ある経験豊かな宣教師がこれから宣教地に向かう若い伝道者に一つのアドバイスをしたということを聞いたことがあります。その宣教師は言いました「あなたは魂を愛するのではなく、人間を愛してください」。
この宣教師はとても重要なことを言っています。すなわち、それは、時に私達が「あの魂をお救いください。失われた魂のために」と「人間」を見ないでその「魂」だけを見ようとしているということです。確かに人間には魂がありますが、その人間は肉体を持つ者でもあり、汗もかき、涙も流す、人を愛し、そして破れ、思い通りにいかない子育てに悩み、時に体調も崩し、老いるということも経験する存在であるということです。これらのことを見ずに、魂だけを見続けると私達は「人間」というものをないがしろにしてしまいます。
パウロはテサロニケの手紙5章23節にこう書いています。「どうか平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように」
これから三週にわたり、「心と体と霊を持ち合わせている人間」を見守られている神様について、お話ししましょう。

マック
今日、お話したメッセージです。
よかったらどうぞ!
第一テサロニケ4章1節ー8節
「体:主の栄光のために」
2008年8月31日
この夏はハワイとサンタバーバラで聖会の御用をさせていただきました。そこにおいて、私達の教会が属しております北米ホーリネスというその名が示していますように、ホーリネスということについてお話させていただきました。
皆さんの多くがこれまで何度も聞いていらっしゃるとおり、聖書は神の聖さについて度々ふれており、私達もこの神によって聖められることが約束されているのです。しかし、この「ホーリネス」というものがはたしてどれだけ私達の生活や社会に影響力をもっているのでしょうか。それはただ、修養会や聖会で聞く「お話」なのでしょうか。私達のホーリネス信仰が私達の教会や、私達の家庭、すなわちキッチン、食卓、寝室で、職場、すなわちオフィス、会議室で影響を与えているのでしょうか。
今日、開かれているテサロニケの第一の手紙は何をテーマに書かれているのかご存知でしょうか。この手紙はその名のごとくパウロによってテサロニケにいる信仰者達に送られたものでありまして、そのテーマは何かと言いますと、それは「再臨に備える」ということなのです。
再臨とは主イエス・キリストがもう一度、この世界に来られるという聖書に書かれている約束であり、その前兆というものをキリストは聖書の中で預言していますが、まさしくその前兆のほとんど全てが今日の時代に起きているということを思います時に、私達はとても緊迫した時代を生きているということになるのです。
そして、私自身にとってもこの夏の大きな発見となったのですが、この手紙を読んでいますとあることに気がつくのです。それは「再臨に備えること」を強調しているこの手紙の中でパウロはある言葉を繰り返し繰り返し言っているのです。4つほど挙げましょう。
「そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、きよく責められるところのない者にしてくださるように」(3章13節)。
神のみ心は、あなたがたがきよくなることである。すなわち、不品行を慎み、各自、気をつけて自分のからだをきよく尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、」(4章2節-4節)
「神が私達を召されたのは、汚れたことをするためではなく、きよくなるためである」(4章7節)
「どうか平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように」(5:23)。
パウロはこの再臨について触れているテサロニケ人への中で繰り返し、繰り返し、きよくなることを強調しているのです。ということはどういうことか、そうです、この終末が近いだろうと言われている世界において今、私達はきよくなること、きよくあり続けることが求められているということです。
これらのことを踏まえて、私達はこれから三回、私達自身をフル・チェックアップ、総点検したいと願っています。そして、そのことにより私達は私達が生きているこの世界に影響を与えるようなクリスチャンへともう一度、チューン・アップしたいと願っているのです。
ある経験豊かな宣教師がこれから宣教地に向かう若い伝道者に一つのアドバイスをしたということを聞いたことがあります。その宣教師は言いました「あなたは魂を愛するのではなく、人間を愛してください」。
私達は「体と心と霊」を持ち合わせていて、そこから喜びや悲しみというものを日々経験しているのです。しかし、もし私達がこの人間というものを魂としてしか見ないのであるならば、私達は本来あるべき、きよめのメッセージを全て言い尽くしていないともいえるでしょうし、もはや現代人に届くメッセージを発していないとも言えるのかもしれません。
皆さん、この宣教師はとても重要なことを言っているのです。すなわち、それは一言で言いますと時に私達が「あの魂をお救いください。失われた魂のために」というように「人間」を見ないでその「魂」だけを見ようとしているということです。それは、確かに人間には魂がありますが、その人間は肉体を持つ者でもあり、汗もかき、涙も流す、異性を愛し、思い通りにいかない子育てに悩み、時に体調も崩す、老いということを経験する存在であるということです。これらのことを見ずに、魂だけを見続けると私達は人間というものをないがしろにしてしまいます。
パウロはこのテサロニケの手紙5章23節にこう書いています。「どうか平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように」
ここでパウロは「どうか平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さる様に」と言っています。そして、その後すぐに「そのあなたがたの霊と心と体が完全に守られるように」と書いているのです。すなわちパウロが「全くきよめて下さるように」というその全くとは、私達の「霊」だけではなく「心」だけではなく「霊と心と体」なのだということが分かるのです。これがこの宣教師の言わんとしていることなのです。
そんなことを押さえて、今回、ハワイと修養会でお話ししたことの内容をさらに全面的に変えて、三回に分けてお話します。まず初日の今日は私達の肉体についてです。
今も昔も私達の大きな関心は私達の肉体にあり、その肉体をどうしたらいいのか私達は悩み迷っているのです。きよめとはこれら肉体について口をつぐんでいるものなのでしょうか。私達がこの肉体を持ち合わせた人間を見ないで、魂ばかりを見ているが故に、本来きよめというものがもちあわせている、もっとダイナミックな深いものを私達は見失っているのかもしれません。よく言われる言葉ですが、HolinessとはWholeness(ホーリネス=全体・総体)であるべきなのではないでしょうか。
さすがにイエス様が生きた時代はエアロビクスとかウォ-キングというものはない時代でしたし、イエス様が「体のために運動をしなさい」ということは言われませんでした。交通機関のない時代に彼らの日常生活と労働こそが十分な運動となっていたはずです。
それゆえ、当時の彼らにとって自分の肉体に関する最大の関心は彼らが何を食べるかということ、それはイタリアンかコリアンかという、何を食べるかという選択のことではなく、今日、食べるものがあるか、明日はどうかということだったと考えられます。
聖書はいたるところにおいて、このことに光りをあてています。イエスご自身、人は肉体を持つものであり、何かを食べなければこの肉体を保つことができない否、肉体のみならず心、さらにその霊性までもが弱ってしまうということをよくよく知っており、そのことにも聖書の中で何度か触れています。そして、それは別に驚くべき事ではなく、思えば当然なのです、神こそ私達を造られた設計者なのですから。設計者は私達人間の体と心の構造を知り尽くしています。
旧約聖書の中にエリアという預言者がいます。聖書を読んでいますと、彼は人を恐れずに神から受けた言葉を語る大胆な人間であったことがうかがい知れます。その信仰の強さは荒波のただ中に一つ立っている巨岩のような存在です。
しかし、そんな彼も人間、神の名をかけて大勢の敵と戦い、圧倒的な勝利を得た後に、さらに、それであっても彼の命を狙うと宣言しているイゼベルという王の后に対して今までの彼にはなかったような恐れを感じてしまうということがありました。まさしく、その恐れや今日で言いますところのバーンアウトともとれるようなものでありまして、彼はもはや、十分。自分の命を取り去ってくださいと神に願っている、そんな様が列王記19章1節‐8節には書かれています。読んでみましょう。
アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、 ②イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。
③そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、④自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。
私達の人生にもこのような時がないでしょうか。自分ができる最善の努力をした、そして、それによって一つのことを成し遂げた。しかし、さらに大きな問題が自分に降りかかってくるということが。そんな時、私達とエリアの心は一つとなるのです。すなわち、私達も言うのです「主よ、もはや十分です。もう生きていく力もありません。私は他の人達のようにはできません」。
皆さん、このような状況にいる人を見たらどうしますか。神様はどうなさったか。神様はみ使いを彼の元に送りました。列王記上の続きを読んでみましょう
⑤彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、⑥起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。⑦主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。⑧彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。
このところではみ使いが具体的にエリアと関わっていますが、このみ使いの姿というのは神の使者としての姿であり、それは神の心をも現していたことでしょう。すなわち、神様は私達の肉体が弱る時に、私達の心は全く憔悴してしまうことを理解しておられる、そして、彼のために食物を与え、睡眠を与え、そして優しくこう語られるのです「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。エリアは眠り、そして食し、再び力を得て立ち上がっていくのです。
皆さん、み使いはすなわち神様は「エリア、お前の霊的状態が、心が萎えていることが問題だ」とは言いませんでした。神様はみ使いを通して、彼に肉体的な休息をお与えになったのです。そして、それがあって彼は心にも力を取り戻したのです。神様は私達の体を私達以上に知り、そして私達以上にその体を気にかけておられるのです。
二つ目の出来事をお話しましょう。ヨハネによる福音書8章1節―11節にこんな興味深い話がでてきます。
①イエスはオリブ山に行かれた。②朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。③すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、④「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。⑤モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。⑥彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。⑦彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。⑧そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。⑨これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。⑩そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。⑪女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
あえて説明はいらないでしょう。ある女が姦淫の現場を捕えられたといいます。聖書が言う「姦淫」とういう言葉には、夫婦ではない男女の間になされた肉体的関係ということが含まれています。当時の律法ではこのような現場を捕えられた者は石撃ちの刑に処せられ、殺されてもいいものとされていました。
そんな女がイエスの元に連れてこられたのです。もう言い訳などは何もできないこの女に対してイエスは最後にただ一言言われました「私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」イエスは私達の肉体を好きなように使うことに、あまり関心がなかったのでしょうか。姦淫という罪は取るに足りないことだったのでしょうか。
いいえ、このイエスの言葉には、言葉として記されていない強いイエスの意志があるのです。すなわち、この言葉には「わたしもあなたを罰しない。なぜだか、分かるか、あなたの犯したことは確かに罪だ。なぜなら、あなたの肉体は神があなたに与えたものだからだ。確かにその罪を人は刈り取らなければならない。しかし、私はあなたに石を投げることはしない。なぜだか分かるか?私は、この後にそのあなたの罪の身代わりとなるために十字架にかかる。だから、あなたが心からこの罪を悔い改めるなら、私はあなたを罰しない。あなたの体は私の命と共に買い取られたのだ。だから、こう言おう。もうこれからは同じことをしてはいけない。あなたの体を大切にしなさい」。
この出来事というものをキリストの使徒、パウロも人づてに聞いていたのでしょう。彼はそんなイエスの姿を思いながら記したことでしょう、コリント第一の手紙6章19節‐20節に先の捕えられてきた女の体というものが、そして私達の体というものが、どんなものなのかということを端的に書いています。
19あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである20あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
皆さん、ここで私達が気づくべき事実は私達の体は聖霊の宮なのだということです。そして、この私達の体は代価を払って買い取られているのだから、神の栄光のために生きるのだというのです。私達の体にはどんな代価が払われているのでしょうか。それは、キリストの命です。
ですから、先に姦淫を犯した女に言われたイエスの「もう、罪を犯さないように」と言う言葉には強い意味があるのです。それは、なぁなぁで何でも赦すよということではないのです。私達は私達のために流されたキリストの血を無駄にしてはなりません。私達の体はそれだけ尊いものなのです。私達はその管理を神から任されているのです。
ですから、パウロは全ての人類が生きるに当たって、最高の使命というものをピリピ1章20節に書きました。
「そこで、わたしが切実なる思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである」
パウロはここで「わたしの身によって」と言っています。私達は普通、自分の栄光を求めますが、なぜ、人はそれが実現した時にら空しさを感じたり、さらに次なる賞賛を得るためにせわしなく自分を駆り立てるのでしょうか。そして、そこには喜びというよりも、何かを先急いでいるような、誰かとの競争に常に臨んでいるような、心せわしい自分がいます。
なぜか?そんな私達は一つのことに気がついていないからです。その私達が気がついていないこと、それは、私達が創造主なる神様から命を与えられた最初の時から、私達の心と体に植えつけられているものです。
それは私達、人間の最高の使命と生きがいは、生きるにしても死ぬにしても、私達の肉体・心・魂を通して、私達のために命を捨てて下さったキリストがあがめられるように生きることです。
よくある商品を買うために幾つかの店に行くと「あなたが見てきた商品の値段を言ってください。それよりも、安く私はあなたに売ります」という大胆な店員さんがいます。パウロが言っている言葉もこれと同じようなものです「もう一度、自分の生きる使命、いきがいを点検してみてください。きっとそれらはあなたにとって素晴らしいものでしょう。しかし、このパウロの言葉はそれらよりも、さらにさらに優る生き方です。そのことと比較できる喜びとやりがいはありません」。
多くの私達は、その人生のどこかにおいて、私達はこんな思いがわいてくることがあります。あるいは、そんな思いを伴侶や子供や友人達から打ち明けられることがあります。「自分の体を、どうしようと私の勝手じゃない」。世の中は言います。「そうよ、あなたの勝ってよ。好きなようにしたらいい」。でも、私達はこの思いに言うべき言葉があるのです。
「神様はあなたを愛しています。あなたの体を神は大切に思っています。だから、その体を神を悲しませるようなことに使ってはいけない。そうではなく、あなたの体をもって神の栄光をあらわしていきなさい」。世界はそんな私達の言葉を待っているのです。
お祈りしましょう。
アーメン、アーメン!
今週も素晴らしいメッセージをありがとうございます!
ジーザスの十字架の後、ペテロが一晩中漁をしても魚が釣れずに疲れきっていたところにジーザスが現れた時のことを思い出します。ジーザスを三回否定したペテロに、「あなたは私を愛するか」と三回尋ねられたジーザスでしたが、その霊的に深い意味があるであろう大切なやりとりをする前に、まず火をおこし、魚を焼き、身体が冷えきり空腹で疲れていたペテロに食事をさせてくださったのでしたよね。
家族のために祈る時、いつも「霊的に、感情的に、肉体的にお守りください」と祈ります。「HolinessとはWholeness(ホーリネス=全体・総体)であること」、まったくアーメンです!
はちこさん
そうなんですよね。聖書の中にはそんな場面が、チラチラッと出てくるんですよね。
「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。この言葉をかみ締めていると、心の中が温かくなってきます。
追伸:はちこさん、ほぼるさんの「オヘア・成田」のやりとりには笑わせていただきました。現場が見たかったです(笑)。