私達が抱えている人間関係。
その問題の核心にある人が私達の願うように変わってくれたら話は早いですね。しかし、そもそも、そのような試みの背後には相手も「私達を変えたい」と思っていることは多々あることで、願った通りにいくことは実に、実に、じつぅーに稀なのです。それどころか私達が手を変え、品を変え、このことを試みようとしたり、強引に相手をねじ伏せようとするならば、その関係はますます険悪になるものです。
そこでです、今日から始められる「最も有効な人間関係修復術」をバイブルの知恵と共にご紹介します。新しい一週間、生活のリアルな現場に立たれる皆さんにエールを送ります!
マック
今日お話しました礼拝メッセージです。
よかったらどうぞ↓
最も有効な人間関係修復術
コリント第一の手紙9章19節-23節
2008年3月9日
ある男性が会社で働いていました。その人はその会社の中堅を担う人で、上司からの指示を受けて、自分の部下と共に働き、さらにアルバイトで働いている人達もまとめなければならないポジョンにいました。この人の上司はとても嫉妬深く短気な人でビジネスの中によく自分の感情が紛れ込んできました。また、部下の中にもなかなか一筋縄にいかない人がいたり、アルバイトの中には自分よりも20年も年上の人達がたくさんいるゆえ、なかなか自分の指導が行き届かないことがありました。彼は明らかに人間関係に苦しんでいました。
よく聞く話ではないかと思います。このような関係の中で働いたという人がいるかもしれませんし、それはまさしく今の私ですという人もいるかもしれません。
また彼は家庭においてもその近所と問題がありました。彼らが住む場所はとても静かな住宅街でした。ある時、お隣の家と自宅の境となっている塀がとても傷んでいるので、それをどうにかしないかとお隣に相談に行きました。お隣はあまりいい顔をしなかったのですが、しぶしぶ自分達も半分の費用をそのために出すということに同意しました。それからしばらくして、伸びていた庭の芝を切るようにというような匿名の手紙がポストに入っていたり(ある事により、それがお隣が出したものであることも分かったのですが)、それからも明らかにお隣の家族の態度が一変して、なんとも気まずい雰囲気となりました。
私は誰かのことを話しているのではなく、この話はあくまでも架空の人のことですが、このようなことは形こそ違いますが、どこでもあり得る話です。今は、職場と近所の人間関係の問題について例えを挙げましたが、人間関係というものは、これらの環境のみならず、家庭の中においても様々な問題があることでしょう。このような問題に私達はどう向き合ったらいいのでしょうか。皆さんならどうしますか。色々な具体的な方法が思い浮かぶでしょう。私達はこのようなことで日々、互いに神経をすり減らしているのです。
ところで皆さん今、お話した一人の男性の状況に共通することがあります。そして、それは私達の向き合う人間関係にも共通するものであります。何だかお気づきになるでしょうか?それは、この男性はどちらの人間関係においても当事者となっていることです。すなわち、これらの人間関係の問題に彼はいつも関わっている一人だということです。
私達は人間関係の問題ということを考える時に、まずその自分を悩ませる相手のことを思います。そして、その相手が自分の思いにかなった人になることを願いますし、時にそのために実力行使に打って出ます。しかし、あまりにも当たり前で、なかなか気がつかないのですが、そこには必ず自分もいるのです。なぜ、このようなことをお話するのでしょうか。一つの理由があります。その理由は昔から言い伝えられてきたことです。それは・・・
「人は変えられない」ということです。
古の人達とて私達と同じ人間。人生で体験することの多くにも私達と共通点がたくさんあったことでしょう。これらの人達がその生涯を送るにあたり、その体験から得た一つの結論。それが「人を変えることはできない」ということだったのです。これはとても深い現代にも通じる知恵であり、深くうなづかれる方も多いと思います。
皆さん、いかがでしょうか。皆さんが抱えている人間関係。その問題の核心にある人を皆さんはいとも簡単に自分の願うように変えていますか。そもそも、そのような試みの背後には「私はあの人を変えたい」という思いがあると同時に、その「相手も私を変えたい」と願っていることが多々あることで、願った通りにいくことは稀なのです。私達の社会でこのことがたやすく成されているのであるならば、世界中から愚痴やツブヤキというものは消え去り、日本ですならば居酒屋は9時には店が閉まることでしょうし、愚痴、ツブヤキの電話がなくなることにより、世界中の電話通話時間の30%ぐらいは減るのではないかと思います。
ですから、この度、三回の日曜日にわたって人間関係についてお話しますが、その最初に最も大切なこととして、他者を変えようとする前に、まず人間関係の中核にいる自分自身を変えるということ、すなわち「最も有効な人間関係修復術」について聖書からみていきたいと願っております。
日々、変えられている私達
今回の「ストレスから解放される」シリーズの中に「環境の変化」ということを取り上げています。なぜなら、私達は私達の生きている環境が変化する時に、色々なプレッシャーやストレスを感じる者だからです。住む場所、仕事の環境、学校教育の変化等によって、私達の心は見えないプレッシャーを感じています。そして、その他にも例えば、子供達が巣立っていった後とか、愛する伴侶に先立たれるということもこれは大きな環境の変化と呼べるものでありまして、そこからくる寂しさや心の空虚感というものは大きなストレスとなります。
ですから、基本的に私達の多くは(これに関しては例外となる人達もいるのですが)、あまり変化というものを望まないものであります。しかし、実は私達がキリストにあって神の子となるということは、私達が大きな変化をしたということ、いや変化というよりも私達は全くこれまでとは違う、新しい人生を歩み始めることなのだと言っても過言ではないのです。そのことをパウロは分かりやすくコリント第二の手紙5章17節で言っているのです「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、身よ、すべてが新しくなりました」
もし、その人がキリストを信じ、その生涯を歩み始めるならば、その時に私達は古き自分、すなわちそれまでの自分の罪によって、自分を責めたり、人を責めたりしていたような自分ではなく、全く新しい自分に生まれ変わって、その第二の人生を歩み始める事になるというのです。そして、新しく生まれた私達の日常について同じくパウロは次のようなことを書いているのです。
「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(コリント第二の手紙3章17節-18節)。
すなわち、この言葉によるとキリストにあって新しく生まれた私達は、今度は日毎に主と同じ姿に、栄光から栄光へと変えられていくというのです。このようなことを言いますと、そんなこといったって、どう見ても鏡に映る自分の姿は何ら変わっていないという方いるでしょう。しかし、パウロはここで「これは霊なる主の働きによる」と書いているように、この変化は私達の外見を意味するのではなく、私達の内なる心が変えられていくという事なのです。
すなわち、バイブルが私達に語り続けている事は、現状に止まっているということではなくて、私達はこの地上で生かされている限り、常に変えられていくということなのです。もっと言いますと、私達はクリスチャンになることにより、自分自身をキリストにあって日々、変えることができる、とても柔軟な人生を歩んでいるのだということができるのです。
この辺りを全く逆に誤解されて、クリスチャンになると窮屈な堅物になってしまうと恐れをなしている人がいるかもしれませんが、とんでもなく、その反対なのです。そして、そのような柔軟で自由な我が身を知って、それを実践していくならば、私達の人間関係の多くはほぐされていくのです。それは、パウロが先ほど読みました、言葉の中で「主は霊である。そして、霊のあるところには、自由がある」と、とてもシンプルに、しかし力強く言っているとおりです。
私達は律法主義的な信仰ということについて聞くことがあります。律法主義的信仰とは、これこれのことを守る、守れないという間を行き来するような信仰です。そこには喜びがなく、ただ義務感だけがあり、今日はまずまずという一日と、今日は全然ダメだったという間をいつもアップダウンする生き方です。たまたまそこそこ上出来の日には、優越感が生まれてきて人を裁いたり、その反対に全然、うまくいかない日には劣等感と共に気持ちがふさいでしまうのです。言うまでもなく、そこには自由がありません。
また私達は今日、色々なところで原理主義という言葉を見聞きします。ある信仰者達が独断的に反対勢力を想定し、その勢力に対抗的になるということ、時に相手を変えようと暴力的な行為に出るということ、今日の世界で日々、見受けられることです。この主義に生きる人達は自分達の教義の枠外のことを受け入れることがなく、そこにはどう考えても自由があるように思えません。
これら狭い律法主義、原理主義的な人生を送るようにキリストは私達に新しい命をお与えになったのでしょうか。いいえ、キリストは私達に自由を与えてくださったのです。そして、その自由とは私達が日々、栄光から栄光へとキリストと同じ姿に変えられていくほどに私達は柔軟なのです。そして、このことこそが、私達の人間関係を解決することなのです。
これらのことは、私達が神の本質というものに目が開かれていく時に明らかにされていくのです。すなわち、私達がキリストのように変えられていくということは、私達が神というお方はどのようなお方なのかということを知っていくことです。そして、その時に私達は確かに自分の心の中にある変化に気がついてくるのです。それが何だかご存知ですか。それは、私達が常に自分自身の心を、その自分の信じる本質から外れない限り、ニュートラルにして、あらゆる方向に対して、その心を開いておくことができるということです。
そのことが顕著にその人生に起きた人がパウロです。彼はかつて自分の信じるところだけに寄って立って、そこに共に立とうとしない人達を次々と捕えて、獄屋に放り込んでいた男です。自分と違う考えを持つ人達が許せない男だったのです。頭は切れた人なのですが、その心はとても狭かったといえるでしょう。ただ目の前の細き道を、顔を上げることなく自分の足元だけを見て歩んでいる人でありました。そのような意味ではとても不自由な人だったと言っていいでしょう。
しかし、このパウロがイエスを心に招きいれ、このイエスによって新しく生まれ代わり、日毎に主と同じ姿に変えられていきましたら、彼の心のあり方は180度変わってしまったのです。彼は第一コリント9章19節においてこう書いています。
Ⅰコリント9章19節-23節 19わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。20ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。21律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。22弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。23福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
なんということでしょう、これ、本当にあのパウロが書いたの?と思われるような言葉です。
キリストに出会う前のパウロなら、おそらくこんな気持ちでいたに違いありません「私はできるだけ多くの人を力づくで獲得するために、自ら進んで自分と異なった信仰をもっている人を全て獄にぶち込もうと励んだ。ユダヤ人には、自分が理想としている選民ユダヤ人となることを強く願った。律法の下にある人には、もっと彼らが修練して、自分のようになることを何度も強調した。律法に生きていない人には、律法に生きるように私は私の知りうる限りのことを尽くして彼らを説き伏せた。彼らは自分と考え方、生き方が全く違うために、私は是が非でも彼らを変えるように努めた」。これこそがパウロ本来の生き方でした。
しかし、パウロはイエスに出会い、そのイエスがどんなお方であるかを知るにつけ、彼らが変わるように願い、実際に行動するのではなく、自分が彼らのために変わったというのです。なぜですか、その理由をパウロは明確にピリピ書に書いています。
ピリピ2章1節-11節 1そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、2どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。5キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
ここには「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」と書いてあります。そして、その思いとはどういうものなのかがその後に書かれています。すなわち、6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。
ということです。一言で、ここに何が書いてあるかと言いますと、キリストは神の形であられたのに、私達のために人の姿になられた、私達に変われと命じる前に、自らが私達と同じ姿に変わってくださったということです。パウロの心の中にはこの真理があったので、このことがパウロがキリストに対して抱いている思いであったので、彼はあんなに偏狭的な今日でいうところの原理主義的な生き方をしていたにもかかわらず、全く、実に全く、自分の向き合う人のために自分を変えることができる自由さの中に生きることができるようになったのです。
そして、この彼の姿勢というものは、そのまま私達の人間関係の中に適応することができるものなのです。キリストは最初に私達に変われといわれませんでした。まず、ご自身が変わってくださったのです。そして、私達がなぜキリストへの思いを強く持つかと言いますと、このキリストが私達のために人の姿をとり、そして、それのみならず十字架におかかりになってくださったからです。あちらが先に変わってくださったことにより、私達も変えられたのですから。しかし、私達が日々、強く望んでいることは、お前が変われば、俺も変わってあげるよということなのです。
ジョン・ドレッシャーという牧師が「若い父親のための10章」という本を書いています(いのちのことば社)。彼はその本を「あなたが、もう一度、小さい子供の父親をやり直すことになったら、どんな父親になりますか」という問いを自身に投げかけながら書きました。以前、紹介しましたように、その第一番目に彼は「自分の妻をもっと愛すること」と挙げています。
そして、このドレッシャー牧師はその他に「家族のために祈るのをやめること」と一見、耳を疑うようなことを書いているのです。いったいドレッシャー牧師は何を言わんとしているのでしょうか。
師は「それまでの私の祈りはこんなふうでした」と自分の祈りについて告白しています「主よ、どうか私の息子を良い子にしてください。彼の態度がよくなるように、あなたの愛を注いでください。息子が従順になり、それによって家族の関係がうまくいくようにしていください。娘がキリストの愛を知り、成長するにつれ、色々な人間関係の中で何が真の愛なのかを理解できる者としてくださるようにしてください。妻が子供達に忍耐し、彼女が家庭を穏やかに保つことができるように、主婦としての義務を果たすことが出来るように。忙しさに負けないように」。
ところがドレッシャー牧師は、ある夜のこと、ひとりでいた時、突然、これまで祈っていたような祈りはやめねばならないと思ったというのです。このような祈りは意味がないと感じたというのです。当時、どういうわけか子供達は、幼い頃よりも、愛についてわからなくなってきており、思いやりや親切といった性格も以前より失われていたというのです。その時に、師は自分が見当違いの祈りをしていることに気がつき、彼らのために祈ることをやめねばならなかったというのです。一体、師は何に気がついたのでしょうか。
それは、キリストの愛を子供達が知るためには、父親としての私がキリストの愛をもっと自分で体験し、それを表さなくてははならいと気がついたということです。子供達が他の人々との関係の中で神様の愛を学ぶためには、まず父親としての私が真の愛を家族のひとりびとりに示す事ができるようにと、神様の助けを求めねばならない。そこで、私の祈りは「主よ、あなたがいつも私に示してくださっているような愛といつくしみにふさわしい者と、私をなさしめてください」というふうに変わっていったというのです。
師は妻にこうなるように願ったり注文したりする祈りをやめました。師の役目は妻を良い妻にすることではなくて、むしろ幸せにすることが自分の務めだということに気がついたからです。師のこれまでの祈りは、妻がすべての家事を十分に果たすようにというものでした。しかし、それからは妻が働きやすく、仕事が楽になるように、私が助けとなれるようにと祈るようにしました。夫として妻を幸せにするために、何をしたらいいのか示してくださいと祈ったというのです。つまり、私こそ神様の特別な恵みと助けを受けなければいけない人間だということを自覚したというのです。
そして、そういうことに気がついた日から私の世界は変わり、家庭が変わりました。新しい愛に溢れた雰囲気が家の中に満ち始め、自動車を運転している時は、その車内の空気まで変わってきました。子供たちの心もなごやかになってきました。こうしたことはすべて、私が彼らのために祈ることをやめて、神様が私を変え、新しい姿勢で生きるように支えてくださいと、自分のために祈りはじめた時に起きたのというのです。
師は言います。もちろん、私は今も前にも増して妻や子供のことを覚え祈る。しかし、私の祈りは基本的には家族のひとりひとりについての感謝の祈りとなりました。(以上、ジョン・M・ドレッシャー 「若い父親のための10章」第5章 家族のために祈るのをやめることから)。
皆さん、私達はキリストが神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、人の姿になられたことによって今日あるのです。世界広しといえども、これだけの変化をその身に追った人は今だかつていませんし、これからもいないことでしょう。私達はこのキリストによって新しく造られ、日毎に栄光から栄光へと変えられているのだと聖書は言うのです。そして、このキリストを知ることにより、私達はあなたが変わりなさいというのではなく、その人のために自らを変えることに喜びを見出していくことができるのです。
私達は日々、色々な人間関係を抱えています。どうでしょうか。あの人をねじ伏せようとしていますか。どうにか変えようとしていませんか。不可能とは申しませんが、もう既にご存知かと思いますが、私達が成功する確率はとても低いのです。いいえ、私達はもっと混乱した状況に追い込まれることでしょう。
そのようなことにトライするなら、相手が変わる日を待ち続けるなら、その前に私達が変わりましょう。いつまでも変わらない人の様を見て、自分の血圧も上がり下がりするような生涯からの解放、「いつになったら変わってくれるのだ」と悶々と過ごす夜を繰り返すよりも、私達が変わることによっていただく、大きな祝福をバイブルは今も私達に語りかけているのです。
19わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。20ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。21律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。22弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。23福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
私達はキリストに会って自らを変えることができる自由を神から与えられているのです。そして、その自由を私達から奪うことができる人はいないのです。
お祈りしましょう。
とてもタイムリーなメッセージで、励まされました。
小さなことだけど今ある問題?に対して具体的に祈れず、一見関係なさそうな祈りになっていて、なんだか、変なかんじでいたんですが、関係なくないんだとわかりました。
fkm1225さん
メッセージを読んでくださって嬉しいです。
問題(?)と祈っていたこととの関係が見つかってよかったですね。生活の場は皆、違いますが、生きて働かれるお方は同じですね。
祈りが主のみ心にあって、きかれることを信じます。