勢というのは、イエスの時代の宗教的な人々にとって最も大切なこととされていました。
そして、このようなことは現代も変わりません。世の多くの宗教は今も「洗い流したり」「払い除けること」を第一に大切なものとしています。だから私達は口を注いだり、手や体を洗ったり、お払いをうけるのです。この一連の行為には沈黙のメッセージがありまして、それは「汚れ」とは私達以外のものからもたらされるものであって、言い方を変えれば、自分は汚れていない、自分とは無関係だということです。しかし、聖書はそのことに対して「本当にそうなのですか?」と私達に語りかけているのです。
皆さん、もし外部のものを払いのける、洗い去ることによって私達がきよめられるとするならば、世界一きよい人達というのは無菌室から一歩も外に出ない人達ということになります。しゃぼん玉のような大きな無菌の玉の中で転がって遊ぶおもちゃがあるようですが、行き着くところは皆が皆、そのような中で私生活を送ることが究極的なきよめということになるでしょう。
しかし、どうでしょうか。最初の人、アダムとエバが堕落したのはエデンの園でしたが、そこはある意味、完璧な環境であったはずです。彼らはその完璧な環境の中で罪に汚れました。その原因は?それは外なるものというよりも、アダムの心であり、イブの心に問題があったからです。ということは、人は完全な環境に身を置くことによってきよさを保てるということではなくて(もちろん、それは大きな助けになることであり、無視することができないことですが)、問題の根源は全て人の心からくるということに頷けます。
このことを踏まえてマルコ7章18節-23節においてイエス・キリストは鋭い言葉を語っているのです。18「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。
当時、宗教的な人になればなるほど「食物の規定」というもの、すなわち「きよい食べ物」と「きよくない、それを食べると汚れてしまう食べ物」という規定を厳格に守っていました。それは、昨日、今日始まったことではなくてそれこそが彼らの長い間の掟となっていたのです。しかし、イエス様はいとも簡単に「どんな食物でもきよい」と言われたのです。この一言は、当時の状況下では命を失いかねないほどの言葉です。ということはイエス様は食べ物なぞは私達のきよさには全く関係はない、そうではなくて人の心の中にこそ諸悪の問題があるということを指摘することに命をかけたといってもいいと思います(実際に後にイエス様はこのことのために命を捨てました)。
皆さん、私達が抱えている問題には色々なものがあります。しかし、それらを突き詰めて行きますと、どこに問題の根源がありますか?遺産相続が骨肉の争いになると言いますが、その問題はお金のせいですか?子育てが夫婦の間にとって頭痛の種となることがありますが、その問題は子供のせいですか?教育制度に問題がありますか。いいえ、よくよく突き詰めて考えてみれば、それらは全て人の心の問題です。そして、それもあの人、この人の問題ではなく、自分の心にその問題がないでしょうか。
人によっては、これらの問題は呪われているからだとか、家の方角がおかしいからだ、先祖が怒っているからだと言い出す人がいる。皆さん、私達はいい加減に自分の心の問題を、自分以外の諸々の物や人、亡くなられた人までも引っ張り出してきて、彼らにその責任を転嫁することから抜け出さなければなりません。自分の心と真摯に向き合わなければなりません。
キリストの使徒であったパウロは自分の心に真摯に向かい合った人です。あまりにもその姿が生々しいので、私達は目をそむけたくなりますが、彼はこう書いています(ローマ7章15節‐25節)。
15わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
皆さん、私達人間が起こす諸々の問題は、皆、私達一人一人のこの心の問題に行き着くのです。そのような意味においてパウロは私達の代弁者です。すなわち、「私達は自分がすべき善を知りながら、そうしようとする意志がありながら、それをする力がなく、かえって自分がしてはいけないと思っている悪をしている」(18)ということです。それどころか「それに虜になっている自分がいる」(23)というのです。そして、パウロはその正体を見抜いてこういうのです「もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」
皆さん、この心が、罪があなたの先週のあの問題の根源にありませんか?三日前に言い合ったあの問題の源にありませんか?この心が人の歴史の暗闇となっているのです。くどいようですがもう一度、申し上げます。私達はこの「自分の心」を棚にあげて、問題を「自分以外のもの」にしてはなりません。
それでは、どうするのか。パウロも自らに問うています。「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。誰がこの死の体から、わたしを救ってくれるだろうか」(24)。この言葉にはパウロの嘆きが読み取れます。すなわち、彼がどれだけの情熱をもって自分の心とそれまで真剣に取り組み、それに勝利しようとあらゆることをしてきたという自負があるからです。彼はそのために学を積み、それこそ自らを律して、食べてはならぬもの、触れてはならぬものを厳格に守り、彼が出来うるあらゆる難行苦行にも取り組んできたからです。しかし、それらに何十年も費やしながら、ここにきて一つの結論にいたっているのです。それは、それらをいくらしても、そこには何の力もないということです。
聖書は分厚い書でして、その分厚さに恐れおののいてしまう方が多くいますが、特にその前半部分、すなわち旧約聖書に記されていることは、すなわち、このパウロの心境にいたるまでの長い人間の歩みが書かれているといっても過言ではないと思います。すなわち、その初めの創世記から旧約聖書の最後の書にいたるまで、人はあらゆる方法をして自らをきよめようとしてきたけれど、どうしてもそれはできないということです。旧約聖書は人の心の中に「神様、私は自分の力で、この心をどうすることもできません」ということが刻印されるまでの物語なのです。
このことは福音の核心となるものですので、もう一人の人間についてお話します。
世は彼をマルチン・ルターと呼びます。
ルターはかつてその生涯を神に捧げた修道士として、朝一時と二時の間に起きて祈るというような生活をしていました。祈りの時間は一日に七度あり、労働、断食、徹夜など日々、定められた規則に沿ってその生活がなされました。
その時の生活について彼はそれを振り返ってこのように後に語っています「私が敬虔な修道僧であり、修道院の規約を厳格に守ったことは真実である。修道院の生活によって天国にはいれる修道僧があったら、わたしも天国に行けると思う。私を知っている修道僧の兄弟達は、誰でもこのことを証言してくれるだろう。私の修道院生活がもっと長く続いたなら、不眠と祈り、読書と労働、その他あらゆる責務のために死んだであろう」(「ルター自伝」藤田訳、新教出版)。
しかしです、その頃、彼は修道士としてその勤めに励めば励むほどに自らの内にある邪悪さを見出して苦悩したといいます。そのような苦悩の中、人間には数えあげ神に懺悔できる罪だけではなくて、もっと根源的な罪、どんな罪のリストをもっても表現できない罪があるのではないかと彼は考え始めていました。この根源的な罪はもはや人間である以上、どんなことをしても、すなわちどんな厳しい修行をしたとしても逃れることができないもののように思えました。ルターにとって、その時、神とは「命じることを行え」と人間に要求し、もしこれにそむけばその人間を罰する審判者ないし、復讐者と考えていました。ゆえに彼は罪を意識すればするほど神が恐ろしかったといいます。
しかし、そんな彼が後にパウロについての研究をしていた時に、彼ははっきりと一つの聖書の言葉によって、光を見出しました。すなわちローマ3章28節の言葉である「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」という御言葉です。彼はその時から自分が新しく生まれ変わり「この言葉は私にとって天国への門となった」と語っている。
彼が生きた時代の教会は誤った道に歩み始めていました。人がその努力や自らの徳によって救いを得ようとしますと、それが行き着く所がどこかご存知ですか?そうです、その神の救いをお金で買うということです。このことが実際に起きていたのがこのルターの時代です。人々は免罪符、すなわち罪が免れるという札をお金で買い求めていました。
この現状の中、ルターは1517年10月、ヴィッテンベルク教会の扉に95カ条の提題を掲示したのです。そして、これがご存知のように宗教改革の始まりとなりました。彼は腐敗した教会との戦いのなかで「信仰のみ」「聖書のみ」という原理を明らかにし、一貫してその信仰を主張したのです。(以上、「ルター」小牧治、泉谷周三郎 共著。清水書院)。
皆さん、ルターはパウロが通ったところを歩んだと思います。どんなに自らを厳しく律しても、そうすることができない、それに反する心が確かにあるという自己認識。それを律しようとすればするほど、自分の罪に光があてられる。こんな自分はどうしたらいいのか。
パウロは言いました。「神様、私は自分の力では、この心をどうすることもできません」と神様に心を向けるのです。パウロは言っているではないですか「24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」
私達が救われるためには一つのことしかありません。すなわち、神の側から私達に近づいて下さる以外にない。それがクリスマスであり、さらにそのクリスマスにお生まれになったキリストが私達のその罪を全て負われて、自らが十字架の上で、その罪のために罰せられる以外にないのです。私達はその十字架の前に悔い改め、その十字架を信じるのです。
「キリスト教は宗教ではない。神との関係である」。よく言われる言葉であり、それは全く正しいと思います。しかし、その神との関係とは何か。献金を捧げる、受けるという関係か。難行修行を捧げる、受ける関係か、いいえとんでもない、そうでなくて、その関係について聖書はイエスとその弟子ペテロの間に交わされた言葉を記録しています。
時はイエスが十字架にかかる数時間前、イエスは自ら弟子達の足を洗いました。舗装道路も靴もない、埃だらけの道を歩いてきた弟子達の足です。それはどんなに汚れていたことでしょうか。その時、彼らはエルサレムの二回座敷にいました。当時の習慣では家の中に入ると大抵、その汚い足をまず洗います。そして、それはその家の召使い、その中で最も身分の低いものがそれをします。
しかし、その場にそのような召使はいなかったようです。でも弟子達は互いの足の汚さを知りながら、洗い合うことをしませんでした。互いに「奴の足元に跪いてそんな足なんか洗えるか」というような思いがあったのでしょう。しかし、その時イエスは一人、立ち上がり、弟子達の足元に跪き一人一人のそれを洗い始めました。聖書はイエスが上着を脱ぎ、手ぬぐいをとり腰に巻き、水をたらいに入れて洗い、それのみならずその手ぬぐいで足を拭き始められたと書いています(ヨハネ13章4節‐6節)。弟子達はどんな気持ちでイエスの姿を上から覗き込んでいたことでしょうか。
いよいよイエスの一番弟子、ペテロの番となりました。彼は弟子であるのに、師であるイエスが彼らの足を洗っていることにいたたまれなくなったのでしょう、こういいました「わたしの足を決して洗わないでください」イエスはそれにこうお答えになられたのです「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」(ヨハネ13章8節)。 Jesus answered, "Unless I wash you, you have no part with me."
もし、イエスが彼の足の汚れを洗うことがなければ、私とあなたの関係はない。
その足にこびりついた彼らの汚れは私達の心の汚れを表しているともいえるでしょう。それを洗わないでくださいとペテロは言ったのです。普通で考えたら、それで「そうか」と洗わなければ洗わないで、それまでの話です。しかし、イエスはそうしなければ、私とあなたとの関係はないとまで言われた。
言い方を変えますと、あなたの心にある、もう自分ではどうすることもできない、あなたを虜にしているその罪をただ私の前にもってきなさい。私がその十字架の血潮でそれを洗い流してあげるから。私があなたの心をきよめてあげるから。あなたはもうそのことについて恐れることはないのだ。そして、そうしなければ私とあなたの関係はないのだということです。
皆さん、私達が自らの罪と向き合う時に、先ほどのルターが見出したパウロの言葉、すなわち「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ3章28節)という御言葉が私達の救いの条件となるのです。そして、その関係が始まる時に、この一文の後半、すなわち「その人は神を見るであろう」という生涯を歩み始めるのです。
それは、イエス様という存在を常に目に見える形で見て生きるということではありません。私だけに24/7いつも見えているイエス様ということではありません。このイエス様との関係に入る時に、私達は聖書の言葉を通して、神の御心に聞き、それを知ることができるようになります。そして、この地上に生きながら、私達は神様を経験する事ができるようになるのです。
すなわち、信仰がなければ偶然だとか運がいいとか、悪いと決めつけていた事柄に対して、神様の御手の働きを見るようになるのです。普通の人にとってラッキーな出来事として片づけてしまうことの中に、神様の御手の業であることを見るのです。私達に災いと思えることのなかにも、それを転じて益と変えて下さる神様の御手の働きを見ることができるようになるのです。そして、常に私達は十字架のイエスを前に置いて生きるようになるのです。
そして、究極的なことはこのみ言葉にあるように文字通り、私達はやがて「顔と顔を合わせて神を見る」ことができるようになるのです。パウロが言っているとおりです。
12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります(Ⅰコリント13章12節)。
確かに私達はこの世界でも神様のみ業を見ますが、しかし、それも私達が肉体にとどまっている限りは不鮮明で、覆いがかかっているようです。ですから、時に
私達は神様の御心や導きを見失ってしまうことや、神様から遠く離れてしまったと感じることもあるのです。
しかし、私達はやがて、主と顔と顔を合わせて遭い見える時が来るというのが聖書の約束なのです。その時には、私達がこれまで理解できなかった謎のすべてが明らかにされるのです。そして、そのために私達に必要なのは、私達の心をイエスの十字架によってきよめていただくこと、その罪による救いを受けることなのです。あのイエスの愛弟子ヨハネが記している通りです。
「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。
そのまことの御姿を見るからである。3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」。(1ヨハネ3章2節‐3節)。
心のきよい人達は幸いである。彼らは神を見るであろう(マタイ5章8節)。実にこの約束の言葉は、今日、そのありのままの心をイエスに差し出す人達全ての者に与えられる約束なのです。
お祈りしましょう。
本日のお持ち帰り
心のきよい人達は幸いである。
彼らは神を見るであろう。
マタイ5章8節
あなたは「悪事を犯してしまった」ということよりも「悪事をしてしまう自分の心の性質」に悲しんだことがありますか。
あなたにとって「きよめられる」ということはどういうことですか。イエス様の時代の人々にとってきよめられるということはどんなことだったのでしょうか。参考:マルコ福音書7章3節-4節。
「きよい」「きよくない」とは私達の外的要因からくるものですか。それとも、私達の心の問題ですか(今日も御言葉は「心の清い人は幸いである」と言っています。参考:マルコ7章18節‐23節
ローマ7章15節‐25節からパウロの真摯な言葉に耳を傾けてみましょう。あなたはパウロが書いている「私達は自分がすべき善を知りながら、そうしようとする意志がありながら、それをする力がなく、かえって自分がしてはいけないと思っている悪をしている」(18)とか「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」(15)の心境に共感できますか。どんな時、同じような思いを持ちますか?
パウロが24節において嘆いている「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。誰がこの死の体から、わたしを救ってくれるだろうか」という叫びに対して何か解決がありますか?
その後、25節にに続く「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」という言葉には、パウロのイエス・キリストの何に対する感謝が言われているのでしょうか。私達とイエス・キリストとの関係の中心はどこにありますか(ヨハネ3章16節)。
あなたにとって「神を見る」とは、どういうことですか。