見えないものを見るために

今日、私達は見えるものによって支配されて生きています。昨日、一日を振り返って下さい。皆さんは何によって喜び、悲しみ、笑い、また怒りましたか。その多くは私達が見聞きしたものです。私達は目に見える世界こそが全てであるかのごとくに生きます。

数ヶ月前、日本で学校のテストの成績が悪く、それゆえに親に怒られるのではないかと、親を殺してしまった中学生のニュースがありました。その子の目には返された答案用紙に赤インクで書きなぐられた数字が飛び込んできたことでしょう。その数字によって、その親は命を失い、その子は大切な人生を台無しにしてしまったのです。

言うまでもありません、その子は目に飛び込んできたその数字がたとえ最悪なものであっても、それが自分の全てを説明しているわけではないということに気がつくべきでした。その子が親に殺意を覚えたということは、その親も我が子のテストの数字というものに相当のこだわりというものを持っていたのでしょう。でも、その親も我が子は一回のテストの数字だけで評価などはできないということを知るべきでした。私達はどうしても見えるものだけに向けられていき、そのことで一喜一憂しているのです。

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マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。
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第一テサロニケ4章13節ー18節
「霊:見えないものを見るために」
2008年9月21日

13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。

15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、

17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。18 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

これまで二回の礼拝において、テサロニケ第一の手紙5章23節‐24節の「どうか平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめてくださるように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの再臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように」というみ言葉から私達の「体」と「心」がきよめられるということについてお話しました。

しかし、私達が人生において体のことだけしか考えないと、肉的な即物的な人生となります。それならと「心」がしっかりとしていればいいかといいますと、どうやら私達はそれだけでも十分ではないように造られているようです。私達の周りには人格者がいますが、やはりそれだけでは何かまだ欠けているものがあります。その欠けているもの、それが今日お話します「霊」ということなのです。

聖書は一貫して人間は霊的な存在であるといいます。

ヨハネによる福音書4章24節にはイエス・キリストの言葉として「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」と書かれています。この言葉はサマリアに住む一人の女性が言った「礼拝すべき場所というのは、山の上なのか、それともエルサレムなのか」というような言葉を受けて、キリストが答えたものです。すなわち、キリストはこの言葉をもって、私達が礼拝する目に見える場所というのは、大きな問題ではないというのです。それよりも霊とまこととをもって礼拝することが大切なのだというのです。そして、それは何を意味するのかといいますと、神も人間も共に霊的な存在であるがゆえに、この霊性において互いの交わりが可能になるということなのです。そして、その交わりというのは目に見えない交わりのことであって、霊的な者であるということは、私達が見えないものを、見ているかのようにして生きることなのです。

パウロは今日の聖書の箇所の中で言いました「 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう」。

このような話を今、教会の礼拝でお話しているからいいのですが、これを会社の会議や経済学のディスカッションの時に話し始めたら、多くの人達は私がおかしくなったと思うことでしょう。それがあまりにも現実離れしていることであるがゆえに、ある人はあきれ返り、あっけにとられ、ある人は席を立ってしまうことでしょう。

そして当然、このような光景を私達は今日、目撃することはありません。すなわち私達は亡くなられた人を見ることはありますが、死んだ人達がイエスと一緒に導き出されるという光景を目の当たりにすることはありません。しかし、私達はこれらのことを霊的な目で見て、そして信じるのです。そして、これら霊的な目をもってこの終わりの時を望み見る者達は、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさいとパウロは勧めているのです。

今日、私達は見えるものによって支配されて生きています。昨日、一日を振り返って下さい。皆さんは何によって喜び、悲しみ、笑い、また怒りましたか。その多くは私達が見聞きしたものです。そして、私達は目に見える世界こそが全てであるかのごとくに生きます。

先日、日本で学校のテストの成績が悪く、それゆえに親に怒られるのではないかと、親を殺してしまった中学生のニュースがありました。その子の目には返された答案用紙に赤インクで書きなぐられた数字が飛び込んできたことでしょう。その数字によって、その親は命を失い、その子は大切な人生を台無しにしてしまったのです。

言うまでもありません、その子は目に飛び込んできたその数字がたとえ最悪なものであっても、それが自分の全てを説明しているわけではないということに気がつくべきでした。その子が親に殺意を覚えたということは、その親も我が子のテストの数字というものに相当のこだわりというものを持っていたのでしょう。でも、その親も我が子は一回のテストの数字だけで評価などはできないということを知るべきでした。私達はどうしても見えるものだけに向けられていき、そのことで一喜一憂しているのです。

ヘブル11章と言いますと信仰列伝と言われる箇所でありまして、信仰に生きた人達が多く記されています。そして、そこに記されている人達には共通点がありまして、そのことが11章、開口一番に書かれているのです「さて、信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。信仰によって、私達はこの世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを悟るのである」(1)

つまりどういうことかと言いますと、この言葉の後には実際に「見ていない事実を確信して」生きていった多くの人達の名前があげられており、彼らが実際にどのように生きていったかということが簡潔に書かれているのです。たとえば「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて、御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪を裁き、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった」(7)。また続く9節には

信仰によって、アブラハムは受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」。

そして、さらに幾人かの人達の名前が挙げられ、その途中で一息つくようにこのような言葉が書かれています「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを自ら言い表した」(13)。

先ほども申しましたように、これらの人達は肉眼では見えない世界を見つつ、その生涯を生きたようです。すなわち、ノアはまだ雨が降っていないのに、箱舟を造ったのです。彼の霊の目には降りしきる雨が見えていたに違いありません。アブラハムは行く先を示されることなく、その場所を見ることなく、一歩を踏み出したのです。しかし、その時の彼の霊の目には神様が彼を祝福してくださるという、その様が見えていたに違いありません。

先ほど、読みましたテサロニケ人への手紙においてパウロはその出来事がまだ起きていないのに、キリスト御自身が約束していたように、彼はもう一度、この世界に来られると言っています。実際に、彼はそのことを見ることなく、死にましたが彼はそのことを霊的な目で捕えつつ生きたに違いありません。

福田和也という評論家が「続・なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」(ハルキ文庫)という興味深い本を書いています。その中で日本人が戦後、「何が何でも、生命が大事なのだ。生きていることが一番大事なのだ」という発想を持ち、それが日本社会のあらゆる領域に行き渡ってしまったということを嘆いています。

どういうことかといいますと、ただ、「生きることだけ」が私たちの問題であるならば、生存に支障があること以外はすべて許されてしまう、それぞれの生き方とか倫理というものは意味がなくなってしまうというのです。生きていることが大切なのだから、賄賂を受け取ろうが、盗みをしようが、偽造をしようが、どんな不品行をしようが、うまいご飯を食べて、その命を保つ事ができるならば、何の後ろめたさも感じない日本人が登場したというのです。なかなかスルドイ言葉です。そして、そんな日本人を福田さんは無邪気であると共に醜悪だと酷評しています。

福田さんはクリスチャンではありませんから、これらのことについて聖書から紐解くということはないのですが、すなわち「生きる」ということは、一言で言いますと「目に見える事柄、出来事の集まり」のことですから、そのことだけに捕らわれていく時に、人は大切なものを失ってしまう、なかなかそれは醜いことなのだと彼は書いているのです。

星野富広さんという方がいます。彼はかつてはスポーツ万能の体育教師でした。しかし、ある時、子供達の前で鉄棒の大回転をしていた時に鉄棒から落ちてしい、脊髄を損傷して首から下の機能を全て失ってしまいました。それまで鉄棒を握り締める力強い握り拳や、腕に盛り上がる筋肉を有していた星野さんの生活が、その時から全く変わってしまったのです。自分の体の機能がなくなることによって、どんなにかその心に痛みと葛藤を感じたかは容易に想像できます。

しかし、その星野さんがクリスチャンとなりました。そして、口に筆を取り、素晴らしい絵と詩を書くようになりました。その作品の中にこんな詩があります。

いのちが一番大切だと

思っていたころ

生きるのが苦しかった

いのちより大切なものが

あると知った日

生きるのが嬉しかった

星野富弘さんの詩画集 1986年の「おだまぎ」より

星野さんはいのちが一番、大切だと思っていた時、生きるのが苦しかったというのです。お分かりになりますか。いのちとは私達の肉体であり、私達の心です。すなわち生きている限りは機能しているものですが、死と共になくなってしまうものです。それが一番、大切、それこそが全てと思っていた時は苦しかったというのです。

先ほどのへブル書の言葉で言いますなら、この地上で目に見えることだけに寄り頼んで生きることこそが全てだと思っていた時は苦しかったけれど、それだけがすべてではないのだと知った時に、生きて行くのが嬉しかった、喜びとなったというのです。

すなわち、星野さんがいう「いのち」とは、明らかに私達の目に見えるものなのです。それにこだわって、それを追い求めている限り、自分は生きるのが苦しかったというのです。しかし、そのいのちよりもっと大切なものがあると知った日、生きる苦しみが喜びとなったというのです。星野さんは体の機能は失いましたが、それを失うことによって、それよりももっと大切なものがあるということを知り、それによって生きることが喜びとなったというのです。

イエスは言いました「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24章35節)

皆さん、形ある物は、自分の命を含めて、目に見える物はやがて必ず朽ちていきます。それに自分の人生を全く託して生きていくことは、しんどいものです、苦しいものです。先の親を殺した女の子は、そのことでどんなに思い悩み、苦しんだことでしょうか。そして、その結末が最悪となったのです。

私達をしばし満足させていた物が、明日には形を変えて、私達はどん底に落とされるということは私達の日常です。しかし、それ以上の世界があるよと聖書は言うのです。それを見つめて生きていくということが、私達、人間の本来の姿なのだと聖書は言うです。

皆さん、私達の回りの世界を見て下さい。そこには様々な心の病があります。原因は何ですか。神様が私達を霊的な者として、造られているのに、その霊的な世界というものを全く知らずに生きて、目に見える世界だけによって生きていることが、その原因ではないでしょうか。

船は水の中で動くように作られているのに、それを、フリーウエイで走らせたらエンジンは壊れます。反対に自動車は道路を走るように設計されているのに、海の中を走ろうとすれば、いともたやすく壊れます。それと同じように、人間は霊的な存在として作られているのに、それらのものを排除して生きていくとするならば、その無理な生き方は私達の心にジワジワと効いてきて、やがて私達は倒れてしまう、壊れてしまうことでしょう。

子供が悩んでいる。さぁ、彼らにもっとおもちゃをあげよう。ゲームを買ってあげよう。父母が苦しんでいる。さぁ、マッサージチェアーを贈ろう。同僚が行き詰っている。優秀なカウンセラーを紹介しよう。

それらは間違っていることだけではありません。でも、聖書は、それらだけではだめだよというのです。もし、人間に取り扱い説明書なるものがあるとしたら、その中には第一に人間に必要なものとして、神は人を霊的に造られたのだから、人は霊的なものに向き合わなければならないということが書かれているのです。

つい数十年まで、このことを幾つかの国々は国をあげて実験していました。いわゆる社会主義国と呼ばれた国です。これらの国々の政策は「神」という存在を国民から奪うことから始まりました。別の言い方をすれば、見えないものには意味がないという人の生き方が幾億人もの人達を対象に試みられたのです。

当初、彼らの理想は輝いているように思えました。富は公平に分配され、教育、医療は全ての人に無料で分配されるというようなユートピアを彼らは思い描いていたのです。しかし、彼らには二つの大きな過ちがあった。

一つ、「人は罪人であるということ」がその考えの中にはありませんでした。富の分配を立案し、執行する国の指導者たちが富を自分の懐にかき集めたことにより、これらの国は崩れていきました。そして、もう、一つ、それはイエスが言われたように「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」(マタイ4章4節)という聖書の言葉を忘れていました。本来、人が生きていくために必要な最も大切なことが欠けていたのです。そして、その結果、貧富の差が進み、人々の心は荒み、その心は虚無で満ちていったのです。目に見えるパンだけを求めていくという国をあげた実験は誰が見ても失敗し、そして崩壊しました。

パウロはコリント第一の手紙5章7、8節で言いました「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い

彼は見えるものによらず信仰によって、すなわち霊の目をもって歩いているから、私達は強い、壊れないと言ったのです。私達は心が体が壊れてしまう前に、この霊の目を持つべきなのです。

私達はこれまで三回に分けて人間を形造る、体と心と霊というものを見てきました。私達が与えられている一度限りの人生、最善の生涯を歩みたいと願うならば、私達はこれら私達の体と心と霊について聖書が言っている言葉に生きるべきです。

今日で三回のメッセージが終わります。なかにはこのごに及んで「そうは言っても私には無理です」とか思われている方がいるかもしれません。そんな皆さん、テサロニケ人への手紙でパウロがどのようにその手紙を閉じているか知っていますか。

どうか平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめてくださるように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの再臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように」 テサロニケ第一の手紙5章23-24節

このみ言葉は単なる「そうなればいいな」という願いによって終わっていません。この言葉には続きがあるのです。すなわち、この言葉にこんな言葉によって閉じられるのです。

あなたがたを召された方は真実であられるから、このことをしてくださるであろう

私達が与えられている生涯、本当にそれを謳歌して生きたいなら、生きたという証しを残したいのなら、私達は私達の霊と心と体とを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの再臨の時に、責められるところのない者として生きる以外にありません。

お祈りしましょう。

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