「 あなたは六日の間、仕事をし七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである」
これは聖書、出エジプト23章12節に書かれている言葉である。一言で言うならば「休みなさい、休まなければならない、あなたが休むだけではなくて、あなたの家畜、奴隷達にも休みを与えよ」という言葉である。
今日、日本国の「KAROSHI」という言葉は世界でも知られる単語となってしまった。そんな現代を生きる私達に対して、この聖書の言葉は今から数千年前に書かれた言葉なのである。
「やすむ」ということは神が私達に課しているものなのである。
マック
今日、お話した礼拝メッセージです。 よかったらどうぞ↓
休むことを望まれる神
マルコによる福音書6章30節‐44節
2009年2月29日
30さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。31するとイエスは彼らに言われた「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。34イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。35ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。36みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。37イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。 38するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。39そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。40人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。41それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。42みんなの者は食べて満腹した。 43そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。44パンを食べた者は男五千人であった。45それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。46そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。
やすみなさい
今日の聖書箇所はこんな言葉で始まります「さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した」。そして、その言葉を受けてイエスは言いました「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」
ここを読みます時にイエス様は弟子達の一日のはたらきの報告を受けたことが分かります。具体的なことは何も書いていませんが、おそらく「今日はあそこに行って、あれをして、それからこちらに来て、こうして・・・」というような彼らの忙しい一日についてイエス様は聞いたのでしょう。そして、その後に記されているように、今現在もその場に出入りする人が多いので、食事もゆっくりとれない状況だったようです。
そんな彼らの一日と現在の状況を見てイエスは弟子達に言われたのです「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。
皆さん、私達はここに私達の日々の疲れを理解するイエスの姿を見ます。マタイ6章34節においてキリストは「明日のことは思い煩うな。明日は明日が思い煩う」と言われましたが、イエスは私達の日々の生活には様々な思い煩いがあることを理解しており、そのような思い煩いを心配して、翌日まで持ち越すのではなく明日のことは明日が思い煩うから、あなたは休むべきだ、しっかり休んでまた明日からがんばろうということを私達に語りかけて下さっているのです。
聖書にはこの他にも私達が想像する以上に休むということが多く書かれています。そもそも天地創造をなさった神様ご自身がその業を全て終われた時には休まれたと創世記には書かれていますし、出エジプト23章12節などを見ますと「 あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである」と自分だけではなく、自分が使っている奴隷のような人達にも休みを与えなければならないと書かれています。また、あの預言者、エリヤが偉大な働きをした直後にまさしく今日でいうならバーンアウトしてしまった時にも神様は彼に水とパンを与え、肉体的精神的な疲労を癒す休息をお与えになりました。実にそれらを見ただけでも神様は私達が休むことを望んでおられるということが分かります。
話をイエスと弟子達に戻しましょう。人には休息が必要だと知っておられるイエス様の勧めを受けて彼らは舟に乗り込み、静かな場所を目指しました。しかし、予想外のことが彼らの行く手には待ち構えていたのです。
中断
その先には舟に乗り込んだイエスと弟子達を見定めた群集が岸沿いに彼らを追いかけたのでしょう、先回りして彼らを待ち受けていたのです。
33節にこう書かれているとおりです。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
このところには「ところが」と書かれています。休むべく整えていた彼らの先にその休みを中断させかねない「ところが」が待ち受けていたのです。このようなことは私達の人生にもあります。休日に思わぬ出来事が起こる。休暇中に呼び戻される。寝ている最中に電話がなる。
岸に近づいていく彼らがその岸辺に見たのは、再び群衆でありました。イエスはその群集を見て、そこに飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられたとあるのです。皆さん、これがイエス・キリストの特性です。いいえ、もっといいますと神の特性です。イエスとて肉体をもっていたのですから、その体は弟子達以上に疲れきっていたでしょう。しかし、イエスはその自身の肉体よりも飼う者のない羊のような群集に対するあわれみの方にその心が向けられたのです。
それではイエスに承認された休みが与えられた弟子達の心はどうだったでしょうか。皆さんが夏に休暇をとって、静かな避暑地にドライブして行ったとしましょう。その日の宿となるモーテルの前に車を停めたところ、そのドアの前に馴染みの取引先の人が数人、あなたの到着を待っていたらどうでしょか。そのようなことがこの弟子達には起きたのです。
イエスは弟子達の労苦を認め、置かれている状況を認め、そして休みをうながしたのです。弟子達もそれを喜んだことでしょう。しかし、行った先には群集がおり、イエスは彼らを解散させずに、再びそこで彼らと関わり始め、教え始められたのです。上司が働いていると、なかなか定時が来ても帰宅することができないと聞くことがありますが、彼らとてそうでしょう。まさかイエスを置いてやすむことはできません。
しばらくイエスは群集に話をなされたのでしょう。時計というものがあれば、弟子達は時間を気にしていたかもしれません。30分、一時間と自分達の休息の時間がなくなっていくのです。そこで弟子達はイエスのもとに来てこう言ったのです「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」(35,36)
彼らのこの提案には色々な思いがこめられていることがうかがい知れます。なぜなら、弟子たちはそこに休むためにきたのであり、肉体的には疲れているからです。彼らのこの言葉の背後には、「もう私達で食べ物の世話をするのはやめましょう。自分のことは自分達でさせましょう。そして、もうとりあえず今日はお開きにしましょう」というような気持ちがあります。
しかし、イエスの口から彼らにとってはとんでもない言葉が語られました。「あなたがたの手で食物をやりなさい」。この言葉を聞いた時、弟子達はどう思ったことでしょうか。忙しい一日を過ごした彼らは師であるイエスから「休みなさい」というお墨付きの言葉を聞いて、ここにやってきたのです。でも来てみたら、既に群集が待ち受けている。どうしようかと考える暇もなく、イエスは「あなたがたの手で食物をやりなさい」といわれる。
彼らはとっさに答えました「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。彼らにとってこのイエスの驚くべき提案に対する答えとしては、完璧と思われるような言葉だったに違いありません。当時の労働者の一日の賃金は一デナリと言われていました。ですから200デナリというのはそれなりに大きなお金です。当然、彼らはそんなお金を持ってはいませんし、それぐらい用意しなければ足りないほどの人達がそこにはいたのです。ですから、さすがにイエスも「それじゃしょうがない、あなたたちの言われるように今日はここで解散しよう」と言われると思っていたにちがいありません。
しかし、イエスはその気持ちに対してさらに驚くべき、具体的なことを言われました。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。弟子達は驚いたに違いありません。この群衆を前にどれだけのパンが役に立つというのか。でも、弟子達は師であるイエスの言葉に従い、なんとかその場で手に入れることができたものを報告しました「パンが五つあります。それに魚が二ひき」。
弟子達は心の中で思ったに違いありません。「あぁ、いよいよこれで休める。これが今の現実なのだ。もはや彼らを解散させる以外あるまい」しかし、イエスはこう言われました「みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように」意外な言葉です。しかし、弟子達はその言葉に従い、群集を百人ずつ、五十人ずつ、列をつくって座らせました。
するとイエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになりました。そして、それらを食べて、皆の者は食べて満腹したというのです。残ったパンくずや魚を集めると十二のかごにいっぱいになったというのです。その時にパンを食べた者は男だけで五千人だったというのです。
このところに非常に現実的なレッスンがあります。なぜなら先ほども申しましたように、これが私達の日常だからです。私達の環境と私達を取り巻く人達の必要はとめどもなく、それが私達にとって休んでいる時であろうとなかろうと、私達に流れ込んでくるからです。もちろん、時にはそれらに対してノーと言い、自分の休息を守らなければならないこともあるでしょう。しかし、休みを中断して、それを受けなければならぬ時、私達はイエス様とは違うのですから、私達の対応が弟子達のように雑になってしまうことがあります。そんな時、しぶしぶ、文句や愚痴を言いながらそれに向き合うのでしょうか。
そんな時、祈りましょう。目をとじましょう。そして、この出来事を思い起こしましょう。自分の前に立つイエスを思い起こしましょう。疲労困憊の中にありながら、しかし、弟子達が二匹の魚と五つのパンをイエスに差し出したように、取り掛からなければならない私達の手元にある課題をイエスの手に一度、お委ねしましょう。そして、イエスが弟子達の二匹の魚と五つのパンを祝福して下さったように、イエスがその課題を確かに受け止めてくださったことを確認しましょう。そして、再びイエスの手からそれをいただきましょう。その時、神様はたとえ私達が疲れていても、自分の力を超えて、そのことを乗り越えさせて下さる力を与えて下さるに違いありません。
さて、この出来事はこの先、どのように終わったのでしょうか。
そして、再び、やすみなさい
ここに集まっていた人の数は44節によると男だけで5000人であったとあります。ここで言われている「男」とは成人男性を意味しますから、女性と子供達を入れますなら、おそらくその数は15000人はいたのではないかと想像されます。これらの人達にパンと魚を配り、そしてその人達を解散させるというのはとても労苦のいる事だったと思います。それこそ、イエスの弟子12人でそれにあたっても大変なことだったでしょう。
そして、ひととおり聖書に書かれているように皆が満腹したのを見計らってイエスは次のようなことをなされました。
45それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、強いて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。46そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。
イエスはこの大変な状況の中、ご自身でこの群集を解散させ、その間に弟子達を舟に乗り込ませ、向こう岸へと彼らを送らせたというのです。弟子は疲れていました。しかし、同じようにいやそれ以上にイエスは疲れていたに違いありません。群集を解散させるという最後の仕事、そのためには大声を出して、彼らを誘導させなくてはならなかったでしょう、しばしの時間がそのために割かれたことでしょう。イエスはそれを一人で終えられて、一人寂しい所に退かれたというのです。
なぜ、イエスは弟子達を強いて舟に乗り込ませたのか。同じ出来事を記録しているヨハネは「イエスは人々が来て、自分をとらえて王にしようとしていることを知って、ただ一人、また山に退かれた」(ヨハネ6章15節)と書いていますから、そのような誘惑に弟子達が巻き込まれることを避けようとしたのでしょう。
しかし、それと同時に約束されていた休息が中断された弟子達に対して、事が一件落着したら再び、イエスはたとえそれがしばしの時であっても、彼らに休息を与えようとなさったのではないでしょうか。イエス自身が「心は熱していても、体は弱いのである」と後にゲッセマネの園で言われたように、人間の心と体の関係を熟知していらっしゃるこのお方は先の休みはとれなかったのだから、その時間は他のことで使ってしまったのだから、もう休まずに次の仕事にすぐ取りかかれというのではなく、そのような時に私が最後の仕事をテイクケアーするから、あなたたちは次の働きのために、少しでも静まり休みなさいと彼らを舟に乗せたのではないでしょうか。
皆さん、私達は今日の聖書箇所から幾つかのメッセージを受け取るのです。それは、私達が疲れを覚えるものであるということです。それは肉体的なものであり、そして精神的なものでもあります。そして、神様はそのことを理解なさる方であり、ただ理解するだけではなく、具体的にその回復のために私達がやすむことを臨まれるお方であるということです。
お話しましたように確かに私達の現実の生活の中では休みが必要な時に、休んでいられない状況に多々直面することもありますが、そして、そのような時の私達は疲労困憊しているのですから、通常元気な時のような力を発揮できずにいることが多いにもかかわらず、そのような時にも私達がイエスに助けを求めることを望んでいらっしゃり、そのことをこのお方にお委ねするならば、私達が想像することもできなかった最善をなしてくださるのです。
私達が生きる世界は忙しいのです。それこそ、弟子達が直面した絶対に不可能な問題に対しても「なんとかしろ」と言われるような労働環境に私達は生きています。そして、私達はそのことで許容範囲を超えたストレスを抱えて、その課題に休むこともせずに没頭しています。そうしなければ生活できない環境です。
しかし、そのようなことに直面する時に、私達は今日の物語を思い出しましょう。その課題をイエスの手に一度、おあずけするのです。委ねるのです。そして、それを今一度、イエスの手から受け取り、私達は自分の最善を尽くすのです。神様はそれを成し遂げる力をくださるでしょう。
これから一つ試みようとしていることがあります。チャイニーズレストランでお持ち帰りをしたことがある方は多いと思います。忙しくてその場で食べていく時間がない時や、オーダーしたものが多すぎて食べきれなかった時など、とても便利で私も時々、助けられています。
最近、皆さんの家にお送りしましたアップワードウェイにも書きましたが、チャイニーズレストランの「お持ち帰り」のアイデアをいただき「テイクアウト・バイブルスタディー」(TB)なる新しい試みを始めようと今、準備しています。どういう試みかといいますと、日曜日に話された礼拝メッセージに関して4,5問の質問が書かれた「おもちかえりのテキスト」を用意しますのでそれを使っていつでも、どこでも、お時間のある時に二人、三人の仲間と共にメッセージをもう一度、反芻して各々の生活の現場に適応していただきたいのです。
この「テイクアウト・バイブルスタディー」のメリットは従来、期日と場所が定められている家庭集会とは異なり、時間と場所というものを設定しないところにあります。たとえば信仰の友と礼拝メッセージについて、何か心探られることがあった時に二人で互いの都合に合わせて、たとえば忙しい午前の仕事の後、束の間のお昼休みにでもスターバックスでおち合って(そこはイエスが言うような寂しく、静かな場所ではありませんが)、しばし、聖書を開き、互いのために祈り、またそれぞれの職場や家庭に戻るというものです。
そして、その短い時間こそが忙しさに自分を見失いそうになる私達が、聖書のみ言葉によって自分を取り戻す休息の時であり、今日、お話しましたように私達に次々と迫ってくる諸々の課題や問題を一度神様の手にお委ねして力を得るひと時なのです。どうぞ奮ってこの試みに参加してください。
皆さん、イエス・キリストが自らを犠牲にしてまで、弟子達にしばしの休みを与えようとされたように、私達にもキリストはそのような忙しさの中、休みをとることを願っていらっしゃるのだということを心に留めましょう。私達は休みなしでも働き続けることができるのだという思いを捨てましょう。感情を何らもたない機械ですら動かし続ければ遅かれ早かれ故障するのです。休みと労苦、このバランスを神様の前に日々、点検しながら、私達は一日一日、神様の力をいただいて生活していこうではありませんか。
お祈りしましょう。

1月28日から今日まで1日も休みがなく、その間の移動距離が空が約2万3000マイル(全てアメリカ国内、大陸横断を4往復半)、運転は約6000マイルとなってくると、休息の大切さを身を持って実感しますね。
創造主は私たち人間が肉体的、霊的な休息が必要なように造られてました。安息日として1日フルに休むことはできませんが、暇を見つけては身体を休ませ、心を休ませるようにしているので、旅に出ても観光は一切しないで、大半の時間をホテルの部屋で過ごしています。
一人でベッドの上で横になっていれば、肉体的に癒され、体力は回復しますが、霊的な癒しは一人だと難しい部分もありますね。一人で長距離を運転するときには、車のステレオにアイポッドを繋いで、車内がカラオケボックスではなく、賛美ボックスとなります。主を褒め歌いながら、賛美と祈りをしながら運転していると、退屈や眠気からも守られます。
毎週日曜日の礼拝を守れているわけではありませんが、教会に行けないときは一人で礼拝を捧げています。幸いなことに、現代はインターネットという文明の利器を使って、多くの牧師先生のメッセージを聞いたり、読んだりできるので感謝です。
ただ、一人だと霊的な部分が弱くなるので、旅先でも日本人教会を探し、礼拝に出られないときは、祈祷会や学びに参加させて頂くようにしています。日本人教会がなくても、日本人クリスチャンは全米中に散らばっていますので、各地で日本人クリスチャンを探し出し、一緒に食事をしたり、祈ったりしながら、交わりの時間を持つことで、霊的な癒しを頂いています。
みおさん
それにしても凄まじい移動距離ですね。
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように。 Ⅰテサロニケ5章23節
霊と心と体と三つで一つの私達。お忙しいのこの三つが守られ、強められますようにお祈りしています。