「あと5分で電車がでる~」とか「締め切りは3日後なんだ」とか「あと10年で定年です」とか、今は時間の制約や、スケジュールに追われる緊張感を十分に楽しみましょう。
何を言っているの、この人はという方は今日のメッセージをどうぞ↓
マック
「あなた物語」最終章:凱旋
2009年5月10日
「生」、すなわち命が与えられるということから始まった礼拝メッセージシリーズ、「あなた物語」もいよいよ最後となりました。それはあたかも「あなた物語」という本の最初の目次から見てきた私達が、いよいよその最後のページについて目をとめるということになりましょうか。ユーゴスラビアの格言に「我々の生まれ方は一つ。死に方は様々」というのがあるそうですが、まさしくこの格言がいうように、その最後のページは死ということなのです。
ある幼い少年がこの死と言うことに対して「死ぬということは、学校で使っているノートが全部終わってしまって、次のページがもうなくなってしまうことなんだね」と言ったといいますが、とてもおもしろい表現だと思います。
そうです、私達の多くはこの子供のように「自分というノート」の最後のページの先には何もないと思い生きています。ですから、それはとても恐ろしいもの、受け容れ難いこと、なるべく目をそらしていたいと敬遠されており、そのことは日本の社会にも色々な形で表わされています。
例えば今でも日本のエレベーターで「4階」というものが存在しないビルは多くありますし、お通夜や葬儀などにいくとその家の門には塩が盛られていることがあります。その意味は「死」というものは邪悪で穢れていることであり、それを塩によってきよめて、各々の帰る場所に持ち帰らないようにというところからきているといいます。
皆さん、なぜ死は恐ろしいのでしょうか。その一つに私達がそのことを何も知らないということが考えられます。「知らない」「分からない」ということは私達の恐怖を駆り立てます。どこかに廃墟となっている家があるとします。私達はその家がなぜ、そこにあるのか、その中はどうなっているのか、何もそれらのことを知ることができない時に、色々なストーリーを想像して、やがてそれが皆で共有できる「怖い物語」となります。そんな目に見える廃墟すら私達は恐れるのですから、ましてや「死」などという得たいのしれないものに対する恐怖たるや、これは凄まじいものがあります。
しかし、聖書を読んでいく時に、本来知りえないこの死後の世界というものが明らかになってきます。私達は「知る」ことによって救われていくのです。そして、驚くべき事は、この聖書が記している死後というものを知る時に、私達の心に浮かんでくるイメージというのは「凱旋」ということなのです。「凱旋」とは辞書によると「戦いに勝って帰ること」という意味です。「死とはどこに行くのか分からない」というのと「死とは永遠の住まいに凱旋すること」という考え方には天地の差があります。そして、その違いは「死」を迎えた時だけ大切なことというのではなく、それは今の生き方にも大きな影響をもってくるのです。
このような深いことを気がついていたのでしょう、紀元前一世紀を生きた哲学者・詩人のセネカ(Seneca)は「生涯をかけて学ぶべきことは、死ぬことである」といいました。また20世紀を生きたフランスの作家マルロー(André Malraux)は言ったのです「僕が死を考えるのは、死ぬためじゃない。生きるためなんだ」。
宗教という言葉の意味を調べると「経験的、合理的に理解できない現象に対して、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・体制」と書かれていますが、明らかに「経験的・合理的に理解できない現象」の最たるものは「死」であってこの死というものに対する説明をしていないものは宗教とは呼べないかもしれません。一つ一つ、今日はこの死ということについて聖書から見ていきたいと思います。まず死とは何かということを見ていきましょう。
死とは:
聖書において初めて死という言葉が出てくるのは創世記2章17節です。その前から少し読みましょう。
15主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。16主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
そして、この警告にもかかわらずアダムとイブはその実をとって食べたのです。
17更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。18地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。 19あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
このように聖書はその最初に死の起源ということについて触れています。すなわち死というものが人の罪と関係のあるものとして描かれているのです。すなわち人は全て神の前に罪人であるゆえに、人は誰しも例外なく死ぬべき存在なのだという厳粛な事実がここに書かれているのです。
そして、その時からこの「死」というものは人の間に深い深い影を落としていきます。その闇はあまりにも暗く、この罪と死によってどれだけの人達が苦しみを経験したことでしょう。へブル人への手紙の2章15節などを見ますとそのことを端的に「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たち」と呼んでいます。またイエス・キリストもヨハネ8章34節において言っています「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」。今日、多くの国において奴隷制度は禁じられたものですが、聖書は「あなたもわたしもその生涯、死に対する恐怖、そして、その原因となっている罪の奴隷なのだ」と言っているのです。
なぜ死を恐れるのか。ある心理学者は死を恐れることの原因について、人は死後、生前の罪を裁かれるのではないかという恐れがその深層心理にあるのではないか、そのジャッジメントを恐れているのではないかと言っていますがそのことは間違っていないだろうと思います。
と、ここまで聖書が記す死の始まり、その原因についてお話しましたが、もし聖書がその事実だけを書いているだけなら、私達にはどこにも希望はないのです。しかし、ご安心ください。聖書はその創世記において、すなわち聖書の3ページ目に既に人間が背負うべきものとなった死に対して触れていますが、聖書はその後、何百ページもかけてこの死に対する希望というものを書いているのです。
帰郷:
日本にはお盆という風習があります。亡くなった私達の先祖が夏のある期間、その故郷に帰ってくるということです。一説によりますと私達の十代先までさかのぼると約1000人の先祖、20代までたどると約100万人の先祖がいるそうです。はたして人員制限がなされているのか、どうか分かりませんが、これだけの数の先祖がお盆のシーズンには日本の地方都市に帰郷しているのでしょうか。聖書は別の意味で帰郷ということについて書いています。そして、それは日本の風習とは全く逆を言っているのです。
すなわち私達は死んでから私達の故郷である神の元に帰ると聖書は言うのです。死んで「あちらの世界」から「こちらの世界」に来るというのではなく、「こちら」から「あちら」の故郷に行くというのです。よくよく考えたらおかしくはないでしょうか。なぜ、あちらの世界にいながら、こちらの世界に親しみを覚えるのでしょうか。目に見える世界は壊れていくのです。なぜ、そのようなことを「超越している霊魂が」こちらの「限りある世界」を慕うのか。しかも100年前に亡くなられた霊魂が故郷に帰ってきても、そこには自分の見知らぬ人達がいるのです。
聖書は言います。私達、今、生きている者たちはみなこのちっぽけな地球にしばし身を寄せている寄留者だと。ヘブル11章13節‐16節にはそのことがクリアーに書かれています。
13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
先月のサンライズサービスでもお話したのですが、星野富広さんの詩を思い出します。
「命が一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。命より大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。
ヘブル人の手紙に書かれている「これらの人達」とは特別な人達ではなく、私達と同じ人間です。その彼らの人生は二つに区分できたのです。すなわち、人生のある時までは「この世での命が一番大切だ」と思っていた時。しかし、その後半、彼らの人生は「この世で生きる命より大切なものがある」ことを知った、すなわち「この世界の命より大切な永遠の命というものがある」ということを知ったというのです。
私達は「これが自分の全て」と思えば「力が入るのです」。お釈迦さんはその最たることを「欲にまみえる」と言いました。しかし、私達の命はこの世だけで終わるのではないのです。いいえ、それどころかこの世の命は仮のもので、その後こそがあなたたちの住むべき都だぞと聖書はいうのです。二つめのことです。
再会:
数年前に家族で訪日することになりました。といっても私は一人サンデイェゴに残り、家族を空港まで送り、彼らがゲートをくぐりぬけて行くのを見送りました。その後、彼らは飛行機を三回乗り換えて家内の実家のある大分へと向かったのです。
私が彼らのためにチケットを買ったので、彼らは確かにしかるべき時間にロスアンゼルスで乗り換え、成田に着き、そして羽田から福岡までさらに飛行機を乗り継ぐことを知っていました。そして、彼らが去り、一人残された私は一週間後に同じく訪日するチケットを持っていましたので、彼らに再び会うことを楽しみにして、励みにして、一週間、なすべき仕事を一生懸命にして(ここだけの話ですが、一人ですから仕事がはかどりました)、彼らが先に到着している大分県の佐伯という町へと向かったのです。
私が家内の実家のある佐伯駅に着いた時に、その晩の宿を探す必要はありませんでした。なぜなら、私が来る日を知っている家族は、一つの部屋に私のために太陽の光を存分に浴びたフカフカの布団を用意しておいてくれたからです。また、私はそこで弁当を買いに行く必要はありませんでした。なぜなら、久しぶりの訪日である私にその晩は海の幸、山の幸でもてなしてくれたのです。
このようなことは私だけが経験することではなく、多くの人達もふるさとに帰る時に体験するものです。その時の気持ちを思い起こしながら、次のイエス・キリストの言葉を読んでみましょう。
ヨハネ14章1節‐3節 1「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 3そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
皆さん、私達が死ぬということは、どういうことか分かりましたね。愛する者がこの地上で最後の呼吸をした時、その瞬間というのは、あたかも私達がエアポートで愛する者達に手を振る瞬間なのです。彼、彼女は私達が聞かされているように、信じているようにイエス・キリストが備えていてくださる家に故郷に一足先に向かったのです。「一歩先に向かった」というのは、私達もそこに後に向かうからです。そして、「その時」というのは私達にも必ず来るのですが、その日を楽しみに(このような言葉が出てくるということは驚きです。なぜならその時というのは私達も愛する者達が待つ場所に行く日のことをいうのですから)、励みにして一生懸命にこの地上で生きるのです。三つ目のこと、それは永遠ということです。
永遠:
大分に帰郷した私達家族は2週間で再びサンディエゴに帰ってきました。こちらにもキリストにある家族がいますし、こちらには私達の教会があります。いつまでも大分にいて、別府の湯に浸かっているのも魅力的ですがそういうわけにはいきません。その時間は限られたものでした。
イエス・キリストは言われました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。
キリストはここで「私達が永遠の命を得る」と言っています。「お盆や正月の帰省ラッシュの前に帰国しましょう」とか「ビザは三ヶ月しかありません」とか「もう電車が出る時間です、急いで」などと言っている私達の生活の中に「永遠」という言葉が飛び込んできたのです。
私の末っ子はとてものんびりとした子供で、まだ数の概念が分かりません。「あと一週間したら」と言ってもそれがどれくらいの長さなのか分かりません。そんな彼を見て私達は笑いますが、そんな私達だって「永遠」と言われてしまったら、それがいったい何なのかてんで見当がつかないのです。
ですから、私だって皆さんに「永遠とはなんぞや」などとお話はできないのです。でも、少なくとも今朝言うことができることは、永遠の世界では「もっと早く」とか「今のうちに」という時間に関する台詞が存在しないということです。そこには時計はなく、手帳はないのです。もっといいますと数字がないのです。数字はまったく無意味なものとなります。「私は76歳となりました」とか「あなたと共に過ごせる残された年月とは」とか「何時の飛行機にはのらないといけない」という台詞は存在しないのです。そうです、そのような意味では変な言い方ですが「ごゆっくり十二分にどうぞ」というのが天国なのです。
皆さん、奇妙は言い方になりますが「24時間という時間の中で生きられるのも今だけなのです」と。もう、あちら↑に帰郷したらこの時間の中に生きられないのです。そう考えたら見慣れた時計やスケジュールを書き込む手帳も時刻表までもが愛しくなってきます。私達が愛する人達に再会するのは確実。そこは時間を超越した故郷であることも確実。あちらには何も持参できない事も確実。もう私達がすべきことは、永遠の視点から見れば瞬きするにすぎないこの地上での生活を精一杯、過ごす以外にないでしょう。あっちに行ったら「時計」はないのですから、今は限られた時間の中で与えられた人生を謳歌する以外ないでしょう。最後のことです。
凱旋:
昨年、横綱、朝昇龍の優勝パレードがもたれました。それまでしばらくケガゆえに休みが続いて明けた本場所での優勝でした。しかし、その日のパレードはいつもとは違いました。そのオープンカーに乗っている朝青龍の隣に一人の小柄な男性が座っていたのです。その人は日向端隆寿(ひなはた・たかじゅ)さんという方で長い間、床山「床寿(とこじゅ)」として力士たちの大銀杏(おおいちょうーまげ)を結ってきたその人でした。
日向端(ひなはた)さんは朝昇龍が「日本のお父さん」と慕っている人で、その引退に感謝して横綱が事前にその勝利の凱旋に「絶対に優勝してオープンカーに乗せるから」と約束を交わしていたのです。日向端さんは横綱とのその約束を「オープンカーでも、馬車でも、なんでもいい。うれしい」と顔をくしゃくしゃにして喜び、それが実現したというのです。
皆さん、私達がいくら相撲好きであっても優勝した横綱と共に日向端さんのように、その凱旋パレードに参加することはできません。しかし、これが死に対する聖書の極めつけの約束です。すなわち、私達が死ぬということは私達が天の故郷に凱旋することだと聖書はいうのです。
コリント第一の手紙15章50節から58節を読んでみましょう。
50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。52というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。53なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。54この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。55「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
このところの56節、57節に注目してください。56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
今までお話したことが書かれています。すなわち死というものは罪の結果だということです。しかし、もし私達がこの罪の問題を解決することができるのであるならば、私達は死の問題をも解決できるというのです。先に申し上げましたように聖書の始まりにおいて人間が抱え込んだ深刻な問題に対する解決がここにあります。そして、その解決はイエス・キリストの内に全てがあるのです。
私達は罪に対しても、死に対しても全く無力な存在なのです。しかし、キリストは私達が犯した罪の処罰を全てその身に負い十字架にかかり、ご自身の復活によって永遠の命の約束を打ち立ててくださったのです。その意味においてキリストはこの人の死と罪の問題に勝利をとられ、私達自身もその勝利を賜る事ができるというのです。すなわち、私達もキリスト故に、天における勝利の凱旋に加わることができるというのです。これは横綱の優勝パレードどころの話ではないのです。
皆さん、ここで最初に申し上げたマルロー(André Malraux)の言葉を思い起してください。「僕が死を考えるのは、死ぬためじゃない。生きるためなんだ」。私達は生きている。これは否定できない事実です。しかし、私達が本当に生きるために、私達はまずこの聖書がお話した死ということについて、すなわち死が帰郷・再会・永遠・凱旋であるということをその魂に刻み込まなければなりません。そして、このコリント書が最後に記している言葉に私達は今、生きることができるのです。
57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
それゆえに、私は皆さんに今、こんなかけ声をもってこの礼拝を終え、この時を解散したいのです。
「今朝、死の意味と、死の希望について全てお話しました。私達は死を恐れるのではなく、私達は自分がいつの日か行くべき場所というものを知りました。私達はその故郷に帰り、そこで愛する者達と再開するのです。「今回の帰郷は10日間だけです」ということではないのです。永遠なのです。しかも、その帰郷はさながら私達にとって、その十字架と復活によって勝利をとられたイエスキリストゆえに凱旋なのです。ですから、さぁ、今日も各々自分の仕事に戻ろうではありませんか。今だけ与えられている時間の中で、全力で今日も明日も主のわざに励もうではありませんか。主にあって私達の労苦は決して無駄になることはないのですから」。
お祈りしましょう。
