心に残ったマーティン・ルーサーキングの言葉。
偉大な人々が達し、また保った高みは、突然の飛躍で得られたものではない。いな彼らは友らが眠っているその間に、夜、夜中上を目指して労苦したのだ。
我々は自分の一生の仕事で、優れたことをなし遂げるために、うまずに努力するように、あらゆる方面からいどまれているのである。全ての人が専門的な学問的な仕事や職業に召されているわけではない。
芸術や科学の分野で天才の高みにのぼる者はさらに少ない。多くの者は工場や農場、街角の労働者として召されているのだ。しかし意義のない仕事などはない。人間性を高めるすべての労働は尊厳さと重要性をもっており、骨身を惜しまず、立派に行われるべきものである。
ある人が街頭の掃除をその食としているなら、その人はミケランジェロが描き、ベートーベンが作曲し、シェークスピアが詩作したのと全く同じように、街路を掃除したまえ。その人は天と地のみ使いの群れがそこに立ち止まって「自分の仕事を立派に行った偉い街路掃除人がここに住んでいた」と述べるほどに立派に町を掃除すべきだ。 (「汝の敵を愛せよ」新教出版社から)
ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。聖書:ピリピ3章13節、14節
マック
今日礼拝でお話したメッセージです。
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賜物を知り、用い、磨いていますか。 ペテロの手紙第一4章7節~11節 2008年11月16日
私達は「シンプルイズザベスト」というテーマのもと、毎週、見てきております。今日、私達の社会の変化は目まぐるしいほどに早く、その中で生きる私達の生活も複雑になっています。その中でシンプルさを追求し、本当に大切なことに集中して生きるためには、聖書によるところの優先順位を大切にし、神様から与えられているルールの中を生きることだということをお話してきました。
今日もこのテーマに即した事として、私達が自分に与えられている賜物、ギフトに生きるということについてお話したいと思います。それは闇雲にあれもして、これもしてと生きるということではなく、自分が神様から与えられているギフトは何かということを見極め、それを日々、さらに良きものへと変えていくことに集中するということです。
今日の礼拝メッセージのテキストとなっている聖書箇所はペテロ第一の手紙4章7節‐11節です。この手紙はイエスの弟子でありましたペテロが苦難の中にあるキリスト者を励ますために書いたものであります。読んでみましょう。
万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。不平を言わずに、互いにもてなし合いなさい。 あなたがは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神の様々な恵みの良き管理者として、それをお互いのために役立てるべきである。語る者は、神の御言葉を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。
この中には幾つか私達が心を留めるべき言葉が書かれています。すなわち、たとえ私達が困難の中を通るようなことがあっても、私達が日々生きるべき姿というもの、すなわち「心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。不平を言わずに、互いにもてなし合いなさい」というようなことが書かれているのです。 そして、今日特に私達が注目したいのは、その後、10節以降に書かれている「賜物」ということなのであります。このところから今日は5つのことを見ていきたく願っております。一つ目のこと、それは「それぞれが賜物を受けている」ということです。
「それぞれが賜物を受けている」
ここに記されている「受けている」という言葉は、例外なく誰しも賜物を受けている、いただいているというものです。賜物という言葉はあまり日本語会話の中で使われませんが、英語でいうところのギフトとした方が分かりやすいです。ギフトとは言うまでもなく「贈り物」ということで、私達が神様から与えられている贈り物ということです。
そして、今日聖書を初めて開いた人には「私は神からギフトなどもらった覚えがない」という方がいるかもしれませんが、聖書は私達は皆、例外なく神様からギフトを頂いているというのです。そのギフトとは何かにラッピングされているというような物ではなく、それは私達自身の内に与えられているものであり、私達を通して表現され、用いられていくものです。
このギフトを知っていることは幸いです。教育とは子供達に彼ら一人一人の賜物を気づかせて、それを引き伸ばしてあげるものなのかもしれません。皆、同じ人間、でも「神様は私にこんな賜物をくださっているじゃない」と気がつかせてあげることです。もし人生に喜びがあるとするならば、この神から自分に与えられている賜物を見いだして、それを最大限に活かすことができる毎日を送ることに違いありません。
ダイヤモンドやサファイヤ、ルビーなどの宝石は地中や岩の中にある時には単なる石ころにしか見えません。しかし、その石ころを見つけ、削り、研磨していく時に、その宝石特有の色と輝きが生まれ、それは高価な宝石に変えられます。しかし、そのままでしたら、それは他と区別できないような石ころに過ぎないのです。神様があなたに与えていて下さる原石はなんですか。あなたはそれを磨いていますか?
そんなものないと言うなかれ、聖書は「必ずある」と言っています。 この賜物はどうしたら見分けることができるのでしょうか。古今東西、色々なことが言われてきましたし、私も長い間、悩んでいたのですが、私なりに一つ行きついたことは、自分以外の人から「あなた、よくやるねー、大変でしょう」と言われるにもかかわらず、それが全く苦ではなく、それが自分にとってとても大切で楽しいものとなっている何かこそが、あなたに与えられているギフトではないでしょうか。 二つ目のこと、それは「神の様々な恵み」ということです。
「神の様々な恵み」
「さまざま」という意味は、皆違うということです。私が与えられている賜物は、私の妻に与えられているもの、子供達が与えられているものとは違う。皆さんのお隣に座っている方が与えられている賜物は、あなたが与えられているものとは異なるということです。
聖書に出てくる人間達にもそのことがはっきりと出て来ています。ペテロは情熱という賜物をもってキリストを伝えました。パウロは知的な賜物をもってキリストを伝えました。バルナバは慰めという賜物をもって、キリストを伝えました。聖書はこれらの人達、すなわちペテロとパウロ、パウロとバルナバの間に意見の相違というものがあったと包み隠さず、書いていますが、それらをよくよく見ますと彼らが与えられているこれら賜物の違いというものが背後にあることに気がつかされます。
アメリカにはGATE(Gifted and Talented Education)プログラムというものがあります。そのプログラムの背景には、子供達それぞれには様々なギフトがあり、そのユニークなものを尊重して、それを伸ばしてあげようというようなプログラムです。 この間、そのGATEのミーティングに行って話しを聞いてきたのです。興味深かったのは保護者の一人が先生にこんな質問をしたのです。「まだ小学生の子供なのに、そんな小さい頃からそれぞれの子供はそんなに違うのでしょうか」。先生は答えました。「私の手元にある小学校のあるクラスの授業風景を録画した隠しビデオがあります。それを見たら15分で、あなたは私が言っていることが分かるでしょう」。そのビデオを観る機会はありませんでしたが、教室を映し出しているその中に、既にそれぞれの子供達が与えられているギフトというものが、彼らの言動を通して明らかにされていたのでしょう。
皆さん、私達は誰にもギフトが与えれています。そして、そのギフトはそれぞれ違うのです。故にそれを互いに妬む必要はありません。あなたのギフトはあなたのものなのです。私達の子供のギフトはお隣の子供のギフトとは異なるのです。私達は誰かの子供と我が子を比較する必要はありません。三つ目の事、それは「ギフトを管理する」ということです。
「ギフトを管理する」
この聖書の箇所は私達がギフトの「所有者」ではなく「管理者」であるということを明確にしています。神様からの賜物は、神様からお預かりしているものです。賜物は神様が私達に「これをあなたに預けるから、地上の人生でいかしなさい」と言われるものを精一杯用いて、磨いて、いかさなくてはなりません。
不思議なことにこの賜物を見いだし、その賜物を管理し、それを伸ばしていくと他のことも引き上げられていきます。誰にも短所というものがありますが、短所を直そうと躍起になるよりも、与えられている長所に目を向けてそれを伸ばしていくならば、その短所までも改善されていくのです。現代経営学の発明者と言われるピーター・ドラッガーという人はそのようなことにも気がついていたのでしょう。彼は「長所の上に人生を建築せよ」と言いました。
私達は神様から与えられている賜物に目を注ぐのです。それを出来る限り最高のものへと高めるのです。石ころが切られ、削られ、磨かれることによって、その最高の形をあらわにしていくように。
米国の詩人ジャーナリスト、ダグラス・マロックは私達に挑戦的な言葉を残しました。
「もしお前が、山頂の松になれないなら、谷間の藪になれ。しかし、小さくとも川辺で一番良い藪になれ。一本の立ち木になれないなら茂みになれ。もしお前が公道になれないなら野の小道とこそなれ、太陽になれないなら星になれ。お前の成功も失敗も、大きさでははかれない。お前はなんであれその最上となれ」。
この言葉は競争社会の中で、相手を蹴散らしても一番になれということを言っているのではありません。そうではなく、自分の賜物を見出したなら、それをグッド、ベター、ベストなものとしなさいということです。
先日、「わが故郷、天にあらず」という本を読んでいて、すごい挑戦を受けました。著者のポール・マーシャルはこんなことを書いているのです。
それがどんな分野のことであろうと、その入門書を書けるようなクリスチャンの専門家は、キリスト教を神学的に擁護したり、伝道を促す本よりも、はるかに大きな貢献ができる。私達は30分ほどならば、人々の耳をキリスト教的な視点に向けさせることができるかもしれない。だが、その講義が終わり、記事を読み終わるや否や、聴衆は非キリスト教的な世界に戻っていく。
私達が望むのは、キリスト教について書かれている小冊子が増えることではなく、キリスト教の視点で書かれた他の分野の小冊子が増えることなのだ。この点は逆の立場から見れば分かりやすい。私達の信仰がヒンズー教の本で揺れ動くことはあまりないだろう。しかし、もし地理学、植物学、政治学、天文学の教科書や入門書を読むたびに、その背後に全ての事の中には神々がいるというような考え方があるとするならば、私達の信仰も知らないうちに揺らぐ可能性が生まれる。
現代人が物質中心で生きるようになったのは、そのことを教える本によってそうなったのではなく、ありとあらゆる書物の背後にある物質主義的な考えの影響を受けているからなのだ。同じようにノン・クリスチャンの心を揺さぶることがあるとするなら、それはキリスト教についての本を読むからではない。それがどんな分野であっても、その一番の入門書がいつもクリスチャンによって書かれていたら、その時、世の人の心は揺さぶられることだろう。
特にこれから自分の賜物をもって夢に向かって歩もうという方にチャレンジしたいのです。神様から与えられている賜物、それを磨き、用いていくならば、どうせそれをするならば、その分野でキリストにあって最高を目指してみませんか。「その分野の第一人者はクリスチャンだそうです」と世俗世界に名乗り出てみませんか。
あのイエス様の譬にタラントの話がありますね。タラントとは当時のお金の単位で今日のタレントという言葉となった言葉です。
三人の僕に主人が5タラント,2タラント,1とタラントを預けて長い旅に出たというのです。 そして1タラント預かったものはそれを土の中に埋めて隠しておいたのです。言うまでもありません、1タラントはなくなりませんでしたが、それが増えることもありませんでした。そのことでこの人は主人から叱られ、その1タラントまでも没収されてしまうというのです。しかし、2タラント、5タラントを預けられた僕達はそれをそれぞれ二倍にしたのです。そのことによって主人は彼らを賞賛し、さらに多くのタラントを管理させたというのです(マタイ25章14節-30節)。
私達が与えられているギフトは管理、そしてそれを最善を尽くして高めることが私達には課せられているのです。そして、そうする時に、私達はますます祝福されるというのが聖書の約束です。 4つめのこと。それでは、それを誰のためにするのでしょうか。
「互いに」(8節、9節、10節)
与えられているものは、与えない限り、その喜びを得ることはできません。賜物の用い方というのは、単に自分のためではなくて、それを「お互いのために役立てるように」というのです。 素晴らしいギフトが与えられている人がいます。明らかにその人は他の人よりもそのことが抜き出ています。でも、その人は嬉しそうには見えない。なぜか、その与えられているギフトを自分のためだけに用いて、生きているからです。
イエスは言いました。
「明かりを持ってくるのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか」(マルコ4章21節)。
私達の賜物を明かりとするならば、それは寝台の下に置くべきものではないのです。それは燭代の上におき、全ての人達にとって益となる光とするべきです。
マーティンルーサーキングはその説教の中でとてもチャレンジングなことを言いました。
「もしある人が隣人よりよい書物を書けるなら、よりよい説教ができるなら、またよりよいネズミ取り器をつくれるならば、たとえ彼の家が森の中に建てられていようとも、世間の人は彼の家に通ずる小道を踏み固めたものにするだろう」。
もし、あなたが与えられている賜物をしっかり管理し、それを引き上げ、伸ばすなら、その賜物を誰かのために用いるなら、それを必要とする人達があなたの賜物を求めてやってくるでしょう。そして、彼らはそのあなたの賜物を喜ぶことでしょう。
神様は最初の人アダムを創られた時に「人が一人でいるのはよくない」と言われて、パートナーのイブを創られたのです。私達は一人で生きるように造られてはいないのです。私達は誰からのために生きることによって、そこに生きがいと喜びを見出すことができるように創られているのです。そうであるなら、私達はこの人間存在の原則に従うべきです。
すなわち、私達は与えられたものをもって、それを互いのために用いるのです。私達の賜物を互いのために役立てるのです。その時に、私達の心から喜びが消えることはありません。 最後です。賜物について、最も大切なことです。それは私達が賜物を与えられている理由は「神を崇めるため」ということです。
「神を崇めるため」(11)
中国には戦に勝つための本がたくさんあるそうです。その中に戦い方の中でとっておきの秘策があるそうです。何だかご存知ですか。それは、敵を高慢にさせることだそうです。人は高慢な時に一番弱いのです。 一番最初に「長所を引き伸ばすことにより短所が改善される」とお話しました。それは素晴らしいことです。
しかし、反対にとても恐ろしいことがあります。それは、自分が長所だと思っているもの、すなわち私達の賜物が突然、最悪の弱点に変わるということです。そして、その時に私達の心に何が起きているかといいますと、私達の心の中に高慢な思いが芽生え、大きくなっているのです。
先日、長者番付に名を連ねた日本のあるミュージシャンが自分の作った数百曲の著作権を数億円で売ろうとしたのですが、詐欺罪で捕まりました。かつては時代の寵児とまで言われ、長者番付にその名が連なった人でした。彼は確かに音楽的才能があったのでしょう。しかし、その最後にはその自分の一番の強みであった音楽が彼のつまづきとなってしまったのです。
私達はタダで賜物を神様からいただいているのです。もし、その賜物が誰かの役に立ったり、何かしらの賞賛を受けるとするならば、その時にまずすべきことは自分をほめたたえることではなくて、神様をほめたたえ、崇めるべきです。
あの偉大な音楽家バッハに神様は音楽という賜物を与えました。それは明らかに普通の人達とは区別されるようなものでした。その彼は自分で作曲した曲の最後に必ず「SDG」と書き記しました。それは「Soli Deo Gloria」というラテン語で「ただ神のみに栄光を」という意味です。その思いを自分にではなく天に向ける時、その音は人の手を離れて、天に昇華されていくのです。そして、彼が一曲、一曲、その作品の最後に「Soli Deo Cloria」という信仰の言葉を書き記すたびに神様は彼に次なるインスピレーションを与えてくださったに違いありません。
フィラデルフィアに住む友人が子供達にお手製のシャツを贈ってくれました。フィラデルフィアといえば、この間、その地元の野球チームが25年ぶりにチャンピオンとなった場所です。彼はその喜びをそのシャツに託したのでしょう。その胸には「Future World Champion」、背中には「近未来の世界王者」と日本語で書かれていました。
もし私達が神様からの賜物をしっかりと管理し、それを引き上げ、高めていくことを怠らないなら、そして、同じ事を皆さんの子ども達や孫たちが成していくなら、彼らは世界から大きな評価を受けることになるかもしれません(Who Knows?です)。
先ほども申し上げましたように、私達は彼らが神様から与えられている賜物に対して、最善を尽くしていくように励ますべきです。そして、そのことによって、彼らが自分の胸を指指すのではなく、天を指差して生きていく人となること、それを私達は望むのです。そして、それは子ども達だけではない、私達もキリストにある者として、与えられている賜物を最期の時まで、磨くのです。そして、その賜物を誰かが喜んでくれるようなことがあったなら、私達もニコニコしながら、天を指差し、神の御名をほめたたえるのです。
お祈りしましょう。