イソップ物語の「犬と肉」の話をご存知ですか。一匹の犬が肉をくわえて小川にかかる橋を渡っていました。その犬がふと川に目を向けると、そこに水に写っている自分の影が見えました。
しかし、この犬はその水に映る犬が自分とは気がつかず、また水面ゆえにユラユラと揺れるその姿から、そこに映る肉が自分がくわえているものよりも大きいと思い、それが欲しくなり、その影に向かって一言、大きく「ワン」と吼えました。「ワン」と吼える時に、当然、口が開かれるわけでありまして、その犬はその瞬間、自分が加えている肉を川に落としてしまったのです。
マック
我、いまだに途上なり!
今日、礼拝でお話したメッセージです。
よかったらどうぞ!
我、いまだ途上なり!
ピリピ3章13節-14節
2009年1月4日
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 ピリピ3章13節‐14節
新しい年を迎えました。このようにサンデイェゴ教会の兄弟姉妹と共に新年の礼拝がもてますことを感謝しています。今日は1月4日ですので、私達の前には、まだ今年は361日残されています。この時の長さというのは全く公平でして、オバマ次期大統領も幼稚園に通う子供も全く同じ時間が与えられています。
「一年という時間の長さ」は困難な状況を理想的な状況へと変えることができる時の長さであり、反対に理想的な状況が困難な状況に陥ってしまうのにも、一年という時間は十分なものでしょう。「あの人が!」という驚きの言葉には、時にこの二つの意味が込められていることがあります。
ある人は腰をあげてすべきことは分かっているのに「明日、来週、来月」と言いながら、その内、一年を終えてしまう人もいるのではないかと思います。それがどのような一年であっても、一年とは一日が365回巡ってくるということで、この一年がどうなるかはその日、一日一日、すなわち今日という日にかかっているのです。
今日は一人の男、パウロという人の人生に対する心意気、もっといいますとその人生というものを形成する彼が与えられている一日に対する心構えということについて見ていきたいと思います。
捕えていない
まず、最初に今日の箇所でパウロは「わたしは既に捕えたとは思っていない」と言いました。このところで、パウロはあるものを捕えようとしています。しかし、まだ捕えていないというのです。
私達はパウロが「私は捕えた」と言っていないことに感謝しなければなりません。もし、彼が「既に捕らえた」と言っているならば、私達は彼から大きなプレッシャーを感じ、「自分なんて」と自己嫌悪に落ち込むからです。
それではパウロが捕えようとしていたものは何なのか。ここにはそれが具体的に書かれていませんが、今日の聖書箇所から見ても「目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」とあるように、その彼の目標の先にはイエス・キリストがいますから、彼は少しでもこのキリストの様(さま)に近づき、そしてここに記されているように神の賞与を得ようというのがその目標だったのでしょう。そして、これは私達クリスチャンと呼ばれる者達、全てに共通するものなのです。
皆さん、パウロはそのことにおいて、自分はまだその途上にいるのだというのです。私達は年の初めにこのことを確認しなければなりません。私達は自分自身について、このことを認めなければなりません。私達の回りの兄弟姉妹についてこのことを知らなければなりません。子供達に目を向ける時にこのことを心に刻まなければなりません。
私達は皆、いまだに互いに工事中なのです。私達の旅はまだ半ばなのです。私達は生きているかぎり成長の余地を残す者なのです。彼はまだ自分はそのプロセスの只中にいるというのです。
サンデェイゴはすこし例外かもしれませんが、世界の多くの地域には四季があります。神様はこの四季の中に私達の人生のプロセスというものをも見せてくれます。
先日、教会のある姉妹から誰かが造った素敵な話を聞きました。ある父親に四人の息子があった。父はその子たちに何事もすぐに結論を出してはいけないということを教えるために遠くの地に生えている梨の木を見に行くようにと送り出しました。
最初の息子は冬に、二番目は春に、三番目は夏に、四番目は秋に送り出された。皆それぞれが行き、そして帰ってきました。父は四人を呼び、見てきたものについて一人一人に話させました。
冬に行った息子は言いました「私が見た梨の木には葉が一つもなく、とても醜くく、ところどころの枝が折れていました」。
春に行った息子は、その言葉が信じられないかのように「自分が見た木には一面、新緑が覆われていて、その木はやがてくる約束で満ちていた」と言いました。
夏に行った息子は、その通りだとばかりに「自分の見た木にはたわわに実がなり、甘い香りがし、木は命で満ち溢れていた」と言いました。
秋に行った息子は緑の葉っぱということに理解できないかのように、「その葉は赤くて、梨の実が熟し、ある実は地に落ちて腐っており、ある意味、その木は大切な役目を成し遂げたような姿だった」と言いました。
四人の話しを聞いていた父は彼らに言いました。お前達の見た光景は全て正しい。しかし、覚えてほしい、お前達が見た木は全く同じもので、その木の中に全ての季節があったのだ。父は続けて言いました。お前達は自分の一つの季節だけに捕らわれて、結論を出してはいけない。もし、お前が冬にギブアップしたら、春の約束、夏の美しさ、秋の収穫を見ることはできない。
一つの季節の痛みや困難で、他の季節全てを失ってはいけない。その困難が次の収穫につながっていることを忘れるてはいけない。それぞれの季節に神は確かな意味を与えておられるのだ。大変な季節を忍耐と共に乗り越えてごらん、次のシーズンは巡ってくる。復活の驚くべき喜びは、ゲッセマネの苦しみなくしてはありえなかったのだ。
ここで「私は今、70歳だからもう冬なのですよ」というように、この四季を人生の年齢で区別をするのはよしましょう。そうではなく、パウロがその目標に向かって突き進んでいるように、私達も今、彼と同じように前に向かって、その目標に到達するための過程(プロセス)の中にいるのです。
そのプロセスの中にあるどの季節においても、たとえそれが冬や秋であっても、それだけを見て、投げやりになったり、諦めたりするのではなく、その中でパウロのように少しでも前進することができるように、できる限り体を伸ばし、一日一日を生きていくのです。
二つ目のことを見ていきましょう。パウロは言いました。「わたしはこの一事を努めている」
一事を努めている
イソップ物語の「犬と肉」の話をご存知ですか。一匹の犬が肉をくわえて小川にかかる橋を渡っていました。その犬がふと川に目を向けると、そこに水に写っている自分の影が見えました。
しかし、この犬はその水に映る犬が自分とは気がつかず、また水面ゆえにユラユラと揺れるその姿から、そこに映る肉が自分よりも大きいと思い、それが欲しくなり、その影に向かって一言、大きく「ワン」と吼えました。「ワン」と吼える時に、当然、口が開かれるわけでありまして、その犬はその瞬間、自分が加えている肉を川に落としてしまったのです。
多くの私達はこの物語を聞きますと、笑います。しかし、この物語はその読む人によって色々な解釈がなされるものです。私はこう解釈しました。犬は自分がもっている肉と水に映る肉とを比較したのです。そして、水に映るその肉は自分がくわえているものよりも大きく見えたのです。それゆえに犬はこの実在しない肉が欲しくなったのです。そして、それを得ようとして持っておけばよかったものを手放してしまったのです。
私達は常に「あれよりも大きい、少ない、きれい」等、「比較」を繰り返して生きており、その比較により交換と破棄を繰り返しています。そして、悲劇はその比較がいつも正しいということもなく、また比較など必要がないのに「あれもこれも」と比較して、自分だけではなく、家族や子供達までその犠牲となってしまうということです。
そもそも、現代社会は比較せずにはおれないほどに物や出来事が多すぎるのです。そして、ある作家が言ったように「私達が自分と誰かを比較している限り、私達は本当の魂の自由を得ることはできない」のです。
以前、あるコンピューター会社のサイトからコンピューターを買ったことがありました。ご存知の方いると思いますが、その色から始まり、その中身に何を搭載するかが問われ、そのコンピューターを郵送する時に、スタンダートかエクスプレスにするか、支払いはどうするか、チェックかクレジットカードか、分割にするかと、全てを終了するのにドッと疲れてしまいました。
私達の生活は複雑なのです。私たちは今日、明らかに一つのことに努めることが困難な時代に生きています。生き方、ライフスタイル、信条、確かにその複雑さの中で私達は自分で物事を決めていかなければなりません。「全部やーめた」というわけにはいかない。でも、私達はこれらの複雑さに捕らわれて自分を見失ってしまうのです。そして、自分を見失うということはどういうことかと言いますと、自分の原則を失うということです。すなわち、自分の全ての意志決定の根幹となる基準を失うということです。そして、その基準は何か、それがイエス・キリストなのです。
先に申しましたように私達が今、身を置いている季節はそれぞれ違います。しかし、その季節、たとえその季節がどんなものであっても、何をすべきかは明白です。すなわち、一つの事に努めるのです。
すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 ピリピ3章13節‐14節
大川道雄先生からカレンダーをいただきました。このカレンダー普通のものではなく、2023まで記されており(先生らしい)、そこに自分の年齢が記入できるようになっています。私にとって今という時は、主の恵みによってこのまま健康が保たれれば人生の折り返し地点です。最近、思うのは「まだ、先がある」ということではなく「あとどれだけの時間が自分に残されているのか」ということです。このカレンダーが素晴らしいところは、自分の目の前に14年という月日を全て見せてくれることです。これらの日々はまだきていないのですが、しかし、やがて必ず来るものとして。
ヘブル書の記者は言いました「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教えの初歩をあとにして、完成を目指して進もうではないか」(へブル6章1節)。
皆さん、その人生は後残りどれくらいありますか。昨日めくられたカレンダーは過ぎ去ったのです。2008年は既に過去となったのです。前を向いていますか。あれもこれもと色々なことを比較して、後を振り返りながら生きるほどに、私達の人生はそんなに残されているわけではないのです。私達は本当に価値ある“一事”に集中していますか。
賞与を目指す
皆さん、はっきり申し上げましょう。やるからには賞与をいただきたい。クリスチャンは謙虚に、賞与などは遠慮すべきだ。そうでしょうか。聖書はそう言っていますか。パウロはそう言っていますか?いいえ、大胆に私は神の賞与をいただくために努めていると言っているのです。
豪邸を建てることではない。何かの賞与をいただくことではない。私達はイエスから「よき僕よ、よくやった」と言われる。これが目標だと思うなら、ちょっとやそっとのことで私達は負けない。なぜパウロは強く生きていくことができたのか。明らかにこれがモーティベーションだったのだ。皆さん、何を目指していますか。何かを手に入れることですか。それは文字通り手に触れることができず、頬ずりできるものですか。それともあなたの名前の前に君臨するあなたの肩書きですか。先ほどのイソップ物語のように、持っているものを取り替えていく人生を送りますか。とても現実的なことを申し上げます。これらのものは全て朽ちて、消えていきます。
半年ほど前に中東、ドバイの経済発展についてのドキュメンタリーを見ました。世界中のマネーがこの小さな都市に集中したのです。政府も企業も「世界一」を目指して、海に椰子の木の形をした人口島を作り、他国にはないビルを幾つも建てました。当時、世界中にある三割のクレーンは全てドバイにあると言われていたのです。
しかし、先日観たドバイのドキュメンタリーは惨憺たるものでした。高級住宅街になるはずだったのでしょう、豪邸の中身は空っぽで荒れ果て雑草が生えているのです。巨大な数億もするマンションに夜、明かりが灯る部屋は10もあればいいほうでしょうか、そんな有様となっていたのです。
聖書のみ言葉に「天地は滅びるであろう。しかし、神の言葉は滅びない」とあります。経済的な困難に直面している。しかし、聖書の言葉で見るなら、経済は決して安定したものではなく、最終的には破綻してしまうようなものなのです。ですから、私達はこの機会にマイナス面ばかりに目が行きますが、この時に自分の走っている道がしっかりとそのルートにのっているか、そして、私達が歩んでいるその先の目標はどこにあるのかということをもう一度、確認しようではありませんか。
聖書のみ言葉は確かにその約束をしています。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、命の冠を与えよう」(黙示録2章10節)。
今日、見てまいりましたピリピ手紙を書いたパウロはその後、彼の人生がいよいよ閉じられようという時、彼が書いたその最後の手紙であるテモテ第二の手紙4章7節-8節において、こんな言葉を残しています。
「わたしは戦いを立派に戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守り通した。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けてくださるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいた全ての人にも授けてくださるであろう」
Ⅱテモテ4章7節-8節
「まだ捕えていない」と言っていた彼にもその最後の時がきました。彼は完成にいたる春夏秋冬を一つ一つ踏みしめながら、いよいよその最後の時を迎えました。その時、彼は確信をもってこう言ったのです「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」。
皆さん、私達は今日、パウロほど幸いな人間はいないとそう思うのです。そして、私達も彼のように生きることができるのです。
お祈りしましょう

あけましておめでとうございます
今年も宜しくお願いします。
正月休みも終わり、今日から仕事です。
今日、年末と年始のメッセージを両方読んだけど(仕事が暇なんだ)
やっぱりメッセージがあるっていうのは凄い事だね。寒川神社に初詣に行ったけどお賽銭を投げて、おみくじ引いて
「大吉」だったから良かったけどね!
あとはたこ焼きとお好み焼きを食べて、家族皆でお参りができたから良かったけど、
メッセージっていうのは無いもんね・・・
でも、今年は本厄だからもう一度厄払いに行くけどね(笑)
日本人だから日本の風習を楽しまなくちゃね!
さんぼ
あけおめ!
と最近は言うらしいな。昨日「アラフォー」の意味を知り、それならば当事者じゃんと思ったわけです。浦島太郎ですな。
こっちもブログに書いたけど、「初詣」をしたぞ。おみくじはひかなかったけど、今年も大丈夫という確信はいただいたぞ。
色々とタフな年だけど、お互いがんばろうな。今年もよろしく!
業務連絡:いただきましたメール、そのうち返事だしま~す。
Mac-Sensei
Do you have the English translation of this sermon? I would like to share it with my English-speaking friend who’s in the mid-Winter now.
Dear Cotton san
Unfortunately, I do not have the translation as written documents, but I can send you as a recorded CD. My coworker, pastor Ichibei translated in English perfectly.
I am sorry, I do not know who you are.