神の支配に身を置く者達

先日、興味深いことを言っている人がいました。もし今晩、私達が夜道を歩いていて、強盗に遭うとしましょう(物騒な話しでごめんなさい)。その時に私達を襲う人は、ほぼ9割の確率で男性です。あまり言うと性差別と言われてしまうかもしれませんが、事実なのでお許し願いたいのです。これは私の個人的な考えなのですが、男というものは、どちらかというと力に憧れ、それを求めようと躍起になりやすい生きものです。そのような意味で女性よりも「神になんか任せていられるか」という路線をあえて選んで歩むのではないかと思います(教会において女性の方が圧倒的にその人数が多いというものがそれを物語っています)・・・。

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今日、お話したメッセージです。

マック

神の支配に身を置く者達

2009年9月27日

柔和な人達は幸いである。彼らは地を受け継ぐであろう。

マタイ5章5節

私たちはこれまで「心の貧しい者は幸いである」「悲しんでいる者は幸いである」というキリストの言葉をみてまいりました。そして、この後にはさらに6つの祝福が続きます。私達がこれらの言葉を注意深く見ていきます時に、これらが書かれている順番は適当なのではなくて、そこには意味があるということに気がつかされます。すなわち、自らの心の貧しさを知り、その自分を見て悲しむということがなければ、柔和になることはできないということです。それらの経験は己ずと柔和なる心へと導かれていくということです。

そもそも、この柔和という言葉ですが、おそらく私達が朝から晩までテレビの前に座って、それを観察してもこの言葉を聞くことはないのではないかと思います。この柔和という言葉は英語でMEEKと訳されますが、子供達が毎日学校からもってくる諸々のニュースや課題の中にもこの言葉を見たことはありません。

イエス様がこの言葉を語った時というのはどうだったのでしょうか。当時、ユダヤの民はその国が他国によって支配されているような状態にありました。そして、そのような他国の圧制こそがユダヤ民族の歴史でありました。周囲を隣国に囲まれているという緊張感は、かつて島国に住んでいた私達には理解できないことなのかもしれません。そのような国に暮らす人々にとって、柔和であるということは、無防備で弱々しいことを意味し、それは決して賢い生き方とは思われていませんでした。

そして今日、このイスラエルの民に迫った隣国の脅威というものを、私達を取り囲む環境の厳しさ、特に今日の「生き馬の目を抜く」ような厳しい、激しい競争社会というものに当てはめますと、柔和などと言っていると取り残されてしまう、そんな呑気なことを言っていたらこの競争には勝てないというような考え方が私達にもあるのではないかと思います。

時々、「現場の現実」という言葉を聞きます。涼しい部屋で話し合われた営業戦略と、炎天下の中、営業に歩き回るセールスマンとのギャップです。私達はこのようなイエス様の言葉を聞く時に、同じことを思います。イエス様は私達が生きている現実を知らないのではないだろうかと。知らないから柔和などと能天気なことを言っているのではないかと。しかし、そうでしょうか。

現場の現実を私達以上に知っていたのがイエス・キリストではなかったでしょうか。その生涯、大工として働き、家計を支えていたイエス様は私達が経験する様々な世の厳しさ、すなわち生きていくということは汗を流すことであり、疲労・徒労を一身に受けることであり、それは常に戦いであるということを知っていたと思います。声が大きく、力ある者が勝つような社会、強者が弱者を押さ込み、正直者は損をすると思われるような社会というものをイエス様は骨身にしみて知っていたと思います。しかしながら、それらを全て踏まえて、イエス様は柔和な人は幸いであると言われたのです。

しかも、驚くべきことに、イエス様は当時の緊迫した時代に、また今日の別の意味で緊迫した時代に、そのような者達が天国ではなく、地を受け継ぐと言われたのです。私達はこの言葉を読む時に、目をこすりながらその言葉を確認したくなるのです。

かつてこの国に奴隷として連れてこられた人々は、スピリチャルな歌をたくさん作りました。彼らは過酷な労働を強いられながらその歌を口づさんだのです。そして、その歌の多くは天国の歌であったことを今日、私達は知っています。なぜなら、彼らはこの地上での幸いに希望を見出すことができないほどに劣悪な環境に生きることを強いられたからです。ですから、彼らは天における報いというものに日毎の希望を見出していったのです。

「柔和」であるということが、この世での生活には何も関わるな、期待をもつなというようなことであるならば、イエス・キリストはここで「柔和な人は幸いだ。なぜなら彼らは天国を引き継ぐからだ」といわれたに違いありません。しかし、イエス様はそうじゃなく、そういう人達が「今、私達が生きているこの地を受け継ぐ」と言われたのです。

そもそも、聖書に記されているイスラエルの民、すなわちユダヤ人は常に、この「地を受け継ぐ」ということを文字通り、その関心の中心として生きてきた民であります。なぜなら、このことこそが神と彼らとの間でなされた契約の中心であったからです。今日、世界が注目していますあのパレスチナ問題も地球規模で見れば、猫の額ほどの土地問題がその中心にあります。この辺り、聖書の世界に生きた祖先を持たない私達には理解できないことです。しかし、彼らにとって、その地はどうでもいい土地ではなく、それは彼らにとって神との約束の土地、相続すべき地であるゆえに、それは何よりも大切なことなのです。

このことを確認するためには、イスラエル民族の祖である創世記のアブラハムにまでさかのぼらなければなりません。神様がアブラハムに対して一つの約束をなされました「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」(創世記15章7節)。

そして、実際に神様は彼の後の子孫であるユダヤ人に対して、彼らに継ぐべき土地をお与えになったのです。しかし、彼らは度重なる神様に対する不信仰、不従順ゆえにその土地を失うことがありました。そんな彼らに向かい、神様はこんなことを度々語りかけられました。2あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、3あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。4たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。5 あなたの神、主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう。主はまたあなたを栄えさせ、数を増して先祖たちよりも多くされるであろう」(申命記30章2節‐5節)。

彼らと神様との間になされた契約は、彼らが神を信頼し、その生活を神様に全く委ねていくならば、彼らは神が約束した地に入ることができ、そこに住み、繁栄と平和が与えられるという約束でした。旧約聖書を読む時に私達はこのような言葉があちこちに書かれていることを見出します。それゆえか、私達はこのところを「ああそうなのか」と素通りしてしまいがちですが、ここには今日の聖書の言葉を理解するために最も大切な真理があります。

すなわち、この「地を受け継ぐ」ということはその最初から、彼らが自分で蓄えた軍事力とか、彼らの緻密な戦略によってはなされなかったということです。反対にもし彼らが神に信頼をおかず、委ねることもなく、自分自身の力だけを頼りに、その道を歩むのならば、彼らにこの約束は成就しないばかりか、たとえ、それらを束の間、得たとしてもそのもの自体が彼らの災いとなっていき、さらには彼らがその土地を所有する以前よりも、不安定な歩みをすることになるというようなことでした。

しかし、人間の性(さが)です。イスラエルの民達は神に寄り頼むよりも、自分達の軍事力の多さや、どれだけ強い国と同盟を結べばいいかということばかりにその関心を集めていきました。イザヤは民たちの現状をこう嘆きました「助けを得るためにエジプトに下り、馬に頼る者は災いだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない(イザヤ31章1節)

私達が力ずくで地を受け継ごうとする時に己ずと肩に力が入ります。地を受け継ぐということは、それほどまでに大変な事だと私達は思うからです。イスラエルの歴史はその自分の力に寄り頼んでいった人間の混乱の歴史です。そして、その力には大抵、人の欲望が加わります。ソロモンはこの人間の欲望と人類がなした事柄についてとても鋭いことを書いています。

また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互いにねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるのにまさる。伝道の書4章4節

ソロモンは人間が成し遂げた諸々の功績の原動力は人間の「ねたみ」にあると言いました。驚くべき言葉ですが、よくよく考えますと的を得ています。そして「ねたみ」とは感情的、かつそこには自己を中心とした欲が伴うものですから、大抵、同じ欲をもつ人間同士との間に衝突が生まれます。そこで負ければそれで終わり、もしくはまた一からやり直し、勝てば次のさらなる力と向き合うために、さらに力が入ります。そして、その行き着く先にはやがて、こんな思いがわいてくるのです。

神になんか任せていられるか!」「俺が力ずくでへし曲げるから見ていろよ!」。悲しいかな、この思いは私達の生活のリズムを狂わせ、最も大切にすべきことを見失わせ、人と人との関係を壊し、私達の性質すらも時に残酷なものへと変えます。すなわち、そこからは大抵、興奮、怒り、恨み、いらだちというような感情がわきあがってき、それが外に向かって毒のよう撒き散らされます。

百歩譲って、仮にその求めていた地を自分の力によって獲得することができたとしても、その手中にしたものがはたして、なんぼのものだったのかという現実を知ります。欲しているオモチャを全て買い与えられている子供が、幸いな人生を歩むとは限らないということを私達は知っています。伝道の書のソロモンがその私達の気持ちを代弁しています。「そこで、わたしはわが手のなした全ての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みた時、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである」(伝道の書2章11節)。

さらに獲得と同時に人は「傲慢」と「誘惑」という最大の試みに取り囲まれますから、私達は日々、それまでなかった霊的な戦いを背負いこむことになり、それがまた私達にとって致命的なものとなります。しかしながら、私達はこれらのことを日々、体験しながらも、いまだにこの世にあって「神になんか任せていられるか!」ということこそが、あたかも世継ぎの条件だと言わんばかりに生きているのです。

イスラエルの民達もこのような愚行を何度も何度も繰り返したのです。そしてさすがに何かを学んだのでしょう、彼らは自分達の力では、決して地を継ぐことはできないということを理解するようになりました。彼らがいくらがんばっても、自分達よりも力のある国が起こり、建てあげたものがことごとく、壊されていくのですから。

ですから、彼らはメシア、救い主を求めるようになるのです。その求め自体はよいものでした。なぜなら、自分達の力の限界を感じたということなのですから。しかし、彼らの望むメシア像というものは、やはり彼らとその祖先たちがそれまで試みてきたことの上に成り立っていたのです。すなわち、彼らはメシアが到来し、そのメシアが圧倒的な力と指導力をもって、その国を強大なものとし、私達に保護と繁栄を与えてくれるようにという意味において、彼らはメシアを待ち望んだのです。そして、この方こそがメシアではなかろうかと思われる人物こそがイエス・キリストだったのです。

そう考えます時に、今見ております山上の教えが語られた“状況”と“時”というのはまさしく、これからその働きを始めるイエス様の就任演説のようなものであったのではないかと思われます。今年初めの大統領就任式を思い出してください。その時に弱気ともとれるような言葉をオバマ大統領は語りませんでした。

同じようにそのような大切な初めの時に、もしイエス様が「心勇ましい者は幸なり。彼らは天の扉をこじ開けることができる」「強い者は幸なり。彼らは幾多の困難の中にも突き進むことができる」というのなら分かりやすく、人々は武者震いし、納得し、熱狂したに違いないのです。しかし、イエス様の言葉は誰もが思ったこともない、期待外れなものでした。彼らがこのイエス・キリストの言葉を理解するには、さらなる時間が必要となりました。

先日、興味深いことを言っている人がいました。もし今晩、私達が夜道を歩いていて、強盗に遭うとしましょう(物騒な話しでごめんなさい)。その時に私達を襲う人は、ほぼ9割の確率で男性です。あまり言うと性差別と言われてしまうかもしれませんが、事実なのでお許し願いたいのです。これは私の個人的な考えなのですが、男というものは、どちらかというと力に憧れ、それを求めようと躍起になりやすい生きものです。そのような意味で女性よりも「神になんか任せていられるか」という路線をあえて選んで歩むのではないかと思います(教会において女性の方が圧倒的にその人数が多いというものがそれを物語っています)。

ですから、もし、この世界が男だけの世界だったら、我々男はこの地球をプロレスの場外乱闘のように、アメフトの激しいぶつかり合いのように、ガレージにある壊されたジャンクのように、とっくの昔に滅ぼしていたかもしれないと私は勝手に思っています。

しかし、神様はこの地球に男だけではなく、全く違った性質をもつ女性をも置いてくださいました。うまい具合にその割合もほぼ半々という、驚くべきバランスが神様によって保たれています。時々、思うのですが、私達の地球は、女性達に与えられている、母性から生まれる寛容さとか優しさというものによって今日まで守られてきたのかもしれません。以前、ある人がこの世界のリーダーにもっと女性がいたら、過去の戦争の幾つかは回避していたかもしれないと言った人がいますが、あながち嘘ではないと思います。

同じように、イエス様の言葉はこの世界を継いでいるのは実際は人の力ではなくて、「自分の心の貧しさ」とか「悲しむ自分」というものを知り、その自分の力に頼ることを手放すようになった者達、すなわち自分の無力さを知るゆえに、自分というものを神の支配のもとにおいて暮らす無数の無名の人達こそが、実際はこの地を引き継いでいるというのです。今日でもかろうじて(このことは私達の目に閉ざされてしまっているのですが)、この世界が崩れ去らずにいるその理由は、神により頼み、柔和に生きている人達がいるからです。

皆さん、このことに対して例えを挙げるとするならば無数に挙げられます。一つだけお話しましょう。合衆国は自他共に認める巨大な国です。軍事力においても経済力においても、世界はこの国の動向に常に目を留めています。軒並み、諸々のメディアはその力について報道します。あたかもその軍事力、経済力がこの国の象徴であり、この国を牽引していると私達は思いがちです。

しかし、実際はどうでしょうか。この国の内側を見れば、そこには多くの破れがあります。それらを一つ一つ、挙げる必要はないでしょう。その内部の混乱によって、この国は倒れてしまうようなほどに、それは深刻なものです。それでは、その破れの最前線には誰がいるのですか。政府の力が届かないところにはどんな人達がいるのですか?メディアはアフガニスタンやイラクの状況を伝えます。しかし、“この国の戦”についてはほとんど触れません。

その前線にはこの国に存在している幾十万もの教会があるのです。政府の届かない所に教会が建っているのです。教会は自分達がしていることが報道されたり、公にすることを望みません。ただ、黙々と自分達がすべきこと、できることを日々、しています。今までもそうしてきましたし、これからもそうし続けることでしょう。

皆さん、これから向こう五年、もしこの国において全ての教会がそのはたらきが止められたらどうなると思いますか。もし、教会が祈りをやめ、礼拝をやめ、諸々の地域社会へのはたらきかけをやめ、もし教会が一斉に、日ごとかかってくる電話の受話器をとらなくなったら、この国はどうなりますか。私は確信します。この国は立ち行かなくなります。なぜか?私達は常に神の支配がこの国におよぶことを祈り、願い、そのために生きてきたからです。それらが全て止まる時、私達はこの国の存続を危ぶむことでしょう。

そして、私達がそのように生きる実際の手本となってくださったのがイエス・キリストなのです。このお方は徹底的に力を捨てられ、自らを完全に神の支配に委ねました。イエスの弟子達すら、彼が世的な力によって、革命を起こしてくれるということを期待していました。しかし、そのことは待てども暮らせどもおきませんでした。その苛立ちがユダの裏切りを生みました。また三々五々イエスを捨てて逃げた弟子達の心には「こんなイエスなんかに任せていられるか!」という思いがあったでしょうし、その最期には「神なんかに任せていられるか!」という息巻く人間達によって、このお方は十字架にかけられました。

彼らとキリストとの違いは一言で言い表すことができます。すなわち、その違いは「神などに任せていられるか」という人の思いと「神のみに全てを委ねる」キリストの生き様の違いだったということです。

それから2000年の年月が経ちますが、人類は彼を超える人間を生み出すことはありませんでした。これからもそのことはないでしょう。私達は今もこのキリストを見過ごすことができないのです。

キリストはわめくこともなく、のろうこともなく、息巻くこともなく、静かに十字架上でその息を引き取られました。もし、キリストがその十字架から、飛び降りて天から幾万もの軍勢を呼び起こし、そこにいる反対勢力を全て滅ぼし尽くしたとするなら、今日、私達には救いも希望もないのです。しかし、キリストがあの十字架の上で、それらを放棄されたところに、すなわち父なる神の深い支配に全く自らを委ねられたところに究極の柔和があり、そこに私達の唯一の希望があるのです。

ある説教者が書いております。柔和であるということは、心が広いとか狭いとかというようなその人の度量の問題ではないと。それは、信仰か不信仰かの問題なのだと。柔和な人とは、この世界のいっさいの支配は神様が握っておられるということを信じ、自らもその支配の中に身も心も委ねていく人達のことです。そして、私達はこの世界に神の支配が及ぶことを望み、そのために日々、生きる者達なのです。そのような者達こそが、確かにこの地を受け継いでいるのです。

「柔和な人達は幸いである。彼らは地を受け継ぐであろう」私達はこの大切な使命を今も神様から授かっています。

お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り

柔和な人達は幸いである。彼らは地を受け継ぐであろう。

①あなたは日常、柔和(MEEK)という言葉を聞きますか?使いますか?あなたは「柔和」という言葉にどんな印象をもちますか?今日の競争社会に勝ち抜くために柔和に生きることはどれ程、大切なこととされていますか?

②イエス様は、柔和な者は「天国」を受け継ぐとは言わずに「地」を受け継ぐと言われました。「地」とはこの世界を意味します。あなたは本当にそう思いますか?その例を挙げてみて下さい。

③ユダヤ人にとって「地を引き継ぐ」ということはどんな意味がありましたか(創世記15章7節、申命記30章2節‐5節)?。彼らはどのようにして地を引き継ごうとしていましたか(イザヤ31章1節)?。彼らは自分達の力でそれができましたか?どうする時に彼らは現実に地を引き継ぐことができたのでしょうか?。

④「神になんか任せていられるか!」という思いはいつ、私達の心にわいてきますか?その思いから事を成す時に生じる問題は何ですか?そもそも、その思いから何が良いものが生まれますか?

⑤もし向こう五年間、米国にある全ての教会が祈りをやめ、礼拝をやめ、諸集会をやめ、社会事業をやめ、受話器を取ることをやめたら、この国はどうなりますか?

⑥柔和に生きることは、神の支配の中に生きることです。そのことにより、私達は地を受け継ぐことができるのです。あなたは自分の日常生活を全て神の支配の中に置いていますか?

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